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浮かび上がる立体のアート

作者: あさこ

 


 この授業は私にとって、気だるいものだったことは一度もなかった。

 みんながただただ鉛筆をガリガリと動かしている間、私は意気揚々と頭の中の構想を紙の上に形にしていく。

 楽しい。

 作業を続けていると、先生がみんなに注目するように呼びかけた。こういう場合は大人しく従ったほうがいい。この前怒られた経験があったからだ。

 私は手を休め、机に鉛筆を転がした。


 美術の先生らしい個性的なしゃべり口調で、先生が説明している。

 私はものの一分で聞くのを放棄して、ぼーっと頬杖をついた。

 先生が嫌いだとか、聞く気にもなれないとかじゃなく、私は極度に集中力がないのだ。私は興味がなかったり好きじゃないことには全く耳を傾けない奴だった。

 今日もきっとためになるであろう先生の話は、空気中のほこりの様にふわふわと漂っているだけだった。

 

 そしてこういうときは別のところに興味はいってしまう。

 美術室のどこか薄汚い雑然とした教室にぽろぽろと並べられた机。壁の四方を陣取る大きな棚にはたくさんの美術作品が詰め込まれている。

 私は一番端の席だったからその作品たちを手に取ることができた。私はバレないよう、しばらくそれらを物色することにした。

 

 所々に絵の具がこびり付いた棚には、最近のものらしい、作品の下書きが収められていた。上から順にA4ほどの画用紙を引っ張り出して眺める。

 どうやら自作の時計のデザインらしい。文字盤があり、その周りをそれぞれ思い思いの形に縁どられていた。

 うまいな〜と思う力の入ったデッサンもあれば、明らかにテキトーな、幼児の絵のようなデッサンもある。

 後者は大体が男子だった。

 

 棚の中ほどの画用紙を引っ張ると、鉛筆も一緒に飛び出してきた。画用紙の上を転がり、六角形の棒はカタカタと落下の一途を辿る。危ういところで受け止め、……危ない。

 その時、先生の話が佳境に入ろうとしているのに気づいた。もうこれも終わりにしなければ。

 そそくさと鉛筆をなおそうとしたとき、あ、と閃いた。

 この絵の持ち主さんが誰かは知らない。それなりな絵だったし、この人になにも悪いところはないのだが。まだまだ途中のその画用紙には余白がたくさんあった。それが見えた。

 私はその余白に、少々おっきく、「へたくそ」と書いた。











 社会の先生がうんたらかんたら。ここは絶対に覚えましょう……、それだけは聞き取れて、ノートにシャーペンを走らせる。走るといっても鈍足も鈍足、カメの歩みよりも遅い。

 でも確か人にとても懐いていて足の速いカメもいたっけな……。なんてことをポロリと思い出してしまう。やっぱり私はいつでも頭の中がI can flyしてしまう人間みたいだ。

 昼飯まえの授業なんか特にだ。ぽーんと飛んでった意識はなかなか戻ってこない。

 

 校庭をなんとなく見下ろしていると、そこにはヘリコプターが舞い飛び、特殊部隊がスルスルと何人も降りて来た。そして綺麗に隊列を組んで校舎に乗り込んでくる。

 ……そういう妄想に耽っている。

 頭の中には、隙をみせるといつでも異次元が湧いて出て、思考を占領する。なぜかミリタリー風なのは兄の影響か。

 

 ダメだ止めだ。

 なんとかflyしていた意識を呼び戻して、シャーペンを手探りで探す。

 

 しかし、いつの間にやらシャーペンが解体されている。部品の一個一個がまっさらなノートの上に無残に散らばっていた。

 なんてこった…、誰がこんな酷いことを……。

 犯人は若干16歳にしてアブナイお脳を持つ無意識なときの自分。

 …これは末期だ。本気で私は医者にかからないと駄目なんじゃないだろうか。

 でもこの先の人生、諦めたくはない。

 

 しっかり部品を組み立て、ノートに向かう。今は練習問題かなんかやってるらしい。みんなと同じようにそれにとりかかった。

 まっさらなノートは書きやすい。しかしそこに書かれるのはきったない自分の字。おかしい。昔は習字をやってて字はキレイな方だったのに。時々男の字に間違われることもある。

 私は問題の解答の文字を何度も書いてみた。バリアフリー、バリアフリー、バリアフリー……。

 

 7回目くらいでなかなかいい感じになってきた。まだ少しミミズが乗り移っているような気もするが。

 じゃあ次の問題へ。次は……、全く分からない。まだ習ってないんじゃないのか? 銀行のことなんか今まで出てきたか……。うーん。

 教科書をめくって、当てはまりそうな単語を探してみる。世界銀行って、それ自体わからないが。

 

 宗教か……ここじゃない。…キリストの絵に卑猥なものが。

 青年期、孤独な群衆。…アリストテレスにうんこが乗っかっている。

 教科書を閉じた。



 こんなに危ないとは、思っていなかったのだ。

 ……静かに掌の中に顔を埋める。今更遅いのかもしれない。でも、今この時だけはがんばってみよう。この時限だけでも。よし。

 もう一度シャーペンを握って、ノートに板書されたものを書き写す。こんな作業をするのも久しぶりな気がした。実際そうなのだけれど。

 

 しっかりと一ページ分書き写した。黒く染まったノートを眺めて、かなりの満足感だった。

長く息を吐き、一息吐く。なかなか集中して出来ていたと思う。


「…ねぇ」


 隣の席の子がこっそりと話しかけてきた。消しゴムを貸してほしいらしい。私は差し出された手の平にMONO消しゴムを乗せる。彼女はお礼を言いながらノートの字をものすごい勢いで消し始めた。

 

 ちょっと笑いそうになりながら私はそれを見届け、自分の作業に戻ろうとすると、自分も書き間違えていることに気付く。知的財産権を、私的財産権と間違えている。

 

 これはさっさと消して書き直さないと間違って覚えかねない。消しゴム貸してしまったし、待つしかないか。横目でまだすごい勢いで消し続けている彼女を眺め、消し終わるのを待つ。

 シャーペンでノートの端をトントントントン……。…これじゃ急かしてるみたいだ。やってるふりをしておこう。ノートの余白に、絵を描く。

 

 今とても欲している、あの白いプリプリした野郎…。消しゴムを描いていく。

 まずは角っこの尖った部分から描く。斜め上から見下ろしている構図にするため、奥になるほど細くしていく。私のは使いかけだから出ているところは丸く…、ちょっと欠けてて、黒ずんでいる。陰影をつけて、…MONOのロゴが歪だ。しかしなかなか上出来。

 出来た。 ノートの端っこに現れたMONO消しゴムに満足し、鼻息がむふーと出てきたところでチャイムが鳴った。

 

 え。 と素に帰ったとき、教室はざわめき、空気はもう休み時間だった。

 え…? とたぶん他の人と比べると、全然レベルに進んでいない問題集を見下ろす。そしてその脇にはちょん、といつの間にやら消しゴムがただいましていた。え…。

 

 時間にして、十分弱、私はMONO消しゴムを描くのに夢中だったらしい。




 ……。





 やっぱり私には、これしかない。

 私にはきっと、絵以外ないのだ。極端だが、そう思う。痛感する。

 勉強も運動もできない私にたった一つだけあるものは、本当にこれだけだ。

 これを、一生ものにしよう。一生これだけをしていられるようにしよう。

 そうすればこんなに悩まされることはないのだ。 

 よし、絶対にそうする。決めた。誓う。


 そっとノートの端の消しゴムを撫でて、ノートを閉じた。










 

 




 

 さっと手を滑らせて元に戻す。

 剥がれかけのポスターは初夏の湿気を吸ってボロボロだった。

 放課後の廊下で私は真剣にそれを眺めていた。

 そこは美術室の前で、部活以外の人は全く用がない場所。人気もない。私にも用がない場所だ。

 私は部活なんかには所属していなくて帰宅するのが部活動だ。美術部には入る気なんぞハナからなかった。絵を描くのを部活としてするのは嫌だった。顧問の先生にアレコレ考えを押し付けられるのが嫌だった。と、色々あるのだけど、一番の理由は面倒くさいからだ。

 

「常盤ー」


 がばっとスカートの中に手を突っ込まれ、ケツを触られる。がぁー! と声を上げ振り払うと、野中はニヤニヤ笑った。


「なにやってんの? 早く帰ろー」


 そう言って鞄を肩に引っ掛けなおし、今度はケツを蹴ってくる。それは放っておいて、ちょっと待ってとだけ言っておく。


「なに見てんの? 早く帰ろー」

 

 野中はケツを蹴るのを一向にやめない。機械のように一定のリズムで足を振り上げ続ける。いい加減痛いかもしれない。

 

「なに睨んでんの? 早く」

「ちょっと待てつってんだろ!」


 私はついに手を出した。力強くグイグイとその胸を揉んでやった。


「やーめーろーっ、はみ出る!」


 野中は胸を押さえて後ずさり、やっと蹴りをやめた。そしてやっと、これ何? とポスターを覗き込む。また剥がれてきたところを手で押さえながら、気になる文字だけ断続的に声に出した。


「優秀賞、50万円。絵画、コンテスト、……あーそっか、常盤これ応募したんだっけ?」


 私は頷いてみせ、そうなんだけどと口ごもる。


「今日結果発表なんだけどね、私は個人じゃなくて美術部としてそっから出してもらってるから、私には直接通知が届かないんだよ。だから聞きに行かないといけないんだけど、今日先生出張らしくていないんだってさ」


 これには一般での出品はできないらしい。なので美術部の先生のすすめで部員として出して貰えることになった。私は美術の先生には何かと目を掛けられてるみたいで、それは本当にラッキーなことだった。真面目に受けていた甲斐もあったというものだ。


「気になるけどね、仕方無いから今日は帰るわ。行こう野中」

「おー。帰りにさ、行きたいとこあるんだけど」


 用は明日に後回して、野中と他愛ない話をしながら歩きだした。

 こういう時間が一番愛しく一番貴重で一番大切なことだと呑気な学生の私は思っていた。

 ガリガリガリガリ、部屋に籠って勉強ばっかりしていて感性が育つだろうか。色んなものを見て、色んなものを読んで精神の肥やしにするのがいい絵を描く良い術なんだと私は思う。




 幼稚園の時も、小学校の時も中学の時も私はいい絵を描いてみんなに褒められていた。

 そりゃ、足が速くて褒められている子や、勉強ができて褒められている子に比べればそんなに凄いことでも役に立つことでもないことくらい分かっていた。

 もし私の親がとてもつまらない、厳格な親で、「こんなことが出来たって仕方無いだろう。それより勉強を頑張れ」なんて言われていたら私は酷く傷ついたことだろう。しかし私の親は幸運なことに賞状を持って帰ると毎度毎度褒めてくれたし、美大に進学したいと言えば承諾もしてくれた。まぁただそれ以外に褒めるところが無かったから、一縷の望みに賭けただけかもしれないが。


「あれ、このガムこれしかないの? 野中ここ一種類しか置いてないし」

「マジで? 他行くか?」


 誇らしかった。運動が出来なくても、頭が悪くても、私にはこれがある。そう思うと。

 

 

 

 





 次の日教室へ行くと、私は待っていたかのようにクラスの子に声をかけられた。


「常盤さん絵うまかったよね? 今度オープンハイスクールがあるんだけど、その時の冊子の表紙の絵を描いてくれないかな?」

「私が?」

「私生徒会だから頼まれたんだけどさー、絶対無理だから代わりに描いてほしいんだけど」

「あーそう。うん、いいよ全然」

「わぁありがとう。助かる。あ、あと空を入れて描いてほしいって頼まれたんだ。いける?」

「うんうん大丈夫大丈夫」


 水を得た魚のように、私の脳は爛々と働いていた。

 これは願ってもないことで、私の創作意欲はとんでもなく燃えてしまった。


「おっはよー常盤ー。お前それ頼まれたんだってなー」

「おー。空描いてほしいんだってさ」


 野中は私の前の席に座って私の手元を覗き込んだ。私はさっそく絵に執りかかろうとしていたところだった。

 

「常盤絵うまいもんなー。みんな知ってたんだな」

「あぁ、なんでだろ」

「いいよなぁ特技あってさ。進路も決まってるし」


 野中は椅子に手をかけて後ろに反りかえる。


「野中だって進学じゃん?」

「一応ってだけ。まだ何も決まってないもん」

「ふぅん……」


 空。

 今日の空は雲ひとつなく、味気なくてモデルにはできそうにない。雲の形は自分の頭の中のデータだけでは足りない気がする。似通ったような雲しか描けない。

 そういえば、久しぶりに空を見た気がする。

 窓際から空を見上げて思った。


「……常盤は美大行ってどうすんの?」

「え? それは……わかんない。考えてない」

「マジかよ。画家とかじゃないの?」

「そういうのはわかんねぇやまだ。とりあえず行ってみてやりたいこと見つけたいと思ってるけど」

「そうなの……」


 野中の含みのある喋りは気になったが、ツッコんだりはしなかった。

 そんなんでいいのか? そう言いたいのだろうか。

 私と同じように特に特技が無い野中はとりあえずの進学で、とりあえず勉強を頑張っている。野中はそれは当然のことと思っていて、現実的な考えをするから、私がバカに思えるのだろう。

 それは仕方のないことだ。私だって逆に野中をバカだと思うから。

 とりあえずとりあえずで、潰しが利くから、親も言ってるし、だから。

 そんなことで何がいいのか。食って寝て吸って、そんだけの人生に、何でそんなにしたいのか。


 野中。最終的に可哀想になるのはそっちのほうだよ。


 その日の授業の時間の大半を費やしても、絵は描けなかった。とりあえず持ち帰ることにして、放課後、美術室に足を運んだ。

 

「せんせー」

「ああ、常盤さん」

 

 先生は振り返って、何度も瞬きを繰り返す。何やら紙をいじくりながら私から目を逸らした。

 ふと、嫌な予感がした。


「あのねー、今回はちょっと駄目だったんだよねぇ」

 

 先生は頭を掻きながらキツく瞬きを繰り返す。教室に一人いた美術部員の子が筆を取りながらこちらを眺めていた。


「え……っと、入選もしなかったんですか?」

「まぁ、そう……だね。惜しかったんだけど」


 何が、惜しいというのか。


「また次もあるから、まぁその時頑張ろうよ」


 先生はそう言って、私を可哀想なものを見るような目で見た。美術部員の子も目を背けて油絵をイーゼルに乗せる。

 私は静かに教室を出た。



 私は廊下を歩いた。

 ふと気がつくと、胸が痛かった。どうしようもないモヤモヤの正体が何なのか、分かってしまう。

 悔しくなんかない。別にいいよそんな自信があったわけでもない。こんな事で悔しがるほど、私はプライドが高いわけでもないし。認めたくない。

 気がついたら私は外に出ていた。夕刻が近づいた空には相変わらず雲は一つもなく、味気ない。

 首が痛くなるほどずっと見上げ、私は立ち尽くした。









 頼まれた絵は未だに描けていなかった。最近の天気は優れないし。

 水色か灰色か、どこか曖昧な空を虚ろに見上げ、私は美術の時間にもかかわらず手は止まったままだった。

 ふと思い出して、棚に目を向ける。確か棚の中ほどだった。画用紙を引っ張り出す。

 名前も知らない、なんとかさん、あるいはなんとか君の絵。そこには私の字があった。「へたくそ」と書かれた下手くそな字。

 私は静かに驚く。なんとそれには返事があったのだ。



 『だったらお前がかいてみろ ほらどーぞ⇓』



 と、私のためにスペースが空けてある。

 私はふいに脱力してしまい、椅子に深く沈みこんだ。そして。

 震える字で、「ごめんなさい」と書き込んだ。




 

 






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