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ヘブンズドア・リゾート  作者: 太夫 有
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後編

 重装甲SUVのハンドルを握りながら椿は窓の外を流れるごった煮のような景色を眺める。

 カジノやリゾートホテルの密集する中心街から車を走らせること小一刻。アッパーサイドの居住区をぬけ、ミドルクラスの住宅が並ぶ比較的整然とした区画も端っこに近づくとその向こう側のダウンタウンの色合いが濃くなり始める。

 街並みは雑然とし、それまでは全く見られなかった壁面の落書きもちらほらと現れ始めると、途端に往来する人間の身なりもブルジョワとは程遠いものになってくる。最後に服を着換えたのはいつなんだと突っ込みたくなるホームレスらしき連中もそこかしこに寝転がり、あるいは昼間から酒を呷っては路地にうずくまっている。

「一つ、尋ねたいことがある」

 運転に集中することである種の現実逃避を試みていた椿に、背後から声をかけたのはオーバーライトだった。

「はひ?」

 声音や話し方からは腹の底が全く読めない相手というのはとにかくやりにくい。バックミラーで表情を確認したところで、鉄仮面のような無表情がそこにあるだけだ。

「そう緊張する様な話ではない。私の通り名のことだ」

 ごりっごりに緊張する話題だった。

「オーバーライトと呼ばれている理由、君はどんな話を聞いたのか教えてはくれまいか?」

「え、いや、その」

「無論、それを聞いて糾弾しようだとかそういうことではない。ただいつのころからか、誰からともなくそう呼ばれ始めたのが定着しているのが気にはなっていてね。そうだな、私の移動中の退屈しのぎだと思って話してはくれないか?」

 話すも地獄話さぬも地獄。だったら、

「そ、すね。聞いたのは、その、オーバーライトってのは「上書き」って意味のオーバーライトで、今回みたいに自社の社員が騙されて何人か殺された報復に、相手の組織を隠れ家のある区画ごと吹っ飛ばして地図を上書きすることになったから、とか」

 有名な話だ。さすがに本人には誰もこんな馬鹿げた話はしなかったのだろうが、その真意が読めない以上は下手にごまかしたりする意味もない。

 少々滑稽に過ぎる話のあとの沈黙は、鉛を呑むよりも重く冷たいものだったが、しばらくミラー越しにじっと椿を見据えていたオーバーライトは、ふと思いに吹けるように瞼を閉じると肩を上下させて一呼吸。

「そうか」

 落胆したような、脱力したような、ため息にも似た一言にちょっと意外だなと思っていると、

「不如意であるがゆえに、そのような滑稽な空想が生まれることもあるのだな。だが、愉快だ」

 それはつまり、まことしやかに巷で信じられていたオーバーライトの逸話がまさかのフェイクだということなのか、と思う半面でさすがのオーバーライトであってもやっぱり人の域は出ることは叶わず、一区画丸ごと消し去るなんてできはしないのだ、とある意味常識的なところで落ち着く自分もいた。

「まあ、世間のうわさ話程度ですからね。民衆ってのは何でもかんでも面白おかしく語りたがるもんんで」

「そのままにしておくとしよう。面白みのある話の方が私個人を介してのわが社の宣伝効果も大きいだろうからね。それに、そうしておけばが他の組織への示威行動も必要ないだろう」

 淡々と語る口ぶりには面白みなんて微塵も気にしていなさそうだが、本人が納得しているのであればそれに越したことはない。

 わざわざ蛇がいる藪を突っつく愚を犯すこともない。

(蛇、っつうか大蛇。いや、ドラゴンだけどな)

 そこからは特に誰が何の話題を持ち出すこともなく、荒れた路面のメインストリートをクロエの発信機が示す場所を目指して車は走り続けた。

 そろそろ日も傾き始め、アパートの影が斜めに街を切り取り始めたころに辿り着いたのは街の片隅の雑居ビルだった。

 街並みを構成するのは半世紀以上も前からそこに建っているようなボロさと貧民街特有の、狭い部屋をぎゅうぎゅうに詰め込んだアパート群。埃っぽさと雑然とした散らかり具合がいかにもこの場所にぴったりという感じだった。

 その一角。歩道にまで商品陳列がはみ出した雑貨屋が一階に入っている雑居ビルを眺められる場所に車を止め、しばらく様子を見る。入り口わきの柱に赤地の布に金色の「福」の字を逆さまに書いたものが貼られているので、満貫商会の末端の商店であることは間違いなさそうだ。

「ってわけで来てみたけど十中八九、満貫の店ですよ、これ」

 後ろのシートに深く腰かけているオーバーライトにミラー越しの声をかけつつ、手元の携帯端末にもちらりと目をやる。

 出発前に確認した時点からクロエを示す発信器の光点は動いておらず、地図で確かめるまでもなく発信源は目の前のビルだった。

 店先にはトイレットペーパーなどの日用雑貨が並べられており、それだけを見れば何の変哲もない小売店だし、実際にもただの雑貨屋としての顔も持っている。が、まさかこの店を見て本当にただの雑貨屋だと思うやつはこの世界にはいない。

「ってわけでして残念なことに、あの、ちょっと?」

 ステアリングに体を預け、だらしなく脱力しながら商店の入り口をぼんやりと眺める椿が声をかけようとしたときには、オーバーライトは既に車を降りてまっすぐに店を目指して歩き始めていた。

「いやいやいやいや」

 慌ててエンジンを切って飛び出した椿は、背後からアリスベルがついてきていることだけを確認すると、念のため車をロックしてダークブラウンのスーツの背中を速足に追った。のだが、

(あれ? こんなに歩くの速かったか?)

 それなりの歩調で歩いているはずなのに、全くその背中が近づかない。

 いつもどおりに杖をついて、微かに右足の運びに違和感があるのも全く同じだ。なのに追いつかない。それどころかあっという間に道路を渡りきってしまった。

「あの、ちょっ、待っ、さすがにいきなりってのは」

 いくらなんでも天下の満貫相手に無策で突っ込むなんて自殺行為でしかない。オーバーライト個人の力量の程は全く知らないが、それが誰であったとしても同じことだ。それどころかこいつの場合、下手をすれば個人間の争いではなく組織同士の抗争に発展する。この業界はそういうところだ。

 何とかその暴挙を止めんと思い切り大股で走りながら呼びとめたところで、

「そう」

 何を思ったのか、オーバーライトの歩みがぴたりと止まる。

 自分で呼びとめておいて何だが、まさか止まるとは思っていなかったので、全力で加速していた椿はその勢いを殺しきれずに、なんなら自分が鉄砲玉になって店に飛び込んでしまうところだったのを、慌てて膝をついて急停止。

「どうしたね。君の止められぬパッションがそうさせるのかもしれぬが、もう少し冷静に行動すべきだ」

 氷のような無表情でさらりと言い切った。

「まあ、なんつうか、ええ、はい、もういいっす」

 もはや言葉を返す気力もなく、のっそりとした動作で立ち上がる椿。

「んで、どしたんですかいきなり立ち止まって」

「ふと面白いことを考えてね、それを伝えようと思ったのだよ」

 こんなときに何を悠長なと思いながらも、椿は頭二つ分は上から降り注ぐ声が僅かに弾んでいることに気がついた。

「私の名の由来、随分と大仰な話になってはいるようだが、今はそれで良いと思っている。むしろ、これから目にするであろう真実を広めないでいてくれるとありがたいと思ってね」

「これから、目にする?」

 聞いたことのないオーバーライトの声の調子に虚をつかれていると、再び歩き始めたオーバーライトは今度こそ迷わずに商店に踏み込んでしまった。

「あ、ちょっ」

 完全にフェイントを喰らった椿が慌ててオーバーライトの背中を追って店に飛び込み、

「あっちゃー、最悪。大当たりじゃん」

 店の広さは個人で切り盛りする商店としては平均的で、商品陳列もスチールの棚に食料品や日用雑貨が詰め込まれ、壁沿のガラス扉式冷蔵ケースにドリンクというごくごくありきたりなレイアウト。

 ただ、やっぱりここは堅気の来る店じゃないとすぐにわかるのは、店員が見るからに堅気じゃないからだ。

 接客業をするのには世界一向いていなさそうな男が数人、店奥のレジカウンター周りにたむろしている。安物のスーツや派手な柄のシャツ、龍やトラに鯉に金魚と過剰な刺繍が下品なワークシャツの男もいればタンクトップの奴もいるというバラエティー豊かな人材だが、少なくとも採用の基準が接客業務への適正ではなさそうなのは明らかだ。

「なんだあんた? ここはあんたみたいな上級の人間のくるとこじゃねえぜ」

 来店の挨拶としては最悪のセリフが、安っぽい挑発たっぷりのねっとりした声音で投げられる。周りの連中も例外なく下卑たニヤつきを浮かべながら、しかしその目はしっかりと二人を値踏みしている。抜け目ない。

 が、そんな無礼極まる接客など一切意に介さず、オーバーライトは無遠慮な視線を店内にぐるりと巡らせ、商品棚の間を練り歩く。

「おいおいおっさん、あんた、悪いのは足だけじゃなくて耳も悪いのか? もっぺんだけいうけど、ここは俺らみたいな貧しい庶民のためのぜんりょーなお店なわけ。わかる? わかんないか、聞こえねーんだもんな」

 見るからに下っ端と思しきド派手なアロハシャツの男が棚をはさんだ隣の通路からオーバーライトに食ってかかる。わざわざIQが低いことをアピールするかのような口ぶりだが、挑発としてはまあ悪くないのかもしれない。

 が、オーバーライトはこれも完璧に無視。

 コツコツと、杖が床をたたく音に合わせてチンピラ店員の視線が動いている。さすがにこの時点で異常事態であるとは察したのだろうが、残念なことに相手がアッパータウン屈指のマフィアの幹部で、なんならあの悪名高いオーバーライトだなどとは思いもしなかったのだろう。

 椿はいつも思う。どうしてこの手合いは例外なく自分の挑発を華麗に無視されると怒り狂うのだろうか、と。自己顕示欲を制御できない人間というのは結局はその他諸々の感情も制御できないのだろう。この男もその例に漏れることなく、いとも簡単にキレた。

「おいこら、何お高く止まってんだ? それとも何か? 上級市民様の目には俺らみたいな下等なゴミクズは見えもしねえってか?」

 ここまでわかりやすいチープな展開になるものかとほとほとあきれながらも、椿はそそくさとオーバーライトに駆け寄った。下手に分散するよりは近くにいる方がいざというときに護衛に回れるからという判断なのだが、その隙をついて残った男二人が見事な連携で店の入り口を封鎖してしまった。

 どうやら二人まとめてこの店の中で始末してしまおうということらしい。

 件のアロハシャツも、それまでは本能のままに垂れ流していた聴くに堪えない低俗な言葉を一度打ち切って、ちらりと仲間の配置を確認している。

 どうやらアホではあるが愚図ではないらしい。手際もこなれている感じがする。

「あーあ、あんたがどんなけ上級で立派なお方かは知んねえけど、だからって人様にぶれーをはたらいたどうなるか、ってのは知らなかったみてえだな」

 三度、完璧な無視。そして、この氷のようなスルーがアロハシャツの最後の地雷を踏み抜いたらしい。何とも安い自尊心だ。

「きっちり教えてやるからよ、まずは地べたに這いつくばって」

 生理的な嫌悪感を禁じ得ない嗜虐的な笑みに顔を歪ませ、店内を練り歩くオーバーライトの右足引っ掛けてやろうと、アロハシャツは棚の陰から自身の右足を突き出して、

 めぎぐちゅっ

「ぃんぎぁぇえあああああ」

 踏み抜かれた。人体ってこんなふうにつぶれるんだ、と不思議になるぐらい、まるで粘土かゼリーでも踏んだみたいに、男のふくらはぎが見事にオーバーライトの靴底の形にぺしゃんこに踏みつぶされていた。

 いざとなれば自分が庇って前に出るか、転ぶ前に体を支えるかと思っていた椿だったが、まさかその反応速度を超えてオーバーライトが右足を踏み出すとは思っていなかった。しかも、その結果は更に予想の遙か斜め上をゆくものだった。

(あれ? これ、もしかして護衛必要ないやつ?)

 オーバーライトについて、巷間囁かれる噂話こそ常識を疑うものばかりだが、そのどれもが彼個人の力量に対するものではないために読みあぐねていたが、この瞬間に椿は直感した。

 こいつ実はは、ガチでやべえやつだ、と。

 そして、その感は更に裏切られることになる。

「次に店舗を展開するときは、バリアフリーを心掛けるべきだ」

 今踏み抜いたのが人間の足であることなど一切意にも介さず、オーバーライトはしれっと呟いている。相手にしてみればこの上ない挑発なのだろうが、椿はこのセリフが本気でバリアフリーのこと言っているだけなのだと想像できてしまった。

(人間離れした連れが多いってのも問題かもな)

 と、これが街のチンピラやしょぼい下部組織相手であれば、この異常事態を見て相手が逃げ出して終わり、そうじゃないときは目の前にいる全員を始末すればいいだけなのだが、さすがは満貫のお店。

 瞬く間に店の奥から。見るからにスジもんとわかる連中が噴き出してくる。これだけの人間が奥にいられるってどれだけの広さだ、と思っている間もあらばこそ、ゴキブリのごとく湧いて出た連中は一切の迷いなく手にした拳銃のトリガーを引き絞った。

 あっという間に銃弾の嵐が吹き荒れる。

 冷蔵ケースのガラスはバリバリに割れまくり、中のジュースが色とりどりに爆散。袋菓子が飛び散り、スナック菓子の油臭とジュースの甘ったるい匂いに火薬の臭いが混じるという夢に見そうな地獄絵図が瞬く間に展開する。

 その中で椿とオーバーライトはまったくの予想通りとばかりにスチールの棚の陰に隠れて腰を落としている。超人的な能力を持った諸々が身近にいると拳銃というのが頼りなく見えてしまいがちだが、普通の人間にとって銃火器というのがお手軽な最強武器だというのは、ここリゾートであっても変わらぬ事実だ。一発の直撃が命に直結するので、必然的に数で来られるとこうやって隠れるしかないのは、万国共通というわけだ。

「けっこう出てきましたけど、どうします? 外に待機してるベルに殴りこませます?」

 右手に愛用の拳銃を、左手を携帯端末の入ったポケットに突っ込みながらすぐ隣のオーバーライトに問いかける椿。その間にも銃弾は背中を預けたスチールラックにガンガン当たって鬱陶しい。

 もたもたしていれば相手がこちら側に突っ込んできて、それこそ至近距離の銃撃戦に持ち込まれかねない。そうなれば数で圧倒的に不利なこちらに勝ち目はない。

 返事を待つ間ももどかしくベルに応援を要請すべく端末に指を滑らせる椿に、オーバーライトはいつもと変わらぬ淡々として口調で語り始めた。

「車の中での話の顛末だが」

 今んなことどうでもいいんだけど、と思いながらもこの男の話を遮る度胸はない。

「なんすか? とりあえずあたしはベルに応援を」

「半分は正解だ。あのとき、うちの社員を惨めな水死体に変えてくれた新進の精神生命体至上主義シンジケートを壊滅させた際に、廃棄区画三ブロック半を廃墟に変えた」

 うん。じゃあもう全部正解でいいんじゃないかな?

「この、右足で、な」

 義足の方の足をトントンと人差指で叩いたオーバーライトの口元は、微かに微笑んでいるようにも見えた。

 瞬間、ゾクリと体が震えあがり、背筋が凍るような恐怖が走り抜けた。

 その椿の気が逸れた瞬間を好機と捉えたのか、手近な棚の裏に隠れていた一人が、片手にナイフ、片手に拳銃というそれなりに喧嘩慣れした装備で突っ込んでくる。

 もちろん、その程度ならアリスベルでなくとも、椿にも充分始末できる相手だったのだが、今回最速の反応を切ったのは、ダークブラウンのスーツに覆われた右足だった。

 目の前で炸裂弾でも爆発したかと思った。

 肌を痺れさせるほどの衝撃と、鼓膜が痛いほどの爆音が店内の全てを震わせたが、どうやら爆弾の類ではなさそうなのはすぐにわかった。

 しかし、脳が事実の受け入れを拒否した。そしてそれは、飛び込んできた男も同じだっただろう。いや、もしかしたら最も理解できずにいたのはその男かもしれない。

「少々勢いがつきすぎたか。人間相手にこれを使うのも久しぶりとはいえ、いかんな」

 涼しげに言い放ったオーバーライトとは対象に、蹴りをぶちこまれた男の方はただただ茫然と立ち尽くしていた。。

 そりゃそうだろう。何せ、椿でさえ初めて見たのだ。

 ただの蹴りが人間の体をえぐり取るなんていうシーンを。

 靴底の形にわき腹が消し飛んだ男は、そのショックに虚を突かれて呆けているが、ここでそんなことをしていれば次に待っているのは確実な死だ。

 ずしっ、という鈍い音とともに男の体が縦にひしゃげて床のシミに姿を変える。

 オーバーライトの、頭上からのたたきつけるようなかかと落としが男の脳天に炸裂したのだが、骨も肉も内臓も関係なくその場で人間をぺしゃんこなんてどこのB級コメディだ。

「私の足は、若き日の愚かさの代償として失われたのだが、それを補うために用意させたものが、少々人の身に余る逸品だったようでね。それ以来、気に入らないものはすべてこの右足で踏みつぶしてきた」

 ああ、それでね。

「相手を叩きのめしてあまりある威力の右足、オーバーライトのライトは「右足」ってことね」

 規格外な(オーバー)右足ライトフットで、オーバーライト、というわけだ。

「安直過ぎて面白みも現実味もない二つ名だ。こんなものよりも、地図の上書きの方がよほど物語性がある」

 そう語った口調はどこまでも無邪気で、何と言うか、らしくはなかった。が、同時にこの男の懐の大きさを物語っているようにも思えた。

 ドシャリ、と水を大量に詰めた袋を落としたような不快な音に、銃弾の飛び交っていた店内が一瞬にして静まり返る。

(そりゃそうか。さすがにやばい現場には慣れっこの満貫も、オーバーライトはイレギュラーに過ぎたってわけか)

 そしてその一瞬で、全ての決着がついた。

 誰もが言葉を失いながらも必死に現実に意識をとどめ、次の一発を放つためにトリガーに掛けた指に力を込めるが、何もかもが遅きに失した。

 静寂に包まれた店内をねこ科の猛獣のようにアリスベルが駆け抜け、物陰からこちらを狙う五人を蹴りと掌底でねじ伏せ、残りの数名は隠れている棚ごとオーバーライトの蹴りが粉砕した。とりわけえげつないのはオーバーライトの一撃で、商品満載の棚がその裏の人間と更に隣の何列かの棚全てを轢き殺しながら壁に叩きつけられ、建物の基礎が歪むほどの衝撃が店全体に響き渡ったのだ。合計四列の棚が蹴りの威力だけで圧着して壁にめり込んでいる光景は、ある種の前衛芸術のようでもある。棚の間の通路に身を隠していたチンピラが赤黒い汁になって隙間から染み出ているのは、敢えて見なかったことにした。

「あたしら、来る必要なかったんじゃ……」

 最後の一人をアリスベルが回し蹴りで昏倒させたところで、そんなことを考えてしまう。

「って、違う違う。危うくマジで目的忘れそうになってたわ。ベル! 次が来る前に。この反応だとカウンターの奥、バックヤードのはずだ」

 携帯の地図アプリの縮尺を最大にし、クロエがいるだろう位置を特定する。

「了解だよ」

 棚が蹴散らされたおかげでがらんとした店内を一気に駆け抜け、レジカウンターを飛び越えた勢いをそのままにバックヤードへの扉を蹴り抜いて、

「やっべ、嵌められた」

 そこはありきたりな個人商店のバックヤードで、開梱前の段ボールやらジュースのケースなんかが雑然と積み上げられている殺風景な部屋なのだが、部屋の真ん中にはクロエの着ていた洋服が無造作に捨てられていた。

 そしてそれを取り囲むように、部屋の床に意味ありげな幾何学模様やら象形文字の親戚の様なものがみっちりと描かれている。

「魔法陣、ってやつ?」

「どうやら我々が追ってくることを見越して、発信器のこともお見通しだったようだね」

「ある意味でビンゴだ。クロエをさらったやつとドラッグのルートに関わってるやつに繋がりがあるのが確定したんだもんな」

 ただ、

「問題はこの魔法陣、なんか光ってるってことは多分魔法が発動するんだろうけど」

 目の前で発動待ったなしに光を放っている魔法陣を前に、椿とベルがリアクションを決めあぐねていると、思いもよらないところから次の一手が飛んできた。

「どきたまえ、私が踏み抜いて」

 遅れて部屋に踏み込んできたオーバーライトが、自慢の右足を大きく踏み出して、

「ちょ! 接触が発動のトリガーだったらどうす」

 床を力いっぱい踏み抜いた。

 その瞬間、地震のような衝撃とともに床のアスファルトは砕けて波打ち、しかし素人目にも魔法が発動したのだとわかる強さで魔法陣が眩しく発光し始めた。

 物によっては発動の瞬間に陣の周囲を分子レベルまで崩壊させる破壊の魔法ということもあるのだが、どうやらそうではないらしいのは幸いだ。

 では何の魔法が? そう思いをめぐらせ、警戒とともに後ずさろうとした椿の視界が、目眩のようにグニャグニャに歪み始めた。

「って、何だこりゃ、空間が歪ん……やっべ、転送系だ! ベル!」

「そのようだね。規模的に相当な距離を飛ばされそうだね」

 慌てて声を上げる椿だったが、対するアリスベルはどこまでも冷静だった。

「さいっあく!」

 転移系の魔法といえば全容が明るみに出ていない魔法界隈の中でも知名度の高いもので、比較的身近な魔法ではある。ただ、事ここに至って問題なのは、

「こんな、どこに飛ばされっかわかんない魔法なんてゴメンなんだけど!」

 最悪、海の底や火山の中という問答無用の即死コースもあり得る。

「とはいえ、もう発動には巻き込まれたようだね」

「くっそ、あたしらじゃ発動はキャンセルできないし……」

 床が砕け散って陣はばらばらになってはいるものの、描かれている文字や模様は光り続けているので、どうやら発動は止まらなかったらしい。魔法の被害から逃れる唯一の方法は発動させないことだ、とまで言われるほどにそのキャンセルが困難なことで有名だが、

(くっそ、だからってこんなとこで時間食うのも癪に障るし、目の前はぐにゃぐにゃで気持ち悪いし……!?)

 そこで一つの事実に気がついた。

「ベル! この魔法、物理的に吹っ飛ばす方じゃなくて空間転移系だ! イチバチでたのむ! あの剣で」

 そこまでしゃべった時には、既にアリスベルの手には空間の裂け目から引きずり出された、あの巨大な剣が握られていた。実際には、「物理的に」の部分で察したアリスベルは次の瞬間に剣を引きずり出し、「イチバチで」のところでは椿の覚悟も含めた意図の全てを汲みあげていたというわけだ。

 コンビネーションというよりは熟年夫婦の阿吽の呼吸の様なやり取りだが、それを言うときっと椿は乙女にあるまじきひしゃげた顔をして全力で否定するだろう。

 ともあれ、今この瞬間にやることは決まった。

 既に周囲の景色は元いた店のバックヤードではなく、上も下もなく、何色かの淡い光がマーブリング模様を描く異空間になり果てていた。このまま何もしなければこの空間がどこか別の場所に繋がってそこに放り出されることになるのだが、

「よいのだね?」

 尋ねながらも既に大上段に剣を構えているアリスベルに、椿は突き立てた親指で自らの首を掻き切るジェスチャーで答えた。

「やっちまえ」

 次の瞬間、何もない空間に向かって剣が振り下ろされると、切っ先の軌道に沿ってマーブリング模様が引き裂かれ、まるで薄布を引き裂いたようにその向こう側から光が流れ込んできた。

「飛び込め!」

 裂け目のサイズが自分達が通り抜けられる大きさになったところで迷わず椿はそこに向かってダイブ。その後を間髪いれずにアリスベルが駆け抜けたのを見て、

「あ!」

 最後の瞬間に裂け目の向こう、マーブリング模様の中から難しい顔でこちらを見つめているオーバーライトと目があった。

 と、そこで裂け目はするりと閉じてしまい、眼光鋭い青い瞳は見えなくなってしまう。

 その一瞬で、次に会った時に何を言われるかについて思いを巡らせかけたが、

「いや、今はいいか。せめて今ぐらいは心穏やかに生きよう」

 不安にそっと蓋をして、今この瞬間に向きあうべき難題に意識を向けることにした。

 まずは自身の五体が満足であることの確認。OK。

 次にアリスベルが隣にいることを確認。OK。

 そして最後に、自分達が転移魔法から逃れられたかどうかの確認だが、

「とりあえず抜けだしては、いるな?」

 体制も減ったくれもなく魔法の効果範囲から飛び出したせいで尻もちをついてはいるが、おかげで自分が地面だか床だかの上に転がっていることが確認できた。

「呼吸もできる。目も見える。ってわけで」

 かすかに立ちくらみに似た目眩がするが、許容範囲ということにした。

「どうやら、通常の世界に戻れたようだね」

 周囲を見渡しながらアリスベルと二人で確認し合うと、そこはどこかの建物の中と思しき場所だった。コンクリート打ちっぱなしの壁と床に、小さな明かり取りの窓からは自然光らしき黄色混じりの白光が差し込んでいる。

「どうやら魔法の効果範囲からは出られたようだね。私たちが元いた世界かどうかは別として」

「それに関しても大丈夫そう。電波が届いてるから、少なくともリゾートであることは間違いなさそうだ。あとはここがどこか、だけど……ちょい、いまマップアプリで確認するわ」

 魔法にもよりけりだが、往々にしてその効果は掛けられていた時間に応じて変わるものと言われている。

「転移系の場合も、飛ぶ先が遠ければ遠いほど時間がかかるって言われてるから、もしあの瞬間で効果範囲から出られたんなら物理的な距離はさほどじゃない……って思いたいな」

 希望半分諦め半分にこぼしながら、椿は携帯端末の地図アプリを確認してみる。

「お、ラッキー。ほとんど吹っ飛んでないな。っていうかめちゃくちゃ近くだ」

 端末のモニターをアリスベルに向けながらそう言うが、それでも歩いて帰る気にはならない程度の距離はすっ飛ばされていた。あくまでも転移魔法の割にはという慰めだ。

「ふむ。体感では二呼吸程度の時間しか晒されていなかったはずだが、それでも区画を六つ……八つは移動しているね」

 エリアで言うなら先ほど突入した商店のあるビルがあるのと同じダウンタウンエリアではあるが、物理的な距離は相当なものだった。

「逆に言うなら、あの短時間でこの距離なんだから、ずっとあの中にいたらマジで世界の果てまですっとばされてたかもな……それこそ異世界なんてのも」

 言いながら、それ以上を口にする気にはなれなかった。何せ、あの中に閉じ込められておそらくは終着点まで行ってしまっただろう知り合いが一人いるのだ。最後にこちらを見つめていたあの底の読めない青い瞳は、しばらく夢に見そうだ。

「彼なら大丈夫だということにしておこう」

「だな。うん。今は自分達のやるべきことを考えよう」

 決して、現実からフルパワーで逃げたわけではない。ただ、目の前にある、やるべきことを優先させるだけだ。

 そう、今やるべきこと。

 改めて地図アプリの現在地と自分達の置かれた環境を確認しながら、次にとるべきアクションを模索する。

 地図上の場所はダウンタウンエリアのどこかとして、問題なのはこの薄暗い部屋が一体どこなのか、だ。殺風景な灰色に囲まれて扉はどこにでもありそうな鉄扉が一つきり。倉庫や物置程度に使うための部屋なのかもしれないが、部屋の隅に埃がたまり、ちらちらと舞っているのでさほど頻繁に使われてはいないようだった。

「できれば誰にも接触せずにトンズラしたいよな」 

 扉の小窓からは人工的な明かりが見えるので、無人というわけではなさそうだ。

「確かにそうだね。我々がここにいる事情など、到底信じられるものではないからね」

 それには同意だった。もしも同じような輩がヘブンズドアの中に湧いて出たら、よくて不法侵入の泥棒認定で警察に突き出すか、虫の居所が悪ければ問答無用で鉛玉をぶちこむだろう。

「そゆこと。さすがにこんなとこで官憲相手に無駄な時間と労力使いたくない」

 心底忌々しげにこぼすと、扉の小窓から外をのぞいてみた。

 薄汚れたガラス越しにはこちら側とは違っては現在進行形で何かに使われていそうな居室が広がっていた。

「オフィスっつうよりはどっかの研究室、か? とりあえず何かごちゃごちゃしてて、企業っていうよりは、個人の事務所とか……あれ?」

 そこで椿の脳裏を奇妙な既視感がかすめた。

「なーんかこの雰囲気どっかで見たような」

 雑然とした室内の様子を眺めながら、記憶の中、それも比較的最近のビジョンを追いかけてみる。棚と言わず床と言わず無秩序にちらかった無数の本。そしてそれ以外にはまるで生活館を感じられない、書庫とも物置とも研究室ともつかない乾いた空間。

 散らかり放題の埃っぽい部屋、窓の汚れのせいで差し込む陽光は黄ばみ、鼻腔の奥を突く鉄交じりの生臭さに加えて、ゴスロリ衣装の走りにくさが足腰に蘇ったところで、それに気がついた。

「わーい、おおあたりだー」

 全く嬉しくなさそうな抑揚のない口ぶりだが、本心は本当に喜んでいた。

 いや、喜んでいいのかどうかはまだこの後の展開次第なのだが、少なくとも一つだけは喜ぶ要素があることは確かだった。

 窓の向こうへの警戒を怠らず、視線は固定したまま手まねきでアリスベルを招き寄せ、顎をしゃくって向こう側を覗くように促した。

「たしかに、これは大喜びするところだね」

「だろー」

 細くなだらかな顎のラインの先、手術台のようにも見える木製の作業台の上には、布をかぶせられた小さな物体が置かれている。

「クロエくんだね」

「ちょっとご都合主義展開過ぎて信じらんないけどね」

「罠の可能性は?」

「これを罠だと思わないほど脳みそお花畑じゃないつもりだよ」

 むしろ罠ではないと考えられるやつがいるならその頭を開けて中身を見てみたい。

「けどさ、だとしたら好都合だ。罠ってことは相手は『あたしらがクロエを探してる』ことを知ってるってことになる。つまり」

「その向こう側にクロエくんに繋がる糸口がある、と」

「蜘蛛の糸よりも細くて脆くて危なっかしい代物だけどな」

「何故に蜘蛛なんだい?」

 そこを説明するには自信の生まれた文化における死生観や民間信仰的な宗教の感覚などなど、おおむね一つの文化圏の思想信条を説明することになるわけで、さすがに今は時間も心の余裕もない。

「その辺は今度説明してやる。とりあえず今は」

「そうだね。この場を生きてくぐり抜けた時の楽しみにしておくよ。何だったか? 私はこの戦いのあとに君に婚姻を申し込むんだ、だったかな」

「それだめなやつ。あと、今それをあたしに言っちゃたらすでに申し込んじゃってるだろ」

 時折見せるアリスベルの間の抜けたところに突っ込まざるを得なかったが、おかげで肩の力が抜けた。

「あたしたちがやるべきは、全力でこの罠にかかることだ」

 ノブに手をかけて力いっぱい引き開け、飛び出すと同時に拳銃の安全装置を解除。部屋の右半分の制圧のみに注力する。左半分については心配どころか考えもしていなかった。

 ものの配置、人が隠れられそうな場所の確認と、その裏からの攻撃を想定しての重心の移動。さして広くない部屋ではあったが、雑然と置かれた本や棚のせいで死角が無駄に多いのが鬱陶しかった。

 銃口と視線の両方で物影を制圧し、安全を確保してゆく。

 ほどなくして、

「あれ? 誰もいない?」

「そのようだね」

 背中に感じたアリスベルの声もどこか拍子抜けした様子だ。振り返ると、いつものでかい剣は手にしておらず、代わりに立ち技格闘技の構えのように胸の前で軽く両の拳が握られていた。

 しばらく無言で背中合わせに互いの死角を補い合うように室内を中止していたが、どうやら本当に無人らしいということが確認できたところで、そろり、とクロエらしい人物が寝かせられている台に向かって摺り足気味に踏み出した。

「ますます怪しい、って思うのはあたしの性格がひねくれてるからか?」

「そこが君に魅力的なところだよ」

「否定はしねえのかよ」

 アリスベルらしい逃げのない回答に、口角が僅かに釣り上がる。

 台に歩み寄った椿はトリガーに指をかけたまま空いた方の手でこんもりと盛り上がった毛布の端に手をかける。ほんのりと暖かいのは、中にいる何かに体温がある証拠だと思いたい。

「うん。クロエ、だな。んで……」

 少しずつ毛布をずらして行くと裸の肩口があらわになったが、構わずにそのまま大判の布切れを勢いよく引っぺがし、投げ捨てた。

 と同時、背後に飛び退りながら両手で拳銃を構え、銃口を毛布で隠れていた部分に向ける。すぐ左後方ではアリスベルが最速の一撃を叩き込めるように上体を捻っているが、

「なんもない……な」

「だね」

 台の上には胎児のように丸まっているクロエの裸体があるだけで、他には何もない。台も木製の天板に脚が四本付いているだけのシンプルな造りで、何かが隠れられるようなスペースはない。

「もっかい聞くけどさ、これでもまだ罠を疑うあたしの性格は、ひねくれてる……か?」

「そのおかげで君が死なずに生きていると思えば非難する気にはならないさ」

 そしてまた否定されなかったことには何も思わなかった。

「肩、動いてるよな」

「呼吸もしているし、血色も悪くはない」

 作業台の上で丸まっているクロエはどうやらただ眠っているだけのようだ。試しに近づいて耳をそばだててみると、上下する肩に合わせて規則正しい寝息が聞こえた。

「と、とりあえず起こすか……と、その前に一応毛布だけかけとこう」

 いそいそとかっぱいだ毛布を拾って眠るクロエに掛け直す姿は何とも間抜けな気がしたが、このままにしておくにはあまりにもクロエの裸はか細く、背徳的な何かがわき上がる。

「ん……むぅ」

 何ともいえない複雑な心境を押し殺してその肩口を隠すように毛布を掛け直したところ、もぞりと身じろぎしたクロエの口から眠そうなうめき声が漏れ、うっすらと瞼が持ち上がる。

「お、丁度いい、起きたみたいだ。おーい、生きてるか? あたしがわかるか? ってか、あんたクロエだよな?」

 まさかの他人の空似という可能性に思い至ったが、どうやらそれも杞憂のようだった。

「んぇ? つばき? あれ? パン??」

 まだ九割がた夢の中にいるようなクロエの言葉に一瞬その意図をつかみ損ねたが、監視カメラの中で最後に見たクロエは、ルームサービスのトーストを齧っている最中だったことを思い出した。

「どうやらこれもブービートラップってわけじゃなさそうだ」

 さすがにこれは罠にしては手がこみすぎていると思い、ようやく椿はこのクロエは本物のクロエで、罠ではないらしいと判断した。

「にしても、何でこんなとこに……何か覚えてる? あんた、ホテルの部屋からいきなりいなくなったんだけど」

 問いかける椿だが、クロエの方は未だ意識は七割方夢の中にいるらしく、しばらくは何を言われたのかも理解できないといった様子でふわふわと視線をさまよわせている。

 かと思うと、唐突に何かを思い出したように目を見開き、

「おっしょー! おっしょーは?」

 何かを求めるように呼びながら、きょろきょろとあたりに視線を巡らせた。

「おっしょー、ってあんたの師匠のあの魔法使い?」

「そう。私はおっしょーに呼ばれてここにきて、それで……あれ? ここ、どこ?」

 どうやらクロエの持っている情報も自分達とそう変わりはないか、下手をすればクロエの方が自分の置かれた状況を理解していないらしかった。

 ただ一つ、椿には気にかかることがあった。

「なあ、さっき師匠って言ってたけどさ、一応確認するとあんたの師匠ってあの館で殺されてたあのおっさんだよな?」

 思い出すまでもない、ほんの数日前。クロエを保護したあの書斎で胸を貫かれて息絶えていた人物だ。つい今しがたまで眠っていたとはいえ、あんなショッキングな出来事を忘れて存命だと勘違いするとは思えない。

 案の定、

「んと、おっしょーに呼ばれて、それで、それで……あれ? それで、ここにいた」

 とのことだ。

「一応聞くけど、あんたの師匠って殺されてたよな?」

「うん。体の方は。でも」

 脊髄をイナズマが駆け抜けたような感覚だった。

 あの時、魔法使いの屋敷から連れ帰ったクロエと話した時にクロエは確かにそう言ったのだ「おっしょうの体は誰かに殺されて」と。

 そう。今思えば敢えてその言葉を使ったのだろう。そして、そのことが魔法使いにとっての常識であっても、自分達の常識ではなかった、ただそれだけだ。そんなこと、この世界に生きていればごまんと経験していたのに、あまりにも間抜けな身落としだった。

「魂の方までは死んでなかったみたい。それで、呼ばれて……」

「おお、起きたのかクロエ。それに、ん? そこにいるのは……げ」

 唐突に背後から割って入った第三者の声に大慌てで飛び退る椿とアリスベル。降り向きざまに拳銃の安全装置をはね上げてスライドを引き、腰を落としてトリガーに指をかける。

 おかしい。さっき室内は一通り確認して回って、人の隠れる余地なんてないことを確認したはずだ。とはいえ、相手は魔法なんぞという反則じみたものが使えるのだと思えば、いかに自分達の警戒などが意味をなさないものかは推して知るべしだ。

 隣のアリスベルが同じように警戒態勢に入っているのを確認し、改めて声のした方に意識を向ける。

 が、

「あれ?」

 そこには人っ子ひとりいはしなかった。先ほど確認した時と同じで雑然とものが並べられてはいるが、隠れられるスペースがなさそうなのは変わらずだ。しかし、

「クロエ、おまえなんちゅうやつを連れてきたんだ」

 誰もいない部屋の一角から、はっきりと声がした。今度は勘違いなどでも、脳に直接語りかけているなんていうこともない、はっきりと鼓膜を震わせる肉声だ。

「連れてきたわけじゃないけど、おっしょー、椿と知り合い?」

「いや、知り合いではないが、よりにもよってなぜ。せっかく俗世とのしがらみを断つことに成功したと、ん? な、なんだ?」

 クロエの視線を頼りに声の出所の当たりをつけ、多分このあたりだろうという予想の元にもう一度目を凝らして室内の様子を探ってみる。

 雑然と積まれた本、何の実験に使用するのかわからない器具の数々、散乱する殴り書きのメモの中に埋もれる魔法陣と思しき幾何学模様。そして、見つけた。

 作業台の真ん中に座らされた、デッサン用と思われる木偶人形。

 様々なポーズをつけられるように各種関節が動かせるようになっている一型の木偶人形だが、そいつが、

「あ、動いた」

「ちっ、しまった」

 椿の視線がそいつをとらえた瞬間、手のより夜少し大きい程度のその木偶人形はおもむろに立ち上がってくるりと回れ右、自由度の高い関節をでたらめに振り回すようにしてぎこちない動きで走り出したではないか。顔がないので前後はわからなかったが、どうやら背を向けて逃げ出したらしい。

「あ、おっしょー、どこ行くの?」

「ええい、呼ぶんじゃない。お前が呼ばなければそいつに気付かれることも。はっ、しま」

 今の発言で木偶人形の中身(?)が知り合いの魔法使いであると確信した椿は、安全装置を解除したままの銃口を木偶に向けると同時、アリスベルに無言の視線を送る。

 タイムラグなしで床を蹴ったアリスベルの手が木偶人形をとらえると、最初は手の中では無機質な木の人形がうねうねと動いていたものの、ある瞬間を境にピクリとも動かなくなってしまった。

 考えうる可能性はいくつかあるが、それをいちいち検証するのも面倒だ。と言うわけで、

「ベル、試しにそれが本物の魔法使いかどうか確認するのに、とりあえず全力で振り回してみて。最悪砕け散ってもかまわないか」

「まてまてまてまて! お前、血も涙もないのか!」

 いきなり力強く体をはね起こし、両腕を振り上げてえらい剣幕で怒鳴り始めた。

「ほら、やっぱ中身おっさんじゃん。何ばっくれよとうしてんのよ? ってか何? そんな姿でまだ生きてんの?」

 果たしてこの状態を生きている、と呼んでよいものかという疑問はあったが、そうとしか尋ねようがない。

「生きているということに形而下の姿などは問題ではない。私の魂は以前のあの肉の体の時と変わらずそんざいし、今はこの体を得ているというわけだ」

「ほおん、じゃあとりあえずはあんたに貸してある分は取りっぱぐれずに済むわけだ」

「そこはそれ、俗な財産のやり取りなどは肉の体に宿っているいうことで、この新たな体を手に入れた私は言ってみれば生まれ変わった別の存在と」

「はいはい、今のであんたはあたしに借りのあるあの魔法使いのおっさんだって自分で認めたわけね」

「あ、ずるいぞ!」

「ずりいのはそっちだろ。妙な屁理屈こねくり回して、魔法でイカサマしたの見逃してやった借りを踏み倒そうなんて」

「ふん、何とでも言うがいい。仮にお前さんがそれを主張したところで、傍から見ればお人形さん相手に取り立てする頭のおかしい女だ。私はその間はただこうして木偶人形のふりをして」

「ベル」

 今度は警告ではない。そのことを伝えるために敢えてそれ以上は口にしなかった。

 そして、その意をしっかりと汲んだベルは無言で人形を握る手を頭上に持ち上げ、握る場所を胴から脚の方に変え、

「おい、いったい何をおばわっ」

 力いっぱい、振り抜いた。いつもの巨大な剣を振り下ろすように、力いっぱい、全速力で。

 大気が引き裂かれる音があるのだとすれば、きっとこんな音だろう。そんな、景色そのものがひしゃげるような、聞いているものの聴覚を引き裂くような、音というよりは衝撃波そのものが聞こえたような、凄まじい速さ。

 言っておいて何だが、椿自身も自分の下した指示に戦慄していた。仮に自分があの速さで振り回されたら、間違いなく内臓から脳から何から何までもが体の上の方に偏ってひしゃげただろう。もしかしたら肉体も原形をとどめないかもしれない。

 正直、ちょっと焦った。

「……やば、死んだか?」

 本気の焦りがにじみ出る声に表情も引きつり始めた。

 しかし、さすがは無機物と言うべきか、

「うう、う、ぅお、あ、見えた、と、時が見える、あ、ああ、あ」

 一瞬で数百年の時を生きたかのように声はかすれていたが、どうやら生きているらしい。

「さ、準備が整ったところで平和裏におお話し合いしようじゃない」

 内心ではほっと胸をなでおろし、しかし一切その辺りを表情に出さずに淡々とした口調で切り出すと、何故か顔のないはずの木偶人形の表情が怯えに歪んだのがはっきりとわかった。

「何が平和裏に、だ。こんなものただの脅迫ではないか……」

 ぶつくさと未練がましく文句を垂れる木偶人形だが、これ以上は状況を悪くするだけだと悟ったらしく、後半はうらみがましい声音だけで何を言っているのかは聞きとれなかった。

「んでさ、別にあたしはあんたからとりたてようだとか、今さら思ってないわけ」

「本当か! なら」

 嬉々として体をはねさせる木偶人形。何とも現金なやつだと苦笑いを浮かべながら、椿は変わらぬ口調で続ける。

「ただし、それはあくまでもこっからのあんたの返答次第。だいじょぶ、そんなに難しいことじゃないわ」

「そう言いながら無理難題を吹っ掛けるのがお前らのやり口だろう」

「無理なら無理って言えばいいわ。ただ、穏便な話し合いの上じゃなくて、力ずくでことを進めるだけだから」

 言って、今度はわかりやすくアリスベルに目くばせを送ると、木偶人形を握る手に僅かばかりに力が込められる。

「わかった! わかったから、まずはそちらの要求を聞こう。話し合いと言うのならまずはそこからだ」

「聞き分けがよくて助かるわ。こちらの要望は二つ。一つはあたしらがここを出るのを黙って見逃すこと。もう一つは、満貫が流通させてる術式ドラッグのルートを探ってるんだけど、何か知ってることがあったら教えてちょうだい」

 ここで一拍、沈黙をはさむ。会話に緩急をつけることで、相手の焦りを誘うためだ。こちらが不利な交渉であれば相手に付け入るすきを与えるのは愚の骨頂だが、有利な場合には相手側にしてみれば沈黙ほど恐ろしい圧力はない、というわけだ。

 余裕を感じさせる落ち着いた息使いで呼吸を一つ。

「もちろん、ただじゃない。さっき言ったようにこれまでの貸しはチャラにしてあげるし、提供される情報次第ではこちらから対価を支払うつもりもあるわ」

 何のことはない対等な取引の話のはずが、敢えて自分達が有利なのだと先に示しておいたおかげで、まるでいくらかの譲歩を引き出しかのように相手に錯覚させるというわけだ。

 小賢しいとかいうな。アリスベルの様な超人的な身体能力や、それこそ霧雨の持つ神懸かった特殊な能力でもない限り、駆使できるのは知恵とクソ度胸だけなのだ。

 そう。クソ度胸だ。

 椿達の要求のうち見逃すことに関しては力ずくで何の問題もなく解決できる。しかし、後者に関してはスカを引いてしまえば力ずくもへったくれもないわけだ。なんならしらを切られてしまえばそれを確認する術もないという、圧倒的に不利な立場。

 それを悟らせないための策だったわけだが、最後の要素はどうしても一か八かにならざるを得なかった。

 もはやかませるハッタリは全部かました。あとは運を天に任せるのみ。

「ふぅむ……ちなみに」

「何?」

 余計な会話はぼろを出すきっかけになりかねないので、できれば長引かせたくない。場合によってはアリスベルの力にものを言わせる必要もあるかと、最悪の悪手を想定した。

「そちらに有効な情報を提供した場合、私はまた客としてあのカジノに行ってもよい、ということだな」

 よかった。

「金さえ落としてくれりゃ、うちのカジノは基本来るもの拒まずだよ。あんたに関しても、出禁にしたわけじゃない」

「私のいかさまは、なかったことになるのか?」

 ビンゴだ。日頃は神なんて信仰してもいない椿だが、このときばかりは世の中にギャンブル中毒という病気を生み出してくれた神に全力で感謝だ。

 ほくそ笑みたいのを力いっぱいこらえながら、

「言っただろ。貸し借りはなしだ、って。出てくる情報によっては『今後のあんたの行動』にもある程度こちらも寛容にならないでもない」

 絶対的な自信を持ってはなった決定打。

 つまりは、「ある程度ならいかさまを見逃してやる」という旨の密約だ。ただの客であればまだしも、ギャンブルジャンキーのこの男が、この餌を前に冷静な思考を保てるとは思えなかった。

 十分すぎる勝算を胸に、椿は敢えて待ちに徹する。

 時計のない部屋の中では時の流れを知るすべはないが、思った以上に引っ張るな、と内心いらつきを感じ始めたその時、ようやく木偶人形が動きを見せた。

「一つだけ、こちらから条件がある。条件、と言うよりも提案、だな」

 ここにきて往生際の悪い、とは思ったがおおむねでは想定通りだっただけに下手にこじれさせないためにもここは一旦耳を貸すほかない。

「何? とりあえず聞くだけ聞いてみるけど」

 決して顔には出さないように、腹の底に覚悟を呑みこんで冷静を装う。、

「それを引き取ってはくれまいか?」

 出し抜けにそう言った木偶人形が、関節の少ない指で差したのは、

「ふぇ?」

 あろうことか自らが魔法で攫ってきたクロエだった。

「ごめん、ちょっと理解が追いつかない。あんたが拉致ったんでしょ? それを、あたしらに引き取れ、って」

 あまりにも一貫性がなさ過ぎて、裏どころか裏の裏の裏まで勘ぐってもまだ足りない。

 そんな椿の当然の猜疑心をあざ笑うように、木偶人形はしれっと言い切った。

「もう用済みだからな」

「おっしょおぉぉぉ」

 悲痛な声を上げ、猫のような耳をふにゃりと垂れさせたクロエの方を見もせずに、木偶人形は続ける。

「どこへどう返したものかと思い悩んでいたところだったので、丁度良かった」

 情け容赦のない口ぶりに、毛布にくるまってぼんやりとこちらのやり取りを眺めていたクロエは瞬く間に涙目になって脱力。獣の耳は音を拾うのを拒否するかのようにぺたりと塞がっている。

 見るに堪えない悲壮感に、さしもの椿も苦言を呈さずにはいられない。

「部外者のあたしが言うのもなんだけどさ、仮にもあんたの弟子なんでしょ?」

「いずれ言おうとは思っていたのだが、丁度良い機会だ。クロエよ、俺の使う魔法とお前の資質とは全く別だ。俺のところにいてもお前は魔法を使えるようにならん。というわけで、これを機に新しい居場所を探せ」

「そ、そんな。でも、今までは」

「俺の研究に必要だからそばに置いていたが、今回の魔法実験で必要なくなるからな。いや、もう必要なくなったというべきか。だからもういらん」

「えぇ~」

 大げさでも何でもなく、クロエはその場に崩れ落ちた。裸の小さな肩が震えているのは、もしかしたら突っ伏したまま泣いているのかもしれない。

 なかなかえげつないシーンに出くわしたわけだが

「ま、まあ……その体じゃクロエの世話もできなさそうだし……それに」

 ちらりと床にうずくまるクロエに視線を向けると、あまりにも小さな肩には哀愁さえ漂っている。とはいえ、交渉材料として相手の希望を大小に関わらず一つでも呑んでやるというのは非常に強力なカードになるのも確かだ。

 そして、どうせ呑むならこちらにとってデメリットのより小さいもので済ますのがベスト。というわけで、

「まあ、それでいいんだったらいったん引き取るけど。ただ、あたしらが引き取るにしても弟子としてじゃないから、その辺は今後考えるってことで」

「うむ。ありがたい」

 まるでもののようにやり取りされるクロエには気の毒だとは思ったが、そこはあとでフォローすることにした。今はほころびが出る前にこのやり取りを終わらせるのが先決だ。

「んで、そっちは条件はのんだんだからこっちの要求は当然通るんでしょうね?」

「もちろんだ。もともとあんたらは俺がここに招いたわけではないからな。むしろ速やかに出て行ってもらいたいぐらいだ。これ以上厄介事にかかずらう手間も時間も惜しいからな。魔道実験にはいくら時間があっても足りん。しかし、まさか転送魔法の裂け目がその直前のクロエに対して使用した召還魔法のルートに干渉してここに繋がるとはな。事故と偶然の産物によるものとはいえ、次の実験対象は魔法発動における時系列と空間の連続性に偶然という乱数を考慮したカオス理論を」

「んなことどうでもいいからさ、もう一個の方のこっちの要求は? むしろこっちの方が肝心だんだけど」

 そのまま自分の世界に旅立ってしまいそうだった魔道師を、文字通り力ずくでこちらに向かせる。首をつまんで向きを変えたのだが、関節が思いのほか勢いよく回ってクルクルと頭が回転してしまった。

「おぅぇ。何をする! せっかくよい案が浮かんできたというのに、うお、世界が回る。気持ち悪い」

 目もないのにどうやら見えてはいるらしい。でも、クロエのことでちょっともやもやしていたので悪いとは思わなかった。むしろざまあみろだ。

「はいはい。んなのはこの後いくらでもやってもらって結構だから、とっととオクスリの話してくんないかな。あたしら、意外と忙しいのよ」

「ああ、あの薬の方か。あれは、俺が作っている」

「は?」

 拍子抜けにもほどがある回答に、さしもの椿も思わず目を丸くしてアホ丸出しの表情になってしまった。

「うん? お前らの言うクスリというのは、満貫商会が末端の構成員に捌かせている術式ドラッグのことだろう? 精神に直接作用する、魔術麻薬の」

 その手の物がどの程度の種類があってどの程度世界中に流通しているのかは分からないが、おそらく最近満貫がメインで捌いているものだというのなら間違いないだろう。しかし、

「そう、だけど、マジで?」

 ここまであっさりと出所に行きついてしまうとかえって信じられないというのが人情だ。

 だが、そんな椿をあざ笑うように、ご都合主義じみた事態は進行する。

「マジだ。まあ、本来の実験の過程で生まれた副産物と言うか、大量に発生したゴミなんだが、どうにもそれが金になるらしくてな。研究費の足しになるからと流していたのだ」

 そういえば、ラフタとの取引現場に現れた満貫の連中がそんなことを言っていた気がする。

「しかし、あのような失敗作を世に出すのは魔導師としては屈辱ではあるんだがな。大いなる目的のためには時には屈辱に耐えるのも必要というわけだ。まあ、そのクスリのせいで下らん揉め事に巻き込まれたわけだが、この実験環境を手に入れられたのもそのおかげとは皮肉なもんだよ」

 何となく色々と見えてきた。

 何故あの日、館の書斎でこの男が、正確にはこの男の魂の抜けた肉体が死んでいたのか。おそらくはカムフラージュのためだ。細々と魔術ドラッグをさばいていたが、思いのほかその薬が好評で流通ルートを巡る争いが起こった。そこで一計を案じた男は満貫にクスリの専売を申し出て、それと引き換えに自分を売り込んだのだろう。

「わざわざ死んだことにまでして、手の込んだこった」

「いくらかの満貫の庇護下とはいえ、絶対の安全が保障されたわけではないからな。念には念を入れただけだよ。単価は相当に買いたたかれたがな」

「ったく、あんたがそんなことしたおかげであたしらはとんでもない回り道させられたってわけだ。とんだとばっちりだ」

「日頃の行いだろう」

「イカサマ博打やるやつが言うと説得力あるよ。でもそれなら話が早い。あたしらんとこに回してくれ。正確にはオーバーライトんとことの契約になるんだけど、あいつなら自分についた人間への義理だてに関しちゃ折り紙つきだ」

「オーバーライト、か。そりゃまた豪儀な……しかし、安全という意味ではそちらの方が信頼度は高いか。いやしかし、満貫を抜けるとなればそれはそれでリスクが……」

 ビジネスに関して、それもとりわけ「身内」と認知した相手とのそれの確実性について、オーバーライトのネームバリューはぴか一だ。

「単価やら流通量やらは今後の相談だけど、まあ悪いようにはしないだろうさ。あと、おまけってわけじゃないけど」

 と、ここで満を持しうてジョーカーを切った。

「うちのカジノでの待遇を変えてもいい」

 後半のカジノの話の部分でピクリと木偶人形の体が、電気が走ったように震えたのがわかった。どうやら相当に心ひかれているらしい。

(ある程度期待はしてたけどさ、どうしようもないギャンブルジャンキーだな)

 うんうんと声に出して唸りながら悩む姿に、しかしここで回答を急くのは得策ではないとわかっている椿は、押し黙って木偶人形の決断を待つことにした。

 さすがにことはそう簡単ではないのも確かだ。満貫を足抜けするとなればそれこそ命を代償に支払う覚悟ぐらいは必要だ。条件が破格であるとは思いながらも、自分が同じことを言われたときにのるかそるかは五分五分だとも思う椿。

 首を捻り、腕を組み、時に天井を仰ぎながら悩むことしばらく、ようやく何かを決意したように「うん」と首を縦に振った木偶人形は、すっくと立ち上がると改めて椿に向き直った。

(やっとか。まあ、あたしだって満貫相手に喧嘩なんて絶対いやだしね。覚悟決める時間ぐらいは必要か)

「よかろう。これも私個人の、ひいては魔術全体の発展のためだ。今後はそちらと提携するということで」

「じゃあさ、とっととこんなとこ」

 脱出して、そう言いかけた椿が木偶人形をつかみかけたところで、

「構わんのだが、今後はあのドラッグは役に立たんくなるぞ? それでもよいのか?」

 とんでもない爆弾が投下された。

「…………ふぇ?」

 たっぷり呼吸数回分のためをはさんでも、言葉らしい言葉は出てこなかった。代わりに半開きになった口から洩れたのは、魂が抜け出る効果音の様な音だった。

「何を不思議そうな顔をしている? 世界の構造が描き変わるのだから、現行の世界構造下と同じ効果が出るはずがないだろう」

「世界の、構造が、変わる?」

「そうだ。正確には私が書き換える」

「いつ?」

「これからだ。ああ、言っておらんかったか? しかしまあ言ったところで既に魔法は発動させてあるので結果は同じだ。回路が複雑なので効果が表れるまでにはもう少し時間はかかるぶべぁ」

 気付けば、木偶人形をひっ捕まえて壁に叩きつけていた。

「はぁぁぁああああああああああ!?」

 さしもの椿にも理性の限界はある。むしろよくぞ投げつけるだけで済んだものだとほめてやるべきだろう。ただし、それでも手の平サイズの木偶人形にはダメージが大きいことには変わりはない。

「な、何をするのだ。意識が途切れたではないか。あ~、片と股関節がおかしなことになっている」

 痙攣に似たような動作で体を起き上がらせ、何とか床に這いつくばる木偶人形に、椿は問答無用で詰め寄った。

「説明して! 詳しく!」

 最早うら若き乙女らしい恥じらいなどかなぐり捨てた表情は鬼のそれだった。

「な、何だ怖い顔をしおって」

「場合によっちゃもっと怖い顔するけど? 顔だけじゃない怖いのも」

 言った時には木偶人形の頭部に銃口が押しつけられていた。指もトリガーにかかっている。プロっぽくないというなかれ、この時の椿はあと一つ何かストレスがかかれば本気で引き金を引く状態にあったのだ。

「わ、わかった。頼むからせめてトリガーから指を離してくれ」

「話せ」

「ま、魔法を、発動したのだ。世界の構成を組み替える」

「それは聞いた。で、何がどう組み替わればあの薬が効果をなくすの? むしろ世界が組み替わるのどうのなんてのはどうでもいいからそっちを説明しなさい」

 ゴリゴリと銃口が木偶に運業の頭部をこすり、不穏な力が人差指をひくつかせている。

 もはや自らの命に一刻の猶予もないというのを魂で感じ取った木偶人形はそれまでの悠長な口ぶりが嘘のように、まくしたてるように説明を繰り広げた。

「私の今の研究はクロエの行使するネクロームだ。あれは私の魔法の体系とは似ても似つかぬ、死者を蘇らせるのでも死体をただ使役するだけでもない極めて特殊なものなのだ」

「それとあの薬と何が」

「あやつの術は、極少範囲での世界の書き換えを行っておるのだ。死体という極めて限定した範囲においてその内部を死後の世界と同等の構造に書き換え、死者を死者のままこの世界に在らしめるという、この世界に真っ向から喧嘩を売る禁忌。それが、あやつのネクロームだ」

 なにやら自分で説明しながら興奮し始めたのか、木偶人形は頭が銃口に押しつけられてコツコツと音を立てるのもかまわずに熱弁をふるい続けた。

「魔法使いとして、このようなことに興奮をおぼない者などいない。当然、私もこのことに気付いた時には震えたよ。魔法の歴史というのは世界に対する挑戦の歴史だからな」

「はいはい、そゆのはいいから。んで、何? 要はクロエの魔法を自分なりに解釈して、その、なんだ? 死者が死者のままこの世界にい続ける? ようにしたってこと?」

 そこで、これまで成行きを静観していたアリスベルが椿の隣に歩み出て、木偶人形を見下ろしながら口を開いた。その声音には、いつも近くにいる椿でなくともはっきりと感じられる圧が込められている。敵意、といってもいいかもしれない。

「それはつまり、ある種の不死を手に入れるということかい?」

 ぞわり、と背中が泡立つようだった。はっきりと、本能が恐怖を感じていた。

(なんだ? こいつがこんなに威圧的になるの、珍しいな)

 が、その理由も次の木偶人形の言葉ですぐに想像がついた。

「そうだ。死者としてこの世界に在り続けるということは、全ての世界の存在が死を内包した、いや、死を超越した存在となるのだ。死後の世界とこの世界を隔てる壁を取り払い、この世界の構造をそちらと同じに書き換え融合させることで、死という概念のもつ意味を失わせる」

「要するに、誰も死なない世界ってわけだ」

「そう言いかえることもできる。不死は魔法使いにとって一つの究極の到達点だ」

(そりゃアリスベルも怒るわけだし、あたしも賛成だ)

「どうだ? 素晴らしいではないか? 死という概念にとらわれぬ世界が来るのだぞ。まあ、その結果として、生者の魂を疑似的に死の状態に持っていくことで精神を極限まで無防備にし、その状態での刺激を味わうあの術式ドラッグは効果を失うというわけだ。死という概念が意味を失えば、自ずから魔法そのものにも意味がなくなる」

 しれっと言ってのけるが、それがアリスベルの逆鱗に触れるものであることを椿は知悉している。それし、今回に関しては自分もそれに異を唱えるつもりはなかった。

「それで、その先にあるものは何だね?」

 聴く者の魂を凍りつかせるような声音に、今度こそ木偶人形は言葉を失った。いや、本物の恐怖に意識まで持っていかれそうになったのだろう。それだけの圧がアリスベルの言葉にはあった。

「不死を求めるのが魔法の研究だというのは大いに結構だが、それを世界の全てに押しつけるのは、いかがなものかと思うのだが」

「なに、を……ぁひゅっ」

 何かを言い返そうとしたのだろうが、もはや攻撃としか言いようのないアリスベルの圧力に、魔法使いや科学者が用いるような詭弁すら喉を通らないらしい。

「死を奪われるというのは生の意味を奪われるのと同じ。私は、生に対する冒涜は許さないよ」

 このあたりの哲学は人それぞれだとは思うが、椿は同じ意見だった。

「あたしも、御大層なおためごかし言うつもりはないけどさ、やっぱ死なない世界ってのはおかしいと思うわけ。死ぬために生きてるなんて思わないけど、なんつうかさ、張り合いないじゃん」

 花は散るから美しいなどと言えば似合わないと笑われるだろうか、などと考えながら椿はそれでも言わずにいられなかった。

「魔法の研究としては高尚なのかもだけど、あたしはダメだ。悪いけど全力で邪魔させてもらうわ。んで、その魔法ってのはどこで発動してんの?」

 木偶人形は何事かを思案するように俯くと、

「ふむ。これは、魔法というものが直面する永遠の課題なのだろうな」

「言いたいことはわかる。倫理などというちっぽけなものにとらわれる必要もないとも思う。が、決して冒涜されてはならないものもこの世界にはある、ということだよ」

 なんかアリスベルというよりはオーバーライトあたりが言いそうなことに思えたが、椿はそこは軽く流して、本題を続ける。

「で、どこ?」

「この部屋を出た廊下の、反対側の突き当たりだ。そこが実験室になっていて、今でも満貫の連中が経過を計測している」

「何で?」

「やつらには術式ドラッグに関する実験としか伝えていないからな。まあ、ある意味では嘘ではない」

 こいつの言葉は絶対に額面通り信じないと心に誓い、椿は大股に歩きだした。

 隣のアリスベルよりも少し小さな歩幅で部屋を横切り、ドアを蹴り開けて廊下に出たところで、

「ひぃあぁぁぁぁああああぁあああああ!」

 引きつったような絶叫が狭い廊下に反響した。さほど大きな建物ではないのは廊下の突き当たりまでの距離で想像できたが、それでもその絶叫のボリュームで声の主がどれほどの恐怖に出会ったのかがよくわかる。何より不気味なのは、それほどの悲鳴が上がったのが嘘のように、目の前の狭い空間は静寂に満たされていた。パニックになった人間が廊下に溢れて混沌としていてくれた方が、どれだけ安心できただろう。

「なあ、明らかにやべえ空気があっちの方にぎゅうぎゅうに詰まってんだけど」

「だね。確かにあれは、異世界というのとは違う、理の異なる場所だね。死後の世界と言われれば、そうだね、納得だ」

 もうこの時点で何もかもを見なかったことにしてバックレたい気持ちが喉元まであふれてきているが、そうしたところで何も変わらないのも頭ではわかっている。そして、そのどちらに従うべきなのかも。

「お薬が効果なくしちゃうと、こわーい人に怖ーい目にあわされるからなあ」

「しかし、死の恐怖からは逃れられる、ということらしいよ」

 珍しくジョークで切り返すアリスベルに、椿は一瞬だけ苦笑いを向けて、

「なら、あいつはもっとえげつない恐怖を考えつくだろうよ。そういうやつだ」

「ふふ、実に君らしいマイナス思考だ」

 あのオーバーライトを相手にするにはマイナス思考ぐらいがちょうどいい。そんな自虐を口にする間もなく、椿とアリスベルは研究室だという部屋の付近まで辿り着く。というか、息をするのもはばかられる、何ともいえない息苦しさに生理的な嫌悪感を煽られ、部屋に踏み込む前に足を止ざるを得なかったというのが正確なところだ。

 部屋の前まではまだ十歩ほどの距離があるが、そのたかだか数歩が生死を分ける絶望的な距離であることを、直感が教えていた。

「とりあえず部屋の中はもう駄目だな」

「そのようだね。この向こうは、我々の世界の理屈の通じない場所になっているようだ」

 が、何がどのようになっているのかは皆目見当もつかない。ただ一つ、そこに踏み込むのだけは絶対にアウトだという、本能が発する警告が正しいということ以外は。

「あの腐れ魔法使いの言葉を借りるなら、死後の世界と同一化した場所ってことだけどさ、それってつまり」

「ああ。おそらくは、この世界での死と同じ状態になると考えておいた方がよいだろうね」

 わかりやすく「死ぬ」と言われるよりもいやな響きの言葉に、椿はため息も漏らす。

「ったく、行けば死ぬ場所のことをどうしろってのよ」

 ぼやきながら、全く浮かんでこない次の一手について思いを巡らせていると、廊下の反対側からドカドカと数名分の足音が響いてきた。数にして十名は下らないだろう

 ほどなくして研究室をはさんだ反対側、非常口のある廊下の角に押し寄せてきたのは着ているものも種族もばらばらの、けれどどいつもこいつも一発で堅気じゃないことが分かる一団だった。

 そのうちの一人、集団のかじ取り役と思われるスーツ姿の男が廊下を曲がっていきなり出くわした椿とアリスベルに問いかけた。

「なんだ? お前たち誰だ? 何でここにいる!?」

 一瞬だけ面食らったようだったが、即座に表情を引き締め直してどすの利いた声で脅しをかけるあたり、ある程度は場馴れしているらしかった。

「あ、そういやここ満貫の施設なんだよな。そりゃ悲鳴が上がればああいうのが駆けつけてくるわな」

 おそらくは警備の名のもとに自分達に都合の悪い存在を実力で排除する満貫の社員、ないし子飼いの実行集団なのだろうが、

「あー、お仕事熱心なのはけっこうなんだけどさ、今は多分回れ右する方が」

 こればかりは掛け値なしの親切心で告げた椿だったのだが、残念なことにそんなものはミジンコほどにも相手にされなかったらしい。

「誰でもいい。どうやってきたかも知らん。ただ、運が悪かったって諦めるんだな」

 下っ端キャラのお手本のようなセリフを恥ずかしげもなく吐き出したかと思うと、

「そっちのでかいのは、ああ、使い道があるから殺さずに生け捕りだ」

 古典的テンプレートすぎるお約束を口にして、アリスベルに向けて顎をしゃくる。

 漏れなく下卑た笑みを浮かべる男たちを見て、フェミニストではないながらつくづく男ってのは救えないなと、椿は沈痛な面持ちになってしまう。

「いや、ほんっとやめといた方がいいって。これはあんたたちのための親切で」

 まあ無駄なんだろうな、と思いながらそれでも最後の警告を発してやったのは、優しさというよりは死が確定している者に対する手向けの様なものだったのかもしれない。

(いや、どっちかって言うとあたしが後味悪くならないための布石、って感じか?)

 何とも殺伐とした思考だとは思ったが、アホどものためにこれ以上思考力を行使するのも馬鹿馬鹿しくなって、がっくりと肩を落として脱力。

 それが何かの合図か、はたまた諦めにでも見えたのか、警備というよりはチンピラ集団といった方がしっくりくる集団はナイフやら拳銃やらを手にしたかともうと、今にも「ひゃっはー!」と叫び出しそうな下衆な面持ちを浮かべて走り出し、

「だーから言わんこっちゃない」

 数歩と進まないうちに腰砕けになって、全員が廊下に倒れ伏して折り重なる。人体の山が出来上がるのに瞬きほどの時間もかからなかった。

「なあ、あれはただの人間の山? それとも死体の山だと思うか?」

「何とも言えないね。ただ、あの場所は既にこちらがわの世界ではなくなっている、ということがわかってよかったよ」

 アリスベルは指先でゆるく弧を描き、おそらくは世界が書き変わってしまっただろう境界線を示して見せた。

 半ば以上予想通りの結果に特に感慨もない椿とアリスベルに対し、ただ一人動き出していなかったスーツの男だけはただただ茫然と立ち尽くしていた。ほんの数瞬前の、自信満々で命令を出した時の顔が嘘のようにアホ丸出しに口を半開きにして。

「な、にを、した?」

「何もしてないよ。あたしらは。いや、マジだからな」

 当然そんな言い訳に耳を貸すようなら最初からこうはならなかったわけで、スーツの男は倒れた仲間を嗾けようと歩み寄り、、

「くそ、満貫の人間に手を出してただで済むと……おい、何してんだ! とっとと起き上がってやつ等を」

「あー、だからそこよりこっちにに踏み込んだら」

 せっかく椿が声をかけてやったにもかかわらず、スーツの男は目の前で倒れているお仲間の上に、全く生気を感じさせない動きでばたりと倒れ込んだ。

「見た? 今倒れる瞬間、完璧に意識消えてたよな」

 椿の言う通り、スーツの男の脚がアリスベルが指でなぞったラインを踏み越えた瞬間に男の表情や動きからは一切の意識が消失し、ただの物体と化した男の体は棒きれが倒れるのと同じ動きで顔面から倒れ伏した。

 それは紛れもなく、死体の倒れ方そのものだった。

 と、駆け付けた満貫の警備と思しき連中はコントのような自爆劇を演じて、何をなす間もなく全員が別世界となった場所に呑みこまれたのだが、問題なのはここからだった。

「奇しくも貴重な人体実験の現場となったわけだが」

「あんたさ、時々おっそろしいことしれっと言うよね」

 とは言ってみたが、椿もそれに異を唱える気にはなれなかった。むしろ、アリスベルが言わなければ自分が言っていただろうとさえ思う。

 そうして待つことしばらく。変化が訪れたのは先に部屋の中の状態を何とかして確認するべきかと思い始めた、その時だった。倒れていた男たちはまるで昼寝から起きたかのような動作で一人また一人と起き上がり、周囲を確認する様な動作を見せた。

「生き返、った?」

 直感的に選んだ言葉はそれだったのだが、自分で言っておきながらどうにもしっくりこない。その違和感に、救いを求めるようにちらりとアリスベルに視線を送るが、そこには無言の横顔があるだけだった。どうやらアリスベルにとってもいかんとも言い難い状態であるらしかった。

 そんな、異常事態の極致のような状況だったが、ほどなくして次の動きがあった。

 起き上がったチンピラ連中は最初こそ何かを確認するように周囲を見渡したり、互いの存在を確認するかのように視線を送り合ったりしていたのだが、いくらもしないうちにその場にただ立ち尽くし、あるいは座ったまま微動だにしなくなってしまった。

 異常、というよりは背筋を虫が這い上るような不快感を覚える光景だった。

「あたしさ、死体って見慣れてるつもりだったんだけど、これは無理だわ」

「同感だ」

 珍しく、アリスベルの言葉に負の感情がたっぷりと込められていた。

 それほどまでに目の前の状況は不快だった。

 そこにいるものが微動だにしない、ただそれだけの状況がこれほどに生理的嫌悪を覚えるものだとは、思ってもみなかった。

 これが死体の山や、標本加工された剥製の類だったら何とも思わなかっただろう。だが、そこにいるのは死という概念すら奪われた、『そこに在るだけ』の存在になり果てていたのだ。

「死のない世界って想像できなかったけどさ、思った以上にきっついのな」

 死の概念のない世界、つまりそこには対となる生の概念もなく、ただ〝ある〟だけの世界ということらしい。

「このような、生きてもいないし死んでもいない、いや、死ぬことを許されないと言った方が適切かな、このような世界は御免こうむる」

 改めてぼんやりと焦点の定まらない男たちに目をやると、全てが抜け落ちた空っぽな表情がどこまでも胸糞悪い。

「一応聞くけどさ」

 背後を確認せずに、そこにいる木偶人形に向かって尋ねた。

「何だ?」

「あいつらは何か考えたり感じたりしてるの?」

 聞くのもおぞましい質問。事実を知るだけでも反吐が出るだろう。

 クロエによっては運ばれてきた木偶人形は、その手の中で慎重に言葉を選んだ。

 そして案の定、

「ないだろうな。全てが静止した世界だ。生なき世界に死はなく、死のない世界に生はない。しかし、そこには永遠がある。苦痛なく、恐れもなく、心乱されることのない、平穏だ。不死であり、平穏だ」

 小賢しい理屈。詭弁だ、と思った。

「何もないのといっしょじゃん」

 さしもの椿もそう吐き捨てずにはいられなかった。

 ただ、同時に腹は決まっていた。

「あたし、あんなん嫌なんだけど」

「奇遇だね、私も同じ思いだよ」

「よかった。さっすが相棒」

 じりじりと描き変わった世界の境界が迫ってくるのを肌で感じながら、椿とアリスベルは互いに視線を交わすこともなく最後の意思確認を終える。

「ってわけであとはどうやってあのくそったれな魔法をぶち壊すかなんだけど……って何だ、こんなときに?」

 まさかのタイミングで震えた携帯電話に拍子抜けしながら、それでも端末を取り出して表示を確認してしまうのは雇われの身の悲しいサガなのだろうか。

「ん? ガーネット(社長)? 何だこんなときに。はいはい、今ちょっと世界の大ピンチでたてこんで……え?  何でそんなことあんたが知って、ん? はい、ええ……はぁ!?」

 最初こそ飄々といつもと変わらぬ態度だった椿の態度が瞬く間に焦りに塗りつぶされていき、ついには通話終了の画面表示に向かってつばを飛ばす勢いで叫ぶ始末だ。

「おい、待て! んなこといきなり言われても、おい、何が期待してるだおい! 勝手なことばっか言って、おい! お……ちっくしょ、切れやがった」

 手の平サイズの端末を見つめながら茫然とする椿に、アリスベルも問わずにはいられなかったのだろう。

「どうしたのだね? 社長からの通信だったようだが」

 その問いかけにもしばらくは反応できず、もう一度声をかけようかとアリスベルが歩み寄ったところに、椿はため息とともにただ一言だけ、言葉を返した。

「やべえことんなった」

「こちらもやばいことになっているとは思うのだが、それ以上なのかい? だとしても、まずはこちらを優先させて」

 半分笑ったような顔になったのは、本物の絶望のせいでちょっとおかしくなったからかもしれない。が、それも無理からぬことで、

「ここの状況を管理委員会(ちょー偉いやつら)が見てたらしくて、デフコンゼロ認定されたんだってさ」

「デフコンにゼロなどあったのかい?」

「しらね。んで、そのデフコンゼロってのが厄介で、問答無用で即時対応、因果律操作系の超神格兵器による周辺地域一体の存在抹消が決定されたんだとさ」

「超神格兵器とは穏やかではないね。因果律操作ということは、この一帯がすべてなかったことになる、と」

「ついでに言うならそこにいるあたしらも含めてな」

 ただの消滅ではない。因果律の操作によって〝始めからなかったことにする〟ことが、この世界を管理する組織によって決定されたというこだ。ガーネットからの通話はそのことを知らせる連絡だった。

 それまでは会話の内容が難しくて呆けたように立ちつくしていたクロエが、ここでようやく事態を理解できたらしく「はへぇえぇえぇえ」と魂でも吐き出しそうな情けない声とともに膝から崩れ落ちたが無理もない。ちびらなかっただけでも上出来だ。

「もう動き出してて、後いくらもしないうちに超神格兵器がぶちこまれるんだとさ」

 口にすればするほどに自分の言葉の意味に意識が遠のいていく気がした。言いかえれば、自分達の目の前の状況が、この世界を恣に蹂躙する神々をもってしても〝なかったことにする〟しかない絶望的なものだということだ。

 しかし裏を返せば、

「脱出に成功すればこの状況を超神格兵器が解決してくれる、ということでは?」

 アリスベルの希望に満ちた言葉に、椿はお伽噺の魔女のように鼻と口元をゆがめて笑うしかなかった。

「残念なことに、因果律操作の影響を限定するためにこの一角はすでに隔離封鎖の上全並行世界からパージ済み。あたしらはもうどこにも行けない、難破船の中で消毒されんのを待つだけになっちゃったドブネズミなわけ」

 情け容赦のない徹底ぶりは、世界の管理者としては称賛に値するが、その絶望を突きつけられた側としては何をどれだけ恨んでも恨み足りない。

「ということは、魔法での転移も不可能ということだね」

「そゆこと。あたしらが生きて帰る唯一の方法は、神連中が雁首そろってポイするしかないってなった状況をてめえらの力だけで解決することだけ、ってわけ無ーー理ーー!」

 癇癪を起して手にしている端末をぶん投げたくなるところだったが、どうやら理性の最後の一欠片が残っていたらしい。振りかぶった両手をゆっくりと下ろして深呼吸を一回。

「ってわけなんだけど、どうする?」

 そこにはいつもの椿が、いつも通りの腹に一物抱えた表情で立っていた。

「それはもちろん、諦めるかどうかではなく、どうやってこの状況を打破するのかということだね?」

「当~然。こんなとこでなかったことになんてされてたまるかっての」

 平時の飄々とした落ち着きとは異なる、どこか獰猛さを孕んだ無表情があった。もしかしたら、こちらの攻撃的な性分の方が椿の本質なのかもしれない。

「安心したよ。君が諦めたというのなら、私も運命を共にするほかないからね」

「なんだよそれ」

「愛だよ」

「いらんわ、そんなもん」

 いつものやり取りに心なしか思考が前向きになった気もしたが、状況が絶望の極北であることに変わりはない。何ならこの茶番の間にも刻一刻と最後の瞬間は迫っているのだ。

「打てる手はそうない。おい、クソ魔法使い、例の魔法はこの部屋の中で絶賛発動中なんだな?」

 へたり込んで腰が抜けたクロエの手の中で木偶人形が首を縦に振った。

「そうだ。発動リミットの設定はしていない、いや、その制御ができなかったので書き換える対象がなくなるまで世界の書き換えが続く術式だ」

「んなもん発動させてどうするつもりだったんだよ」

「発動させることが目的だ。そして、その結果を確認するための実験だ」

 最悪の回答だが、今はそこをどうこう言うのに費やす時間が一瞬でも惜しい。

「つまり、発動を止める方法はない、と。まあ予想はしてたけど……ってわけで、ベル、ここでうだうだやっててもらちがあかない」

「現物を見て見ないことには、だね」

「そゆこと。あんたのソレなら世界の境界線でもぶった斬れんじゃないの?」

「試してみよう」

 そう言ったアリスベルは既に携えていた巨大な刃を大上段に構えていた。

「これを引き出したままだったのは幸いだったよ。さすがに全ての世界からパージされていては私の収納空間にもアクセスできなかったかもしれないからね」

「やったぜあたしらついてるー。っしゃ、行け!」

 どこかやけくそな響きにも聞こえるが、椿としてはこの期に及んで軽口が叩けることに安堵をおぼえていた。

(ま、ベルがいりゃ何とかなる、こいつでダメならどうしようもない、ってのは強いな)

 隣に立つ相棒への、絶対に口にはしない信頼をよりどころに微かにほくそ笑む。

 微かな呼吸音とともに巨大な刀身が振り下ろされると、切っ先の軌道に沿って薄布が裂けるような裂け目が空間に生じる。めまいのような気持ちの悪い歪みが広がり、同時に目の前の景色がはっきりと輪郭を取り戻してゆく。

「成功?」

 はっきりと視認できない椿は恐る恐る尋ねる。さすがに何の疑いもなく飛び込んでいくにはリスクが大きすぎる。

「一応はね。ただ、今の感触では完全に両断できたわけではないので、おそらくは時間とともにこの裂け目はふさがっていくだろうね」

 だろう、とはおそらくアリスベルにも視認できているわけではないのだろう。

 ともあれ、今はできることをやるだけ。それ以外の選択肢はない。

 アリスベルの感触を信じて歩を進め、研究室の扉に手をかける。

「どうやらこのへんはまだ『こっち側』だね」

 うなじに嫌な感じの汗を張りつかせながら扉に勢いよく蹴りをぶちこむと同時、懐から引っ張り出した拳銃を構えて室内をけん制。ゆっくりと銃口を左から右にスライドさせて、室内の様子を探るが、見る限りではそこに生きてい動いているものはいなかった。

 そこはかなりの広さのある空間で、外の天井の高さや廊下の長さと室内のそれとが一致しているとは到底思えない。あとで確認したところによると空間拡張系の技術が使われていて本来の空間が数倍にまで引き延ばされているとのことだったが、その時はそんなことにまで気を回す余裕はなかった。

「予想はしてたけどさ、やっぱこれ、クルもんがあるな」

 そう言ったのは、廊下のチンピラ達がそうであったように、中で作業をしていたであろう研究者や術者がもの言わぬ存在となってただただそこに在るだけになっている光景に対してだ。

 ビル内の空間としては広すぎるそこは、室内競技用のコートを二面は優に取れるほどのスペースだったが、その広大さが中に満たされた静寂を一層おぞましいものにしているような気がした。

 ただ、そんなものよりもはるかにこの事態の異常性を際立たせているものが、部屋の中心で蠢いていた。

「解説よろ。ショーもない嘘付いたら殺すから」

 絶望の淵から辛うじて復活したクロエから木偶人形をふんだくるとソコに向けて人形を握った拳を突き出した。基本的にいかなる異常事態に遭遇しようとももまずは自分で思考する椿だが、今回に限っては完璧にその努力を放棄した。だって無駄だから。

「あれが今回の魔法だ」

「嘘ついたから殺す」

 そう言いながら部屋の制圧用に室内に向けていた銃口を問答無用で木偶人形の頭部にぐりぐりと押し付けた。

「うそではない! あれが今回の魔法、死後の世界との境界消失による世界改変魔法だ」

「嘘付け! だって」

 椿は半ば本気で引き金を引くつもりで人差指をトリガーガードの内側に滑り込ませている。無理もないだろう、何せ目の前の魔法陣らしき幾何学模様や文字とも絵ともしれない文様まみれの円陣の中央には、

「なんか邪神みたいなの出てきてんじゃん! 召還されてるじゃん!」

 邪神、とは椿の主観だが、そう呼んで差し支えのない存在の胸元から上が床から生えていて、現在進行形でじわじわとこちら側に這い出しつつあるのだから。

 人間タイプの上半身には腰も胸も二対四本プラス一本の腕もあれば、首の上にはしっかりと頭が乗っている。頭部の造形は悪魔というよりは鬼に近いのだが、頭部側面には山羊のような巻き角が一本ずつ映えている。ナイフのように鋭く尖った四対七本ずつの手の爪はしっかりと床に突き立って、それが「這い出ようとしている」という雰囲気を一層際立たせている。

「召還などではない。あれは、異なる世界そのものが疑似的にこの形而下に合わせた姿で具現化、可視化されたものだ。いわば、あの魔法の本質そのものということになる。ふむ、効果の大きすぎる魔法はときとしてあのような形で発現するのだな」

 自分が発動した魔法に勝手に納得する様にいらっとした椿は「一発ぶち込んでやろうかな」とけっこう本気で思ったのだが、ぎりぎりでそれを踏みとどまったのは単に弾がもったいなかったからだ。

「要するに?」

 苛立ちを隠そうともせず、掻い摘んだ説明を要求する。と、回答は質問を向けたのとは別の方から帰ってきた。

「あの邪神とも魔神ともつかないあれの全身がこちらに出てくれば終わり、という理解で良いのかな?」

 アリスベルの直感的な説明に、木偶人形もこくりと首肯する。

 何だ簡単じゃん、と最も簡単な解決方法が落っこちてきかけたところに、

「ただし、あくまであれの本質は死後の世界という概念、世界そのものが疑似的に具現化したものだ。間違ってもあれを破壊しようなどと思わないことだ」

 思いがけない木偶の補足に、椿のみならずアリスベルさえもがその厄介さに息をのんだ。

「つまり、あいつをぶっ殺しちゃうと、こんどは死後の世界がなくなっちゃう、と」

「仮にそんなことができれば、だが……いや、そこの女の持つその剣であればあるいは可能かもしれんが。しかしなんだその反則を通り越して存在そのものがタブーのようなそれは。よくも世界がそんなものの存在を許しているな。通常であれば修正力が働いて……」

 何やら木偶人形は勝手に自分の世界に行ってしまったので放置することにした。必要なことは確認できたし、これ以上何か情報が増えたところでやることに変わりはない。

「考えればさ、ぶっ殺して終わりってめっちゃ楽なやり方だったんだな」

 十代半ばの少女の口から出てよいはずのない物騒極まりない言葉だが、そこにはそれを裏付けするに十分な説得力が備わっていた。

「火のついた吊り橋みたいだな。ゴールはたった一つ、萌え落ちる前に走り抜ければあたしらの勝ち。負けはそれ以外の全部、って感じ」

 そしてその見えないタイムリミットは、確実に目と鼻の先まで迫っている。

「では」

 おもむろにアリスベルは当然のように剣を肩に担いで歩を進めようとする。

「ちょいちょいちょい、何してんの!?」

 慌てて止めにかかった椿が目線の高さにある肩に手をかけると、振り返ったアリスベルの顔にはあまりにも無防備な驚きの表情が浮かんでいた。

「ん?」

「は?」

 きょとんと見開いた目にうっすらと開いた唇。何なら頭のてっぺんからはてなマークが飛び出していたかもしれない。しかし、それは椿も同じだった。

 鏡映しのように全く同じ表情をした二人が、互いに「何でこいつはこんな顔をしてるんだ?」とばかりに見つめ合っていた。

「何してんの?」

「それはこちらのセリフだよ。時間がないのでさっさと」

「じゃなくて、何であんたが行くことになってんだよ?」

「何故私が行くことに疑問を挟むんだい?」

 と、ここでようやく椿は互いの認識の齟齬を理解した。荒事であればアリスベル、悪巧みなら椿、それが二人の間で暗黙のままに成立していた役割分担だ。

 そして目の前にいは前代未聞の荒事が、文字通り立ちはだかっている。

「あー、そゆことね。うん。ある意味納得だけど」

「であれば」

「だからだよ」

 腑に落ちない、と珍しく不満げに眉をひそめるアリスベルだが、それもそのはず。単純な戦力だけの話ではない、おそらく危機を乗り切るのに必要なあらゆるスペック面で椿ではアリスベルの足元にも及ばない。それでも椿は構わず続ける。

「あんたが行ってどうする? その剣でぶった斬るのか? 仮に斬れたとしてそれであの邪神みたいなのが死んだら元も子もないだろ」

 さらにまくしたてる。

「あんたは最終兵器、エースでジョーカーだ。あんたでダメならもう後がない、っていうか少なくともあたしにはそんなもんどうしようもない」

「しかし、現状ではこれ以外にあの存在に届くものは存在しない。であれば」

 自信過剰でも何でもなく、果てしなく現実を見たうえでのアリスベルの発言だが、椿は半ば強引なテンションと口調でそれを遮る。

「って思うじゃーん? でも、あたしの考えが間違ってなければもう一つあるんだなー」

 腹立たしいほどに不遜なドヤ顔で、ない胸をいっぱいに張った椿の姿はちょっと痛々しかったが、いま問題なのはその発言の方だ。

「この期に及んでいつものハッタリや、気がふれたというわけではないようだね」

「あんた何気にひどいよな。って、まあいいわ。時間ないからサクッと説明するけど、あっち側に行くとあっち側の理屈で死人? 死んでんだか生きてんだかわかんないもんにされちゃうから、実際問題あの邪神もどきに触ることはできない。でも、触って何とかするぐらいしか今は方法がない」

「だからこそ、唯一の手段としてのこの剣だと思うのだが」

 時間がないという割にはまどろっこしい説明だな、とアリスベルが思ったかどうかはさておいて、椿はアリスベルの発言には触れずに持論を展開する。

「でも、最初っから死んでれば問題ないわけで、幸いこっちにはクロエがいる」

「ふぁえ?」

 何の前触れもなく最前線に引っ張り出された自分の名前に、半ばギャラリーと化していたクロエは鼻から抜けるような間抜けな声しか出せなかった。

 「ふむ」と今にも走りだしそうだった姿勢を一転させて向き直ると、アリスベルはマジマジとクロエ、次いで周囲でもの言わぬ存在となった研究者などに視線を巡らせた。

「確かに理にかなってはいるね。それならば安全件からあの邪神もどきに手が出せる、と」

「そゆこと。とりあえず、あいつが出てこようとするってんなら、押し返しちゃえば何とかなると思うわけよ。どう?」

 握ったままだった木偶人形に尋ねると、木偶人形も「その手があるか」と感嘆の声を漏らした。

「確かにそれであれば対抗手段になりうるだろう。クロエの魔法は極少範囲での世界改変だ。新たな世界となった向こう側でもその効果は期待できるだろう。それにさっきも言ったが、影響範囲は制御できなかったが、魔法である限りは発動に要した魔力が尽きるまで効果を押し留められるか、発動力以上の力で押し返せれば終了させられる」

 一縷の望みに小さくガッツポーズしそうになった椿に、木偶人形は付け加える。

「ただし、それはあくまでも『理屈の上ではあれに触れられるはず』というだけだ」

「今は『はず』で十分。あとは試すだけ。ってわけでクロエ!」

 今は唇を動かす時間も惜しい。何となく察しただろうという前提のもと、椿は絶賛発動中の魔法陣の一番近くに転がっている白衣の男を指出した。

「とりあえずあれ動かして」

「ふぁ、ふえっ」

 有無を言わせぬ圧にクロエは獣の耳をぴょこんと震わせて跳ね上がり、慌てふためきながらももにょもにょと呪文を唱えるように口を動かした。

「にゅぇい!」

 まったく気合の入らない声は慌てていたからだということにしてやろう。

 しかし、その間抜けな声とは裏腹に、ネクロームの術はきっちり発動したようだ。

「おお、まずは第一段階成功!」

 椿とアリスベルがメンチを切るように睨みつける前で、白衣の男はもぞもぞと眠そうな動作で体を起こすと、生気の感じられないうつろな視線を周囲に巡らせている。

「んじゃ次だ。クロエ、あの邪神もどきに近付けて。んで、そうだな、近づいたら一発ぶん殴らせよう」

「ん!」

 術に集中しているのか、唇を引き結んだままクロエは口の中で再びもにょもにょと言葉を紡ぐ。見ようによっては腹痛を我慢しているようにも見えるクロエの真剣な表情に、意図せず椿も固唾を呑んで肩に力が入ってしまう。

 不意にクロエのこめかみに一筋の汗が滴り、ふっくらとした頬を伝って小ぶりな顎からしずくとなってこれぼれ落ちたところで、白衣の男がゆっくりとした足取りで魔法陣に向かって歩み始めた。

「っし! いけるいける!」

 力んで握っていた拳をそのまま肩の高さにまで振り上げて小さくガッツポーズ。あと問題なのは時間だけ。もっと急がせるか、もしくは押し返す要因を増やすべきか、そんな「次の段階」に思いを巡らせていた思考を、悲愴な一声が引き裂いた。

「ひゃい? うそっ」

 うわずった、悲鳴にも似たその一言を上げたクロエは、今にも向こう側の世界との境界線を越えてしまいそうなほどに身を乗り出して、白衣の男の背中に向かって叫んでいる。

「どうした? 何があった?」

 あまりのクロエの慌てっぷりに極力引っ張られないように、落ち着いた口調を心掛けて椿は問いただすが、

「そんな、いや、でもそうしてくれないと私たちは、え? いや、そんな、どうしても?」

 どうやら椿の声は聞こえていないようで、何者かと会話するようなクロエの声はますます焦りと悲壮感を増して行く一方だった。

「そんな、でも、じゃあ……どうしたら」

 一人勝手に悲壮感に打ちひしがれ始めているクロエに、椿は何とかコンタクトすべく小さな肩に両手をかけて軽く揺さぶってみた。視線を合わせるべく腰を落として正面から見つめてみるが、その焦点は自分を通り越したはるか向こうに結ばれているようだ。

「クロエ、どうした? わかるようにあたしらにも話してくれ!」

 できるだけ慌てさせないようにしたつもりだが、どうしても刺々しさを隠しきれない。

 最悪、一発頬をひっぱたいてでも意識をこちらに向けさせるかとまで考えたところに、トンと肩が叩かれる。見なくてもわかる、アリスベルだ。

「何だ、今はこっちを何とか」

「いや、その必要はないだろう。むしろ今は先ずあれを見てみたまえ」

 「あれ」のところで顎をしゃくって示したのは、ネクロームで操った白衣の男だが、その男が邪神もどきまであと半歩というところまで歩み寄ったところで回れ右をしてこちらを向き、ゆっくりと首を横に振っているではないか。それどころか、二人が見つめる前で胸の前で両腕をクロスさせてばってんを造りやがった。

「NG、って? ふっざけてやがんな。今はそんな冗談受け付ける余裕はない! クロエ!」

 馬鹿にするような白衣の男の仕草に焦りよりも苛立ちを募らせた椿は、再びクロエに命令させるべく向き直るが、クロエまでもが首を横に振っているではないか。

「何のつもり? さすがに今のが冗談だったら笑えないよ」

 それまでの子ども扱いが嘘のような淡々とした口調に、クロエは一瞬息をのんで怯んだが、意を決して口を開く。

「命令は、できないの。私の魔法は、死体が動く魔法。自分達の意思で、動く魔法」

 確かに言っていた。死んだ虫やネズミに魔法をかけると、再び動き出して〝遊んでくれた〟、と。つまり、クロエは命令して従わせていたのではなく、ネクロームにより活動できるようになった存在は、生きていた時と変わらぬ自らの意思を持って行動していただけにすぎない。

「限りなく〝蘇り〟に近い能力であるがゆえに、だね」

 アリスベルが敢えて使った言葉の裏に、自らの策のほころびを痛感せざるを得ない椿。

「まじか……ここにきてそんな」

 そこに追い打ちをかけるようにクロエが、おずおずと言葉をつけたした。

「このままが、いい、って。変わったこっちの世界の方が、幸せだ、って」

 それがあの白衣の男の意思であることは、確認するまでもない。

「堕落、堕落……堕落はあざなえる縄のごとし、か。禍福なくただ永遠に穏やかなる存在となった者にとって、あのぬるま湯のような世界には抗いがたい誘惑があるのだろう」

「何いきなり名言っぽいこと言ってんだよ? んなことより今は、次の手を……」

 らしくないアリスベルの物言いにリアクションをしながらも、その裏で思考フル回転で次の手を捻りだそうとするが、そのことごとくにどこかでケチがつく。

「くっそ、あの薬はだめなんだよな? あれが効くなら白衣どころか死体連中全部に強制でいうこと聞かせられるのに」

 忌々しげに木偶人形を睨みつけるが、木偶人形の方は我関せずと言わんばかりに、

「あれは既に別の法理の元の存在となっている。あくまでもこちら側の世界にある「生死」という概念を前提としているあの術式ドラッグは効果がない」

 わかってはいるが、改めて聞くと不要な絶望感が余分に胸の中に横たわる。

「あーくそっ! 何かあいつらに言うこと聞かせる手が、それが無理なら自分からあれを押し戻そうとしてくれる都合のいいゾンビが」

 模索する可能性も限られてくるとこうもご都合主義に頼ろうとするものかと、自分の言葉に半ばあきれながら口を開いていた椿は、唐突に頭のてっぺんに落っこちてきた考えに黙りこくってしまった。

 まさか、馬鹿げてる。馬鹿げてるが、そんな馬鹿な方法しかないのも事実。何よりも、

「これなら、いけるか」

 頭の中で三度自分の案を否定して、その否定が言い訳でしかないことを確認してから、その限りなくゼロに近い、案とも言えないバカげた博打を口にした。

「クロエ、あたしに魔法掛けて」

 とうとう狂ったか。その場にいた全員、アリスベルでさえもがそんな視線を椿に向けたが、当の椿はどこまでも落ち着き払った、いつも通りの椿だった。

 だからだろう。アリスベルは全てを察したように尋ねた。

「根拠は?」

「ない」

 驚くほどきっぱりと言い放った。よもやここまで何の感慨もないものかと、言った椿自身が驚いたほどの清々しさだったが、さすがにそれはあまりに雑に過ぎる。というわけで、

「根拠はないけど、もしかしたらとは思ってる。さっきの失敗は既に向こう側にいっちまってたやつだから、あの邪神もどきを何とかしようって思わなかった。じゃあ、元々こっちの世界の存在で、かつあれを何とかしたいと思ってるやつを送り込めばその意思を持ったまま行動できるんじゃないか、って」

 あまりにもご都合主義のすぎる希望的観測だが、このぐらいしかすがるべき策がないのも厳然たる事実だった。

 自分でもまさかこれで他人を、ましてやあのアリスベルを言いくるめられるなんて思ってもいないが、仕方がない。だってこれぐらいしか手が残ってないんだから。

 僅かばかりの沈黙をはさんで、アリスベルがこれまだいつも通りの調子で尋ねる。

「そして、私ではなく君が向こう側に赴く理由は?」

「さっきも言った。あんたがジョーカーだから。最悪、万策尽きたときはあんたのその剣で何もかもぶった斬ってしまえばいい。最後の最後に切るのがエース、最後まで切らないのがジョーカー、ってだけ」

「トランプでは最後までジョーカーを持っていると負けだよ?」

「今手元にあるジョーカーは、負け確定と同時に賭場ごと吹き飛ばす爆弾だからな」

 言い得て妙だ、とアリスベルは自嘲を込めてクスリと笑った。

 その笑みは、人に死を覚悟させるには十分すぎる魅力を湛えている。

「それともう一つ理由ができた」

 これは完璧に誤算ではあったのだが、目の前の光景が椿の屁理屈に理由をつけたしたのは紛れもない事実だった。

 それまでは死体と何ら変わぬ存在になり果てていた研究員やら魔法使いらしき連中が、一斉にのろくさと起き上がると、こちらを目指して歩き始めている。

「どうやら連中、あたしらの邪魔しに来てるみたいだ。だから」

 椿の言う通り、どこか虚ろな表情のままゆっくりと歩み寄る死体(仮)連中は、椿達と魔法陣の間に立ちふさがるように集まって人体のバリケードを形成すると、今度はじりじりとその距離を詰てきている。

「どうみてもあたしらを敵認定してるよね。やばくね? ってか、何で?」

「おそらく、先ほどの干渉で我々を世界の書き換えを妨げる障害と認定したのだろう。だから既に書き換えの終わった世界の存在を利用して、それを排除しようと……しかし、まさか意思決定までもやってのけるとは、ますます神じみてきているな。あながち今回の魔法は神の生成という観点から……」

 視線は迫る人間バリケードに向けたままの椿の問いに、意外にも木偶人形は素直に答えた。もしかしたら問われたからというよりも、単に抑えきれない好奇心がだだ漏れになっただけかもしれないが、それだけ分かれば十分だった。

「邪魔するってんならこっちとしても排除するだけだけど」

 めんどくさそうなのを隠そうともせずに椿はふとことの拳銃を引き抜いて、何のためらいもなく迫りくる人間防壁の構成員に向かって、いつも通りに銃弾を四発、頭に二発心臓に二発を寸分の狂いもなくぶちこんだ。

 と、予想に反して銃弾を受けた中央の初老の研究員らしき男性は着弾の衝撃に大きく体をのけぞらせ、派手な血しぶきと、後頭部からは脳漿と脳の破片をぶちまけながら普通の人間と何ら変わらぬアクションで崩れ落ち、

「げ、そういうことか」

 なかった。

 弾着の瞬間こそ大きくのけぞるようにして膝が折れたのだが、その物理的な衝撃が消え去ると何事もなかったかのように態勢を立て直して再び歩き始めたのだ。

「おいおい、ヘッドショットしたらゾンビでも死んでくれなきゃダメだろ。クソゲーすぎだろ」

 ゾンビが死ぬ、という矛盾はこの際置いておくとして、この一連の結果だけを見ても、まともに相手をするだけ無駄だということが証明されたわけだ。

「確かに、これは厄介だね」

 隣ではアリスベルが近場で起き上がったゾンビ数名を数十の部品に切り分けているのだが、あろうことか斬り落とされた部品が間をおかずに部品のまま接近してきているのではないか。あるものは指や突起部分を利用して這い寄り、あるものは肉片そのものをうねらせてにじり寄っている。

「ここまで行くとホラーとさえ思えなくなるな。でもこれはなんつうか、生理的にダメだ」

 職務の中でグロテスクな光景を見慣れている椿ですらこうなのだ、クロエに至っては力いっぱい瞼を閉じて「ひ、ひ」と今にも失神しそうなか細い悲鳴を上げている。

「しかし、これはいよいよのようだね」

 斬ってバラバラにするのはまずいと判断し、剣の腹の部分でぶったたいて吹っ飛ばす方法に切り替えたアリスベルが二人の男をまとめてジャストミート、壁に叩きつけている。

「やっぱあんたもそう思う? これ、とっとと片づけなきゃ超神格兵器の発動前にあたしらが向こうの世界に呑みこまれるな」

 余所見をしながらでもただ向かってくるだけの連中には銃弾を当てられるし、それこそアリスベルの剣でひき肉になるまで斬り刻んでしまえば、どれだけ迫られたところで気持ち悪いだけで直接の被害はない。

「問題なのは、やっぱあれだよな」

「おそらく、あれが知性を獲得するまでそうはないだろう」

 あの邪神もどきが〝意思〟を持って〝戦略的に〟こちらの邪魔をし始めたことだ。今はまだ芽生えたばかりの、知能とも呼べない防衛本能に従っているだけなのは明らかだが、このまま指をくわえて見ていればそのステージが進んでいく可能性は限りなく高い。それどころか、人知を超えた速度でとんでもなく高度な精神性を獲得しないとも限らない。

 そんな三文小説でさえ一笑に伏されるようなことが起きるのがこの世界だ。

「っつーわけだからクロエ、頼むわ」

 十三発すべて打ち尽くしたマガジンをノールックで交換しながら、穏やかに諭すようにクロエを促した。

「でもでも、これ、生きてるのに、それも人間に使ったこと、ない」

 自信なさげなか細い口調だが、その裏に在るのは自分の力量に対する不安ではないことは、心配そうに椿を見据えるまっすぐな瞳から明らかだ。どうやら短い付き合いながら、椿に対して情のようなものが芽生えているらしい。

 嬉しいような気もしつつ、どこかでクロエを道具、取引材料として冷めた目で見ていた自分を申し訳なく思う自分もいた。

 ただ、そんなものは生きて帰ってなんぼだ。

「じゃ、今回が初めてだ」

 いま必要なのは、馬鹿げていようと何だろうと目の前の可能性にベットすることだけだ。

「そんな、でも、もし失敗したら」

「あんたが責任取ることじゃないし、失敗したらあたしだけじゃなくて全員まとめておしまいだ」

「でもでも、でも……さっきは、うまくいかなくて」

「今度はうまくいく。それと、ありきたりすぎて言うのも恥ずかしいけど、何もしないでもどうせ後悔すんだから、だったらとりあえずやっとけばいい」

 それでもまだ泣きそうな顔で渋るクロエの弱音を遮って、椿は最後の一言を言い放った。

「それがいやなら、あたしの最後のお願いとして、あたしの胸をでかくする魔法かけて。貧乳のまま死にたくない。さあ、どっちにする?」

 まさか自分の口から「貧乳」などと、こんな屈辱的な日がこようとは思ってもみなかったし、こぼれ落ちたその言葉の忌々しさに今すぐヒステリーを起して目に見えるものすべてを引き裂いてしまいたくなるが、ぐっとこらえてクロエの赤味がかった瞳を見つめる。

 定まらなかった視線がゆっくりと下げられ、

「。」

 哲学的な一瞬の沈黙ののちに再び持ち上げられた視線に、迷いはなかった。

「わたしは、ここから動けなくなる。多分、あの魔法陣までの距離が、魔法の射程距離」

 どうやら覚悟は決まったらしい。いい度胸だ。

 生きて帰ったらとりあえず枕を泣きぬらそうか、それともありったけの貯金をはたいて豪遊の限りを尽くそうか、いずれにせよこの心の傷はしばらくは癒えないかもしれない。

 それも、生きて帰っての話だ。

「やっちゃって」

 自らの乙女としての大切な何かを投げ捨てた虚無感を噛み殺すのに必死で、言葉を選ぶ余裕なんてなかった。

「できるだけ、痛くないようにするから」

「え、待って待って! いきなり覚悟が揺らぐようなこと言わな」

「んーー!!」

 椿に向かって目いっぱいに開いた掌を突き出し、目を強く閉じたクロエがうめき声とも絶叫ともつかない声を捻り出した。

「!?」

 変化は劇的だった。

 最初の変化は背筋を駆け抜けたざわつき、次いで泡立つような悪寒が頭のてっぺんからつま先まで隙間なく詰め込まれ、最後に胸の奥から脳髄までを引き絞るような急激な圧迫感に意識を持っていかれるかと思った瞬間、

(とりあえず、絶対に胸でかくする魔法だけは開発させる!)

 何故かそんな考えがよぎった。

 それは消失せんとする意識が見せた深層心理なのか、はたまた生に執着する魂の叫びか。いずれにせよ俗物極まりない欲求を自覚した意識は、自らの肉体をその外側から知覚していた。

「幽体離脱とは言うけど、まさか本当に自分を外から眺める羽目になるとはね」

 しかし、そう声に出しているのは肉体の方、椿の意識が客観的に眺めている方なので、自分が唇を動かして話す様を別人の視点で見るというのは何とも言えない違和感があった。

「そのようなことになるのだね。疑似的とはいえ、死を体感するというのはやはり想像できないことだらけだね」

「生きてる? ねえ、生きてる?」

 面白いことに、その言葉に対してアリスベルは肉体の方を、クロエの方は意識の方を眺めながら各々の感想を述べている。

「生きてるかどうかはわかんない。でも、ここにいるっていう自覚はあるから、死んでないんだとは思う」

 とはいいつつ、クロエのネクロームの本質の一端を垣間見た気がした。

 死後の存在に対してもこの状態を再現できるのであれば、肉体の状態に関わらずこの世界に在り続けられるだろう。首がもげても遊び続けようとしたネズミの話も納得だ。

「たぶん今あたしの肉体に何かがあっても死ぬことはないんだと思う」

 果たしてこの状態から『死』という別のステージに移行するという表現が正しいのかは分からなかったが。そこに、木偶人形が興味半分でつけたす。

「その肉体がこっちの世界に己の存在ををつなぐ楔みたいなものになっているはずだ。そういう意味では、不滅の存在ではないが不死の存在ではある。さりとて生命を持っているかと言われると肉体からは生命が失われているので、本来であればこちらの世界に存在できる状態ではない、というわけだ」

 わかったようなわからない説明だが、木偶人形はご満悦だ。なんなら、顔のないそこにはドヤ顔を浮かべた表情まで見えそうなほどだ。

「まあ、要はこの状態で向こう側に殴り込みが掛けられればそれでいいってこと」

 雑くあしらうと、椿は木偶人形に一瞥もくれることなく人間バリケードの向こう、未だ邪神もどきが這い出そうとしている魔法陣を見据える。先ほどよりもずいぶんとこちら側に出ている部分が大きくなっている。

「やっべ、もう腰んとこまで出てんじゃん」

 それこそ、未だ超神格兵器が炸裂していない現状ではどちらが先でも、何なら次の瞬間に最悪の結末が炸裂してもおかしくないように思えた。

 もう、今度こそ本当に一切余裕はない。

「ってわけで、行ってくるわ」

 時とともにどこか感覚がふわふわとおぼつかなくなっているのも感じていたが、何もかもは後回しだ。

「頼むよ。私はここからできることを全てやるよ」

「心強いねえ」

 皮肉っぽい口ぶりは照れ隠しに他ならないが、余裕のない口調になったのがわかった。

 未だにもっとほかに良い方法はあったんじゃないか、こんな一か八かに自分の命をベットするなんて馬鹿げているという思いは捨てきれないが、

「女は度胸、か。あーやだやだ」

 嘆息交じりの自重を口にし、椿は散歩にでも出かけるような足取りで、絶対に越えてはならなかったはずの境界線を、いとも容易く踏み越えた。

 ぬるり、と液体ともゲルともつかない独特の感触に阻まれたが、肉体ではなく精神、おそらくは魂に直接感じる不快感にも歯を食いしばって耐えた。

「さいってーの感触」

 愚痴りながらも歩みを止めず、手にした銃の感触を確かめる。うん、ある。

 いつもはアリスベルや霧雨の戦力と比較して頼りないとしか感じない二十口径のオートマチックが、今は伝説の聖剣であるかのように頼もしい。

 ただ、その感覚もどこまでも遠く、いつ泡沫のように消えうせてもおかしくないようにも思えた。全てが儚く曖昧な存在。改めて自分が疑似的とはいえ「死」を実体験しているのだと思い知らされた。だから、

「とっと終わらせる!」

 手の平に在るその感触を確かめる意味も兼ねて、椿はトリガーを引き絞った。

 いつもの二発の二セットではない、目の前を塞いでいる邪魔な連中を問答無用で駆逐するための問答無用の十三連発。

 床を蹴った感触はスポンジの上を走るようで、トリガーには指がずぶりとめり込んだような頼りなさ。発砲の反動も真綿で殴られるようにおぼつかないくせに、いつまでもずるずると体がその衝撃に引きずられる、何もかもが鈍くて他人事のような感覚。

 しかし、そんな不快感も今は無視。とにかく深く考えずに足と手を動かすことだけに集中した。

 何万回と繰り返した反復動作でマガジンをノールックで交換。銃弾で崩れた人の壁の一角を駆け抜けるべく回り込み、合わせにくい焦点を必死に合わせ、靄のかかったような思考で限られたルートに体を滑り込ませる。

 再び間髪いれずの十三発。銃身が熱を持ってバカになるのが先か弾が尽きるのが先か、とばかりに早くも三つ目のマガジンの装填を完了。

 計二十六発の銃弾の嵐を全くものともせずに立ちはだかり続ける連中にも、不思議と苛立ちを覚えることなくさらなる銃撃を加えようとしたところに、横槍が入った。

「後ろだ!」

 最初、自分が声をかけられたのだとは気付けなかった。

 声、いや、音とすら認識できなかったことに衝撃を受けはしたが、何よりもその意味を理解するのに凄まじいタイムラグが発生したことに、思わず声をあげた。

「は、え、何?」

 とっさに体が動いたのは偶然だった。

 おそらくはこれまで荒事をくぐり抜けてきた蓄積のおかげだろうが、無意識下の反応というのは死体になっても仕事をする、とは貴重な経験だ。

 ともあれ、意識とは関係なく体が向きを変えた先にいたのは、こちらに向かって詰め寄ってきているチンピラ連中。

「そりゃ、そうなるよな」

 廊下にいたほぼ全員が押し寄せているのだろう。一ダースほどのゾンビが武器を手に手に押し寄せているではないか。

 鈍った判断力でも迷う必要のない、わかりやすいピンチだった。

 さすがにこの事態には僅かばかり怯んだ椿。ちらりとアリスベルに視線を向けると、そっちはそっちで乱戦状態に陥っており、自分で何とかするしかないと腹をくくった。

「助けてくれっつったら何とかしてくれそうな気もするけど、それは最後の最後にすっか」

 むしろ今この状況で、絶対防衛線であるクロエの守りにほころびを生むような愚を犯すほどにアホではないつもりだった。

「この豆鉄砲でゾンビ二ダースは厳しいけど、これっきゃないもんな。一瞬でも死んでくれれば話は別なんだけど」

 皮肉ともシュールな冗談ともつかない愚痴をこぼしつつ、背後からの増援を迎え撃つ。一体に一発ずつが理想だが、それでは足止めにもならないのでとにかく距離の近い奴が一瞬でも足を止めるように腰から下、できるなら膝をピンポイントで狙って動きを止める。

「まさかこんなとこで王子様護衛の経験が役に立つとはね。予習は大事だ」

 残り少なくなったマガジンの心配をしつつ、次を装填しながら再び本来の目的に向き合おうとしたところで、

「おいおいおい、そんなんありかよ!」

 最後の一瞬に視線を背後に残したのが幸いした。

 チンピラ連中の先頭数名が崩れ落ちたまではよかったのだが、その後続があろうことか倒れている味方を抱え上げて振りかぶり、迫る勢いそのままにこちらに向かって投擲しようとしやがった。

「くっそ、これが模試と本番の違いってことかよ!」

 マガジンの交換は終えているが、どうあがいても二十口径の弾では大の大人の男一人分の質量を何とかできるはずがない。

「あんなもん一発食らえばアウトだろ! やっべ」

 元の世界だったとしても当たったところで死ぬことはないだろう。ましてや今の自分ならダメージらしいダメージも負わないかもしれない。が、ひとたび足止めを食らえば後は大挙して押し寄せる連中に取り押さえられ、身動きひとつ取れなくなってジ・エンドだ。

火のついた吊り橋を駆け抜ける、とはまさに言い得て妙だと改めて自分の喩えの上手さを自賛する。

 ここは逃げの一手ということでチンピラ連中に背を向けると、いつの間に迫っていたのか目の前にはそれまで人の壁を構成していた連中が、椿を取り囲むようにして半円を描いて取り囲んでいた。

「ゾンビだと思って甘く見た。こいつら、ゾンビなんかじゃない、れっきとしたこっちの世界の人間だ」

 生きているとは言えないかもしれないが、それまで抱いていたゾンビのとろくてて単純なイメージは全く当てはまらない。そんな当然のことに気がついたところで、全てが手遅れだった。

「やっちまった」

 まさか本命に辿り着く前のゾンビ(だと思い込んでいた連中)にこうも見事に阻まれるとは思っていなかったが、敗因は何よりもその見積もりの甘さなのだと、遅まきにに痛感する。

「っ! …………」

 と、その瞬間に全ての感覚がそれまで以上に危うく、ぼやけたものになっていく。

 思考が寸断され、直前まで自分が何を考えていたのかさえおぼつかなく、それどころか今自分がどこにいて、何をして、自分が何者なのかも気をつけていなければ散り散りになってしまいそうになるのに、そこに危機感を覚えなくなり始めてすらいる。

 張り詰めていた緊張感が、万策尽きたと実感させられたその瞬間にはじけたのだろう。そして、それがわかっていながらも立て直せない、立て直そうと思えない自分にすら、椿は徐々に何事も感じなくなり始めていた。

 それまでは目の前に感じていた自身の肉体までの距離が、急速に遠く開いていく。

「これが、死ぬってやつか」

 その実感が強まるのに反比例するように、意識が、自身の存在そのものが薄らいでいくのがわかった。それどころか、その実感すらどこか他人事のようにおぼろげだ。

 そして、

(ああ、なんか、心地いいな。このままゆっくりと、ゆっくりと止まって、眠ってしまえば、どれだけ気持ちいいんだろうな。こんなにも穏やかな気持ちに)

 揺らぐ意識の片隅に、最初は針の先端ほどにチクリと突き刺さったそんな思いが、瞬く間に隅々にまで広がっていく。もう、このままあるがままに、流れに任せようか。

 もはや肉体の感覚もほとんど届かず、最後の最後に辛うじて残っていた指先の感覚から、拳銃のトリガーガードが滑り落ちるのを感じ、

「椿・アレクサンドリア・リン!」

 稲妻が、脳を貫いた。

 凛と張りつめて、それでいて透き通るような涼やかな声音は言わずもがな、他の誰のものよりも近くで聞いた声。アリスベルの声だ。

 頬をひっぱたかれるよりもさらに強烈で鮮烈な衝撃に、

「っあ゛ああああああああああああ!」

 獣というよりはゾンビに近い雄叫びだが、今の自分にはお似合いだと自虐気味に思った。

「ああああああっぶね、あっぶね! 何考えた? あたし、何しようと」

 自分が一体どうなろうとしていたのかははっきりと自身の中に残っている。それだけに「死」というものの甘美さすら感じる魅力に、心の底から恐怖した。

 恐怖することすら放棄させられる、その絶対的な何かに。

 ただ、今はそんな高尚な哲学に割く時間など一瞬たりともないことも思い出して、

「しまっ!」

 目の前には今まさに自分に掴みかからんとする白衣の研究者たち、反対側には放り投げられて飛んでくるチンピラの肉体、そしてスチールの棚。

「たな?」

 それは、幼児が目にしたものの名前を反射的に口にするのと同じで、完全なる思考停止の産物だった。

 まだ自分はおかしな場所から脱していないのかとも思ったが、答えは単純にして明快だ。

 放物線を描いて飛んできたチンピラが、轟音を上げながらすっとんできたスチール製の事務用キャビネットに轢き殺されて、部屋の反対側の壁に叩きつけられた。

 棚が空気を引き裂く音と、肉と金属との衝突音、さらには壁に激突した際にひしゃげる骨と肉の音がほぼいっしょくたに聞こえる状況は、凄惨な交通事故現場のようだった。

 それが二つ。どうやら視線を向けていなかった研究職員の方にも同じように棚が飛んできていたようで、壁には二つのひしゃげたキャビネット。そしてその裏でひき肉のようになった数名分の体がうぞうぞと蠢いている。

「こんな状況で居眠りとは余裕だね」

 そこでようやく思考が現実に追いついた。

「当ったり前だろ、あたしはいつだって余裕しゃくしゃくだよ」

 ばればれの強がりとともに視線を向けた先には、馬手で剣をふるって迫りくる連中をホームランし続け、弓手に次の投擲用にスチール製のキャビネットを掲げているアリスベル。

「ためしに物を投げてみてはどうかと思ったのだが、どうやらこれはうまくいったようだ」

 命あるものが世界の境界を超えると異なる法の元に命の在り様を変えられる。しかし、命なきものはどちらにあってもそのまま、ということらしい。

 首の皮一枚、繋がった。

「ありがと、愛してるよ!」

 飛んできた棚に対してでも、ゾンビをぶっとばしてくれたことにでもない。

 まだ耳に残る、自分の名を呼んでくれたあの声に対してそう言った。もちろん冗談半分だが、残りの半分はどうかと言われれば、きっと顔を真っ赤にしてごまかすだろう。

 もはやここからは小指の動き一つ分の無駄も許してはならない。

 残ったチンピラ連中が三つ目の棚に轢きつぶされて一掃されているのを尻目に、研究職員の方に向き直る。先ほどの棚の一撃で数が減ったとはいえこちらはまだそれなりに数が残っているので、まずは問答無用の十三連発。無力化こそできないものの膝を折った瞬間を狙って容赦のない蹴りを顔面に叩きこむと、さすがに一瞬はその動きを封じることができた。

 これで射線は確保できた。あとは効果があるかどうかだが、ダメ元だ。

「ベル! 棚!」

 説明は必要ない。

 射線を塞ぐ最後の障害物である椿自身が横っとびに飛び退くと、一瞬前まで自分のいた場所をスチール棚が轟音とともにかっ飛んでいく。

 その先には、残すところ太ももから下だけとなっている邪神もどき。

 殺さなければいい、物理的な衝撃で追い返せるならまさかの大逆転の策になる、そんな淡い期待を込めて握った拳は、

「くっそ、やっぱ無理か」

 力なく降ろされることとなった。

 ゾンビたちを問答無用で轢き殺してピンチを打開した最強兵器、スチールキャビネットも邪神もどきには触れることすらかなわなかった。直撃を期待した椿の希望をあざ笑うように、棚は邪神もどきの胸元をするりと透過して勢いそのままに反対側の壁に叩きつけられ、ひしゃげてしまった。

 さらには、

「椿君! 残念ながら今のが手にできる最後の棚だ」

 どうやら残弾も尽きたらしい。というわけで、

「助かったよ。これでヘマしてもあんたに棚を投げつけられなくて済む」

 短期決戦。タイムアップは超神格兵器の炸裂、そしてそのために使える時間は自分にゾンビもどきの連中が群がるまで。

 時を追うごとに悪条件が積み重なっているような気もしたが、もうどうでもいい。

(や、あいつならあたしがこれほっぽって逃げ出したら、たとえ死ぬことのない世界でもぶっ殺しに来るかもしれん)

 矛盾しているのは百も承知だが、そんな理屈を軽々と超えてくるのがアリスベルであることはもっと承知している。

「それだけはまっぴらだ。あいつだけは、絶対に敵に回せない。いろんな意味で」

 それは、自分を突き動かす最後のモチベーションだった。

「だから」

 腰を落として低く構え、全力で床を蹴る。

 四足歩行の獣のように床すれすれを最短距離で駆け抜け、駆け抜けざまに残った数発を邪魔な研究員や、魔法使いと思しきやつにぶち込んで使い切り、最後のマガジンを装填。

 そして、辿り着いた。

「あいつに比べりゃお前なんかこわくないんだぞ、っと」

 勢いを殺さず、走ってきた慣性そのまま、床に両腕をついている邪神もどきの肩に両腕を突き出した。もしかしたらさっきの棚の様にすり抜けて無様にすっ転ぶかもしれない、そんなことすら考えなかった。

「いける!」

 両掌に、肉の感触があった。そして、力をかければ確かに押し返してくる。

 こいつは正体のない、死という概念ではなく、確かにそこにいる何かだ。

 試しに一度力を抜いて構え直し、今度は思いっきり踏ん張って全体重をかけて押してみると、僅かにではあるがジワリと押しこむことができた。

 行ける。そう思って三度、腰をしっかり落として今度は頭の上にまがまがしく鎮座している山羊のような巻き角をしっかりと握りしめて、思いっきり押し込む。

「あれ?」

 拍子抜けしたようにその感触は軽く、両掌を通して込めた力のままにするすると相手が後退しているのを感じた。

 しかし、そう思ったのは最初の一瞬だけで、それが途方もない勘違いであることに気づいて、愕然とした。

 押していたのではない。まったく力が入らずに、腰砕けになり、膝から力が抜けてくったりと崩れ落ちているのだ。自分が。

「力が、抜ける。いや、違う。何だこりゃ?」

 そう疑問を口にする間にもどんどんと全身が弛緩するように脱力し、ついには握っている巻き角に体重を預けるようにしなければ立っていることすらままならなくなり始めているではないか。それどころか、

「なんか、手の平の感覚がなくなってきて、あ、これヤバイ奴だ。ひじから先が、なくなってくみたいに、そっから、何か抜けていって」

 慌てて体を後ろに倒すようにして巻き角を握っていた手を引き戻し、自分の体を抱きしめるようにして底に両腕が存在することを確認する。目に見えてはいるものの、そうして実感を感じないと存在を見失ってしまいうそうだったからだ。

「どうなってんだこれ!」

 迫るゾンビ越しにクロエ達に問いかけるが、クロエは額に玉の汗を浮かべながら必死に歯を食いしばっている。どうやら自分に掛けている魔法の維持にいっぱいいっぱいのようだ。隣ではアリスベルが間断なく剣をふるってはゾンビ連中たちを打ちのめし続けている。戦力としては屁でもなくても、数をこなすとなればさしものアリスベルとてその時間はゼロにはできない。

 もはや迷うことすら許されない。

「根性論は嫌いなんだけどな」

 一度だけ天井を仰ぎ、ゆっくり目を閉じ、開く。

 僅かに感触の戻った両腕を今一度突き出して、巻き角を鷲掴み。

「くそったれ、帰れ!」

 押した。ガニ股になって両足を踏ん張って、腰を落として、歯を食いしばって声にならないうめき声をあげながら。

 感触はある。確かに向こうから押し返す感触も、僅かずつながら向こうが後ろに下がる実感も。しかし、その実感にそのままマイナスのベクトルをかけたかのような勢いで、自身の感覚が消失しているのもまた実感していた。

「やばいやばいやばい、どんどんあたし消えてくんだけど、クロエ!?」

 声に出しながら既に肘より向こうに自分の腕があることを感じられなくなった椿は、一度だけ救いを求めるようにクロエに視線を投げた。

 この魔法陣付近が射程距離だと言っていたので、まさかクロエの魔法が効果を失っているのではとさえ思いもしたが、どうやら違うらしい。

 先ほどよりもさらに険しい表情で眉間に深い皺を刻んでいるクロエは、鼻血まで垂らしながら、魔法を行使し続けている。が、それも極めて厳しい状況らしい。

「だめ、押し返される。どんどん、書き換えられる」

 どうやらクロエの魔法効果の配下にある椿に対して、邪神もどきがそっちの世界の存在となるように上書きをかけている、ということらしかった。

(そりゃそうか。邪魔するってんならそいつを排除するってのが筋だわな)

 しかし、それはある意味で僥倖でもあった。

 排除の対象となるということは、すなわち自分のやっていることは大なり小なり間違っていないということだからだ。だから、

「ゼロじゃない可能性なら、それにかけるしかないって? 似合わねえなあ」

 口元に自嘲めいた笑みを浮かべながら、その奥で食いしばった歯がギシリと音を上げる。

(ただ、やばいんだよな)

 力の限り角を握り、体重をかけて邪神もどきを魔法陣に向かって押し返している実感はある。しかし、その感触が刻一刻と失われて言っているのも事実だ。

 むしろ、

(多分、足りない。あたしの方が先に、消える)

 じわじわと魔法陣に迫っていはいるが、それを上回る勢いで自身の存在が希薄になっている。

(今はもう肩から向こうがあやしいし、なんか全体的にふわふわしているっていうか……)

 傍からはその構図に変化は見られないが、、この時点ですでに椿の感覚はほぼ自分自身の存在を知覚できるぎりぎりにまで薄められていた。

 それは紛れもなく、死へのカウントダウンに他ならない。それは他の誰よりも椿本人がはっきりと感じ取っていた。

 決定的に、足りなかった。

 時間が、手数が。

 じりじりと、ナメクジが這うような速度とはいえ邪神もどきを押し返しているというのに、その先には決定的な敗北があるだけだった。

 もう踏みしめている地面の感触もない。すぐそこまで迫ったチンピラや白衣の連中の手は、ともすれば自分の存在が消えてしまうよりも先に届いて自分を邪神もどきから引き剥がすかもしれない。

 いずれにせよ、歩けばほんの数歩の距離が今は絶望的に遠い。

 あと二歩、いや一歩分の時間にどうしても手が届かない。

 最後の一手、あと一手が。

「まさかここで決定打に欠けるってのがな……あと、あと一手でいい。あと一枚、最後のカードが……」

 そこでにやりと口元が吊りあがり、三日月形に歪んだ目元には狂気じみた意識がその鎌首をもたげているのがはっきりと見て取れた。

 あった。最後の一手が、最後の一枚、エースでありジョーカーのカードが。

 最強にして最凶のカード。

「ベル!」

 タイムラグはゼロだった。

 視線もそちらを向いてはいなかった。なのに、まるでそれは準備されていたかのように、椿の思い描いた通りの展開となって現れていた。

 「結局はあいつ頼みか」とは悲喜交々が複雑に絡み合った一言だったが、それが声になっていたのかそれとも胸中だけに響いた心の声だったのかは、ぼやけ切った椿の感覚には判別できなかった。

 ともあれ、それは目の前にあった。

 椿のわき腹を掠めるような絶妙のコースをとんでもない勢いですっ飛んできて、邪神もどきのわき腹をぶち抜いたのは、アリスベルのあの剣。

 神だろうが結界だろうが概念だろうが、そいつが存在するのであればぶった切ることのできる、ありとあらゆる反則を凝縮して具現化させたそいつは、射線にいたゾンビどもを貫通し、その刀身に血肉を纏い、人体の部品を引き連れ巻き散らしながら、長大な刃の中ほどが邪神のわき腹に突き立っていた。

 邪神もどきがうめき声をあげたような気がしたが、もはや何も感じられない。ただ失われた腕の感触を勘で補って、残された全力で邪神もどきに体重をかける。

「殺しちゃだめだていうけど、死ぬかどうかなんてやってみなきゃわかんないし、何もかもがイチバチだ」

 低周波の様な振動が体を揺さぶっているような気がしたが、それが声なのか何なのかは既にわかりようがない。邪神の悲鳴であろうと世界が軋む衝撃だろうと、椿にはどうでもよかった。

「死ぬなよ!」

 言葉と行動がまるっきりかみ合っていない気もするが、それを考え思考力すらもが消し飛びかけている。

 本能すら残っているかどうか怪しい状況で、椿は最後の最後に残された意識にすべてをゆだねて、最後のカードを切った。これでダメなら、多分も次のアクションを起こす力は残されていないだろう。

 ありったけの体重を二本の巻き角に乗せて、さらにはその中央に自身のデコを叩きつけた。

 ごきっ、という鈍い音とともにに別の意味で意識が吹っ飛びそうになるが、逆にイイ気付けだった。

 いい感じに座った目元に完璧にイっちゃった笑みを浮かべた椿は、手にしていた二十口径の銃口を、たった今頭突きをぶちこんだ額に押しつけて情け容赦なく十三発全てを叩き込んだ。

 効果があるあどうかは問題じゃなかった。

 とにかく目の前のこいつにありったけの自分の意思を叩きつける、それだけが今椿を突き動かす全てだった。

 そして、その瞬間が訪れた。

 十三発目を撃ち終え、邪神もどきの額に鉛玉が最後の穴をうがったのを確認した椿は、全く知性を感じない野蛮極まる動きで邪神もどきの土手っぱらに突き刺さった剣の柄に靴底を叩きつける。

「このっ、この、このぉっ!」

 ガンガンとやくざな蹴りをしこたまぶちこむと、最早ほとんど途切れかけている意識をかき集めて、最後の一撃を叩き込んだ。

「どっか、いけええええ!」

 子供の喧嘩としか思えない絶叫一番、立っていることさえままならないその体を倒れさせ、その慣性と体重の全てを剣にかけるべく、両手で柄を握る。

 カツリ、と乾いた音が響いたが、椿にはそれを音として感じることも、手の平で衝撃として感じ取ることもできなかった。もしかしたらこの時点で意識はすべて失われていたのかもしれない。

 ともあれ、椿の最後の悪あがきは、

「ざまああみろ」

 実を結んだ。

 ずるり、と剣の突き刺さったわき腹の傷口が崩れたのを皮切りに、邪神の姿は瞬く間に砂の山を崩すように崩壊して液体とも煙ともつかない姿となって床に広がり始めた。

 後に木偶人形の説明したところによると、椿による抵抗で魔力の使用効率が下がっていたところに、アリスベルの剣による一撃で絶妙にその存在のバランスを狂わされ、残った魔力量で魔法の発動を維持できなくなった瞬間だったとのことだが、この時の椿には何が起こっているのかを知覚することすらできてはいなかった。

 支えを失い、重い金属音とともにベルの剣が床に落ちると、元々邪神の姿をしていた液体とゲル状の中間物はそれを避けるように四方に散らばっている。どうやら意思に近いものはまだ保っているらしい。が、それも最早先ほどまでの神に近い存在のそれではなく、原生生物と大差のない原始的な、知性とは呼びえないものとなっていた。

 統一性を失ったたそれは、魔法の発動終了とともにこちらの世界からその存在を拒絶されるかのように、ずるずると魔法陣の中央に引きずり込まれてゆく。

 それでもなおこちら側の世界への執着は失っていないのか、歪にひしゃげた頭部と腕と思しきぶよぶよの物体が魔法陣の縁に形作られると、引き込まれるのに抵抗するように床に爪を立て、口からはうめき声にもならない音をごぼごぼと溢れさせている。

 時間の問題だった。けど、

「しつっこい男は、嫌われんの」

 立っていることもやっとのはずの椿は、力の入らない右腕を持ちあげて銃口を顔に見える部分に向け、トリガーに指をかけた。

 当然、全段を撃ち尽くしてスライドストップがかかった銃からは弾が出るはずもないのだが、まるでその一発がとどめであったかのように、最後に残った腕と頭部もその輪郭を失った。

 最後の一握りが魔法陣の向こうに吸い込まれると、それまでは元気っぱい活動していたチンピラや研究員と思しき白衣の連中はまるで糸の切れた人形のようにバタバタとその場に崩れ落ち、瞬く間に室内は静寂に包まれた。

 壁に突き刺さった棚の向こうでで蠢いていた肉塊たちも、ただの肉片となって壁に血と脂のシミを残しながらずるずると滑り落ちている。

「終わった、んだよな?」

 あまりに唐突に訪れた終焉に意識が追いつかず、取り合えず深呼吸をしてい気持ちを落ち着かせようとして、ようやく気がついた。

「あ、あたし、息してないんだ」

 そう言えば思いっきり動いたのに、息が切れたり肩で息したりしてなかったな、と今さらなことに思い至ったそこで、ふっつりと全ての感覚が闇に包まれた。


「しまった!」

 背中に伝わる固く冷たい感触に、横になっていることが分かった瞬間に椿は跳ね起きた。

 と同時にポケットに手を突っ込み、携帯通信端末の電話アプリを起動。連絡リスト一番上の相手に発信しようと指を滑らせたところに、まるで狙いすましたように着信を告げるコールが鳴った。しかも、今まさに自分が連絡を取ろうとした相手から。

 一回、二回とコール音が鳴るなかで、椿は通話をつなぐ前に一つだけ確認するべく周囲を見回した。

「あたし、どんぐらい寝てた?」

「私がここまでくる十歩ほどの間だよ」

 すぐ隣から聞こえたアリスベルの声に、いくつかの過程をすっとばした答えが胸の中に湧き上がるが、まだ実感はない。

 ただ、そんな状況でも現実というのは容赦なくそこに横たわっているわけで、椿はまだほとんど止まったままの脳と感覚の戻らない体をむりくりに動かして、通話をオンにする。

 正直、この時点では話したくない気持ちの方がはるかに勝っている。だって、もっとめんどくさいことに引きずり込まれる可能性が多分にあるから。

「見てたみたいなタイミングですね、社長」

 実際見てたと言われても信じられるし、、そうではなくてもこのタイミングでかけてくるのがこいつだというのも知っていた。

『いやー、よかった、つながったつながった。で、生きてるみたいで更によかった』

 底抜けに明るい声は事務所で他愛もない雑談をするときとまったく変わらぬ調子。といってもこちらのピンチを全く考慮していないのではない。なんならこの人は自分が死の淵に立たされたとしても普段と何一つ変わらないだろう豪胆さを持ち合わせているのをよく知っている。

「生きてる、かどうかはこの後確認の必要はありますが、そう! 超神格兵器! あれをとっとと止めてくれないとせっかくあたしらが」

 珍しく慌て気味に、食いつくように端末に唾を飛ばす椿だったが、向こうは最後まで聞くことなく割り込んできた。

『だーいじょぶだよ。怪しい魔法の消失を確認した管理組合が早々に超神格兵器の撤収を手配したよ。パージした世界も再結合済み、ってだからこうして電話つながってるんだけどね』

 がっはっは、とおっさんみたいに笑いながら告げられた内容を、ゆっくりとかみしめてゆくが、疲弊しきった上に一度死んだ脳みそでは何一つ呑みくだせなかった。

 ただ一つ、

「じゃ、あたしら助かったんですか?」

『超神格兵器に関しちゃ、そうなんじゃない? 管理組合に問い合わせたらいっつもの愛想のないおじょうちゃんが教えてくれたよ』

 ここでいう管理組合、とはしょぼそうな名前とは裏腹にこの世界の存亡にかかる全てを一手に引き受けて管理統制する集団だ。その全貌は謎に包まれてはいるもののあの満貫ですら逆らわないどころか関わることを避けるという、絶対的な存在のことだ。一説によると神の中でも最上位の力と権威を持つものか、それに類するものが雁首をそろえているというが、それとて噂の一つにすぎない。

 ともあれ、そんなところにおいそれと問い合わせを掛けられるルートがあるのも常軌を逸しているが、その名が出てきたのであればひとまずは大丈夫そうだ。

『んで、そっちはそっちで全部片付きそう? 人手が要るならうちの若いのから適当に見繕って送るけど』

「いや、その必要はないです。こっちも厄介なのは全部片付いたんで、あとはとっととトンズラするだけです。細かいとこは報告書で」

『あ、そーお? まあベルちゃんいるんだったら誰がいってもいっしょだね。じゃ、気をつけてね。んで、今日はもうベルちゃんと二人とも午後休ってことでいいからさ。報告書も別に要らないから。何なら下手に色々残ってる方があとからガサ入った時に面倒だしね。今度食事しながら軽ーく聞かせてよ。じゃね』

 怒涛のごとく言いたいことを言って切ってしまったが、口を開くのもかったるい今の椿にはかえってありがたかった。

 端末をしまいながら、今度こそ本当に何もかもが空っぽになった椿は、全身の力を抜いてその場にばったりと倒れ込んだ。

「むーりー。しーぬー」

 しかし、後頭部どころか背中も床につくことはなく、何なら柔らかく温かな感触にジワリと幸せを感じていた。

「なんだねいきなり、こんなところで膝枕とは大胆だね」

 とはいいながら全く抵抗する様子はなく、むしろ椿の体に最も負担がかからない角度になるように受け止めたアリスベルが、天井を仰ぐ両目を覗き込む。

 自ら輝く宝石のような、それでいて艶めかしくみずみずしいサファイアブルーの瞳はそのまま魂を呑みこんでしまいそうな錯覚さえ起こさせる。

「あたし、生きてる?」

 冗談などではなく、本気で確認しなければ確信が持てなかった。ほんのついさっきまで持っていた生死の観念など何の役にも立たないと、身を持って思い知らされたのだから。

「生きているよ。今はね」

 敢えて「今は」と付け足しながらアリスベルが指差した先で、クロエがばったりと顔面から床に倒れ伏している。ピクリともしないそのつむじを眺めながら、あれこそ死んでるんじゃないのかと不安になるほどだ。

 どうやら力を使い果たして精も根も尽き果ててぶっ倒れたらしい。

「ってことはやっぱあたし、さっきまで死んでたのか。実感ねえなあ」

 ともあれ、今こうして自分が「生きて」いるということは、本当に全てが元通りということなのだと解釈しておくことにした。こういうときに下手に首を突っ込むと余計なトラブルを引きこむだけだと、よく知っている。

「とりあえずさ、午後休だってさ。っても、さすがに今日はウインドウショッピングに出かける気にはならないかな」

 なんならここで大の字になって泥のように眠ってしまいたくなるが、さすがにそういうわけにはいかない。ガーネットが知り得た程度の情報を満貫が仕入れていないはずがない。なんなら既に某かの処理要員が手配されていて、扉をぶち抜いて飛び込んできてもおかしくない。

 背中と後頭部に感じる幸せな柔らかさに名残惜しさを感じながらも、椿は「よっこいしょ」と爺むさい掛け声とともに起き上がる。

 死屍累々。眠っているようにしか見えない穏やかなものから原形をとどめていないものまで千差万別、死体の見本市のような部屋を一度だけ見回して、椿は疲れ果てた声で呟いた。

「帰りますか」

 クロエはすでにアリスベルの小脇に抱えられ、もう片方の手にはあの木偶人形が握られている抜け目のなさ。確かに、こいつには聞きたいことが山ほどあるので、帰ったら金庫にでもぶち込んでおこう。嫌がらせ込みで。

 鉛の靴を履かされたような重い足を引きずるようにして歩きだすと、

「君は」

 背後からアリスベルに呼びとめられた。

 振り返るどころか目玉を動かしただけでも脳みそが爆発しそうな頭痛が起こる。

「なに? あたし今、赤子の手を捻るよりも簡単に死ぬんだけど」

 そう言いながら振り返らず、泥人形のように歩き続ける椿の背中にアリスベルははっきりと告げた。

「今日の君は、紛れもなく世界を救った勇者だよ」

 ジワリと胸の真ん中にしみ込んだその言葉に、椿は振り返らなくてよかったとしみじみ思った。

 だって、こんなにも嬉しそうにほくそ笑んでる顔など、見られたら死にたくなる。

「はは、あんたが言うと説得力抜群だな」

 だから、そんな胸中を全力で押し隠すためにそう皮肉ったのだが、隠しきれない高揚が声に込められていたのは、、もちろんバレバレだ。


  カジノホテルヘブンズドア。数日前のトラブルなどなかったかのように平常運転に戻ったフロアは、今日も嬌声に包まれていた。どうやら数日間の休業の影響はなさそうだ。

(客足が戻りきるまでしばらくは設定甘めはうまくいったな)

 そんな自身のマーケティング手腕を自賛するようにほくそ笑む

 インカムから聞こえる定時報告に、これと言って異常事態がないことを確認した椿は、改修が終わったばかりでまだ真新しい絨毯の感触を確認しながらルーレットにボールを落とすディーラーの手つきと、そのボールを食い入るように見つめる客の様子を確認する。向こうではこれままた新品が運び込まれたスロットが景気よく客のコインを呑みこんでいる。

 その一角、湯水のごとくスロットにコインを投入するやくざな花魁姿の隣に腰掛ける。

「で、どうだった?」

 何の前置きもない問いかけにも動じることはなく、霧雨はスロットのレバーを雑くに引きながら面倒くさそうに首を振る。

「どーもこーもねえよ。何だこのくっそ渋い設定は。これじゃ客寄りつかねえぞ」

 どうやら相当負けが込んでいるらしく、今にもマシンを真っ二つにしてしまいそうな剣幕でドラムが回るのを睨みつけている。

「そっちじゃない! 誘拐依頼の方の話!」

 何とも穏やかではない単語だが、それでも霧雨は一切動じることなく「ああそっちか」と、何なら全く興味なさそうに鼻筋をゆがめる。

「黒も黒黒、、まっ黒けだよ。とりあえず王子様連れてったらあの野郎、満貫から買ったお薬で言うこと聞かせるつもりだったらしくてさ」

 あの野郎、というのは他ならない王子の従者、ラフタのことだ。

 あの日、椿が傍受したメールの発信者はやはりラフタで、あろうことかジュナ王子の誘拐を依頼してきたというわけなのだが、その追跡調査を霧雨に依頼していたのだ。

「さすがに王子様連れてったのがあたしだった時は野郎、めっちゃビビってたけどな」

「んで、どうしたの?」

「決まってんじゃん。なめた口きいたからぶっ殺した。あ、言っとくけど王子様には確認したからな。いやー、でも次の王様ともなると肝座ってんのな。最後の最後まで温情かけようとしたんだけど、それがダメだってわかると、もう即断即決よ。ありゃ大した王様になる」

 それだけを聞ければ十分だった。

 椿たちにしてみれば、ある意味、ラフタが発注したハイウェイでの襲撃があればこそ、術式ドラッグのルートをたどるきっかけに思い至ったと言えなくもないが、それはそれだ。

「因果応報。悪巧みも身の丈考えて、ってことね。ありがと。王子のフォローはこっちでやっとくから」

 返事はない。次のコインが投入されたところで、椿もこれ以上は話すこともないので、さっさとその場を後にする。

 次に椿が足を運んだのは、今まさにポケットにボールが落ちて目が決まろうかという、最も客の意識が一点に集中する瞬間を狙って空いている椅子に腰を下ろした。

 すぐ隣では、今にも台を叩きだしそうに力いっぱい拳を握る男。台を囲む誰よりも熱の入った前のめりの姿勢だが、目深にかぶったフードのせいでその表情はおろか、視線を覗き見ることもかなわない。

 しかし椿は、顔の見えないその男にだけ聞こえるボリュームでそっと囁いた。

「クソ木偶人形。うちに小銭落としてくれんのはいいけど、ちゃんと仕事したんだろうな?」

 その瞬間まで隣に人が座ったことにも気付かなかったらしく、周囲の人間がいぶかしむほどにびくりと痙攣すると、恐る恐るフードの縁を僅かに持ちあげて顔を向ける。

 有名な昔話ならここで「それはこんな顔だったかい?」となるのだろう。そこに目も鼻も口も、それどころか何の凹凸もないツルンとした球体があるだけなのだが、それを知っている椿は驚きもしない。

「ってか、何でまだ木偶人形なんだよ? クソ魔導師」

 木目の走る卵型の球体は、頭だけではなくそのマントフードの中全てが木製の人形であることが容易に想像できたが、そんなことはどうでもよかった。

「肉の体はメンテが面倒でな。これから余計な手間もかからないしいくらでも代えが効く」

 満貫のビルから脱出したあの日、片手で持てるサイズだったデッサン用の小型人形に宿していた魂を、もっと日常生活に向いたものに移し替えると言っていた魔導師に、急場しのぎの等身大マネキンを与えたのは他ならぬ椿自身なのだが、どうやらその利便性がお気に召したらしい。こうなると魔道師と呼ぶのもはばかられるお化けかなんかじゃないのかと思わないでもない。が、この世界でそういうことを気にし始めるとストレスで禿げる。

「さいで。あんたが木偶人形だろうがクマのぬいぐるみだろうがどうでもいい。ブツは?」

 ぶっきらぼうに肘でマント越しの胴を小突くと、固く乾いた感触が伝わってくる。

「魔法というのは本来、このような俗事に使用するものではなく、魂をさらなる高尚なステージに導くための」

「あっそ。じゃああんたがその魔法をうちのカジノで使ってるの、少しだけなら大目に見るっての、なかったことに」

「その魂の高尚たるを知るには俗事にその存在をおくこともまた真理。というわけだ。高きを知るにはまずはその低きに身を置いてだな」

 慌てて足元に置いていた対魔道金属製のアタッシュケースを足蹴にする。

「てめえがくっそ俗物だってことはよく知ってる。まあ、くれぐれもやりすぎないようにな。度を越したらさすがに出禁にしなきゃなんないからな」

 ケースを拾い上げ、去り際に釘はさしておいたがどうやらもう聞こえていないらしい。木偶人形の視線(?)はすでに次のボールを持ったディーラの手に釘付けだ。

(ありゃだめだ。ちょっと懲らしめなきゃだ)

 嘆息交じりに肩をすくめると、椿はディーラーに向かって視線と軽いジェスチャーでサインを送る。その意味するところは『設定撃渋で絞り取れ』だ。可哀そうだとは思わない。

 背後のテーブルの気配が変わったことをうなじに感じ取りながら、椿はお目当てのブツを片手に従業員専用通路に向かい、そこからさらに限られた人間の身ににしか使用を許されていない専用エレベーターに乗り込んだ。

 静かな縦Gが体をすり抜けるのさえ辛いのは、クロエに言わせれば精神と肉体の結合がまだ完全ではないかららしいのだが、それももう少しの辛抱とのことだ。

「そんな状態で大丈夫なのかよ。うっかり魂が剥がれ落ちちゃったりしないのか?」

 そんなことありえない、とはもう思えないのは身をもって死を実感したことと、魂を自由に入れ替える変態魔導師を見てしまったからだ。

「っと、やべえ。余計なこと考えてる場合じゃなかった。あのクソ魔導師がちゃんと仕事したか確認しとかないとだ」

 ポケットから取り出した端末でこのエレベーターの監視カメラをオフにし、リモートモードで監視室のモニタチェック。外部からのぞかれていないことを確認したうえで、銀色のケースの鍵を外して蓋を開けると、そこにはあの日、場末の倉庫で手にするはずだった複雑な文様の描かれた親指大の宝石が、ちゃんと小分けにされた小部屋に規則正しく並べられている。空きはない。

「ったく、この石っころのせいであたしらがどんだけひどいめにあったか……っても、これをどうすんだ? うちがさばくのか?」

 ガーネットに一連の事情を話した椿が唯一受けた指示は、木偶人形魔導師に術式ドラッグを作らせることだった。

「作ったって、うちにゃクスリ捌くルートもないし、話持ってきたオーバーライトは……」

 脳裏に浮かぶ、転移魔法ですっとばされる時でさえ落ち着き払った端正な顔立ち。

「いくら超がつく豪胆でゴーイングマイウェイなあいつでも、さすがに今回ばっかはダメだろ」

 ケースを閉じながら再びエレベーター内のセキュリティカメラをオン。丁度そこで目的の社長室フロアに到着し、ゆっくりと開く扉の向こうから聞こえてきたのは何とも奇妙な音だった。

 最初、エレベーターが故障、もしくは襲撃されたのかと慌ててフロアに飛び出し、すぐ脇の観葉植物の陰に身をひそめるが、どうやらその異音はエレベーターではなくフロアの方から聞こえてきているらしい。

 それは金属同士が擦れるような、それも滑らかな金属ではない、いびつに歪んだ金属部品同士をこすり合わせ、摩耗させているかのような異音。

 この時点で何となく嫌な予感はしていたのだが、ここまでくれば椿にできることなど限られている。神に祈るだけだ。お願いだからもうトラブルを持ってこないでください、と。

 エレベータの扉が閉じ、最後の最後の退路が絶たれたことにいあようなく覚悟を決めた椿は、小さな希望と祈りを胸にふかふかの絨毯を踏みしめて歩く。

 神なんていなかった。

「や、椿ちゃんグッドタイミング。ちゃんとブツは用意できた?」

 自席のデスクではなく応接用のソファに腰を下ろしたガーネットが、満面の笑みとともに手を振っているが、椿はその笑みに笑顔を返すことができなかった。いや、何とか笑みのようなものは作りはしたのだが、それは悲壮感たっぷりに引きつった、笑顔とはいえない表情だった。

 だって、だって、応接セットにガーネットと向かい合って座っているのは、後頭部だけでわかるそいつは、

「うっそだろ。オーバー……ライト」

 二つの意味で信じられなかった。

 まず、彼自身がここにいること。

 そして何より、その姿がとてもではないが自分の知る人物とはかけ離れていることだ。

 あの一部のほころびもない完璧なファッションに身を包んでいたオーバーライトの面影は、微塵も残されてはいなかった。スーツの両腕はその半ば以上が失われ、そこからのぞくワイシャツも肘から先がボロボロでみすぼらしい布切れとなって垂れ下がっている。ほとんどすべてのボタンが失われているか、取れかかって僅かな糸でぶら下がっているだけで、元の色が想像もできないほどにくすんで汚れてしまっている。頭髪も、撫でつけられたオールバックは見る影もなくボッサボサ。

 更に痛々しいのは腰から下だ。ズボンも裾の大部分が失われて半ズボンのようになっているし、靴などは両方とも爪先がぱっくりと口を開けて、コメディ映画に出てくる遭難者よろしく破れた靴下の隙間から指が覗いている。

 極め付きは、

「見苦しいのは百も承知だが、君と私の仲だ。ここはひとつ容赦してはもらえまいか?」

 容赦もへったくれも、そこに選択肢なんてあるはずもない。万が一これにノーなんて言おうもんなら目の前のそれがすっとんできて、辛うじてつないだ命が星の欠片になってしまう。

 その、義足の右足が。

 異音の正体はこれだったわけだ。むき出しになった義足は僅かに動くたびに、その関節や内部の駆動部から軋むような金属音を漏れさせている。ズボンの膝から下が失われてむき出しになったそれは、人の筋肉の陰影をそのまま金属に落とし込んだような精緻な細工ではあったが、素人目に見てもはっきりとわかるほどに損傷していた。

 あのオーバーライトが、そしてこの義足がここまでになるとは一体何があったのか、興味こそ尽きないが、話を聞く代価が自身の命であることなど子供でも理解できるだろう。

「い、いえ、それよりご無事なようで何よりですよ」

 まだ全快ではない精神力を総動員して動揺を押し殺し、今作り出せる最高の笑みを浮かべることに成功するが、そこが限界だった。

 もう一度言う、神なんていなかった。

「いやー、何でも転移魔法でどこだかの世界まですっとばされちゃったらしいんだけどさ、そこから歩いて帰ってきたらしいのよ。んで、たまたま出勤途中だったあたしがみっけてさ、せっかくだから乗ってかない? ってなったわけ」

「女史には感謝している。さすがにこのような格好で街を歩くのは社のイメージにも関わってしまうので、どうしようかと困り果てていたところだった」

 あっけらかんと楽しそうに語るガーネットに、しずかに頷くオーバーライト。椿はただただ昇天直前のような顔で「へ、へー」と返すのみだが、その本能はあらん限りの警鐘を鳴らし、とにかくこの場を最短最速で切り抜けることを推奨していた。従わない理由はなかった。

「っと、そうそう、じゃあ丁度良かった。ご依頼いただいていた術式ドラッグのサンプルをご用意できましたので、お受け取りいただけますか。仕入れのルートも確保してありますので。それじゃ私は業務がありま」

 テーブルの上でケースを開け、中身を確認させつつ自身は回れ右をして撤収。無駄のない完璧な動きで軍人よろしくくるりと百八十度ターンを決めて、

「では、次のビジネスの話をしようか」

 慣性をそのままに再び百八十度ターン。笑顔は、崩さなかったと思う。

「これは今回の移動の最中に出会った……」

 オーバーライトは手際よく術式ドラッグの宝石を確認しながら、転送魔法で世界を超えて吹っ飛ばされてからの数日で体験した大冒険を静かに淡々と語っていた。なんならその冒険譚を書籍化して出版した方がいいビジネスになるんじゃないかとさえ思える波乱万丈っぷりだが、もちろんそんな横槍は許されない。

(ああ、この仕事が終わったら長めの休暇を取ろう。どっかリゾート地のたっかいホテルに泊まって、たっかいエステでめっちゃ女磨いて免税店で目に付いたものかたっぱしから買って一番高いレストランで一番うまいもん食おう。水着も新調して貸し切りのビーチでフルーツ山盛りのドリンク飲んで、そうだベルもつれてこう。クロエも一緒でもいいかな。んで、んで……)

 まだ完全に結合しきっていない魂が今にもはがれおちてしまいそうなので、椿はひたすら南国の太陽とエメラルドグリーンの海に思いを馳せていた。不毛だとは言ってやるな。

「世界ってのは、とことん狂ってる」

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