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ヘブンズドア・リゾート  作者: 太夫 有
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中編

 別の世界とこの世界、リゾートを結ぶ移動は異世界間を結ぶ特殊な空間を通って行われる。

 ゲート、ワームホール、転送陣などなど。呼び名は様々だが、とどのつまりはリゾートと別の世界を繋ぐトンネルである。それがこのリゾートにはいくつか存在するのだが、そんなものを無秩序に放置していれば瞬く間にリゾートを通じてありとあらゆる世界が破滅と混沌に呑みこまれるのは歴史が証明している。

 というわけで、この世界が成立したかなり初期の段階で割としっかりした管理体制が敷かれたのが、世界間の移動を司るこれらの場所というわけだ。とはいうものの、ゲートそのものは常に他の世界に繋がっている空間の歪みのようなものでしかなく、何もしなくても何をしても、その場所にぽっかりと口を開けているだけだ。

 そのため、どこのゲートもそれを中心とした港湾設備が整備されているのだが、人が集まればそこに金が集まってくるのも世の常。

 最初期にはゲートを取り囲む壁と出入り口、そして簡単な事務処理を行う最小限の設備だけしかなかったところに、連絡用の道路が整備され、飲食を提供する店舗が現れ始め、それらに付随する各種サービスが続いて巨大化の一途をたどるまでにさほど時間は必要ではなかった。最終的には巨大なターミナルと総合ショッピングモールにホテルまで抱えた一大レジャーゾーンとなっているところも少なくない。

 そんな巨大なターミナルの一角、アライバルで椿は人の流れをぼんやりと眺めているのだが、

その種族の多様さには目を見張るものがある。椿と同類かそれに近い人間型の物もいれば、半獣半人のものからほぼ獣の外見で二足歩行をするものも珍しくない。完全に不定形のやつがトランクをジェル状半透明の体内に納めたままホバリングして行った時には、改めて世界の多様性にほほえましくなったほどだ。ちなみに先ほど乳繰り合いながら歩き去ったカップルは、上半身は二人だが下半身は一人の、限りなく魚類に近いトカゲ似の何かだった。

「ま、向こうがこっちわかんなくても、王様だってんなら見りゃわかるだろ」

 言いながら、目の前を通り過ぎた立方体の一団から視線を引き離す。

「さすがにいくらあの社長でも立方体とは、交流は……ないとは言えない、か?」

 ここにいるのは他ならぬ社長であるガーネットの指示だった。

 知り合いにさる国の王族がいるのだが、それがかなり上位の王位継承権保有者であるせいで命を狙われているのだという。そこで一計を案じたガーネットが、身を隠すのにうってつけな場所として自身のホテルを提供したのだという。

「ま、どこの世界から来るんか知んないけど、確かにこのリゾートはやんごとなき人間が身を隠すにはうってつけだわな。凡人が来たいっつっておいそれと来らんないからな」

 リゾートに住んでいれば無数に存在する別の世界がここを通じてつながっていることは常識だが、そうでない世界にはそもそも異世界の存在そのものが知れ渡っていない、あるいはその世界の管理者によって秘匿されているなんてこともざらだったりする。

 いつものパンツスーツにかっちりと身を包んだ椿は、尚も途切れることのない人の流れから視線をそらさずに今朝の出来事を思い出していた。


 ベッドで死んだように眠るクロエをわき目に簡単に身なりを整えると、慣れた手際でパンツスーツを身にまとい、ルームサービスのモーニングをオーダーしたその足で部屋を出てまっすぐに社長室に向かった。

「おはよ、椿ちゃん。相変わらず朝弱いのは変わらんね」

 言いながら社長室のデスクでコーヒーをすすっていたガーネットは、空いた方の手で自分の頭のてっぺん付近の髪の毛を摘み上げる。そのジェスチャーに慌ててポケットから取り出した手鏡を覗き込むと、短めの髪がアンテナのようにぴょこんと飛び跳ねている。

 まさかこんなものをぴょこぴょこと揺らしながら、スーツで決めて、キメ顔まで作って勇み足で歩いていたのかと思うと恥ずかしさで死にそうになる。

「い、や、その、これは」

 鏡の中でうなじまで真っ赤になった自分の姿にさらに羞恥心を刺激される。

「あっはは、だいじょぶだよ。椿ちゃんとこからここまでの通路はほとんど人いないし、監視カメラ見られるのも私含めたごく限られた人間だから、多分ばれてないよ」

 楽しそうに笑い、コーヒーカップに口をつけるガーネット。相変わらず底の読めない表情だが、とりあえずこの話題を続けられると死ぬので無理やり話題を変えることにした。

「遅ればせですが、昨日のカジノフロアの件で報告が」

 喋るたびに頭のてっぺんでアホ毛よろしく寝癖の揺れる感触が頭皮に伝わるせいで何とも集中できないが、それでも一応言葉を選ぶ。

「ああ、ありがとね。もう業者と話つけて、物の入れ替えまで段取ってくれたんだって? いやあ、助かるよ。ああいうのって慣れてないのに任せると時間はかかるはぼられるわでろくなことになんないんだよね。その点椿ちゃんは安心して任せられる」

 見積もりや報告書のプリントアウトをテーブルに無造作に広げているガーネット。

「ただ、今回は機材の入れ替えだけではなく噴水設備の点検修理やら天井のシャンデリアもメンテナンスが必要になるので、フロアそのものを最低半日は閉めることに」

「だよね~、さすがにそんなとこお客さんに見せられないもんねえ」

 一部区画だけとはいえ、修理途中の無様な姿をさらすわけにはいかない。カジノとはあくまでも非日常であらねばならず、そこにいることそのものが娯楽であるために施設の全てが演出されている。それこそが、カジノが他の娯楽と一線を画するための秘訣である、とはガーネットの信条であり、椿もそこに異論はない。

「で、問題はここからで」

「だね。私も問題だと思うよ。これでしょ? ね~、よりにも寄ってだよね」

 ガーネットはデスクの上の書類束の中から一枚を取り出し、顔の横でぴらぴらと揺らしてみせる。そこには昨日カジノで暴れた男の死体の顔写真と、その来歴が箇条書きで書かれている。

「ええ。もう、ほんっと、よりにもよって……」

 腹の底が震えるような声を絞り出した椿だが、顔には朝の爽やかさとは程遠い疲労感が色濃く表れていた。何なら今この瞬間だけで一日分のエネルギーを消費してしまったかのようだ。

「とりあえずこの話をしないわけにはいかないし、あの男がこのへんの支払いを渋ることはないと思うけど……問題はそこじゃない、って感じだね」

 まったくもってその通りだった。今回のようにホテル設備に被害が出た場合、その犯人が一般人なのか裏社会に身を置いているかで話が全く変わってくる。

 一般人の場合なら、その悪意や程度にもよるが、きちんと個人に弁償させてそれでおしまいというケースがほとんどだ。もちろん、そのために何を支払うのかは程度問題で、支払えるのなら問題ないが、それがかなわない場合はたこ部屋に沈められるか臓器(パーツ)にばらされてその代金で支払うことになる。ともあれ、支払いのみの問題で解決するのでさほど手間もかからなければ神経を使うこともない。

 問題なのは後者の場合だ。

 裏の組織の人間の不祥事は、個人ではなく組織が漱ぐことになる。もちろん、組織内ではその個人に対して制裁が加えられるのだが、あくまでも組織対組織の問題として話が進められることになる。そしてそうなれば、当然単純な弁済だけの話ではなく、組織同士の関係や規模、過去の取引内容や貸し借りの有無、果ては互いの上部組織までも加味したうえでその処遇が決められる。

 そして、オーバーライトはどこまでもビジネスライクに取引をするビジネスマンの顔と、マフィアにおけるファミリーのように構成員と親密な関係を築き上げているゴッドファーザーとしての二面性を併せ持っている、極めてアンビバレントな存在であった。

「大変なのは、そのあと、ですよね」

 そう呟いた椿の声は、泥でもすすったかのように精彩を欠いていた。

「絶対に報復だね。満貫からオクスリ買ったんだって? うわあ、こりゃたいへんだ」

 あっけらかんと言い放つガーネットだが、もちろんその意味をわかっていないわけではない。むしろそのろくでもなさを知悉した上でなお笑い飛ばせる胆力は、彼女もまた只者ではないということをうかがわせている。

「笑い事じゃないっすよ、あの男の性質知ってるでしょ? 話聞いたらその足で満貫商会のアジトの二つ三つ血祭りにあげに行きますよ」

「それこそ本当に、地図書き換えるぐらいに徹底的にやるだろうねえ」

「その名前の由来どおり、って? 笑えないっす」

「んでもさ、マンガみたいなやつだよね。何だっけ、取引で騙されて自分とこの構成員が殺されたから、その報復に街を一区画廃墟に変えてまでそいつらを叩きつぶしたら、地図がまるまる描き変わっちゃった、だっけ? んで、ついたあだ名が『上書き(オーバーライト)』って」

 どうやっても笑い話にしか聞こえないそんな逸話にさえ、あの男とじかに接していれば信憑性があるように思えるのだから度し難い。

「でさ、そのオーバーライト、このあとここに来て話するってんだけど」

「ぅぇえ!? ちょちょ、え? 何それ、ちょ、なんてことになってんすか! そんなの、絶対あたし連れて行くって言うにきまってんじゃないっすか! やだやだやだやだ! それなら何でベルおいてかなかったんですか! それこそこんなのベルの方が適任じゃないっすか!」

「ん~、でもねえ、あの子にはどうしてもやってもらいたいお仕事があったんだよね。とあるすじからの依頼で、恩売っとくと絶対に今後得になる」

 困ったふうを装ってはいるが断言してもいい、ガーネットは全く悪いとは思っていない。この女は、とにかくこうした口八丁手八丁で相手をけむに巻く技術には長けている。むしろ、それでのし上がってきたといっても過言ではないほどだ。

「いや、そっちあたしが行けば」

「ペットのさ、何とかドラゴン、何だっけ? 口から致死性の高い毒のブレスを吐いたり高度な攻撃性の魔法を操る、とかいう。それが逃げちゃったってんで捕まえて欲しいって」

 さすがに閉口せざるをえない。ドラゴンと言えば、その種に関わらず並の人間の手に負える代物ではないことがほとんどだ。この世界でゲートの次に厳重に管理されているものが、存在そのものが脅威となりうる種や神などに代表される上位存在なのだが、ドラゴンと言えばその筆頭だ。少なくとも、個人がどうこうできるものではありえない。あり得ないのだが、

「まあ……それなら、ベルしかないか」

 何事にも例外はつきもの。アリスベルはその例外の中でも極めて特殊な例外だ。

「んでさ、椿ちゃんには別のお仕事頼もうと思うんだけど、それでどう? さすがに正規の業務命令でいないってなればオーバーライトも無茶言わないだろうし。ちょっと厄介な」

「いくいく! 何でもやる!」

 思考を介さず脊髄反射的に答えながら、僅かに残った冷静な部分では「どうせこっちにもっていくつもりだったんだろうな」と邪推する自分もいる。

(や、邪推じゃなくて確実にそのはずだ。ガーネットがこんな行き当たりばったり的に物事を進めるはずがない。だから恐ろしいんだけどな、この人は)

 裏表のなさそうな無邪気な笑顔のガーネットを、椿はどこか冷めた思考とともに見つめ返す。

「知り合いのさる国の王様から頼まれてさ、そのご子息、正確にはかなり上位の王位継承権所持者なんだけど、それがこっちの世界に逃げてくるんだよ。いわゆる亡命ってやつ?」

 胡散臭さがぷんぷんだが、この時点ではまだまだオーバーライトの脅威には遠く及ばない。

「そ。なんでもさ、革命勢力がクーデターを画策してるとか何とかで国全体がキナ臭い感じになってるんだってさ」

「ゲート通ってこっちに逃げてくればその革命勢力とやらからは安全ですが」

 異世界間の移動の全ては厳密に管理局によって管理されている。

「この世界が安全か、ってなるとそれはどうなんです?」

 あらゆる世界に通じ、あらゆる存在が行き来する世界。起こりうるトラブルも当然、単一の世界とは質も量も比べ物にならない。

「そこはほら、椿ちゃんを信用してのことで」

「ものは言いようっすね。でも昨日の件で警備の人間減っちゃって、今うちに要人警護に回す余分な人員ないんすよ?」

 その理由の大半がアリスベルによる閃光手榴弾の被害なのだが、そこには敢えて触れない。

「まあねえ、通常警備だけなら回るんだけど他には回せないかな」

 ということは、アリスベルの手が空くまでは自分一人でその王族とやらの警護をしなければならない。何事もなければ自分一人でも十分なのだが、いざドンパチとなれば自分が味噌っかすなことは百も承知だ。

「外注で要因を手配してるから。おっかけで合流させるよ。知ってるでしょ、ブシドーちゃん」

「ああ」

 その曖昧な相槌には安堵と不安が同じ分量だけまぜこぜになっていたが、とにもかくにも自分に選択肢がないことには変わりはないのだ。

 そこまでを思い出してふと我に返る。

「まあ、あいつが来るんだったら最悪でも死にゃしないか」

 『武士道』と呼ばれたフリーの用心棒とは仕事で何度か面識はあった。確かに実力は申し分ないし支払い分の仕事はきっちりやってくれる。ただ、

「武士道かって言うと、なんか、ちょっとな~」

 椿の知る武士道の概念と、コードネーム『武士道』がどうしても脳内で結びついてくれない。

「ってか、時間だってのにあいつまだ来てないし」

 現地で落ち合う約束になっていたのだが、ラウンジの時計を確認すると約束の時間を既に四半刻ほど過ぎている。

 パートナーの遅刻という、B級物語にありがちなバキバキの死亡フラグにため息を漏らしていると、ラウンジに人間タイプの一行が姿を現した。

 改めて確認するべく椿は手もとのメモを確認する。

(一枚布を巻きつけたような民族衣装に……シルバーのアクセサリー。艶やかな黒髪、黒目……年の頃も、多分そうだな)

 四名からなる一行だったが、そのうちの一人、他の三人に囲まれるようにして現れた少年がそれらしいと確認すると、椿は歩み出て恭しく頭を下げる。

「人違いでしたら失礼。ジュナ・ル・ナーガーラ様ご一行でよろしいですか?」

 慇懃にならない程度の敬意を込めた落ち着いた口ぶりに、どうやら相手もこちらをそれなりの人物と評してくれたのだろう。

「ご丁寧にありがとうございます。仰せのとおり、ジュナ・ル・ナーガーラです。ガーネット・LL・サニーデイズ様より伺っております」

 そう言って頭を垂れる所作は気品にあふれるものだった。小さな動作の一つ一つにまで繊細な注意が払われる様は実に洗練されていて、それでいて不自然さや取り繕った様子がない。隣で主に従うように礼をする付き人も決してオーバーアクションではないものの、慎ましやかな動作にこちらへの敬意、ひいてはそれに対峙する主への忠誠が見て取れた。

(へえ、この人ほんとにいい人なんだ)

 従者の質はそのまま主人の仁徳に直結することが多いが、そういう意味では目の前の自分とさほど年の変わらぬ人物はそれなり以上に王たる資格を持っているらしかった。

(ちょこっと話したぐらいじゃわかんないか……こういうときベルがいると便利なんだけどな)

 アリスベルのそうした事柄を本能的に見抜く感覚は、直感の一言では説明しきれない精度を持っている。なんてことを考えていると、

「失礼ですが」

 従者の一人、ジュナの半歩前を歩いていた同じく民族衣装の男性がジュナと椿の間に割って入るように歩み出た。

「サニーデイズ様より、本日の御迎えおよび警護は二名と伺っておりますが」

「え~っと、そのはずだったんですが一名が少々遅れておりまして……ですがご安心を」

「それはつまり、我々が小国であると軽んじられている、ということですかな?」

 神経質そうに撫でつけられたオールバックの髪はジュナと同じく黒髪だが、敵意を隠そうともしない視線ははっきりと不快感を投げつけている。

「それとも、あなた方は約束事を違えても何とも思われない類の方々で」

「ラフタ殿、何もそのような」

 止めに入ったのはもう一人の男性だ。こちらも同じく民族衣装に身を包んではいるが頭髪はない。禿頭は自ら剃っているらしいので、そこに気を遣う必要はなさそうだと椿は内心で小さく安堵する。

 もう一人はジュナと同じくらいか少し年下の少女だが、こちらはおろおろと二人の男と主人たるジュナの間で視線を泳がせてただただうろたえるばかりだ。どうやらこの中では最も位が低いのは彼女らしい。身なりも他の三人に比べるといささか質素なものを身につけている。

「しかしナルガ殿、このような無礼を許してはゆくゆくは国王となられるジュナ様の」

 怒りというよりは忠誠心から来るのであろう弁は俄かに熱を帯び、今にも掴みかからんばかりにヒートアップ。さすがにこれ以上はまずかろうと、謝罪の言葉を選んでいると。

「ラフタ殿、お気をお沈めください。サニーデイズ女史はそのような方では決してございません。それは父である国王の言葉より、私がよく存じております」

 静かな、しかしよく通る凛とした声音だった。

 穏やかな口調は咎めるでもいさめるでもなく、ただ粛々と事実を述べているという風だが、その落ち着き払った口ぶりには有無を言わせぬ圧があるのもまた事実だった。

「あなたのその熱心な忠誠はいつもありがたく思っております。ですが、ここは私に免じてその熱意を静めてはいただけまいか?」

 うまいな、と椿は素直に思った。こういう物言いをしておけば臣下のメンツをつぶすことなく、しかしこれ以上は主の面目にもかかわるのだと暗に示すことができる。加えて、威圧するでもなく、かといって媚びるでもないその態度はまさに王たる器のなせる業なのだろう。

(王位継承権者なんていうからどんな傍若無人な緒が来るかと思ったら、こりゃ命狙われるわ)

 感心する椿をよそに、ラフタと呼ばれた男性は口を閉ざし、恭しく頭を垂れていた。

「大変失礼をいたしました。何か事情がおありなのだと思います。え、と……」

「椿・アレクサンドリア・リンと申します。椿、でけっこうです」

「では椿さま、こちらにおります間よろしくお願いいたします」

 着き従う三人も合わせて頭を下げる。

(ん?)

 その時にちらりと垣間見えたラフタと呼ばれた男の表情に、何やら苛立ちのようなものが混じっていたことに、どうにも違和感を禁じ得なかった。

(たのむよ~、内ゲバなんて持ちこまないでよね~)

 そんな内心を鉄壁の笑顔で隠しながら、椿は踵を返して四人を誘導する。


 送迎用のロータリーに一行を案内した椿は、自身が運転してきたリムジンに近づくと運転席の窓を軽くノックする。中では明らかに背丈の足りていない少女、クロエが運転席から眠そうにこちらを見上げていたので、人差指でロックの場所をトントンと叩いて解除するように促す。

「ありがとね。誰か座ってりゃ駐禁取られることもないからさ。変なの来なかった?」

「寝てたから、わかんない」

 ネコ科の獣に似た耳をもぞもぞと揺らしながら、クロエは這うようにしてナビシートに移動する。どうやら何事もなかったらしいので何よりだ。

 クロエを連れてくるかどうかは最後の最後まで迷った。

(ベルがいりゃ何の憂いもなかったんだけど、相手が満貫商会じゃな)

 クロエを狙うのはどちらかと言えば満貫以外の薬にかかわる十把一絡げの組織だが、昨日カジノで暴れた男の口からその名が出た以上、警戒しないわけにはいかない。

(まあ、仮にマジで満貫商会だったら何やってもやべえんだけどな)。

「まさかこちらお二人目、とでも?」

 背後からいきなりそう声をかけてきたのは、ラフタだった。その声がどこか刺々しいのは、もしもそうだったら今度こそ容赦しないという脅しの意味も含まれているのだろう。

「こちらは私の従者です。もう一人は今こちらに向かっておりますが、ガードとしての優秀さには折り紙つきのものが参りますのでご安心ください」

 余計な説明はあらぬ誤解と余計なトラブルの種でしかないので、従者ということにしてさらりと流しておくことにした。

「ならよいのだが」

 ジュナからは決して見えないように吐き捨てるが、さすがにそれ以上無駄なやり取りをするほどには軽率ではないらしく、ジュナを始めとした他の一行を後部座席へと誘導していた。

 これ以上余計な刺激をするのも不毛だと考えた椿はそこでは手出しはせず、四人ともが乗り込んだのを確認すると運転席に滑り込み、ボタン操作で後部のドアを閉じる。

「もしお飲み物がご入り用でしたら足元に冷蔵庫がありますのでご自由に」

 全員がきちんとシートに収まっているのをミラーで確認し、エンジンを始動させる。ふと隣を見るとクロエがシートベルトにかじりつくようにがちがちに緊張して顔をこわばらせている。

「だいじょぶだよ。ここまでくるんであたしは安全運転だってわかってるだろ?」

 その言葉を証明するように動き出したリムジンは、滑らかな挙動で加速してゆく。

 外の地域とゲート地区をつなぐ唯一の交通網であるハイウェイで街に戻ることになるのだが、インターチェンジを抜けたあたりでふと椿の脳裏に微かな不安がよぎった。

 もしも自分が誰かを襲うのなら、このハイウェイは格好の場所である、と。

 道路とはいえ、ハイウェイは出入り口さえふさいでしまえばある種の密閉空間。少々の情報不足があっても襲撃対象を特定するのはたやすい。最悪、片っ端から襲撃するにしてもさほどの手間はかからない。

(な~んちゃって)

 我ながら悪趣味なことを考える、とミラー越しに後部座席にばれないように苦笑いを浮かべると、ポケットから取り出した棒付きのキャンディーを口に放り込んだ。安っぽいジャンクな甘さが口の中に広がったが、今の自分にはこのぐらいの甘さが丁度いいと自嘲したところで、

「うっそ……」

 前方に煙が上がっているのを見つけてしまった。

 まだまだ距離はあるが、このままの速度ならそう時間はかからない。とっさにブレーキに足が伸びかけるが、それこそここで車を止めるなんて最悪の選択だ。対向車線に乗り込んで逆走という手も考えたが中央分離帯がほとんど途切れなく設置されているせいでそれが可能な場所も見当がつかない。最悪、切れ目を探して走っているうちに煙のところに辿り着いてしまう。

 見る間に立ち上る煙は大きくなり、根元で何かが爆発炎上しているらしいことも見え始める。

 さすがにこの距離になると後部座席にいてもはっきりとその異常事態は目に映る。

「おい、あれは何だ! まさかジュナ様を狙って」

 シートにしがみつくようにして身を乗り出してきたのは案の定ラフタだ。オールバックを撫でつけるのに使った整髪料の匂いが鼻を突く。

「とりあえずそうじゃないとは言い切れない。ってか、狙われるような心当たりあんの?」

 ほとんど事情らしい事情を聞いてはいない椿だったが、異国の王位継承者が亡命してくる時点である程度は察しがついている。それでも、

「そちらに言う必要はない。ただ、ジュナ様の身を危険にさらすような真似はできんと言うだけだ。今すぐ車を止めんか!」

 物は言いようだ。が、

「だったらなおのこと車は止めるべきじゃないかな」

「何を言うか! 何が起きているのかもわからぬところにこのままおめおめと突っ込むなどどうかしている! 今すぐ引き返して」

 息まくラフタは今にも運転席に飛び出してきてハンドルを奪いにかかりそうだが、幸い後部座席との間には間仕切りがあるためおいそれと超えることはできない。

「残念だけど、これが車の後部カメラのライブ映像」

 椿がそういうと、後部座席に取り付けられたモニターに車両後方の映像が映し出される。

 そして、その中でも前方の光景と同じように黒煙が真っ青な空に向かって立ち上っていた。

「最初はあたしも引き返そうかと思ったんだけど、どっちに行っても結果は同じになった」

 こればかりは不幸中の幸いだった。もしも先ほど煙に気付いた時点で分離帯に切れ目があれば、迷わず椿は車を逆走させていただろう。

 しかしこれとて消去法での最善手でしかなく、打開策ではないのは百も承知している。ただ、

(一個だけ可能性があるとしたら……あいつ、なんだけどな……)

 自分が賭けようとしている一つの可能性を思い浮かべて、思わずげんなりする。

 もちろんそんな思惑などつゆほども知らないラフタは、尚も身を乗り出しながら今度は車を止めるようにと声を荒らげている。

「何言ってんの? それこそ最悪の選択肢だよ。こんなとこで降りてどうすんの?」

「決まっている! 徒歩で危険を回避するのだ」

「ないね。賭けてもいい。向こうはこの状況に追い詰められて車を捨てたやつを追うための手段を用意してる。王子様が目当てだってんならなおさらだ。生け捕るにしても殺すにしてもね」

 車内が一瞬水を打ったようにしんとするが、さすがは将来の王様候補。

「ラフタ、ここは椿様のご判断にゆだねましょう。この世界のことは彼女の方がよくご存じです。それに、素人の私にも彼女の言葉が合理的であることはわかります」

 まさか自分が狙われているかもしれないこの状況で、よくぞここまでと感心するほどの落ち着き払った声音は、一瞬にして車内の不穏な空気をぬぐい去ってしまう。。

「まあ、ある程度信用してもらっていいよ。この車はただの成金趣味のリムジンじゃなくて、うちのホテル自慢の要人移送用の装甲リムジンだから。ガワの防弾対爆処理はもちろん、対魔術構成をフレームに練り込んでるから魔法や呪いもこの中にいれば大丈夫」

「それは心強い。というか、この世界には魔法まであるのですね」

 穏やかに微笑むジュナだが、この状況でそこに驚くのかと改めてその豪胆さに椿は感心する。

「ってわけだから、何かあった時に突っ切れるようにちょっとスピード上げます。しっかり掴まっててくださいよ。あと、舌噛むから喋らないように」

 椿の一括にさすがに場をわきまえたか、しぶしぶといった様子で口を閉じると、元座っていた場所に引き返し、がっちりとシートの肘置きを掴んでいる。とはいえ、

(このまま突っ切らせてくれる相手ならいいんだけど、ここんとこのあたしの周りで起きる事件考えると、やっぱ無理なんだろうな~)

 ミラーに映らないように僅かにそっぽを向いて目じりを垂れさせ、軽くため息。

 前方を確認すると、煙が立ち上る場所は変わってはいなかったが、先ほどよりも煙の柱は濃く、太くなっているように見えた。

「ありゃ~、どうみても増えてるよな」

 そうぼやく間にもまた一つ、煙の根元でオレンジ色の爆炎が上がり、もうもうと黒煙を吐き出し始めている。もはや、あの場所で無差別に通行車両を爆破しまくっている不埒ものがいるのは確定事項だ。あとはそいつらがそこで何をどうしているかだったのだが、

「うわっちゃ~、最悪だ」

 後部座席に聞こえないように可能な限り声を殺しはしたが、その響きには絶望が色濃く込められている。

 ほぼ直線とはいいながら実質はかなり緩やかな弧を描いたハイウェイの、壁の向こうに見えてきたのは被害者と思しき気の毒な車両の数々。それがバリケードのごとくそこかしこでひしゃげて炎と煙を上げているのだが、問題はその壊れ方だった。

「事故……だらけ」

 ナビシートのクロエの言葉の通り、その場にいる車両はことごとくが別の車両との正面衝突、もしくはそれに近い形で激突して無残にも粉砕されている。中には衝突を避けようとしてハンドルを切った結果車線を飛び出して壁に激突、炎上したらしいものまである。

 それが二車線ある道路のいたるところに障害物として点在しているのだ。

 さすがの椿もこれには減速して障害物をよけることに専念せざるを得ないのだが、ただでさえ全長の長いリムジン。小回りの利かないこの車両では全てを避けるわけには行かず、やむなく自慢の装甲を生かして強引にこすりつけながらすり抜け、時には邪魔な車両に突っ込んでは押し退けながら進んでいたのだが、当然それを黙って見過ごしてもらえるとは思ってはいない。

「やっぱそうなるわな。王子様、ちょっと揺れるからちゃんと掴まって」

 そう言って前方に向けた視線の隅っこに、悲鳴を上げる直前のクロエの口元をとらえ、

「口閉じろ舌噛む!」

「ひぎゅ、んっ」

 短くそう告げるのが限界だった。

 実際に口が閉じられたかどうかは確認できなかった。

 クルーザークラスの大型車とトラックの正面衝突でできた大きめの障害物を押しのけながら進んだところへの、丁度死角になる位置からの突貫にはさすがの椿もなすすべはなかった。辛うじて急加速気味にアクセルを踏み込み、長大な車両を振り回すようにして回避行動に移りはしたが、それとて衝突位置を正面から僅かに左前方へと変えられただけにすぎない。

 凄まじい衝撃に、突飛ばされるような衝撃を感じたがそれだけで済んだのはこの重装甲リムジンだからだ。それが証拠に、突っ込んできた方の車はその衝撃に耐えられずに元の半分ほどに圧縮されてほとんど原形をとどめてはいない。

「くっそ、無茶苦茶しやがるな。まあでも、真正面に突っ込まれなくてよかった」

 椿がアクセルを踏み込むと、リムジンは何事もなかったかのように力強く障害物と化した乗用車を押しのけて進み始めたのだが、

「ま、そんなもんだろうな」

 達観したような落ち着き払った口調は、十代半ばの乙女のものとは思えない迫力を醸し出していたが実際は違う。これはただの諦めだ。

 無理もない。さしものリムジンも、目の前を壁にふさがれては手の打ちようがない。

「無茶苦茶だな、こいつら」

 丁度そこは山の裾野を抉りこむようにして道路が敷設されている区間なのだが、無理矢理に山肌を崩れさせてその土砂で道路を塞いでいるという、ごり押しの力技だった。。即興のバリケードは、低い場所でも優に椿の身長の三倍ほどの高さがあり、それこそキャタピラを装備した特殊車両でもなければ乗り越えられないだろう。

 しかもご丁寧に、反対車線にまで土砂は流れ込んでいて、どうやっても車両では向こう側に行けないようになっていた。しかし、

「みたところ、もう突撃用の車両は周囲には残っていないようだな」

 ラフタが車内から周囲を確認してそう告げたように、見える限りでは自走できそうな車両は自分達のリムジンを残すのみに思えた。

「となれば、あとはこの車両から出て目の前の土砂を超えてしまえば」

 ラフタの言葉に安心したか、ナルガも禿頭を撫でながらフロントガラス越しに前方をのぞきこんでいる。確かに車で登るのは不可能な傾斜だが、人の足で超えるのはさほど難しくはないだろう。しかし、

「こっから出るのはお勧めしない」

 椿は直感していた。それこそが、この惨事を引き起こしたやつの狙いだと。そして、

(間違いなくこれは、この王子様狙っての襲撃だ)

 しかし、そんな椿の推測など知る由もない一行にとっては、今こそがこの窮地を出する千載一遇のチャンスに見えるのも無理もない。

「とどまれば背後から増援がきてしまうだろう。その前に向こう側に逃げて」

「残念だけど、その増援ってのはもうそこにいるんだよな~」

 それこそが、椿の推測の裏付けだった。

 何をおかしなことを、そう言いかけて思わずラフタが言葉を呑みこんだ。

「あ、あ……れ、は?」

 目を見開いて絶句しているが、悲鳴を上げなかっただけ大したものだ。

 車外では、無数の事故車両から這い出した死体が列をなして歩み寄ってきているのだ。そいつらが既にこと切れいているのは、生者とは一線を画した意思を感じない動きからも瞭然だ。中には首が本来曲がってはいけない方に曲がってぶら下がっているのもいたりしたが、総じてその動きのキモさで死体であると断定できた。

「ま、わかりやすく言うならゾンビが一番近いかな?」

 昨日までの自分であればそんなことを口にするやつには鉛玉をくれてやっていたところだ。

「こ、この世界にはかような異形まで存在するのか……たまげた」

 こちらはラフタに比べてまだ冷静さを保ってはいるようだが、無数のゾンビが歩み寄ってくる光景にはナルガも禿頭に手の平を置いたまま圧倒されている。

「クスリでメンタルをおかしくして特攻させて、死んだ連中をゾンビにして操ってるってとこか。ホント、丁寧なプロのお仕事ぶりに感心するわ。っつか、マジであの薬ゾンビ造るんだな」

 まだあのドラッグによるものとと決まったわけではないが、少なくとも椿には他にゾンビを製造する方法など心当たりがなかった。

(ま、仮に他の方法で造ったゾンビだったとしても、大ピンチなのはかわらんけどな)

 そして、そのプロが狙ったのはまさにこの状況なのだろう。自慢のリムジンの足を袋小路で封じてゾンビ連中に取り囲ませる。紛れもなく、ジュナを狙った計画的な襲撃だ。

「しかし、この無敵の装甲リムジンの中におれば安全なのでしたな? あのような化け物の襲撃程度ではびくともしない、のでしょう?」

 何かにすがるようなナルガの声は少々震えている。

 確かに言う通り、この中にいるのが最善の策であり、これだけ大規模な事故であればハイウェイパトロールどころか地域の治安部隊が駆け付けるのも時間の問題だ。それを待つのが最善で、この車の装甲がおいそれと破れるものではないことは熟知している。

 が、その選択肢が消滅したのは、まさにその可能性について思い至ったのと同時だった。

 小さな体をさらに縮こまらせ、恐る恐る窓の縁から目から上だけをのぞかせて外を眺めていたクロエが、不意にぽつりとこぼした。

「なんか、変。こっちに来ないこっちこなくて、車の方に行って、車、壊して」

 話を聞いていたのはそこまで。次の瞬間には運転席から外に飛び出し、クロエに内側からロックをかけるように指示していた。

 周囲の事故車両が燃える熱と、爆風で吹きあげられた砂利が砂嵐のようだ。車両が燃え盛っているせいで不規則な風が吹き荒れ、まともに目も開けていられない。

 それでも外に出た椿は、今まさに進行する最悪のシナリオを目の当たりにする。

「いくらあのゾンビ連中が人間の限界超えた力で襲ってくるっても、こいつの装甲には歯が立たないはず。でも、残念なことに弱点はある」

 クロエの言葉の通りに手近な事故車両にとりついたゾンビ連中は、力任せに車両を破壊し始めている。あるものは外装を引きはがし、あるものは力任せに石や落ちているパーツをたたきつけて破壊しているが、そのどれもが決まってある一点を破壊の対象にしていた。

 やがてある程度の破壊が進むと、次にゾンビたちが手をつけたのは、それぞれの車の燃料タンクだった。外装を壊した車両をひっくり返し、もしくはタンクそのものに穴をあけ、中に残っていた燃料を外にぶちまけると、あろうことかその中に次々に飛び込んでいく。

「やってくれるわ。自爆特攻じゃねえか。ソレされるとさすがに自慢の装甲も鉄鍋だもんな」

 銃弾も爆撃も魔法も通用しない鉄壁の鎧、走る要塞。しかしその唯一の弱点は、中にいるのが人間だということに他ならない。どれほど装甲が頑丈であろうと外から火であぶり続ければ、例え車両が無事でも中はいとも簡単に致死温度達する。仮に、どれほど断熱効果を上げたところで燃焼で酸素が失われれば結果は同じ。

「これ、どう考えてもあたしらのことピンポイントんで狙って……って、とりあえず今は」

 ジャケットの懐から取り出したのは愛用のオートマチックの拳銃だ。普段ならこれ一丁懐に入っているだけで随分と心強いのだが、

「今日に限ってはこれがしょっぼく見えるな」

 皮肉るように零しながら、歩み寄るゾンビ連中に銃口を向ける。

「って、なんちゅうもん持ってんだ、このあほが!」

 迷わずぶっ放したのは、あろうことかガソリンタンクを抱えている一体のゾンビにだった。

 狙うはゾンビの方ではなくガソリンタンクの方。

 一発、二発と銃弾をぶちこむが乾いた金属音とともにタンクに銃弾がはじかれるだけで穴も空かない。椿の持つ三十二口径では威力が足りないようだ。

「くっそ、やっぱアニメや映画のようにはうまくはいかねえか」

 舌打ちしながら今度はゾンビの膝に狙いを定め、三発目の引き金を引く。見事に銃弾は膝を貫通し、自らの体を支えられずにその場でひっくり返ったる。その際に落としたタンクの中身に周囲の火の粉が引火して瞬く間にそのゾンビと周囲の二、三体が炎の柱に呑みこまれる。

「うわ! やっべやっべ」

 ガソリン残量のせいか、思いのほか派手に燃え上がったのに焦りながらも、椿はその燃え上がったゾンビ数体の膝を狙って的確にその足を奪っていく。

「地味な作業だけど、今できんのはこれだけなんだよな~。っつか、あいつまだかよ、も~」

 愚痴りながら今度はガソリンでびしゃびしゃになった一体の眉間を狙って一発。しかし、頭を打ち抜かれたぐらいでは歩みが遅くなることもなく、仕方なく今度は腰から下、できるだけ膝付近を狙って足を奪うことに専念し、さらに数体のゾンビを立ち上がれなくする。

 しかしそれもその場凌ぎの効果しかなく、起き上がれなくなったゾンビは今度は這いずって、燃え盛る体のままで何かに取り憑かれたようにこちらを目指し続けている。

 三本目のマガジンへの交換を終え、とりあえず一瞬でも足を止められるからと這い寄るゾンビの脳天に鉛玉をぶちこみ、その合間に遠目から歩み寄るゾンビの膝を打ち抜く。繰り返しの単純作業だが、さすがに拳銃を打ち続けた疲労は軽くない。ついには、

「っ! くっそ、外した」

 這い寄る連中の眉間を狙った銃弾が逸れて、アスファルトに兆弾。その際の火花で一体のゾンビが引火して炎上。ほどなくしてそいつは体が炭化して動かなくなったので結果オーライではあるが、到底それで喜べるはずもない。明らかに命中精度が落ち始めていた。

「やべえな、これじゃ膝なんて狙ってらんないぞ」

 予備のマガジンはリムジンのトランクに山と積んであるので弾ぎれの心配はない。しかし、肝心の撃ち手がこれでは足止めもままならなくなるのは時間の問題だった。

「めっちゃ手え痛い。親指の付け根が痛い」

 愚痴りながら放った銃弾は辛うじて一体のゾンビの太ももを掠めたが、足止めにもならない。

 癇癪を起しそうになるのを必死にこらえて奥歯を噛み締め、

「おっせぇっつーの!」

 背後から近づく音に気がついて、思わず怒鳴っていた。

 聞こえてくる音は空気を震わせる低音で、独特のリズムは心臓の鼓動を思わせた。

 どっこどっこ、という機械的なリズムが次第に地響きのようなドドドドという振動に代わり、音の出所が背後の土砂の山を向こう側から駆けあがっているのが背中に伝わる振動でわかった。

「霧雨ぇ!」

 振り仰いだ空を、巨大な影が横切った。

 メタリックなボディは陽光を反射してギラつき、縦長なフォルムは駿馬を思わせたが、天高く突き出したチョッパーハンドルのおかげでそれがオートバイであることはすぐに分かった。

 小さなタンクはこれでもかとピンククリスタルで隙間なくデコられ、二本出しマフラーは天にも突き刺さりそうなほどに高く突き出し、ハンドルに至っては実用性皆無のチョッパーハンドル。あれに椿が乗れば間違いなく万歳しっぱなしの間抜けな運転スタイルになるはずだ。

 そんな見た目もエンジン音もド派手なクルーザータイプのバイクがジャンプ一番登場したかと思うと、その慣性のままゾンビ軍団に突っ込み、

「あ、轢いた」

 行きがけの駄賃とばかりに三体のほど頭を轢き潰した。しかも内一体に関しては着地の際のウィリーのまま前輪を頭に叩きつけて轢き潰すという荒技だ。

 ただ、そんな光景の中で何よりも目を奪うのは、ド派手なバイクでもえげつないゾンビの倒し方でもなく、そのライダーだというのだから世の中というのは度し難い。リムジンの車内では、あのジュナでさえもが登場人物の異様さに思わず目を見開いている。無理もない。

 誰が、ド派手なカスタムバイクに乗っている花魁なんて想像できるだろうか

 一つに束ねたサイドテールのロングヘアは黒髪に金色のメッシュ。化粧は控えめでも一目で美人とわかる顔立ちは、派手ではないもののどこまでも妖艶で、特につり目気味の目じりには言い様のないエロティシズムが漂っている。

 しかし何より特筆すべきはその服装だ。

 うなじから背中までが大きく見えるように着つけられた着物は赤と白を基調として色とりどりの花がこれでもかと咲き誇っている。太もものあたりでたくしあげられて艶やかな太ももがあらわになるその着こなしは、極めて高レベルなプロポーションを有するものだけに許された特権なのかもしれない。どいつもこいつも、胸のでかいやつはこぞってそのたわわに過ぎる北半球を露出させるのに、椿は本能的に殺意を覚える。

 足元が、どうやってそれでバイクを運転してきたのかと問いたくなるポックリ下駄なのは、もはやここがそういう世界だからだと納得したくなる異様さだ。

 とにかく、頭のてっぺんから爪先の先、下駄の先まですべてが異様さで構成されている。華やかさと毒々しさの絶妙なバランス、それが、

「よ、ひっさしぶりだな、つばりん。この霧雨姉さんが来たからにはもう安心だ」

「うっせえ、てめえが時間通りにきてりゃこんな事にゃなってねえんだよ。駄目ブシドー」

 フリーの用心棒、『武士道』こと切雨霧雨だ。

「あと、あたしのことツバリンってよぶな。切雨霧雨」

「椿なんちゃらリンでツバリン、かわいーじゃーん。つれないな~、あーしとツバリンの仲じゃん、あーしのこといい加減キリリンって呼んでくれよ~」

「人の名前をなんちゃら言うな。死んでもご」

 「ごめんだ」そう言いかけた途中で、霧雨のすぐ背後にいた燃え盛るゾンビがゾンビらしからぬ跳躍で、未だ車上の霧雨に向かって飛びかかった。

 声を発するのが一瞬遅れてしまった椿だったが、どうやら無用だったらしい。

「いまあーしがキリリンとしゃべってんだろ! 邪魔すんじゃねえ!」

 振り返りもせずに怒声一発、霧雨は腰にぶら下げていた反りのある刃の柄に手をかけ、

「え?」

 そのあとは全く何が起こったのか、見えなかった。

 ゾンビが霧雨に向かって飛びかかったと思った次の瞬間、少なくとも十以上に斬り分けられた人体のパーツがバイクの周囲にばらまかれたのだ。椿の眼には霧雨が動いたということはわかったが、どう動いたのかは全く知覚できなかった。最後に、刃をさやに収めた時の微かな金属音だけが耳に残っている。

 それがどれほどの技量であるかは椿にはおよそ想像もつかないが、ただただえげつない領域なのだろうということが分かるだけだ。

 そんな霧雨だったが、今しがた切り捨てたゾンビのことなど毛ほども気にしている様子はない。それどころか、そんな凄まじい斬撃の直後だというのに腑抜たような声で、

「あ、こいつ、切ってもよかったんだよな?」

 ダメだったらどうするつもりだったのか、とは聞くのもおぞましいが仮にそうだったとしてもケロリとした笑みで「仕方ない」の一言で片づけるのだろう。こいつはそういうやつだ。

「安心して。見ての通り思う存分切り放題だよ」

「よかった~。さすがに関係ないの切っちゃったら後始末面倒だからな。そうそう、前に護衛対象切っちゃった時は大問題になってビビったね。半月ほどばっくれてたもんなあはははは」

「あははじゃねえよ、何をどうやったらそんなことになんだよ!」

「しゃーねーじゃん、だってあのクソ豚、手が滑ったなんて言いながら乳触りやがったんだ。だからお返しに手が滑ったっつって手首切り落としてやった」

 気持ちはわかるがやりすぎだ。でも、

「今はそんなあんただから頼もしいわ」

「お、うれしいね、ツバリンに頼ってもらえるなんて、濡れちゃいそ」

「あほなこと言ってないで。今回の護衛対象(パピー)は車の中の王子様。敵はそこにいるゾンビ全部」

「ゾンビ? 何それそんなんほんとにいんの?」

「本当にゾンビかどうかは知らないけど、あれは死体が動いてんのよ。現に見てみりゃわかるでしょ。死体を魔法で操ってんのよ……たぶん」

「たぶんて。んにしても魔法な~、あーしあれ苦手なんだよな」

 露骨に面倒くさそうに顔を歪めているが、その片手間で瞬く間に二体のゾンビを五体ばらばらに切り刻んでいる。当然椿にはその斬撃は見えず、ただ唐突にゾンビがばらばらになっただけにしか思えない。

「苦手でも何でも向こうはそれで死体動かして王子様狙ってくるんだから仕方ないでしょ」

「ほーん。んで、そいつらを死体にするためにわざわざこんな事故まで起こして?」

 顎をしゃくって示したのは、絶賛炎上中の事故車両多数。

「自爆特攻で足止めされたと思ったら、乗ってた連中の死体が、動き、だし……て」

 自らの言葉がどうしても腑に落ちない。喋りながら、自分の言っていることがどこでバラけてどうすれば繋がるのかがどうしても見えてこない。そのことがどうしようもなく引っかかる。

 そこに突き刺さったのは、霧雨のストレートな物言いだった。

「あほくさ、なんでそんなめんどくさいことしてんだよ。んな面倒なことしなくても、最初っから死体をぶっこむ方がなんぼか効率いいだろ」

 そう、確かに効率が悪いのだ。わざわざ一度薬漬けにしてそいつを操って特攻させ、さらにその死をトリガーに死体を動かす魔法が発動する。

 その段階を踏むこと自体がすでにリスキーだし、そう何度も通じる手じゃない。それこそ一回こっきりの奇襲、鉄砲玉なんかなら効果的なのだろう。それも知れ渡ってしまえば効果は半減以下だ。それなら最初から死体を動かして不死身の鉄砲玉に仕立てる方がはるかに効率的だ。

(じゃあなんでこんな魔法をわざわざ)

 不意に浮かんだ疑問だったが、

「とりあえずさ」

 軽妙な霧雨の口調に椿ははっと我に返る。こんな最前線のど真ん中で思考に耽るなんて大チョンボも甚だしい。

 バイクから降りた霧雨が、腰からスラリと長い刀身を抜き放った。

 緩やかな曲線を描く美しい細身の刀身。炎を思わせる美しい乱れ刃の焼き入れは派手好みで華やかな霧雨にぴったりだ。これを『日本刀』と呼ぶのかどうかを霧雨に確認したことはないが、椿の知るそれと同じような使われ方をするのは想像に難くない。ただ、

「何だその鍔と柄は!!」

 思わず指差して抗議していた。少なくとも椿の知る日本刀の鍔と柄はクリスタルでデコられてもいなければ柄頭にこれまたクリスタル製の花のストラップもついていない。

「いいだろー、デコ太刀だ」

「でこ、たち?」

 めまいを覚えた。

「すわろふすきー、だって。あーし好きなんだ。いつか刀身全部をスワロでデコんだ」

 この世界にもスワロフスキーが普及していたことへの驚きはこの際思考の彼方に吹き飛んだ。代わりに思った。謝れ、全力で、全世界のスワロフスキーに、と。いや、もう、何も言うまい。

「報酬分は働いてくれよ」

「とーぜん」

 言って、ポックリ下駄を鳴らして踏み込んだ最初の一歩以降に、迂闊にも見とれてしまった。

 舞を舞っていた。。

 ゆるりと踏み出す足さばきが。しなやかにたわみ、伸びる体捌きが。クルクルと回るように流れる色鮮やかな袖が。振り抜かれる刀身が、完成された演舞を見るようだった。

 実際には凄惨極まる惨殺劇なのははっきりとわかっている。

 刃がひらりと流れるたびにゾンビたちの四肢がいくつもの肉塊に姿を変えて宙を舞い、霧雨の体がくるりと円を描けばそこにはいくつもの生首が重ったるい音を立てながらごろごろと転がる。血しぶきと水の詰まった肉袋がひしゃげる音が瞬く間にその場に充満する。耐えがたい生臭さにむせ返るような惨状。しかし椿の視線はどこまでも霧雨の動きに釘づけになっていた。

 そのことがどうしようもなく悔しいのに、視線を引きはがすことができない。

「ほい、これでさーいご」

 紙切れでも切り捨てるかのような軽い口調とともに振るわれた刃は、音もなく最後の一体の首と両腕を胴体から切り離し、返す刃が両膝を切り落とし、おまけとばかりに胴体を三つに切り分けた。

 椿の体感時間で言えば瞬き数回分ほどの時間で、その場は地獄絵図のようになり果てていた。

 そもそも無数のゾンビが蠢き、炎の柱がそこかしこに立ち上る光景も地獄のようだったが、今そこにあるのはまた別の地獄だった。

 数え切れない数の人間のパーツが無造作に転がり、はらわたが血だまりの中に浮かび、人の脂の焼ける臭いと血の生臭さにむせ返りそうになる。

 ふとリムジンの空調を内気循環にしていたかどうかが気になって慌てて振り返ったが、そこには窓越しに驚愕に固まっている三つの顔があった。どうやら空調は大丈夫らしい。これが外気取り込みだった日には、車内は多分ゲロまみれになっていただろうから。

 しばらくは警戒していた椿だが、この場にはもう危険はないことを確認できたところでひとまず肩の力を抜く。

「んで、遅れてきた言い訳は?」

 息一つ切らしていない霧雨を問い詰めた。

「ぅえっ、それ聞く? いーじゃん、間に合ったんだし。なかなかいい仕事したっしょ」

「間に合ってねえよ! 見ろこれ、手の皮剥けて痛いんだけど!」

 右手の親指の付け根を見せつける。真っ赤になって皮が剥ているのが痛々しい。

「んなもん日ごろの実戦不足のせいだろ。ちゃんと日ごろからムカつくやつを撃ち殺してればこんなことには」

「んなことしてたらとっくに豚箱だよ!」

 この無茶苦茶な世界も無法ではない。罪に対しては司法もあれば懲役刑もある。

「しゃーねーだろ? 待ち合わせまでにちょっと余裕あるからあんたんとこのカジノで時間つぶそうと思ったんだけど休みじゃん? 仕方ないからってんで近所の別のカジノに行くじゃん。そしたらこれが大正解でさ、カードで大勝ち」

 予想通りだったが、自らの内なる怒りをチャージするために椿は黙って耳を傾け続けた。

「ってなりゃあとはそのツキのままひたすら勝ち続けるって思うじゃん? だからルーレットの方に行ったわけ」

「で、ぼろ負けして、せめて突っ込んだ分だけでも回収しようとして泥沼、と」

「何でわかんの? やっぱカジノで働くだけあって勘鋭いなー」

 別段悔しくもなさそうに乾いた笑い声を上げる霧雨だが、椿はほとほとあきれ果てた。

「前にも教えただろ? カジノってのは基本的に胴元が勝つようになってんの。それは確率だのなんだのっていうあいまいなもんだけじゃなく、そういう仕組みなんだよ」

 たとえば今回の霧雨のケースでは、最初の勝ちこそ本当に運だったのかもしれないが、そのあとはすべてカジノが絵を描いていたはずだ。ルーレットのディーラーは好きな目にボールを入れられるプロ中のプロで、そいつが勝ち分として霧雨のところに行った金を回収、さらには追加で金を回収するところまでがカジノ側の目論見だろう。

 もしかしたら、最初にカードで勝ったのも運ではなく勝たせてもらったのかもしれない。カジノにおいて重要なのは、何よりも「本当に勝てるんだ」と客に思いこませることだ。

 当然、勝ち逃げされる可能性もあるだろうがそこはプロの仕事だ。

「あんたは多分、勝たせてもそのままじゃ終わらない奴だって見抜かれてんだよ。で、それはそれ。それで遅れてたら世話ねえだろ! 遅刻の罰で報酬減額すんぞ!」

 助かった今だから叩ける大口なわけだが、当然目的は説教なんかではない。

「え~、そりゃ困るって。今回の実入りはもう行き先が決まってんだから」

「どうせ借金返すんだろ。んなもんこっちには関係ない。せいぜい少ない元手でスロットでも回して増やせばいいだろ。あれなら基本は細工なしだ」

「んな殺生な~」

 さすがに時間に遅れたことには責任を感じているらしく、誤魔化しきれないとわかった途端に弱り果てたようにしょぼくれている。

 もちろんそれこそが椿の狙いだったわけで、

「わかった。今回限りで見逃してやる」

「まじか! ありがてえ、さっすがツバリンキリリンの中だ!」

「そんな仲はない。まあでも、ただでってわけじゃないけどな」

 にたりとほくそ笑むその顔は、十代の少女と言うよりは人をだまし慣れた老獪な詐欺師のそれだった。

「場合によっちゃうちの社長に増額を掛けあってやってもいい」

 もしくは、悪魔の笑み。


「何かございましたらそちらの内線をお使いください。VIP専用の直通回線ですので」

 そう言って恭しく礼をした椿は、、エレベーターの扉が室内のジュナ達の姿を切り取ってゆっくり三つ数えたところでようやく頭を上げた。ワンフロア全てが一つの部屋となっているロイヤルスイートへの出入りは、専用エレベーターを使用するのだ。

 燃え盛る事故車両とそこら中にばらまかれた無数のゾンビの残骸の中で足止めを喰らっていた椿たちは、ほどなくして到着したハイウェイパトロールに救助され、無事にホテルへの帰還を果たしたのが昨日の夕刻。

 無言の空間で思い浮かべたのは、ホテル到着直後のジュナ王子一行の様子だった。

 さすがに到着したその日は疲労の色を隠しきれない一行だったが、それでもジュナは凛とした態度を崩すことなく、その後の会食の際にも終始穏やかな笑みを浮かべ続けていた。さすがは王子というべき。

「やっぱ次の王様ともなればゾンビぐらいじゃ腰抜かさないんだな」

 さらに言うなら、その求心力だろう。

 ホテル到着の時には疲弊しきっていた側近ナルガとラフタの二人も、一夜明けた今朝の会食の時には初めて会ったとき同様の引き締まった表情で卓につき、終始ジュナの一挙手一投足に気を配ってはいたのだが、その視線にはゆるぎない信頼がありありとあらわれていた。

「で、今回はその忠誠心が問題ってとこか。あんまし胸糞悪いことになんなきゃいいんだけど」

 ぼそりとひとりごちたところでエレベーターは緩やかなGとともに減速。開いた扉から見慣れたフロアに一歩踏み出して、だらりと脱力した。

「なるだろうな」

 手元の携帯の画面に表示されるメッセージを追いながら長い鼻息を漏らした。

「忠誠心ってのも考えもんだね……ま、こっちはそれをまんまと利用させてもらうだけだけど」

 画面に表示されているのは、このホテルと外部の全ての通信ログ、正確にはホテル内に設置されたネットワークセンターを経由して行われる全ての通信のログだった。

 HDパレス・カジノリゾート内では、いかなる回線を使用するにしても一旦はホテル内のネットワークセンターを経由して発信する構造になっており、その管理権限を持っていれば外とのやり取りの全てを監視できるようになっている。

 もちろんこのことは関係者の中でもごくごく限られた人間にしか知らされていないことだし、これが公になれば通信の秘匿を脅かしたとしてお上に徹底的に叩かれる。のだが、

「あの社長の人脈ってのはどうなってんだ、って考えるのも怖いからやめとこう」

 この件に関してガーネットが「だいじょぶだいじょぶ。あたしその辺りの偉い人とお友達だから」と笑いながら言っていたのを思い出す。もちろん、仮に国家元首クラスの人間であったとしても、そんなことが個人的に許されないのはこのリゾートでも変わらない。

「でもそれができちゃうんだから、世界ってのは金持ちと権力者に優しくできてるよな」

 正確にはガーネットの場合はそのどちらかに属するほどの資産も政治的権力も有してはいないのだが、それを人脈で勝ちとってしまったある種の反則だ。どちらにせよ、

「運だけは尋常じゃねえからな。そういう理屈を超えたやつ等とは喧嘩しないのが一番だ」

 独り言をこぼしながらも携帯を操作する指は止まらず、目当ての通信ログを探し出した椿はその中身を問答無用で画面に展開させる。

 それは、この世界において一般的に普及している電波方式のパケット通信のもので、旅行者用に提供されているプリペイド式の通信契約を利用したものだった。

 と、ここまでであればそれだけで個人の通信を特定するのはおよそ不可能に思える。現に、どの通信契約が誰に割り当てられているのかは、直接端末や契約書類を見ない限りは、それこそ端末提供側からのリークを受ける他に確認する術はない。

「んだけど、うちのVIPルームには専用の回線を引いてて、電波も絶対にそこに行くようになってんだよね」

 部屋自体を完全に電波暗室にしてしまうことで、外部との通信の際に必ず室内に存在するアンテナを経由するようになっているのだ。そもそもの目的はVIPに快適な通信環境を提供することなのだが、今回はそこからの逆引きで端末を特定した、というわけだ。ちなみに、思い切り違法なので出るところに出られれば裁判で確実に負ける。ほぼ何でもありのこの世界においても、いや、こんな限りなく無法な世界だからこそ、司法には絶対的な権限が与えられている。

「さすがにやましいことするだけあって、盗聴を気にして電話使わなかったのは賢いとこなんだけど、残念相手が悪かった」

 それはメールの発信ログで、そこには発信者情報のほかに送信先のアドレスのほかに、本文までもが表示されているではないか。

「ほーん、やっぱ発注先は満貫か。んで、なになに? うっわ、えげつねえな」

 内容を要約すると、ハイウェイでの襲撃はジュナ誘拐を目的とした依頼に基づくものだったこと。そして、その失敗を埋め合わせる次の手を打つようにという指示だった。

「トラブル発生したその日のうちに次の悪巧みとは、なんともお仕事がお早いことで。でも、その焦りのせいで悪事がばれちゃうんだよ」

 言いながら、今度はホテル内のセキュリティ設定に手を加えていった。これで、特定の端末の通信は送受信問わず必ずネットワークセンターで一旦傍受することになる。

「こっから出られちゃったらさすがに追えなくなるけど。って、早速かよ。はは、きっちりしてるんだかせこいんだか」

 早々に傍受した文面に目を通して苦笑する。発信先は先ほどと同じ。内容は、失敗に伴う次のアクションに関する追加料金は支払うつもりはないというものだった。

「おかげでこっちとしては色々と動きやすいんだけどね。ラフタ君、だっけ?」

 端末を特定しただけでその持ち主に関しては確証はなかったが、ほぼ絶対の自信を持って椿は口の端にゆるい笑みを浮かべた。


 時計は少し巻き戻る。

「口の中、なんか酸っぱい」

「あとでルームサービスでたっかいジュース頼んだげるから」

 必死に胃のあたりの痙攣と戦っているクロエの泣きそうな顔に罪悪感が刺激されるが、こればかりは彼女を頼るしかない。

 とはいえ、さしもの椿でさえも地面に転がっているバラバラ死体の中から比較的原形をとどめているものを選んで、そいつに喋らせるというのはメンタルにくるものがあった。

「お~なになに? 喋る生首? どういう手品?」

 興味本位で覗きこんでいる霧雨には「そんなもんだよ」とぞんざいに返し、足元に転がる胸元から上だけの男の声に耳を傾けた。肺周辺がごっそり失われているせいでまともに声を出すことがままならず、耳を澄まさないと聞きとれないのだ。

 その死体が言うには、自分達は満貫商会とは直接は繋がりのない日雇い労働者で、クスリを買うための金を稼ぐつもりでこの仕事を受けたのだという。

「ただ足止めだけしてりゃいいって言われて、前払いでクスリ受け取ったらこうなった、と」

 呆れたように言う椿に、男は感情のこもらない動きでこくりと首を縦に振った。その微かな衝撃のせいで胴体の断面からいろいろこぼれ落ちたのは質の悪いジョークにも見える。

 絵に描いたようなジャンキーのなれの果てだと思えば憐れみも感じないが、さすがにこのえげつない使い捨てには同情を禁じ得ない。ともあれ、これで満貫が流通を握った例の術式ドラッグに何らかの手が加えられ、ゾンビ製造の効果が追加されていることが確定した。

「まーた満貫商会かよ。しかも、例のクスリが絡んでる時点でもしかしたらと思ったけど、今回のはがっつり裏で糸引いてんじゃん最悪じゃん」

 昨日のカジノ破壊男のように、ただのジャンキーがクスリで暴れたのとはわけが違う。今回の襲撃はクスリの販売元が意図的にそれを利用する計画を立てている。

 ただ一つ、息も絶え絶えの死体が語った言葉の中に「道楽魔導師の、バカげた研究の、失敗の副産物。廃棄物」という言葉が出てきたのは気にかかったが。

「これ、流通ルートがどうこうってレベルじゃなくて、もう満貫の商売に真っ向喧嘩売ることになるんじゃね?」

 そう口にしたところで、椿はその絶望の深さに思わず天を仰いだ。

「無理じゃん」

 地の果てまで逃げるか? 半ば本気でそうったが、例え世界の果てまで逃げたところであのオーバーライトから逃げ果せることはできないだろうという、さらなる絶望が思考に蓋をする。

「やめ。余計なこと考えずに、今はただ謎解きに徹しよう。うん」

 大局から目を逸らし、目の前の些事に思考を特化させることにした。ただの現実逃避だ。

「ねえ、もういい? もう喋れないんだって」

 苦いものを無理やり口に突っ込まれたみたいな顔のクロエが、唇だけを動かしてぼそぼそと尋ねている。肺に大量に空気を入れるとゲロを吐くのだろう。

「悪い、もういいよ。そいつただの鉄砲玉だからこれ以上は情報引っ張り出せないだろうし」

「おけ!」

 言うや否や、クロエは全力でダッシュしてリムジンに飛び込み、車内のクリーンな空気を肺いっぱいに吸い込んだ。片や、ネクロームで操られていた男の上半身はマネキンを落としたようにべしゃりと倒れ伏して二度と動くことはなかった。

「あのちびっ子の魔法ってわけか」

 「ほえ~」と間抜けな感嘆を漏らし、足元の死体とクロエを交互に眺めている。

「らしいな」

「らしいって、あーしは魔法とかそっち方面はさっぱりだけど、なに? 死人が生き返る魔法とかあんの? やばくね?」

「詳しくは知らないけど、生き返ってるんじゃなくて死体に言うこと聞かせてるんだとさ」

「なにそれ? それってさっきまでのゾンビとなんか違うの?」

「ありゃ死体を動かしてるだけだから、根本的に違うんだと。あたしも詳しくは知らん」

「違いがわからん。わからんが、なんかこう、やベー匂いぷんぷんだぞ」

 霧雨の言う意味とは違うが、確かにやばい匂いのする能力なのは間違いない。

 ただ、霧雨にとってはそれ以上の興味を引くものではなかったらしく、視線はすでにクロエから肉片まみれの地獄絵図に移されていた。

 同じ光景を眺めながら、椿の思考は先ほどの戦闘中に感じた違和感にロールバックされる。

「さっきも言ったけどさ、最初っから死体大量にかっぱらってきてその魔法とやらで動かしゃいいじゃん。何でわざわざ、生きてる人間を一回死体にしてんだって話だよな。死体なんて、この世界じゃ秒ごとにダース単位で量産されてるってのに。それこそ満貫ならてめえんとこの商品リストにありとあらゆる死体が登録されてんだろ」

 それは、見事なまでに椿の疑問符を言葉にして具現化したものだった。

 死体が作り出されるという事実そのものがあまりにも日常的すぎて、何故そのシーケンスをすっとばさないのか、という単純に過ぎる疑問を持つこともなかったのだ。

「たしかに、な」

「それこそ、生きてる人間なんて思った通りに死んでくれっかどうかもわっかんねえし」

 脳髄に電極をぶちこまれたかのようだった。

 そう。霧雨の言う通りなのだ。

 今回の一件で使われている魔法ドラッグやその他諸々の条件では、生きている人間が思った通りに死んでくれるかどうかという、最も肝となる部分が制御できないのだ。

 先日のカジノの暴走男然り、今日の鉄砲玉連中然り、確かに自ら死に赴くような行動は選択している。しかし、それはあくまでも『死にそうな行動をとる』でしかなく、確実な死がそこにあるかどうかは制御できていないのだ。言い換えれば、

「そういうことか。それが、『馬鹿げた研究』で、だからこれは『失敗の副産物』『廃棄物』でしかないってことか」

「どゆこと?」

 まったく事情のつかめない霧雨を置き去りに、椿は推論を組み立てて行く。

「やっぱこの術式ドラッグは本来の目的はゾンビを操ることじゃない。そっちじゃなくて、生きてる人間を死なせること、だったら?」

 それまで混沌として明確な輪郭を持たなかった違和感が、椿の中でみしみしと音を立てて形作られていく。

「生きてる人間を、死に結び付ける魔法」

 何ともぼんやりとした椿の言葉に、霧雨はひたすらにと眉をひそめているが、構わず椿は自らの思考を言語化する。

「たとえばあんたが、人を殺せって言われたらどういう方法を取る?」

 いきなりすぎる質問だが、そこはさすが切雨霧雨。

「ぶった切るなりぶん殴るなり」

 即答が清々しいが、この即答こそが椿の思考を更に加速させる。

「そ。手段はいくらでもある。でも、それはあくまでも、斬った結果死ぬ、殴った結果死ぬというだけで、直接相手に「死」という状態をもたらすだけじゃない。つまり今回の騒動の中心は、手段を問わずに「死」という状態に至らしめる、結果を求める魔法なんだ。そして、それが肝なんだよ。ゾンビは多分、その副産物でしかない、と」

 もちろん、そんなことに何の意味があるのかと問われればさっぱりだ。先ほどの話ではないが、対象の殺害が目的なら方法なんて無限にある。ドラッグを使用して魔法の制御下に置かれた存在に「自らを殺せる行動」を選択させるぐらいなら、それこそ霧雨の言った通り直接暴力を行使する方がはるかに手っ取り早いし確実だ。それでもこんな面倒な手を取る理由は、

「それが、狂った実験、とか?」

 ありそうにないな、と思いながら、再び思考が混沌に落ちるのを止められない。

 ただ一つ導き出された答えは、少なくとも首の皮一枚で椿らの命をつなぐ可能性をはらんでいるのは間違いなさそうだ。

「このドラッグ、なんでこんな出回り方したのかやっと見えてきた」

 ただ、もしこの推論が正しいのだとすると、

(まさかマジでクロエがことの中心に? いや、さすがに考え過ぎか。だって、あいつはもう)

 そこからはさすがに推測というよりは妄想の成分が入り混じり始めるので、そこで思考の流れを断っておくことにした。可能性というには、あまりにも滑稽に過ぎた。

「ふーん……やっぱ魔法ってのはめんどくさくて、あーしの性にあわねえわ」

 バッサリと会話を切ってる捨てると、退屈を持て余した霧雨は自慢のデコ太刀の柄を指先でなぞりながら椿に向き直る。

「んで? あーしはどうすりゃいんだ? もう料金分ははたらいたのか?」

「そうだな……このままホテルに戻ればそこまでだけど」

 読みが当たっていれば、「そこまで」にはならないだろう。というわけで、

「スケジュールに空きがあれば、、とりあえず明日ベルが戻るまでガードの延長を頼めるか? 追加料金は割り増しで」

 疑問形にはしたものの、断られることはまずないはずだったのだが、

「このあとっつたらちょっと予定が……あー、でもツバリンがど~してもってんなら」

 素直に首を縦に振らないのは価格交渉の常套手段なのだが、霧雨はそうしたことが不得手な上に相手が悪い。

「じゃあ他を当たるからあんたはここでお仕事終了ってことで。料金は口座に振り込んで」

「うそ! ごめんなさい! 空いてる、予定あいてる! お仕事ほしいください!」

 こうしたカマのかけあい化かし合いでは椿の右に出る人間はそうそういない。というわけで、まんまと料金を釣り上げてやろうという霧雨の目論見は瞬殺さた。

「あんたこういうの向いてないんだから、素直に首縦に振ってりゃいいのよ」

 身も蓋もないが、「へへへ」と相好を崩した霧雨の表情は何故かまんざらでもなさそうだ。

「そこはほら、何事もやってみなきゃわかんないっつーか……でもさ、予定外にあーしを雇うなんて、なんか思い当たることがあるわけ?」

 交渉術は三流以下だが、事態の機微を察する嗅覚は超一流ということらしい。

「そんな気がする、ってだけだけどね」

「じゃあ何かあるんだろうな。女の勘は信じて損はねえって」

 野生動物のようだと思うが、今日のやり取りどれ一つをとってもあながち嘘ではなさそうだ。

「そんなあんたと違って、あたしはひ弱でかよわき乙女だから万全に万全を期して、打てる手は全部打っておくの。ましてや今回は相手が相手だしあーなーんでこんなことになってんだ~」

 最後の方は純粋な愚痴、恨み節だったが吐き出していかないとやってられない。

「にしても、満貫相手に喧嘩売るってまじか? あーしなら荷物まとめてしばらくはどっかゲートの向こうか、そうじゃないなら他の自治都市に雲隠れすっけどな」

 歯に衣着せない直球な物言いは、そっくりそのまま椿の本音でもあった。けど、

「そういうわけにもいかない事情があんの。それに、ちょっと気になることもできたしね」

 ため息交じりに零たが、言葉の端々にはただの諦めではない何かが顔をのぞかせていた。

「あんたのそういう腹の真っ黒なとこ、嫌いじゃないよ」


「とりあえずこっちの方は霧雨に任せときゃ大丈夫まあ、最悪死んでも恨むなよ……っと、なんだ? 発信者が、客室?」

 ひとしきり端末の操作を終えたところ、画面に割り込んできたのは通話着信だった。しかし、その発信元表示に、即応するのがためらわれた。

 ホテル関係者からの発信であればその個人名や所属部署などが一通り登録されているのでそれが画面表示されるはずなのだが、今そこにでているのは発信元がこのホテルの客室のどこかである、ということだけ。通常、そんなものがかかってくるはずがない。

 この三日ほどで一生分の嫌な予感を感じ切ったと思っていた椿は、唐突に現れた新たな嫌な予感に苦い顔をしながら、苦渋の決断の末に通話を開始する。

 僅かなノイズの向こう、息を呑んで相手の声を待っていると、

『どうしたんだい? 今はまずかったかな?』

 スピーカーからの声が相棒のものだったことに、張り詰めていた緊張感が一気にほどけ、反動のように疲労感がどっと体にのしかかった。

「なんーだ、ベルか。いや、問題ないよ。それにしても客室からかけてくるなんて、何事かと思うだろ。ドラゴンは無事に捕まったのか?」

 まだ少し動揺している心臓をなだめるようにゆっくりと息を吸い込み、天井を仰ぎみて、。

『そちらは無事に解決したのだが、ところでクロエ君はそちらにいるのかい?』

 笑いの表情のまま仰向けにぶっ倒れてしまおうかと思った。

 瞼を閉じると視界が赤く色づいて、真っ赤に流れる血潮は生きている証しなんだとどうでもいいことに思いを巡らせる。

 随分と長いことそうしていたようにも、瞬き一回分にも満たない時間のようにも思えたが、そんな無駄の果てに数え切れないピースが脳内で繋がった。

 答えは、最低だった。

「訂正、問題まみれだ」

 とだけ言うと、端末の向こうで何かを察したらしいアリスベルの微かな吐息が耳元に聞こえた。電話越しでも温度が感じられそうなほどに艶めかしいのが、今は救いに思えた。

「あたし、あんたがエロくて良かったと初めて思った」

『それは光栄だね。ではとびっきりのエロティシズムで君を迎えるとしようか』

「それはやめて、多分あたし死ぬ」

 どうでもいいやり取りで少しだけ心に余裕が出たらしい。

 ゆっくりと前に向き直って瞼を開ける。

「とりあえず、そっち行くわ」

 今の会話だけでアリスベルがどこにいるのかは分かったが、前途は多難だった。

「前世のあたし、世界を火の海に沈めたりしたのかな?」

 唐突にこぼれたのは、あまりにも業が深すぎる現世へのやつあたりだった。

『だとしたらきっと私は共犯だったろうね』

 クスリと笑いながら躊躇なく告げたアリスベルに椿もつられて笑い、そこで通話を終了する。

「世界一つ滅ぼしたぐらいじゃ、こんなえげつない仕打ち受けねえよな、多分」

 液晶に映り込んだ自身の笑みが、ゾンビのように見えたのは錯覚じゃないのかもしれない。


 ソファに深く腰掛けたアリスベルの前、ローテーブルには呑みかけの生搾りミックスジュースと半分ほど齧られたハムチーズトーストが置き去りにされていた。朝出がけに椿がルームサービスに届けるように指示していったものだが、ジュースの氷は溶け、トーストは乾いて縁の方がカピカピになっている。

「警備に確認してみたが、出て行く姿を見た者はいないらしいよ。監視カメラの録画も見てもらったのだが、この部屋に出入りしたのは君とルームサービスだけのようだよ」

 確かに朝、クロエの無事を確認した椿は内線でルームサービスの指示をしてから、ジュナ王子一行との会食に向かった。

「だろうな。この部屋のセキュリティは外からの侵入だけじゃなくて、中から出る方にもチェックがかかっていちいち保安部に通知が行くようになってるし、全部あたしんとこにも来るように設定、手配済みだ。うちの保安部がそれを怠ったとは思えない」

 自画自賛ではないが、このカジノホテル・ヘブンズドアリゾートの警備を一手にあずかる責任者として、椿はそこに絶対の自信を持っていた。

「だろうね。その辺りに関して君の手腕は折り紙つきだ」

 アリスベルもそこには全幅の信頼を置いている。が、だからこその疑問だった。

 その疑問に渋い表情で椿は答える。

「んだけど、まあ、これやられるとうちらのセキュリティなんてあってなきがごとしだわ」

 バリバリとおっさんくさい動作で頭を掻きながら、携帯端末をテーブルの上に放り出す。

 呆れたようにため息をこぼす椿をよそに、アリスベルと霧雨がその画面を覗き込む。

 そこでは今三人がいるこの部屋の様子が映し出された動画が流れているのだが、どうやらリアルタイムのものではないらし。画面内の時計表示は、丁度椿達がラフタとの取引のために放置区画に到着した頃だった。

 しばらくはソファに腰掛けて小動物が餌をむさぼるように、もさもさとトーストを齧るクロエの姿が流れているだけというシュールな光景だったが、

「あ、ここで何かチビが反応してるな」

 霧雨の言う通り、画面の中ではクロエがトーストを齧るのをやめて、きょろきょろと周囲を見回している。しかし、音声も収録しているはずの画面からは特に何も聞こえてはこない。

「クロエ君には何かが聞こえている、ということかな?」

 ゆっくりと立ち上がったクロエが、ふらふらとおぼつかない視線を周囲に泳がせている。

 とそこで、不意に画像が乱れたかと思うと、

「何か穴開いた」

 身も蓋もない霧雨の言葉だったが、確かにそうとしか言いようがなかった。

 それまで何もなかった部屋の中、宙空に突如として真っ黒な穴が開いたのだが、ぽっかりと口を開けたその穴と似たようなものに椿は見覚えがあった。

 それは、アリスベルが何もない空間から巨大な剣を引っ張り出す際に現れる空間の裂け目に酷似していた。

「あ~りゃりゃ、なんか変な穴っぽこの向こう行っちゃったよ」

「彼女は自身の意思で歩いて行ったように見えるね。いや、それにしてはどこか不自然、か?」

 クロエは確かに空間の裂け目に自ら足を踏み入れたが、その挙動はどこか虚ろで、意思の感じられない危うい動きだった。アリスベルの観察眼はその些細な違和感を見逃さなかった。

「ベルの言うとおりだろうな、それが証拠に、これ」

 椅子に座ったまま身をかがめ、ソファの下に手を突っ込んだ椿はそこから銀のスプーンを拾い上げた。

「ああ、それ、これか」

 霧雨が指差したのは繰り返し再生される動画の中、丁度クロエが消えるシーンの、慌てたように突き出された右手のところだった。握ったままだったスプーンを、わざわざ見せつけるようにして放り投げていた。。

 クロエの指先までを呑みこんだところで裂け目は溶けるように消え去り、念のために早送りで再生した見たが、以降は無人となった部屋の光景が延々と映し出されるだけだった。

「ただ落としただけにしては不自然な動きだし、クロエの残したメッセージってのが妥当だと思うんだよ」

 幽鬼のような動きでふらりと消えて行ったクロエの手から放り出され、ソファの下に隠されたスプーン。

「つまり、彼女は自らの意思で消えたわけではないと我々に伝えようとしている、と」

「その方が色々とつじつまが合うっていうか、それに」

「「それに?」」

 アリスベルと霧雨の声が重なる。

「それでもなおあの子が向こうに行ったってことなら好都合。うまくいけばオーバーライトの件やら何やら、諸々の問題を一気に解決させられるかもしれない」

 さすがにご都合主義が過ぎるかとも思ったが、これまでに拾い集めてきたパーツがその可能性を示していることは事実だ。

「まだちょっと確信は持てないけど、でも今一番可能性がある。少なくとも、ドラッグのルートを追いかけるんなら、無駄足にはならないはず」

「なんだそりゃ? 拉致られた方が好都合って……ああなんだ、囮か」

「人聞き悪い言葉使わないで。これはただの迷子札だよ。ま、その迷子札も魔法の前にどこまで役に立つかは怪しい、けど……ね、っと」

 霧雨に抗議しながら携帯端末を操作し、地図情報アプリが画面に表示される。

「早ければ数時間、どんなに長くとも数カ月単位で景色が描き変わるこのリゾートにおいて地図など無意味だという者も少なくはないが、それでもこの世界を把握するには必要な情報だという勤勉な学者には頭が下がる思いだね」

 アリスベルの言葉には掛け値なしの尊敬が込められているが、隣の霧雨は「ごくろうなこって」と鼻で笑うのみだ。

「その辺は賛否両論だろうけど、少なくとも今回はその勤勉な連中のおかげって、おっけ、ちゃんと表示されてる。別の世界やら宇宙の果てにすっとばされたってわけじゃなさそう」

 淡々と言う椿の手元、少々大きめの縮尺で表示された地図の上にはゆっくりと点滅する光の点が一つ、移動せずに同じ場所で明滅していた。

「こっからはとにかく時間との勝負だ。向こうがこの迷子札に気が付いたらそこで全部パーだ」

 メリハリの利いた動作で立ち上がった椿は、地図上の詳細な位置を確認しようと視界の隅に画面をとらえて、

「うっそ、このタイミングでかかってくる?」

 力強く踏み出した最初の一歩で歩みは止まり、弱々しい動作で音声通話をオンにする。

 画面に表示された通話相手は破壊力抜群の名前だった。

「ども。どうしたんすか、オーバーライトさん?」


「ここのカジノで命を落としたわが社の社員は、満貫商会から購入した魔術ドラッグを使用し、不本意にも君らのカジノに損害を与えその報復を受けた、ということで間違いはないね」

 社長室のソファ、デスクのガーネットに対面する位置に腰を下ろしたオーバーライトは体の正面に突いたステッキの柄に両掌を重ねて瞼を閉じている。

 どうでもいいが、この男の無言の圧力はとにかく胃に悪い。

 時計の針がいつもよりゆっくりと時を刻んでいるんじゃないかと思うような間延びした静寂の中、椿は唾を呑むこともできずに黙って直立していた。

 社員をファミリーと呼び、そこには本当の家族のごとき絆があると信じるこの男にとって社、員の死は何をおいても報復すべき一大事であり、事と次第によってはHDホテルと事を構えることも辞さないというわけだ。

 そんな並々ならぬ覚悟を腹にすえた男はゆっくりと肩を上下させ、細く長い息を吐き出した。

ーライトの一挙一動を見守っている。

 そんな中でもいつもと変わらぬ、そこの読めない笑みを浮かべて泰然自若としたガーネットの姿は、果たして大物か大ばかものか。

「事情は、把握した。今回の件についてはこちらに非があるようだ。カジノの修理費用および休業中の補償については請求書を送っておいてくれたまえ。それなりに色をつけて支払いをさせてもらいたい」

 この瞬間、その場にいた全員が決して表には出さないよう細心の注意を払いつつ盛大に溜飲を下げたのがわかった。あのアリスベルですら僅かに緊張をほどいて肩の力を抜いていた。どうやら昨日の椿不在の間に一度来訪し、そこでガーネットが大まかな説明をしておいてくれたのが功を奏したらしい。

 場の空気が一気に和らいだ……かに思えたのもその瞬間だけだった。

「だが、わが社の社員が命を落としたことについてはきちんと清算してもらう必要がある。これは、事実関係の問題ではない、名誉の問題だ」

 何やら独自理論バリバリな感は否めないが、このあたりのイデオロギーの話でオーバーライトに意見することの愚を椿は誰よりも知っている。だから、

「ですので、この件ではこちらとしてもそちらへの請求はせず、それで彼が命を落とすことになったことへの弔いと思っていただければ」

 妥協案を提示し、穏便に済ませようと最大限の譲歩案を持ち出した椿だったのだが、

「己の知識欲を満たさんがために他者の尊厳を踏みにじる、その魔導師の所業は我が同胞の命に到底見合うものではない」

 えええええええええええええええええええええ!

 思わず絶叫しそうになるのを全身全霊をかけて何とか抑えた椿だが、さすがにその表情を殺しきるにはまだまだ修行が足りなかったようだ。

 しかも、

「どうしたね? そうか、君もやはりそう思うか。そのような児戯のごとき発想で人としての尊厳を踏みにじるなど、あってはならぬことだからな」

 その、笑う直前ともなく直前ともとれる顔を盛大に勘違いされてしまった。

「え、いや、でもですね、その、ドラッグが何かの魔法の実験の副産物でしかないってのはまだ想像の域を出ないっていうか、可能性の一つっていうか、何にも裏が取れてないっていうか」

 っていうかいやいやいやいや、あんたそのドラッグ使って一儲けしようとしてたじゃん、何ならそのドラッグを組織(会社)ぐるみで流通させて、その人の尊厳とやらを踏みにじる商売しようとして、そのルートをあたしらに探させてたじゃん言ってることダブルスタンダードどころじゃないじゃん! とは心の叫びだが、もちろんおくびにも出さない。出せば死ぬから。

「では行こうか」

「は?」

 間抜けな声だなー、と自分でも思う、腑抜た声が出た。

 さすがにこれはまずいと慌てた椿は取り繕うように、いたってシンプルな質問を続けた。。

「あっ、いや、行くってどこに?」

 それを聞いてもオーバーライトは眉一つ動かさず、杖を支えにしながらゆっくりとソファから立ち上がって、何故そんな当たり前のことを聞くのかとばかりにさらりと答える。

「報復、だ」

 ここで椿は思った。「行ってくる」ではなく「行こうか」だった。それは確認するまでもなく「一緒に来い」ということに他ならないのだろう。

 いやだ。絶対に嫌だ。何が悲しくてこれ以上厄介事を抱え込まなければいけないのか。それも自分には一ミリも関係のない男の報復なんて、そう思って助け船を求めてガーネットにアイコンタクトを送る。

 向こうもそのことに気がついたらしく、ガーネットは微かに、本当に僅かばかり目元を細めて返事をしてくれた。助かった、これで心おきなくクロエを探してドラッグの件も解決して、

「んじゃ、椿ちゃんよろしくね。だいじょぶだから、手当たっぷりつけとくからさ」

 一瞬、目の前が真っ白になった。

 魅力たっぷりキメッキメのウィンクも今の椿にとっては死の宣告にしか見えない。

「ではガーネット社長、彼女らは借り受ける。わが社の社員の弔いだ。血には血で、名誉には血で償ってもらう」

 何やら名言っぽく飾ってはいるがただただ血なまぐさい言葉に椿は今日一番の胃痛を必死にこらえる羽目になった。

「ちなみに、運転手か何かですよね?」

 そんなわけはないと思いん聞いてしまうのは悲しい人のサガだ。

「聞けば、これから行く先が私の依頼の商品が扱われているところだと言うではないか」

「いや、それもその可能性があるっていうか、まだ確定じゃないっていうか」

「ならば確かめに行けばいい。万一、契約不履行ともなれば即座に次の話を進めなければならないからな」

 カツリ、と大理石の床に杖を突く乾いた音が響いた。

「うーわ、逃げ道ねー」


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