前編
「あー」
市街地から離れた工業区画。その片隅の、いかにも悪巧みに使われそうな倉庫の一つは無防備にシャッターが開け放たれ、内部の狂騒がだだ漏れだった。
言葉を選び損ね、半開きの口から間抜けな音を漏らしながら椿・アレクサンドリア・リンは目の前の状況を必死に理解しようとして、
「何だこれ?」
捻りだした言葉は、それが精いっぱいだった。
「ふむ」
小さく鼻息を漏らしたのは、すぐ隣で同じく目の前の事態を眺めている少女。
名はアリスベル・レインフォール。
この場に全く似つかわしくない美貌の持ち主はあっけらかんと、
「爬虫人類、とでも呼ぶのが相応しいかもしれないね」
目の前の状況を説明する。さらに、
「ドラッグの作用によるものだろうね。このキマり方はおそらく化学薬物ではなく、呪術や魔法の類を利用したアストラル系のドラッグかな」
花弁の様な薄く形の綺麗な唇からなかなかにどぎつい解説がとこぼれ落ちる。
事実、二人の眼前には二足歩行するトカゲとも鱗のある人間とも言える姿が数名、奇声を上げたりこちらを威嚇するように雄叫びをあげている。衣服を身にまとい、貴金属で着飾っているのを見ると元々は知性を持った存在だったろうことは想像できるが、今や見る影もない。
「いや、そんぐらいは見りゃわかんのよ。こいつらの種族はどっちかっていうと温厚で理知的な連中だってことも有名だし。そじゃなくてさ」
アリスベルの端的な説明に異を唱えつつも、視線はしっかりと半狂乱のトカゲ人間達に向いている。その程度にはやばい状況だということだろう。
頭一つ分高いところでアリスベルが小首をかしげると、絹糸のようなストロベリーブロンドは風をはらんで豊かに揺れ、まるでそれ自体が光を放っているかのように眩く輝いていた。すらりと伸びた手脚はネコ科の猛獣を彷彿とさせるしなやかさをたたえ、均整のとれた肢体に彩りを添えている。
つくづく神様というのはいい加減で不平等だと、標準以下のボリュームしかない自分の胸元に視線を落としながら椿は鼻筋にしわを寄せる。
(ま、神がいい加減だってのはこいつのことに限った話じゃないけどな)
抗いがたい理不尽さに胸中で毒づきつつも、椿は懐の拳銃に銃弾がちゃんと補充されていることを、その重量で確認する。
「あたしが言いたいのは」
もちろん、こんなものがどこまで役に立つかは甚だ疑問ではあったが、ないよりマシだと自分に言い聞かせながら最後の毒を吐き出した。
「何で、あたしらが受け取るはずだった薬でこいつらがパーティやっちゃってんのかってこと」
「それについては私も疑問を呈したいところだね。かなり末期の中毒者でなければこうはならないはずだからね」
実に的確なアリスベルの状況把握に、椿は聞こえよがしに舌打ちをする。
「わかってんじゃん。ったく、相変わらず何考えてんのかわかんないやつね」
「そうかい? 褒め言葉と受け取っておくよ」
飄々とした切り返しが皮肉でも何でもないことを知っている椿は、話を本筋に戻す。
「んで、一応確認なんだけどさ、あたしらが社長から頼まれた仕事って、こいつらから受け取るブツを別の世界のマフィアに引き渡す、運び屋だったよね?」
「そう聞いている」
「で、これは?」
「売人がその中毒者、というのはよくある話だね。組織立ってこうした違法性のあるものを商う場合、上層部はともかく末端がこうなっているのはもはやお約束といってもいいだろう」
事もなげに言ってのける表情はどこまでも平静で、意に介する様子もない。
「あんたのそういうとこって、すげーなと思う反面で心配になってくるわ」
「君のそうした優しさは何よりの宝だよ」
そう言ってほころんだ口元は、反則だった。
微かに垂れ目気味で切れ長な瞳、薄桃色の唇、スラリと通った鼻筋。全てのパーツが完璧な造形で、完璧なバランスで配置された顔立ちはもはや神がうっかり作り出した至高の芸術品だ。
とどめとばかりに、胸元に実ったたたわにすぎる水密桃は、シャツの襟首を限界まで押し上げてなお窮屈そうに、深々と谷間を刻んでいる。それでいてホットパンツにシャツというラフな格好をしているものだから、その美貌はもはや暴力、もしくは神に対する冒涜ですらある。
「ま、こいつに限って言うなら神を冒涜するぐらいがちょうどいい、か」
アリスベルに対する皮肉とも神に対する暴言ともつかない毒を吐き終えたところで、
「これ、絶対にこうなることを見越してうちに仲介持ちかけたよな、オーバーライトの奴」
「彼は抜け目がないからね」
「ずっけえんだよ、あいつ」
依頼主である男の、端正ながら冷徹な顔立ちを思い出しながら椿は小さくため息をひとつ。
「ほんと、でたらめな世界だ」
「しかし、だから面白い」
そう言ってほくそ笑んだアリスベルの表情は、同性の椿が見てさえ怖気を誘うほどの美しさをたたえていた。
それに見せられたか、それもと逆上したか、どちらにせよその狂気的な笑みを引き金に、トカゲ人間らは一斉に視線をこちらに向ける。
それまでの狂乱が嘘のように場が静まり返った次の瞬間、両手の指に余る数のトカゲ人間が、示し合わせたかのように一斉に地面を蹴って跳躍した。
ターゲットは言わずもがな、椿とアリスベル。何のためにこちらに飛びかかってきたのかなんて想像もしたくない。
うんざりと肩を落としながらも流れるような動作で懐から拳銃を引き抜く椿。
「まあ、これもお約束の展開だね」
大きすぎる胸元を更に強調するかのように背筋を伸ばし、アリスベルは真正面から迎え撃つ。
「あれ? 今日はいつもの得物はなし?」
徒手のまま一歩踏み出したアリスベルに、椿はさすがに尋ねずにはいられなかったが、
「って、ああ。なーる」
その行動をもっての答えに、思わず椿は苦笑した。
と同時に、手にしていた拳銃を再び懐のホルスターにしまい込んだ。そりゃそうだ。なにせ、
「相手をひっ捕まえて、それで他の連中をどつきたおすんじゃ得物はいらないわな」
アリスベルは最初に飛びかかってきた一人を紙一重でかわすと、その足首をひっ捕まえ、そのまま力の限りにぶん回して残りの連中にたたきつけていたのだ。
しかも、その流れるような動作にはどこにも無駄な力などなく、舞を舞うかのような流麗なさは質量が消失しているかのようだ。
「ん? 何か言ったかい?」
「うんにゃ。さすがに素手で喧嘩なんかしたら、爪割れちゃうもんな」
会話だけは年頃の女の子らしいが、実際には大の男一人分の体重を片手で振り回し、鈍器であるかのごとく他の連中に叩きつけているのだ。響き渡る肉のぶつかる音や骨の砕ける音は凄惨を極めたが、そんな地獄のような光景の中、アリスベルは眉根一つ動かさずに瞬く間にその場にいたすべてのトカゲ人間を叩き伏せてしまった。
もちろん、この時点で一番の重傷者は最初にアリスベルに捕まり、鈍器となってお仲間を叩き伏せ続けた一人なのだが、幸いにも息はしているようだった。
「虫の息……トカゲでも虫の息っつーのかな?」
引きつった笑みを浮かべる椿をよそに、アリスベルは事もなげに薄い鼻息を一つ。
「では、品物を回収するとしようか。おそらくは奥にあるはずだね」
死んではいないものの、もはや起き上がれる者のいないトカゲどものうめき声はちょっとだけ憐れみを誘う。
しかし、二人は死屍累々と折り重なるトカゲ人間の山を顧みることもなく、散歩にでも繰り出すかのような軽やかな足取りで奥へと歩を進めた。
「いつものことながら息一つ乱さないのな」
もちろんこの程度の相手であれば、居眠りをしながらでもアリスベルが後れを取ることがないのはわかりきっている。
「ま、そうでもなきゃこんな狂った世界じゃ生きてけない、か」
それにしても、と前を歩くアリスベルの背中を眺めながら椿は思う。
(神ってやつは、一体あいつに何物与えりゃ気が済むんだか……)
背中だけを見てなお同性の椿が見惚れてしまうようなプロポーションに、改めて思った。
「世界ってのは、とことん狂ってる」
何の脈絡もなければそれらしい兆候も、何ならそれっぽい伏線すら全くなかった。
あまりにも突然に、出し抜けに、世界は驚愕の事実を突きつけられた。
世界は一つではない、と。
平行世界、並行世界、異世界、他次元世界などなど……その呼び方は枚挙にいとまがないが、とにかく世界はある瞬間に自分以外の世界を知覚した。
と言うよりも、それまではその存在すら認識していなかった無数の異世界群が、一つに繋がった、というのが正確なところだった。
ただ、各世界間を行き来するには必ずとある世界を経由しなければならなかった。世界は、その接点となった一つの世界を介して繋がったのだった。
その世界のことを、誰からともなく回廊世界と呼ぶようになったのは、世界が繋がってからしばらくしてからのことだ。
そのことを最初に認識したのはそれぞれの世界の神、もしくはそれに類する存在だったのだが、とうぜん無数にある世界の無数の神の中にはよからぬことを考える者も少なからず現れるのは世の常であり、突然の異世界の存在に混沌と混迷を極める状態はそうした輩にとっては格好の好機だったというわけだ。
小競り合いや揉め事は数え上げればきりがなく、中には神が率先して他の世界に攻め込んで侵略の限りを尽くす、などということも決して珍しくはなかったという。実際、その混沌の中で吸収統一されたり、消滅させられた世界というのは少なくなかった。
やがてそうした個々の小競り合いはその激しさと規模を膨れ上がらせ、ついには全ての世界とその神を巻き込んでの覇権争いまでもが現実味を帯び始めたところで、世界存亡の危機を危惧した神は、この世界の在り様について話し合うために会合を設けることにした。
急進派、保守派、改革派にタカ派にハト派、果ては退廃主義者に快楽主義者にとその主義主張はおよそ統一なんて不可能なほどに多様性を極めた。実際、会議は神の時間感覚をしても飽きがくるほどの長期間にわたり、しかし身のある議論はほとんどなかったとさえ言われている。
もはや神によるバトルロイヤルで全世界の覇権を決定すべきという、およそ理性の欠片も感じられない主張が誰しもの中に落っこちようとしているその中心に、一柱の神が進み出た。
既に自らの統治する世界を滅ぼされ、行き場を失った無宿の神であったそいつは、何事かと面食らう他の全ての神を前に大見えを切った。
「この回廊世界をよこしなさい。私が統治する」
当然そんな突拍子も何の根拠もない主張が受け入れられるはずもなく、嘲笑交じりに他の神々がその神を排除しにかかったところで、さらに続けてこう言った。
「その代わりに、貴様ら全員にこの世の娯楽のすべてを与えてやる」
と。
「この回廊世界は、今この瞬間より全ての世界に極上の娯楽を提供するための場とする」
かくして、無数の世界間をつなぐ連結世界にして全ての争いの根源であった回廊世界は、一夜にしてどの世界からも訪れることのできる極上の娯楽の場へとその存在を変じたのだった。
中立世界『リゾート』誕生の瞬間であった。
「にしても連中、そ~と~派手にやってくれたな。あ~ぁ、どんだけ食ったんだよ」
目の前で口を開けた耐魔術合金製のケースの中には、複雑な文様の描かれた親指大の宝石が規則正しく並べられているのだが、小分けに収納するようになっている内部の区画にはいくつかの空きがあった。というか、空きの方が多かった。
面倒くさそうに鼻筋をゆがめながら覗き込む椿の脇から、もう一つの顔がひょいと同じケースの中を覗き込む。
「あちゃー、こりゃひどいねえ。本当ならこのケースがあと二つあるはずだったんだけどねえ。もちろん中身ぎっしりで」
すらりとした長身の女は、どこか油断ならない裏のある笑みを浮かべている。
「現場には同じケースが転がっていたよ。もちろん、中身は空っぽだったがね」
少し離れたところで応接セットのソファに腰掛けたアリスベルは、長すぎる脚を窮屈そうに組み替えているが、ただそれだけの姿がやたらと妖艶なのが印象的だ。
「何であの人数でこれが二ケース以上なくなるんだよ。どんだけパーティだったんだよ」
それに同意するように長身の女、ガーネット・LL・サニーデイズはオヤジ臭く口元をゆがめながら顎をさすり、アリスベルの対面に位置する自席のデスクに戻ると、どっかりと腰をおろしてため息をひとつ。
「だよねえ。だってそれ一つあれば巨人族でもたっぷり半日はお楽しみになれるって代物だもんねえ。それを、何人だっけ?」
「十三人」
「うわ、すごいねえ。そんなにヤっちゃったらもう人間やめちゃってたんじゃない?」
言葉とは裏腹に全く驚く様子もなく淡々と語るガーネットに、椿は苦笑混じりに、
「そりゃもう、ファンタジーに出てくる悪役モンスターそのものだったよ」
事実、彼らの中に人としての理性や、それこそ思考などというものが全く残されていなかったのは間違いなが、それを聞いて尚ガーネットは微塵も驚きはしない。それどころか、
「ま、だから椿ちゃんとアリスちゃんに行ってもらったんだけどね」
あっけらかんとそんなことまで言ってのける始末だ。
「くっそ、やっぱわかってたのか……社長、今回の件はちゃんと」
「わかってるよ。ちゃーんと危険手当は支給するよ」
そう言うとデスクの引き出しから取り出した手帳にさらさらと何やら書き込み、癖のある笑みを椿とアリスベル双方に向ける。
「いや、手当はいいとして」
「あ、要らないの? 助かるなあ、経費削減に協力してもらえて」
「それは要る、要るんだけどそうじゃなくて」
HDパレス・カジノリゾート。娯楽の殿堂たる中立世界・リゾートにあって比較的新進の複合リゾートホテルであり、椿やアリスベルの職場でもある。
その支配人室で、部屋の主であるガーネットは一癖も二癖もありそうな笑みで口を開いたままの耐魔術合金製ケースを眺めている。
そんな姿に、椿の本能はさっきから警鐘を鳴らしまくっていた。
「今度からはちゃんとこう取引は内容を教えておいてくれないと」
早々に幕を引いて表向きの職務であるホテルのコンシェルジュに戻るべきだと。そのためにもここは余計な会話を極力はさまずに会話を終わらせるべきなのだが、
「だよねえ。そう、私も困っているんだよ」
相手が悪かった。さらに言うならタイミングも悪かったらしい。いや、
「ほら、引き渡すはずだったブツがこんなに減っちゃってたら、仲介手数料もらえないどころか、落とし前にいくら請求されるかわかったもんじゃないっていうのに」
このタイミングすら、全てガーネットの計算だったのだろう。
「でしょ? というわけで次からはたのんますよ、じゃ」
言いながらも体は回れ右、無駄な足掻きとわかってはいながらもとっとと背後のエレベーターでオフィスかカジノフロアにでも移動して、
「もうオーバーライトとの取引の時間になっちゃったよ」
嵌められた。今の今まで自分が型に嵌められていることを疑いすらしない、見事な手際だ。
「ベル! 今日はイベントだったよな? だから早く行って手伝わないとフロアは人手が」
なんとかこの場を有耶無耶にして逃げ切るべくアリスベルを焚きつけようと振り返ったそこに、そいつはいた。
「ふむ。今日はそのようなイベントがあるのか。では帰りに楽しませてもらうとしようか」
絵にかいたような紳士だった。
ダークグレーのスーツは折り目に指を当てれば切れてしまいそうな鋭さ。
長身痩躯なその男性はアリスベルよりもさらに頭一つ分以上高い位置から静かにこちらを見据えていた。
細面ながら野性味あふれるその眼光は大型の獣を思わせ、無表情の仮面の一枚裏側からは、常に研ぎ澄まされた刃のような緊張感が放たれている。
ゆっくりと踏み出した一歩は穏やかな紳士そのもので、革靴と石床の立てる乾いた足音が何とも耳に心地よいが、その動作には一部の隙もない。
血色の悪いその男は、青白い頬をピクリともさせずまっすぐにガーネットを見据えながらゆっくりと歩を進める。その様はまさに紳士そのもので、銀色のウェーブヘアと相まって実に落ち着いて見える。若く見える顔立ちが、浮世離れした雰囲気に花を添えていた。
そんな完璧とも思える男の所作の中で唯一、右足の運びにだけはどうしようもないほどのもどかしさがあった。どうやら右足が若干不自由なようで、それをフォローするために右手に持ったステッキを突きながら、独特の歩調でこちらに歩み寄ってくる。
「ガーネット・LL・サニーデイズ、今回の取引では三ケースが届けられるはずだったと記憶しているが?」
とん、と杖の先が叩いたのは、応接セットの真ん中、ガラステーブルの上で口を開いている耐魔術合金製のケースだった。言うまでもないが、そこにあるのケースは一つだけで、残りの二つは空になってトカゲ人間の倉庫に放置されたままだ。
「いや、これはトカゲの……っ!」
事情を説明しようと向き直った椿だったが、眉間に感じた冷たい感触に口を噤んだ。
「私は今、サニーデイズ女史と話をしている。それを遮って無礼を働くというのであれば、いかに君が彼女の側近であろうと容赦はしない。私は礼節を尊ばない者には容赦はしない」
杖の先端を薄皮一枚隔てたところに突き付けられて、椿は思わず息をの呑んだ。
一気にうなじに脂汗が噴き出し、口の中がカラカラになって言葉を発するどころではなかった。なんならこのまま死んでもおかしくないんじゃないかとさえ思ったところで、
「いやーごめんね、オーバーライト。うちの子たちも頑張ってくれたんだけどさ、向こうが約束破っちゃったみたいでさ、これだけしか残ってなかったみたいなんだよねー」
ギラついた殺気に気付いていないのか、それとも気付いて敢えてこんな物言いをしているのか、どちらともとれない陽気な口ぶりのガーネットだが、オーバーライトは椿に突き付けた杖をピクリとも動かさず、視線だけをガーネットに向ける。
(あれ?)
違和感を覚えたのは、その動作にだった。
どこまでも自然で、相変わらず一切隙のない身のこなしだったが、それでも椿は目の前の純白紳士の所作に微かな違和感を禁じ得ず、思わず視線でその体の運びを追ってしまった。後になって思えば命知らずの極致だったのだが、その時はそんな余裕すらなかったのだろう。
「ほう。さすがにサニーデイズ女史の側近だな。今の動き一つで気がついたか」
予想外の言葉に虚をつかれたが、オーバーライトはさらに続ける。つくづくマイペースな男だと呆れながらも、その横暴を押し通すだけの何かがあるのもまた確かだった。
「義足だよ。この右足は、かつての愚かな争いの中で失われた私の肉体の、代替品でしかない」
思わず息を呑んだのは目の前の、一大マフィアを牛耳る男の脚が義足だったからじゃない。
椿が思い出したのは、ある種のコミュニティでは有名な、眉唾ものの噂だった。
あのオーバーライトの右足は、かつて自身の右腕としていた子飼いにに殺されかけたときに失われたとも、その後遺症で不自由になったのだとも騙られている、半ば都市伝説と化した噂。
そして、その右足の噂に付随して語られる、もう一つの噂。
「じゃあ、噂は本当で……っあ」
迂闊だった。
(やっべ……あたし、死ぬかも)
胸中で己の失態に毒づきながらも、決してその失態を表に出さぬよう慎重に表情を選び、オーバーライトの反応を待つ。
じっとこちらを見つめる視線は、氷の刃そのもの。
確実な死を喉元に突き付けられているような錯覚の中で一瞬が過ぎ、次の一瞬を迎えてそろそろ緊張に耐えきれなくなったところで、血色の悪い唇がゆるりと動いた。
「どんな噂が……いや、それはまたの機会に。いま問題なのは、目の前のビジネスの話だ」
この時オーバーライトは一瞬だけ驚いたような、楽しんでいるような奇妙な笑みを浮かべたような気がしたが、気付いた時には欠片もその余韻を残さない、冷淡な無表情に戻っていた。
(今こいつが聞こうとした噂は右足のことか、それとももう一つの、や、忘れよう。どっちにせよあほな話で命を落とすこともなくなって、ラッキー……でもないか)
どうやら助かったらしいとは思いつつ、まだまだ自分の生殺与奪が目の前の奇人二人の掌の中にあることを思い出して脱力する。
そんな一瞬から一瞬への命の綱渡りを続ける椿のことなど意に介さず、オーバーライトは再びガーネットに向き直ってコツリと杖で床を叩く。
「そちらにも事情はあるのだろう。察しがつかないでもない。しかし、それはあくまでも君らのビジネスのことで、こちらにはこちらのビジネスがある」
「そうだよね~」
凛と張り詰めた空気を纏い、場の圧力を上げるオーバーライトに対し、ガーネットは申し訳なさそうに眉根を垂れさせこそすれ、それを飄々と受け流している。相手が相手ならこの場で銃弾の応酬になってもおかしくはないのだが、さすがトップ同士の余裕といったところか。
「よもや、君らを我々の取引の場に連れて行って事情を説明させるわけにもいくまい」
「それで相手が許してくれるんなら、世の中平和でいいんだけどねえ。ってわけなんだよ、椿ちゃん。前金で手数料もいくらかもらってることだし、ここはうちが何とかするってことで、引き続きこのお仕事受けてくれないかな?」
当然、この依頼に対する答えがイエス以外にあり得ないことなど言うまでもない。
むしろ、そうすることで命が助かるのなら否も応も減ったっくれもない。ただ、
「そうは言いますけど、この手の魔術系ドラッグは出所が限られてる上にルートがほぼ固定で……その、今からの入手となるとちょっと」
魔術系ドラッグはその性質上、製法が特殊で製造できる者がかなり限られる。それゆえに、その希少性も一つの売りとなって極限られたルートでしか流通しておらず、ルートも含めてある種の既得権益と化しているというのが実態だ。
となると当然、ガキの使いのようにホイホイと手に入るものでもない。
「さすがにちょ~っと時間をもらわないと」
「三日後の正午、場所は追って連絡する」
「三日!?」
「何か問題でも?」
有無を言わさぬ口調で告げたのはそれだけだったが、それで十分だった。首が縦にしか動かないのはのは下っ端の悲しいさがだ。
あとは淡々としたものだった。
ガーネットとの事務的なやり取りを一通り終えたらしいオーバーライトは椿らには一瞥もくれることなく、床を叩く杖の一定のリズムとともに支配人室を後にした。
「ふぅ~。首の皮一枚、って感じだな」
安堵のため息とともにうなじを流れる脂汗をハンカチで拭き、椿はソファに沈むように腰かける。高級品のソファはそのまま地の底まで沈みこみそうな柔らかさで尻と背中を包み込み、至上の快楽とともに椿はこのまま眠ってしまいたい誘惑に駆られる。
「相変わらず無茶言うよな~、社長も」
口調こそ軽いが、底奥底にはねっとりとからみつく恨み節が込められている。
「そう言わないでよ。椿ちゃんを信用しての取引なんだしさ、ここは私の顔を立てると思って頑張ってよ。あ、うまくいったら特別に手当て上乗せと休暇も上げるからさ」
「失敗したらどっちにせよ永久に休暇ですけどね」
言いながら背筋が冷えるのをこらえられなかった。
思い出すだけでも寒気がする、あのオーバーライトの視線。あれは、こちらが期限を守れなかったときに一分の言い訳の余地も与えず、一切の躊躇なく相手を殺す目だ。
「あの人、情け容赦のなさで有名なのに、よくあんな取引にあたしらを使ってくれたもんだよ」
「で、あるんでしょ? あて」
ささやかな胸を深呼吸に膨らませ、瞼を通して照明を感じること数秒。
「……まあ、ないわけじゃない、かな」
「さーっすが椿ちゃん。私、椿ちゃんなら絶対何とかするって信じてるからね」
無邪気に笑うガーネットの姿には一切の裏も腹芸もない。本当に腹の底から信じ切っているのだ、椿のことを。そしてそれがわかっているから、椿はどうしようもなく脱力して責める気力をを根こそぎ奪われてしまう。いつものことだった。
「でも、言っときますけどさすがに今回ばっかりは何の保証もないですからね」
「だいじょぶだいじょぶ、そんときは地の果てまで逃げなよ。ちょっとぐらいは援助してあげるからさ。さすがに連中への義理立てもあるからあんまり表立ったことはできないけどね」
ケロリと言い放つあたりに、改めてガーネットなる人物に得体の知れない何かを感じずにはいられないが、目下問題はそこではない。
「いや、マジで言われると辛いんだけど……ってあ~、もう、こんなことしてる時間も惜しい。ベル、あんたも来てくれるか? さすがに一人じゃ手にあまりそうだ。はぁ~」
思わずこぼしたため息に、混じりっ気なしの本音が込められている。
「それはよいのだが」
と、アリスベルが意味ありげな視線を椿に向ける。
「カジノの方はよいのかね? イベントを手伝うのではなかったかい?」
再び、先ほどよりも深くずぶりとソファに沈み込んだ。くすりと、口の端から笑みが漏れる。
「あたし、あんたのそういうとこ、嫌いじゃないよ」
車で向かったのは街の中心地である歓楽街からから少しはなれた市街区。
西に傾き始めた日差しが僅かに橙色を孕み始めてはいるが、夕暮れまではまだしばらく時間がある。できれば今日中にある程度の当たりをつけておきたいと考えた椿は、支配人室を出た脚でそのまま地下ガレージに向かい、そこに止めてある一台の商用車のハンドルをとった。
「今日はいつものスポーツカーではないのだね」
「あんなのでここに来たら、車離れて五分と経たない間に傷だらけにされるか盗難防止のサイレンが鳴りっぱなしになるよ」
面倒くさそうにつぶやきつつ窓の外に視線を向ける。
そこには、つい今しがた間で自分達のいたレジャーエリアとは似ても似つかない、スラムさながらの光景が広がっていた。
歓楽街を中心として構成されたこの街の構造は実にわかりやすく、中心部に近ければ近いほど住民の生活レベルは高く、距離に比例してその水準は下がり続けてゆく。
畢竟、外縁部にへばりつくようにして広がっている区域ともなればその生活レベルは最底辺のものとなり、中心近くの住宅街とは全くの別世界だ。
スプレーの落書きだらけのアパートに、点々と並ぶ放置車両。ストリートチルドレンが虎視眈々とよそ者の懐から金をふんだくるために目を光らせ、その傍では昼間から呑んだくれたホームレスが酒瓶を抱きながらいびきをかいている。
「どこの世界でも変わらぬ光景、だね」
素っ気なく言い放つアリスベルに、椿はふと彼女の出自に思いを巡らせる。
「どこの世界でも、か。あんたにしか言えない感想だろうけど、それだけに重みがあるね」
「そうかい?」
「頭でわかってんのと、実際に体験してきたこととじゃあ歴然とした差があるよ」
皮肉のこめられていない椿の言葉に気を良くしたのか、アリスベルは口元をほころばせる。
対する椿はそんなことに気がつかないほどに、慎重にハンドルとアクセルを操作している。
「あれだろ? いくつも国やら世界を救ったんだろ」
「その倍の世界を滅ぼしたよ」
「ならなおのことだ。なんなら、あんたの昔話を聞かせてもらってもいいんだよ。あたしもあんまり聞いたことないしさ」
「まあ、その話はまたの機会に、ということで」
「へいへい」
他愛もない会話とともに、スラムの大通りを味もそっけもない商用車で走ることしばらく。
「毎度のことながら、ワンブロック違うだけで別世界だね」
車から降りたアリスベルは一度だけ背後を振り返り、今しがた通過してきた街並みと目の前の光景との違いに感嘆のため息を漏らした。
「まあね、実際ブロックの違いは世界の違ってもいいぐらいだしな」
誰にともなく説明しながら、同じく車外に降り立ったアリスベルも目の前に広がる街並みをしげしげと眺めている。
それまでは、老朽化と荒廃を絵にかいたようなダウンタウンだったのだが、今目の前に広がっているのはそれこそ時代を飛び越えたかのような街並みだった。
アスファルトだった道路は石畳に、電燈だった街灯はガス灯になり、それぞれが若干ファンタジー色を帯びた意匠で統一されている。
何よりその違いを感じるのは建造物のコンセプトだった。
背後に広がるダウンタウンはアパートメントをメインとした集合住宅が多く見られ、そのどれもが目に見えて老朽化していながら放置されているものばかりだった
が、目の前の区画には、異なる時代から持ってきたかのような古風な建築ばかりだ。レンガや石造りの邸宅はそのデザインに反してどれもさほど時間経過による劣化を感じさせず、それどころか最新式のセキュリティサービス使用のプレートが門に掲げられたりしている。
「このあたりまでくると、今度は生活レベルじゃなくて住民たちの出身世界で住み分けてるエリアだ。実際、今からあたしらが行くのも、元はうちのカジノに遊びに来てたようなそこそこ裕福なやつんとこだし」
「ふむ。この世界らしいコミュニティ形成というわけだね」
「そゆこと。ありとあらゆる世界からありとあらゆる種類の人間が、いや、人間含めた数え切れない種がなだれ込んでごった煮になってるからこそ、同じ出身や似たような出自の連中どうして群れてる方が何かと便利ってのもあるんだろ。って、こりゃシャカにセッポーだったか」
かつて、この回廊世界リゾートが無数の世界をつなぐ前から、いくつもの世界を渡り歩いてきたというアリスベルには説明の必要もないことだったかもしれない。
が、アリスベルが喰いついたのはそちらではなかった。
「しゃか……に? どういう意味だね?」
「ん? その道のプロに説教垂れるのは滑稽だ、ってな感じの話だよ。あたしが元いた世界の、まあ、トラディショナルな言い回しだよ」
「興味深いね。そうした話もたくさん聞かせてもらいたいものだよ」
「生きてりゃな。まずは仕事こなさなきゃ、オーバーライトにぶっ殺される」
しばらく歩いた二人は、見るからに魔法使いが住んでいそうな洋館の前で足を止める。
門扉はびっしりと蔦に覆われ、そこに続く壁はぐるりと敷地を取り囲んでいる。その向こうの庭では何やら意味深なオブジェを戴く噴水が水をたたえている。館の左右には二本一対の尖塔があるが、全ての窓の鎧戸が閉じられて、一切の進入を拒んでいるようでさえあった。
「インターホンどこだ? まさか、魔法で自動的にお迎え、ってわけじゃないだろうし……」
言いながら蔦に覆われた門扉を確認して回るが、それらしいものは見当たらない。小首をかしげながら、中を覗き込もうと格子状の門に手をかけると、
「あれ? 開いてる」
微かに軋むような金属音とともに、敷地内に向かってゆっくりと開いていく。
とっさに確認したのは、門柱を覆う蔦の隙間から申し訳程度に顔を見せているセキュリティ会社のロゴ。と、その瞬間、
「誰か来るよ」
アリスベルの言葉に、椿はとっさに壁沿いに駆け出し、最初の路地に飛び込むとそのまま庭を取り囲む壁に手をかけてジャンプ。ぎりぎり目元だけが壁の上に出る高さで中を覗き込むと、今まさに庭を通り抜けて出て行こうとする数名の姿を視界にとらえられた。
「車を離れたとこにおいてきたのは正解だったな」
「あれはここの住人ではないのかね?」
同じように壁の向こうを覗き込んでいたアリスベルが、着地と同時に尋ねてくる。
「背中しか見えなかったけど、多分違う」
「その根拠は?」
「今から自宅を空けるって人間が、わざわざセキュリティ切っていくか?」
「もっともだ」
椿らが来る以前に門がどうだったかは定かではないが、少なくとも椿が門を開けた時点で何の反応も示さないのは、セキュリティが稼働していない証拠だ。
「こりゃ、ちょっとやベーかもな」
人影が門を抜けて外に出て行ったのを確認する。どうやら戻ってくることはなさそうだ。
情けなく口をへの字に垂れさせた椿は両手で体を引き上げると、そのままくるりと宙返り。ぼそり、という下草を踏む音とともにまんまと敷地に侵入する。
「どうやら本当にセキュリティは切れているようだね」
すぐ隣に音もなく着地したアリスベル。跳躍力だけでやすやすと壁を越えてきたのを椿は目の端に捉えていたが、いつものことなので驚きもしない。
「そりゃ助かったんだけど、となるとますます嫌な予感ゴリゴリなんだよな~」
セキュリティが切れているのを確認し、息をひそめる必要がなくなった椿は堂々とした足取りで庭を闊歩し、まっすぐに館の玄関に向かう。途中、噴水の脇を通った時にちらりとその中を確認したが、そこには何の異常も見受けられなかった。
「ってことは、やっぱさっきの連中かな? やだな~」
愚痴るようにこぼしながら玄関扉のノブに手をかけてみると、どうやらこちらにも鍵はかかっていないらしい。
「予想、外れてくんないかな~」
そう言う口調こそ暢気だが、そこに込められた切実な思いはどこまでも本気だった。
もはや何の疑いもなく扉を開け、椿は館に足を踏み入れた。
「おーい、いるかー? 返事なかったら勝手に入るぞー」
一応とばかりにおざなりに呼びかけてはみるものの、しばらく待っても返事はなかったので椿とアリスベルは一度だけ頷きあって奥へと進むことにした。
外観こそ大きめの洋館ではあったが、吹き抜けの玄関ホールがかなりの面積を占めているおかげで居住空間として使われている部分はさほど広くはなさそうだった。
「掃除もそれなりに行き届いている。先ほど見たキッチンなど、コーヒーの残り香さえあったのだから、つい最近までこの中で生活が営まれていた証拠だよ」
「コーヒーの匂いって、そんなのしたか?」
「ほんのかすかに、だがね」
「あんたが微かだってんなら、犬にもわかんないわ」
アリスベルと自分の感覚を比べるのは愚の骨頂だとばかりに椿は思い出そうとすらせずに、今度はホール中央の階段から二階へと足を踏み入れた。
八つある扉のうち五つは客間を含めた寝室だったが、どの部屋のベッドにもシーツすら敷かれてはおらず、室内の淀んだ空気と微かに積もった埃からも最近使われた様子がないのは明らかだった。
「となると……っていうか、絶対ここだな」
椿が睨みつけたのは、明らかに他の部屋とは造りの異なる扉だった。
二階の最奥に陣取ったその部屋は尖塔部分になるのだろうが、その意匠ははっきりとこの中が一番やばいと雄弁に物語っている。だって、そこだけ鉄の扉で、どう見ても魔法陣としか思えない記号や文字が刻まれているんだから、子供でもここが本命だとわかる。
「よし。この扉が開かなかったらもうお手上げってことで諦めて」
扉に肩を預け、寄りかかったところで、
「うわっ!」
開いた。何の抵抗もなく。微かな金属音を立てながら、扉が室内に向かって。
すんでのところですっ転びそうになった椿は慌てて体制を立て直すが、勢いは殺しきれずに室内に転がりこみ、その瞬間に鼻を突いた異臭に全てを悟った。
どうやらその部屋は書斎だったらしく、八角形の壁は全面が本棚で埋め尽くされ、そこに収まりきらない本達が所狭しとうず高く積み上げられている。
「う~わぁ~大当たりだよ、いや、大ハズレ、か? どっちでもいいけど」
入って正面、唯一の窓から差し込む光を背負うようにして置かれた書き物机で、男はこと切れていた。
木製のロッキングチェアに座り、だらりと脱力して俯く姿はじっと物思いにふけっているように見えなくもなかったが、胸の真ん中がべっとりと血で汚れているのを見ると、そんな考えが浮かぶ余地はなかった。
「流血は止まってるけど、まだ血は固まってない、か」
独特の鉄臭の混じった生臭さの中、歩み寄った椿はもアリスベルも眉一つ動かさない。辛うじて鼻筋をゆがめた椿だったが、それは人の死に対する恐れや怯えなどではなく、ただただ面倒事に巻き込まれたことを嘆くしかめっ面だった。ため息もでなかった。
「一応確認するが」
「そゆこと。この男があたしの知る魔法使いで、こいつにはいかさまを見逃してやった貸しがあった。魔法使いってのは何だかんだでレアな職種だから貸し作っといて損はない……って、思ったんだけどな~」
がっくりと肩を落とし、そのまま脱力して手近な本の山に腰を落とす椿。その眉間には、十代の乙女の肌にあってはならない深さで皺が刻み込まれていた
ものは試しとばかりに手近な古書を手にとってパラリとページをめくってはみるが、何が書かれているのかどころか書いてある文字すら読めない。
「これは興味深いね。この世界は使用する文字や言語に関わらず、特殊な法が作用することで互いの意思疎通が可能となるように神々によって改変されているというのに……」
同じ書物を手にとってしげしげと眺めるアリスベル。
「読めないように魔法が掛けられてんじゃね? ま、むしろこっちのが正常って気もすっけどな。何語喋ろうがどんな文字書こうが、それが相手には相手の言語で見えたり聞こえたりするってのが、未だに理解できんくて気持ち悪い」
事実、椿が今口にしているのは母語である日本語だし、書くのも常に自分の知る文字ばかりだ。ただ、固有の単語や共通の概念の存在しない物の場合は、その部分だけがオリジナルの音なり文字で受信されるようで、アリスベルの言葉にもたまに解析不能な個所があったりする。
が、いま問題なのはそんなこの世界の在りようではなく、唯一と思われた救いが失われたことだ。
「あんたの知り合いに魔法使いとかいない? それか、実はあんたが魔法も使えるって落ちは」
「残念ながら私の知る魔法使いは全て鬼籍だね。そして私はついぞ魔法は使えなかったよ」
「あんたにもできないことってあるんだな」
椿にとってそれは、とてつもなく意外なことに思えた。
「才能以前の問題らしい。どうやら魔法を使うに当たってはそれ以前に世界の理に寄り添う必要があるらしい。もっと言うなら、世界に愛されて初めて行使できるもののようでね」
「ああ、何となくわかるわ。あんたはどこに行っても独立独歩のオンリーワンだかんな。そゆのとは無縁そうだ」
そんなん椿の言葉に耳を傾けつつ、室内をぐるりと睥睨したアリスベルはふと何かを見つけたように積みあげられた本の一角に視線を止めた。
「そこの本を一冊、取ってはくれないかい?」
指差したのは部屋の隅、ひと際うず高く積まれた本の山だった。
「え? どれ?」
「どれでも構わないよ」
今一つ趣旨を掴みかねるが、次の一手が全く思い浮かばない椿は「どっこいせ」とおっさんくさい声をあげて立ち上がり、言われるまま手近な一冊に無作為に手を伸ばして、
「ありゃ?」
不思議な感覚だった。
確かにそこには本の山があり、その中から抜き取っても雪崩が起きなさそうな一冊をつかもうとしたのだが、
「本に、届かない?」
目測を誤るような距離ではない。と言うよりも、きちんとその場所まで手が伸びているのはこの目で見ている。にもかかわらずその指は本に届かずに空を切った。
「もっかい……って、やっぱだめだ」
もう一度、今度は先ほどよりもさらに奥まで、目測で言うなら本の山の中に手を突っ込むぐらいのところまで手を伸ばしてみるが、結果は変わらずに指先が本の手前で虚しく空振りするだけだった。
「やはり、結界だね」
「結界?」
聞き慣れてはいるが触れる機会のない単語に、椿は振り返って視線だけで説明を求める。
「おそらくその本の山に見えている場所は、結界に囲まれてこの世界からは切り離されているのだろうね。だから、見えはすれどそこに届くことはない。なにせその場所は、この世界にあってこの世界ではない場所だからね」
「ってかあんた、魔法だめなんじゃなかったの?」
流暢な説明に訝しがる椿だが、
「からっきしだよ。現に私は結界を張ることはできないし、その術式や構成を紐解くこともできないどころか、感知することも不可能だ」
「じゃあなんで?」
「使えなくても、そうしたものと対峙する機会は山ほどあったからね」
「野生の勘、ってやつ?」
「女の勘、と言ってもらえるとうれしいかな」
アリスベルの答えはどこまでも淡々としてた。
改めて結界が張られているらしい場所を睨みつけてはみるが、椿にはその片鱗すら、なんならそこにあるかもしれない違和感一つ見て取ることはできなかったのだ。
「ふうん……でも、もしかしたらこれで首の皮一枚つながったかもしれないな。っても、その結界の中身次第だけどね」
「というと?」
「一つはその男。そいつ、死んでからしばらくたってる。ってことは、そいつを殺した連中は殺してからもしばらくはこの家の中にいたってことになる」
「我々と入れ替わりに出て行った連中が犯人だとするなら、そういうことになるだろうね」
「何探してたのかは知らないけど、結局見つけられなかったってのは間違いなさそうだ」
「その心は?」
「あたしだったら、目的のブツを見つけたらこんな現場を放置しやしない。火をつけるなり重機で突っ込むなり異次元にぶっとばすなりして徹底的に証拠を隠滅する」
「懸命だね」
倫理やモラルなんて微塵もないが、言う方も聞く方もどこまでも自然に会話は流れていく。
「それどころか連中はもう一度捜索に来るつもりなんだろうね。それがもう一つの理由。家ん中が全く荒らさずに、何なら元あった場所からものを動かしたりもせずにいったん撤収したのさ。ここが魔法使いの家だから」
物の置き場一つ、向き一つをとってもそこに意味があるように見える。知らぬ者にとっての魔法というのはそういうものだ。そして事実、うっかり魔法使いの家で家具を動かしたせいでこの世ならざる場所に放り出された、なんて話も巷間まことしやかに囁かれている。
「たしかに、門外漢にとってはどこに何が込められているのかすら知りようもないからね」
「そ。んで、目の前にはこれ見よがしに結界がある……あたしには見えないけど」
二人同時に本の山を眺めるが、やはりそこは何の変哲もない部屋の一角でしかない。
「先ほどの連中が魔法使いを殺してまで手に入れたかったもの……か」
「言いかえれば、この魔法使いのおっさんが命を賭しても守りたかったもの。それがなんであれ、確かめる価値はあるかもね」
とはいえ、最大の問題が目の前に立ちはだかっているのも事実だ。見えないけど。
「ときにベルさんよ」
「何だい椿君?」
「あんた、結界を解除できないって言ったよね」
「そうだね。さらに言うなら見ることすらままならないよ。あくまでも経験則でしかない」
にしてはどこまでも的確な観察眼に、椿は脱力せざるをえない。一体どれだけの修羅場をくぐり抜けてくれば、在るかどうかすら定かではない結界を、それもおそらくは見つからないことに主眼を置いたものを、『勘』の一言で見つけてしまえるのか。
だからなのだが、椿はある種の確信とともに訪ねる。
「でも、何とかはしてきたんでしょ?」
「そうだね、大抵の場合は」
「じゃあさ」
「一つは力任せで術式を崩壊せしめる方法だが、これはあまりお勧めしないよ。結界の強度にも寄りけりだが、余波が強すぎた場合結界内部を崩壊させてしまう可能性がある」
「うん。却下。ってわけで他の、もうちょっとスマートな方法で」
「これを使う」
言いながらアリスベルは宙空に手を伸ばすと、
「何回見ても不思議だよな、この光景」
不意に、その肘から先が姿を消す。ずぶりと、目に見えないどこかにその腕が突っ込まれるように徐々に消えて行く様は異様としか言いようがなかったが、椿が言ったのは更にその後のことに関してだった。
「そうかい? ただ単に位相の異なる場所に干渉しているだけだよ」
事もなげにさらりと言いながら今度は虚空に差し出した腕を引き抜くと、何事もなかったように肘から先が徐々に姿を現し、
「いや、それもう超常現象だから」
何もない虚空から、ずるり、とその手に握られた何かが引きずり出され始めた。まるで、空中に開いた見えない袋の口からその中身を取り出すように。
それは鉄板だった。
鈍色がかった金属の輝きを帯びたそれは、あまりにも分厚く、幅広で、その全容が姿を現すま、そいつが刃物であるなどとは想像もできないほどの、巨大な金属の板。
そんな威容が虚空から引き抜かれる様は、ある種のホラーだ。
「これなら、おそらくは」
ようやくその全貌を現したそれは確かに剣の形をしてはいるが、改めて見てもただの鉄板でしかなかった。幅広すぎる刀身は大の大人でもその陰に優々隠れられるほどで、刃渡りに至っては長身なはずのアリスベルの身長を大きく凌いでいる。
しかし、何をおいても異様なのは、
「それをあんたが片手で振り回すってのがもう、ホラーを超えてギャグだよ」
とだけ言うと、その剣がサイズほどの重さがないように見えるが、そうではないのはアリスベルの足元の床が靴の形にへこんでいることから窺い知れた。
「しかし、これが一番手っ取り早い。こいつは目に見えぬものも切れるらしくてね」
「ってことは、切った相手はあんたには見えない、ってこと」
「そういうことになるね。ただ、切った感触はあるので想像することはできるよ」
「さいで」
もはや椿の理解をはるかに超えた世界の話に、脳は理解することをとっくに諦めていた。
「何でもいいや。その結界、ぶった切ってみてくれる?」
「承知した」
言い終えると同時、頭上に振りあげられていた巨大すぎる刀身は、すとん、と実にあっけなく振り下ろされていた。
振り下ろされた切っ先が床に触れるか触れないかのところでぴたりと止まるのはアリスベルのとんでもな膂力と技術のたまものでしかないのだが、それよりも椿の注意は切られたであろう『何か』の方だ。
瞬き二回ほどの沈黙を待って、椿は口を開いた。
「切ったの?」
「そのはずだよ」
何とも頼りない答えに、もしかして結界なんて本当はなかったのか? そう思いかけたところで、唐突に目の前の景色が大きく歪み始めた。
「あ、ほんとだ」
信じていなかったわけではないが、さすがに見たこともなければ実際に今見えていないものが切れているかどうかというのは、想像力を駆使してもおいそれと実感できるものではない。
そんな間抜けな会話の間にも本の山とそれを取り囲む一角の歪みは大きくなってゆく。まるで水面を通して景色を眺めているところに、不規則な波が幾重にも押し寄せているかのように。
「うわ、なんか頭痛してきそう」
そうこうするうちに今度は徐々にその景色の歪みは穏やかになり、再び姿を現したのは元通りの本を山と積んだ部屋の一角の光景。
そして、そいつは現れた。
数ある直立二足歩行をする人間タイプの種の中でも、別種の生物の外見的、生質的特徴を持つものがいる。この悲劇のきっかけとなったトカゲ人間などもその代表で、他にも獣のような特徴を持つものや魚類昆虫植物に果ては無機物までとバリエーションは際限がない。また限りなく人類に近い形状のものからほとんど元となった種族と変わらぬ姿までとその幅も驚くほど広い。
デミヒューマン、とは自分達を「人間」と呼称する存からの、あくまでも便宜上の呼び名だが、最近では混乱を避ける意味でもその呼び名が一般的とされている。
「大当たり……かな?」
驚きのあまりに目をまん丸にしてこちらを見上げているのは、獣のような尖った耳を頭の上に戴いたデミヒューマンの少女だった。
「なんか、いかにもって感じの服着てるな」
世間の印象にある魔法使いを記号化したかのようなフー付きローブ。
「さっき出てった連中が探してたのはこれ、か?」
ちらりと視線を向けても、獣耳の少女は驚きから復旧できてはおらず、ただただまん丸な目をぱっちりと見開いたまま椿とアリスベルを交互に眺めるだけだ。
一瞬だけ逡巡し、獣耳少女から会話で情報を引き出すのは難しいと判断した椿は、
「とりあえずとどまってもトラブルに巻き込まれるだけだし、とっととバックレますか」
迷いのない口調でアリスベルを促した。
「では、彼女は私が」
アリスベルもそれには異論はないらしく、獣耳の少女に手を伸ばすが、
「ん?」「おっ」
ここでようやく少女が始めて反応らしい反応を見せた。
自らの襟首を捕まえるように伸ばされたアリスベルの掌から逃げるように、僅かにだが身をよじらせて、
「へぶっ」
本の山からずり落ちた。見事に顔面から。
「あららら、思いっきりいったね。痛ったそ~」
他人事とはいえさすがに目も当てられない惨状に顔をしかめながら、今度は椿が助け船を出そうと手を差し出したのだが、
「んっ! んっ」
と少女は目をまん丸に見開いて、全力で首を横に振るだけだった。
「っと……そりゃそうか」
少女のその反応に、椿は差し出していた手を引っ込めると、今度はその手で自らのショートカットの栗毛をわしゃわしゃと掻き毟った。
「こいつ、目の前でこのおっさん殺されてんだもんな。そりゃ、見ず知らずのあたしらが差し出した手なんて、人殺しの手にしか見えねえわな」
ここにきてようやく、自分達の感覚が世間でいう『普通』とは一線を画しているのだということを改めて実感させられた。
「でも、それはそれ。これはこれ。言ってることわかんないかもしんないけど、とりあえずとっととここから逃げないとやっかいなことになんの。わかる? おっけー?」
もちろんそれらしい返事なんて期待していない。ただ、こちらが問答無用であることを伝えられればそれでよかった。というわけで、
「頼むよ、ベル。あたしじゃ抱えるにはちょっとおっきいからね、こいつ」
ちょっと、とは言ったが実際には二人の身長はほぼ変わらない。少女の年齢は外見からは想像できないが、どちらかというと椿が年齢の割には小柄だというのが大きい。
ついてくる気がないのであれば荷物のように抱えて逃げる他ない。おいていくという選択肢は、今この場においてだけは取りえないからだ。
(万に一つかもしれないけど、可能性繋いどいて損はないからね)
あくまでもドライに、あくまでも打算的に、導き出した答えだった。
「しかし」
何かを考えるように手が止まったアリスベルに、椿は眉間にしわを寄せる。
「何? この期に及んで人道的な何かが芽生えたの?」
「いや、そうではなく、連れて逃げるにしても抱えていては少々目立ってしまうと思ってね。そうだ、、こう言うのはどうだろうか」
言った時には、もうその手は動いていた。声を上げる間もなかった。
まず犠牲になったのは獣耳の少女だった。お伽噺の魔法使いそのまんまのローブとその下のシャツや、果てはズボンまでもがどういう理屈か一遍に脱がされた。
と、その様を目の当たりにして何やらやばいことになるぞと察した次の瞬間には、
「なふんっ!」
椿は何の色気もへったくれもないスポブラと、おそろいのストレッチ生地のショーツだけになっていた。脱がされた実感すらない、驚異の早脱がせ。
かと思いきや、
「ふむ、思った通り若干だぼつくが大丈夫だね」
それまで椿の着ていたレディースフォーマルシャツとジャケット、揃いのパンツは獣耳の少女の体を包み隠していた。
「ああ、うん。カムフラージュね。それはわかったんだけど、何であたしには何も着せてもらえてないわけ? 何? あたしこの後このしょっぱいブラとパンツで外歩くの? 何? あたしの貧相な体は布で覆う価値もないってか?」
敢えてしょっぱい、と言ったのはもちろん自虐だし、なんならしょっぱくないブラやパンツだっていっぱい持っている。
「もちろん、この作戦は彼女の衣服を君が着ることで……」
要はそういうことだ。比較的体格の近い二人の衣装を入れ替えることで、いるかもしれない追跡者の目を多少なりとも誤魔化せる。そのために犠牲になるものの大きさは椿のみが知るところだが、おそらく即興の策としてはまあまあ有効なはずだ。
獣耳少女からはぎ取ったローブ類を椿に着せるべくくるりと回れ右したアリスベルだったが、
「うん?」
つん、と引っ張られる感触に思わず首だけで振り返ると、そこには椿の服を着て首をフルフルと振り続ける少女の姿があった。
どうやら、このローブだけはどうあっても渡せないらしい。
「というわけなのだが」
「というわけじゃねえよ。いやいやいやいや、一応言っとくけど、これ、下着だかんね? 乙女が決してお外に晒しちゃいけないやつだからね」
しかし獣耳は尚もかたくなに、何なら先ほどよりも固くギュッとローブの裾を握りしめて引き寄せてしまった。どうやら何があっても渡す気はないらしい。
このままではぼろいローブが引き裂かれてしまうと思案している椿とアリスベルだったが、不意に少女が空いている方の手でアリスベルのホットパンツの裾をつまんで引っ張る。遠慮がちなつまみ方は、そのあまりの布面積の少なさに遠慮してのことなのだろう。
「ん? 何だね?」
問いかけるが、言葉での返事はない。ただ、何かを訴えるようにまっすぐにアリスベルの青い瞳を覗き込んだかと思うと、するりと器用にその手からローブを引き抜いて、小走り気味にトコトコと部屋を出て行ったしまったではないか。
「ちょ、何やってんの! あたし半裸なんだけど」
慌てて追いかけようとする椿だが、その肩を柔らかなアリスベルの掌がそっと捕まえる。
とてもではないが、巨大すぎるバカ重い剣を楽々振り回していたとは思えない滑らかで艶やかな、絹のような肌触り。女性らしい柔らかさには同性の椿ですら嫉妬を通り越してドキリとさせられるものがあるが、反して掴まれた肩は万力で固定されたようにピクリとも動かない。
「まあ、待ってみようではないか。きっと悪いようにはならなよ」
「そりゃいきなり半裸に剥かれて色気もへったくれもないかっこにされる以上に悪いようになんてならねえよ」
「そうかい?」
「そう思うんならあんたがまっぱになって、その服をあたしに」
言いかけて、凄まじい絶望感が胸の奥を抉った。
きゅっと引きしまたウエストは下手をすると二回り以上背の低い自分よりサイズが小さいかもしれない。ヒップは、まあ、百歩譲って人種が違うってことにしてもいい。が、それより何よりシャツだ。胸元はその中身のせいで思いっきり伸びきっている。多分あれを自分が着れば死にたくなる。というか死ぬ。女として。
「いや、いい」
なんてあほなやり取りをしていると、律儀にも逃げ出さずに戻ってきた少女は別室から持ってきたであろう、自分のものらしい衣服を抱えてトコトコと歩み寄ってきた。
「うっそだろ……」
差し出されるボリューミーな布を抱えて、椿は本日二度目の絶望に思わず天を仰いだ。
アリスベルの運転する商用バンと、その後を追うようにして走り去ったもう一台を窓越しに確認して、さらにしばらく時間をおいて椿は屋敷を後にした。
先に出たアリスベルを追いかけたやつらが全部で、こちらは尾行もなく悠々とお散歩というのが理想的だったのだが、
「まあ、そんなに甘くはないわな」
庭を抜け、門をくぐってワンブロックと行かないうちに背後をついてくる足音が現れた。
振り返って確認してもよかったのだが、そうするとこちらの顔を見られる可能性がある。できることなら、ぎりぎりまでこちらの正体を晒さずに連中を引きつけておきたい。
というわけで、
「あ~あ、飛んだり跳ねたりはあっちの専売特許なんだけどな」
同世代とは思えない肉体美を誇る相棒のことを思い浮かべながら、椿は角を曲がると同時に一気に加速。次の角までにトップスピードに到達するつもりだったのだが、
「んっもう! はっしりにくいなぁこの服!」
予想よりも速度が上がらず、慌てて振り返ると角を曲がってくる数名の男と目があった。
当然、尾行に気づかれた瞬間にあちらさんにはこそこそと隠れる理由はなくなり、思いっきり走り出したのが見えた。
「くっそ! しくった!」
露骨に舌打ちしながら、しかしなかなか上がらない速度にしびれを切らした椿は、
「んぇえ~いっ! まどろっこしい!」
おもむろに、くるぶし辺りまでを覆い隠していたひらひらフリフリのスカートを中身のパニエごと掴んで引っ張り上げ、膝小僧をむき出しにして力いっぱいのストライド。
「何でよりにもよってゴスロリドレスなんだよ!」
それはそれは見事な、ゴシックロリータであった。
黒を基調としたワンピースドレスはいたるところにフリルとリボンと何だかわからないひらひらが施されており、ご丁寧に中に着ているブラウスまでもがひらひらまみれときた。
「これ、何の罰ゲームだよ」
これをあの獣耳の少女が着ればコケティッシュな魅力が溢れんばかりなのだろうが。
「っつか、何であたしがあのガキの服着れちゃうんだよ、むかつく!」
これで胸元に余裕があったりなんかしたら眼もあてられずにその場で憤死していたところだが、幸いそこはちょっとだけきつかった。
「尻は……まあ、あたしが小尻ってことで。じゃねえ! 何だこの走りにくいの! そりゃファッションは忍耐とはいうけどさ」
路地を抜け、ゴミ箱を蹴倒し、飛び出してきた野良猫をジャンプ一番回避する姿はさながら王侯貴族のお譲さまの冒険活劇だが、当の本人の表情にはそんな優雅さは微塵もない。むしろ、殺伐とした殺意が所々にこぼれ出している悲愴な笑みがあるだけだ。
嫌がらせのフルコースのような悪条件(主に服装の点で)にもかかわらず、椿は実に四ブロックと半分ほどを逃げ果せたのだが、さすがにここらが限界だった。背後を確認するまでもなく、追手との距離は詰まっていた。
(ってわけで)
おもむろに速度を緩めた椿は、大通りから一本入った比較的人通りのなさそうな一角に滑り込む。追手の二人が同じ区域に駆け込んでくるのと、椿が振り返るのとはほとんど同時だった。
スカートの中、太もものガンホルダーの重さを確認しながら、やっぱりもう一度毒づいた。
「拳銃出しにくいったらありゃしない」
相手がその道のプロだった場合、その道のプロではない椿にとっては致命的な構造欠陥だ。パニエの中から拳銃を引きずり出す様は、想像するだに時間を喰いそうだ。
「なに? あんたらロリコン? こういうかっこが好みの変態なわけ?」
言っておきながら、今の自分が『そういう』性癖の対象にになるのだと思うと何とも不思議な気分だった。
「残念だけど俺達にゃガキを相手にする趣味は……ない」
中央にいた一人がそう言いながら、何故か自身の左隣にいるもう一人に視線を向けると、そいつはばつが悪そうに露骨に目を逸らした。あいつにだけは絶対に捕まってはいけないらしい。
「誰がガキだ?」
力いっぱい踏みぬかれた地雷に、椿は眉間に深く皺を刻み鼻筋を大きく歪めた。
それを察してか否かは定かではないが、男は更に小ばかにするような憎たらしい表情を浮かべて、あろうことかこう言ったのだ。
「あんまりにもその胸元が貧相だったもんでな。布っきれの膨らみがあってそれなんだろ?」
ぶっ殺す。
沸点が低いのは自覚している
が、人として、いや、乙女として絶対に守り抜かねばならぬ一線があるというのもまた真理だ。だからこれはただの制裁ではなく、自らの尊厳を保つための聖戦なのだ。
そう言い聞かせてガバリとスカートを捲りあげ、けん銃を引き抜こうとして、
「あ」
凄まじい炸裂音とともに、三人がほぼ同時に宙を舞った。
車に撥ねとばされて。運転しているのは言うまでもない。
「間に合ったようだね。こちらの追手を片づけていたので、少し遅くなってしまった」
運転席から現れたアリスベルの姿は、それだけでまるで映画のワンシーンのように映えるのだが、いかんせん乗ってきたのは商用のもっさいワンボックスカーで、しかもフロントグリルは全速力で男三人をはねとばしたおかげでベッコリへこんでしまっている。
「いや、間に合ったけどさ、身も蓋もないやり口だな。うわ、フロントえげつないな」
とても人間にぶつかったとは思えないへこみ方をした車のフロントを確認してから、交通事故被害者三名に視線を向ける。
「おー、頑丈な連中で良かった。生きてる生きてる」
とはいえ、まともに体を動かせるものは誰ひとりとしておらず、三人ともが息も絶え絶え地面にうずくまってうめき声をあげている。腕や足が本来あってはならない方向に曲がっているのには、見て見ぬふりをすることにした。
「なんか他に方法なかったのかよ? 車で轢くって」
「これが一番手っ取り早かったのでね。相手が並の人間だった場合、下手に私が手を下すと死んでしまいかねない」
衝撃の発言だが、そこに何の誇張もないことは椿が一番よく知っている。
ともあれ、ここで悠長に時間を喰っていれば更に追手が来ないとも限らない。
「んじゃ、そこの交通事故被害者ふん縛って持って帰るか。縛る必要ないかもだけど」
もはや小指の先一つ動かすのもままならない様子だが、念には念を入れて車に積んであったロープで手際よく三人を縛り上げると、ラゲッジスペースに放り込んでいく。
口々に何かを言っている男たちを完璧に無視して、荷物でも扱うあのように乱雑に一仕事終えると、椿は助手席の窓から中を覗き込み、自分の服を着た少女の存在を確認する。
「って、あ~あ、この子目が死んでるじゃん。あんた、いつも通り運転したでしょ」
そこには顔面蒼白になり硬直している少女の姿があった。焦点の合わなくなった目でまっすぐに前だけを見つめているが、きっとその目はどこも見てはいないだろう。
「途中から悲鳴も消えていたので、慣れたものだと思っていたが?」
「んなわきゃねえだろ。あんたの運転は慣れてるあたしでも十秒に一回死を覚悟すんだからな。何であらゆるコーナーを限界突破の四輪ドリフトでかっとんでくんだよ?」
それでもアリスベルは無事故だというのだから、神というのはどうでもいいところでばかり仕事をするらしい。
「では、その反省を踏まえて帰りはもう少しマイルドに」
当然のごとく運転席に滑り込もうとする艶めかしい尻と太ももを制して引っ張り出した。
「あたしが運転する」
ちらりと助手席の少女に目をやると、こちらを見つめ返す少女の瞳は鬼気迫る必死さで、椿に向かって実に雄弁に懇願していた。
お願いだから、運転を代わってくれ、と。
「あれ、修理は経費で落ちるよな?」
先ほど地下駐車場に停めた車の、ベッコリとへこんだフロントグリルを思いながら改めてそんなことを呟いた。
「ま、いっか。最悪あんたらを消すときにあれ使えば廃車費用ぐらいは浮かせられるし」
ゴシックロリータ衣装からいつものパンツスーツ姿に戻った椿は、後ろ前に座った椅子の背もたれにだらしなく顎を乗せ、目の前の三人をじっとりと見つめた。言わずもがな、先ほど椿を追っていて、アリスベルの車に撥ねられた男たちだ。
縛り上げなくても全員が漏れなく自分の足で歩けないほどの重傷で、中でも最初に撥ねとばされたやつなどは右腕と両足がそれぞれ、本来曲がってはいけない場所であさっての方向に曲がっていて意識も朦朧としているように見えた。
というわけで、椿は比較的軽症で会話が可能な男を正面に据えて尋ねた。
「でさ、あんたら誰?」
ここには駆け引きは必要ない。どう転んでも相手に選択肢のない、圧倒的に優位な立場にある椿に必要なのは、最低限の言葉と相手の心が折れるまでの僅かな時間だけだ。
「だんまりか。一応はプライドだか忠誠心だかはあるわけだ」
挑発めいた言葉にも、男は眉一つ動かさずにじっと椿をにらみ返す。撥ねとばされたときに折れたらしい左腕の痛みにも一見すると耐え抜いているように思えた。
「それとも、もし生きてここを出られたときにゲロってたら親分に殺されるから、ここは黙っとこうってこと? ポジティブだねえ、そんな可能性全くないのに」
うっすらと口元に笑みを浮かべた椿は、息をするように毒を吐いた。
しかしこれも安っぽい挑発と捉えたのか、はたまたその程度では屈しない強靭な精神の持ち主なのか、男は痛みにこらえるようにじっと眉根を寄せて口を噤み続けた。
「んじゃさ、質問変えるわ。あんたらの仕入れルート、何でいきなり途切れたの?」
何の脈絡もない、突拍子もない質問。しかしその瞬間に男たちの表情が同時に凍りついた。
「あ、図星、っていう顔してくれなくていいから知ってること話してくれればいい。ま、それもあたしの情報の裏取り程度になれば御の字って程度だし」
こちらは相変わらず椅子の背もたれにだらしなく組んだ両腕を預け、その上に顎を乗せたまま。喋るたびにがくがくと頭の方が動く様は何とも滑稽だ。
「相変わらず君の情報網は凄まじいね」
物見遊山に壁に背を預けたアリスベルが感嘆のため息交じりに称賛を贈る。
「あんたみたいな無敵の戦闘力はないから、生きて行くのにこれが必要ってだけ」
悪びれずに返す椿だが、どこか得意げな色が混じっているのはまんざらでもないからだ。
「まあでも、こんなのは情報でも何でもなくて、転がってるピースをいくつかつなぎ合わせれば察しがつくんだけどね。前にも言ったけどあの手のレアいドラッグ、とりわけ魔術系のドラッグ系は出所の特定がある程度容易なだけに、流通ががちがちに固定化されて秘匿されてる。魔法使いのレアさを考えれば当然っちゃ当然なんだけど、それは裏を返せば特定のルート以外では捌けないってことになる」
丸い飴玉を口の中で転がしながらしゃべるせいで、咥えた棒が言葉に合わせてぴょこぴょこと動く。
「あんたらが殺したあの魔術師、可能性は二つだった。一つは自分達のルートを他の組織にみすみすくれてやる前に殺したか、新たなルート開拓に失敗してうっかりやっちまったかなんだけど、ありがと、あんたらのおかげで絞り込めた」
椅子からケツを上げ、男たちの目の前にやさぐれたうんこ座りをした椿はたっぷり意味ありげに告げた。
「ってとこでラストクエスチョン」
もはや男たちに最初の余裕は微塵も残ってはいない。その焦りに歪んだ表情とうなじをびしょびしょにした脂汗が、椿の言葉が悉く真実であることを如実に証明していた。
「何とラストはビッグチャンス、五十パーセントの確率で生き残れます、チップは自分自身の命だ。答えてくれた方は生かしてあげる」
途端に意識のある二人の目がギラつき、ほぼ同時にごくりと喉を鳴らした。
あざ笑うような冷たい笑みを浮かべながら、椿はどちらにともなく尋ねた。
「何でいきなりブツが入ってこなくなったの?」
今度は即答だった。
「わからねえ、けど」
「おい、そんなこと喋ったら消されて」
「構うもんか! どの道喋らなかったらここで殺されんだ! 別に俺はチームに忠誠誓ってるわけでも何でも」
「ずりぃぞ! だったら俺のが先だ! 俺も詳しいことは知らねえ! ただ、あの薬はただ飛ぶだけじゃなくて、違う使い道があるってんで満貫商会がルートの乗っ取りを掛けやがったんだ。それもとんでもねえ資本を盾に。おかげで俺達のメンツも丸つぶれだ」
ここぞとばかりに勢いまかせにぶちまけたせいか、最後は怒り交じりの愚痴になっていたが、それだけにそこそこの信憑性があるのだと椿は判断した。
「俺らだけじゃねえ! 同じようにあの魔導ドラッグをさばいてたチームはどこも仕入れができなくてみんな躍起になってんだよ、新しいルート探しに」
どうやらかなり大規模での流通乗っ取りがあったとみて間違いなさそうだ。想定外のおまけが転がり込んできたことに、うっかりほくそ笑みそうになるのを椿は口の中で飴を転がして誤魔化した。
が、ここで一つ問題になるのが、
「ん? だったら何であの魔法使いを殺したんだよ?」
「知らねえよ! 俺らもやっとこさ頼めそうなまほーつかいが住んでるって情報を仕入れて行ってみたら、もうあいつは死んでたんだよ! でも何か持って帰らねえと何されるかわからねえから、屋敷から出てきたあんたらを追いかけたんだよ」
「なんだそりゃ?」
思いがけない事実だったが、そこに大した意味はないと判断して椿は男たちに喋らせ続けた。
「ちなみにさ、あんたらが今までお薬仕入れてたのって、どっから?」
「んなこと聞いてどうすんだよ。きいたとこで満貫の連中からは絶対にルート奪えねえよ。な? もういいだろ? これが俺の知ってる全部だ。な? 約束通り俺を生かして」
「っざっけんな! 先に話したのは俺だろが! 俺に決まってんだろ!」
放っておけば縛られたままの二人が醜い争いで殺し合いを始めかねない勢いでヒートアップし始めたところで、
「あー、ごめん。その話、嘘なんだわ」
乾いた銃声が、地下室の冷たい空気を六度震わせた。
「あ、うん。うん、いっつもごめんね。場所はいっつもの地下のお仕置き部屋。うん、じゃあお掃除お願いね」
電話を切った椿は人気のない廊下を歩きながらぼやくようにひとりごちた。
「にしても一個予想外だったのは、あの魔法使い殺したのは連中じゃないって……ってことは、あの女の子はなんだ? もしかして全く関係ないとか?」
そのひとりごとに、後ろを歩くアリスベルはいつも通りのさばさばとした口調で相槌を打つ。
「考えてもわからないものはしようがないよ。本人に聞けばわかることだよ」
「答えてくれればね」
ホテルの「清掃部門」への連絡を済ませた椿は、従業員の中でも限られた人間しか使えない幹部専用の業務用のエレベーターで地上に上がる。
目指す上層階のフロアはホテルを兼ねており、中でも今歩いている高層階は高級志向の客のために作られた豪華な造りとそれに見合った価格設定の部屋ばかりが並んでいる。
向かうのはその一室、毛足の長い絨毯敷きの廊下の突き当たりにある部屋。
「はい、お待たせ。んじゃ、ちょっとお話聞かせてくれる? だいじょぶ、あの怖い連中なら下のお仕置き部屋に閉じ込めてあるから」
怯えたように椅子に座って縮こまっているのは、あの獣耳の少女だった。
自前のゴスロリ衣装ではなく、ホテルに用意させたふわふわとしたワンピースドレスに身を包んだ姿はどこぞの国のお姫様と言えば言いすぎだが、最初のみすぼらしいローブ姿からは想像もつかない小奇麗さと可愛らしさだ。
ぼさぼさだった髪は先ほどルームサービスに風呂に入れてもらって見違えるほどふわふわになっている。ホテル備え付けのかなりいいシャンプーとトリートメントが覿面に効いたらしい。ネコ科の獣のものと思しき耳までふわふわなのはご愛敬だ。
「直球で聞くけどさ、あんたって魔法使い?」
子供に接する態度ではないが、そこにはある種の算段がある。それをわかっていればこそ、アリスベルも口を挟まない。
「だったら、何?」
無愛想なのを隠そうともしない割に表情が怯えているのは、ほほえましくさえある。どうやら初対面から口数が少ないのは、怯えていたり混乱していたのもあるが、従来の気質らしい。
でも、椿はそんなことは微塵も気にしない。むしろ、隠そうともしない感情にこそ取り入る隙がいくらでもあるのだと知悉している。だから椿はつづけた。敢えてドライに。
「何が起こってるかは知ってるか? ちなみに、これはあんたにも無関係じゃない、っていうか周りはあんたがこの騒ぎのど真ん中だって思ってる可能性もある。生きたきゃ素直に話すほうがいい。少なくともあたしらはあんたの敵じゃない」
心の中で「今は」と付け加える。
すると、それまでは意地になったように固かった少女の表情が迷いに歪み始め、いくらもしないうちにゆっくりと口を開いた。
「……何も知らない。私が部屋に行ったときにはもうおっしょうの体は誰かに殺されて死にかけてて、死ぬ直前におっしょうは私を結界に閉じ込めて隠した。それ以外はわかんない」
本当か、と突っ込むこともできたが、それには意味がないのはわかっている。
さらに淡々とした口調で椿は切り返す。
「まあさっきも言った通り、あんたが実際どうであるかはさておいて、今回の件に首突っ込んでる連中は他にもいるっぽいし、そいつらは多分あんたが目的だ」
「私は知らないって」
「そんなのは相手には関係ないんだよ。あんたが実際何者かなんて、あんたをとっ捕まえてから考えりゃいいって連中ばっかだし、多分関係ないってわかってもぶっ殺されるだけ」
少女が目に見えて怯えたのに椿は心の中でほくそ笑んだが、もちろんサディスティックな快楽に浸ってではない。それが証拠に、今度は一転して柔らかな口調に転じた。
「でもあんたはラッキーだよ。あたしらはあんたを殺したりなんかしない」
「自分達に利益をもたらす限りは」とは椿の胸中にだけ響いた言葉だが、アリスベルにははっきりと聞こえていたかもしれない。
「だから、わかる範囲で話してくれるとこっちとしてもありがたい」
ここで子供に対するような猫なで声ではなく、どこまでも対等な相手として接するあたりに椿の策士ぶりが表れている。自分を子ども扱いする大人を、子供は信じない。が、自分を大人扱いする大人に対して、子供は大人であろうと背伸びする。
その背伸びこそが、大人の誘導であるとも気づかずに。
「わ、たし、は」
恐る恐るながら口を開きかけた少女の言葉を遮るように、椿は最後の手を打った。
「っと、忘れった。あたしの名前は椿・アレクサンドリア・リン。椿もリンも名前だけど、椿で呼ばれることのが多いかな。ここのカジノのフロアマネージャーだよ」
「私はアリスベル・レインフォール。職業は……そうだね、そこの椿君の愛人、かな」
「くたばれ」
口を開きかけたところに自己紹介を重ねれば、おのずから相手の会話の選択肢は限定される。それは何より、会話に対するハードルを下げさせる有効な手段だった。
「わ、たしは、クロエ・シロエ。魔法使い……見習い」
実に狡猾だが、それを特に意識することなくやってのけるあたりに椿の非凡さと年齢に不相応な経験値が窺えた。
「クロエ、ね。なんか魔法使いっぽい名前だな。火とか出せんの?」
当たり障りのない話題だと思ったのに、現実とは非情なものだった。
「ん」
一瞬固まったクロエの首は、重々しく横に振られてしまった。
鉛を呑んだような重い沈黙がその場に満たされる。
十秒前に時を戻して自分の口を縫いつけてしまいたい衝動に駈られるも、椿はありったけの自制心を動員して言葉を選ぶ。
「あ…っと、んでクロエ、とりあえずあんたにその、魔法的な感じで心当たりがなかったとしても今からあの屋敷に帰るのは自殺行為だ。だから、しばらくはここに泊ってくといい。何かあればそこの内線でコンシェルジュに言えば大抵の物はそろえてもらえるし、レストランも使ってくれて構わない。部屋から出るのがめんどくさけりゃルームサービスをとっても」
無理やりにもほどがある会話の軌道修正だが、まさかド直球で「魔法の使えないお前でも家に帰るのはまずい」とは言えないので、これが精いっぱいだ。
そんな実にわざとらしい、とってつけたような説明をしているところに、
「っと、ごめん。なんか電話鳴ってる。なんだろ?」
唐突にジャケットのポケットから携帯端末を取り出した椿は、手の平の中の通信機器に心の底から感謝しつつ、その場でくるりと回れ右して通話を始める。
「ん、なに? うん、うん? ああ、ルーレットで、ああ」
電話の向こうからはすぐ隣にいるアリスベルにもはっきりと聞こえる慌てた口ぶりで、トラブルの発生を伝えていた。どうやらカジノフロアで客が暴れているらしい。
それ自体は対して珍しいことではない。それどころかひどい時には後日銃器を携えてお礼参りなんてこともけっこうな頻度で発生する。
そして、こうした客をうまくさばくのが表向きには椿のメインの業務だったりする。その客のランクに応じて搦め手を交えながら懐柔することもあれば、問答無用で叩きだして出禁にすることも少なくない。今回も最初こそいつもの椿のスタイルで、ひとしきり状況を聞いた後にその客の情報を聞き出すはずだったのだが、
「は? え? 今、何て? はぁ!? クスリでラリって? え、ああ、ちょ、ちょ、とりあえずその客は殺すな……え? もう殺した? じゃあ何であたしに」
いきなり飛び出した物騒な単語にアリスベルはゆるい苦笑を浮かべ、クロエは表情をひきつらせたが、驚いたのは更にここからだった。
「は?」
間抜けな声に続いたのは、彼女の正気を疑う内容だった。
「拳銃で……撃ち殺した、あとに、ラリって暴れ出した?」
その椿の問いかけに返答はなかったらしく、代わりに端末からはフロアの客のものと思しき悲鳴や怒号が背景雑音として漏れ聞こえていた。
行ってみてなるほど。カジノフロアのど真ん中、ルーレット台を取り囲むようにして、警棒と拳銃で武装したホテルの警備員が配置されていた。そしてその中心、中身をぶちまけた観葉植物用の植木鉢がいくつか割れて転がる中に、男はいた。ご丁寧に鉢から引き抜いたらしい観葉植物を棍棒よろしく握りしめている。
「確かにありゃラリってるし、えらい暴れようだけど……」
男は、元々は小奇麗なスーツに身を包んでいたのだろうが、今や見る影もなく衣服はボロボロ、。さらに周囲は男が暴れまくっただろうことが容易に想像できる荒れようだ。スロットマシンが数台、椅子を突っ込まれて息の根をとめられているのが何ともシュールな光景だった。
嵐のごとき男の暴れっぷりは想像ができたが、解せないことがあった。
「あれ、でかすぎんだろ」
男が手にしている植物は優に男の身長の二倍はあるし、こうした事態を防ぐためもあって椅子は床にボルトで固定されている。それが引き抜かれてマシンに突っ込まれるなんてちょっと考えられない。いや、そんなことができそうな連中、ということであればこの世界ではさほど珍しくもないのだが、少なくともその男には到底不可能に思えた。
(ココ(リゾート)じゃ見た目が一番当てにならない判断材料とはいえ、さすがにこれは……)
加えて何よりもその場の異様さを際立たせているのが、、
「ほんとに撃たれてるな」
男の体に残された銃弾の跡はは十や二十では効かない。体中が血の池に一度沈められたかのように真っ赤に染まっている。出血からさほど経っていないのは、元は白かっただろうシャツが、鮮血の赤に染まっていることからわかった。撃ち殺した後に暴れ出した、とは少々大げさな表現で、急所を外したせいで余計暴れたか何かだろうと思っていた。
「ほんとっぽいな。非常識にもほどがあんだろ。さすがにもう動かない、んだよな?」
ピクリとも動かない男から念のため視線はそらさずに、手近で茫然としているカクテルガールに尋ねてみて、さらに驚いた。
どうやらそのカクテルガールはたまたま近くの客にドリンクを配っていて一部始終を見ていたらしいのだが、その話はもはや荒唐無稽を通り越して笑い話のような代物だった。
要約すればこうだ。
最初は普通にゲームに興じていた男だが、ある瞬間を境に突然正気を失ったように奇声や笑い声を上げ始め、ついにはすぐ隣で同じくルーレットを楽しんでいた男に掴みかかったのだと言う。特に負けが込んでいるわけでも、勝っているわけでもなかったのにあまりにも唐突で、しかもその様はまるで子供がじゃれつくかのようだったらしいが、なるほど、大人の男が奇声をあげながらじゃれつくなんて、それこそ地獄絵図だ。
で、そこへ駆け付けた警備員が引きはがしにかかったが、それが惨劇の引き金になった。
最初に掴みかかった警備員はいきなり首筋に噛みつかれ、一部肉を食いちぎられて血しぶきを上げ、その瞬間に周囲は一気にパニックに陥り、それでも男は一向に暴れるのをやめようとはせずに、別の警備員に掴みかかろうとしたのだと言う。
「で、容赦なくハチの巣にしたと。そんだけ聞けばまあ、穴だらけも納得だけど」
言われてみれば男の体を濡らしている血液の量は一人分の出血にしては多いようにも思えた。
「本来ならそこで一件落着のはずが、そうはならなかった、と」
同じく説明を聞いていたアリスベルの視線を追う椿。その先では、まるで小型のハリケーンでも発生したかのようにひっくり返った現場が、静けさに包まれていた。
「ってことは、このめっちゃくちゃにぶっ壊れまくってるマシンやらルーレット台やら植木やらは、穴だらけ出血ドバドバ状態のあいつがやった、ってことか」
時系列ではそういうことになる。
「しかも、大暴れし始めてからはその前のような奇声や笑い声もなく、ただただ無表情に破壊の限りを尽くした、と?」
アリスベルに尋ねられたカクテルガールは、何故か頬を微かにピンクに染めながら頷く。まあ、同性でもこの魅力にどぎまぎするのはわからないでもない。
「なんていうか、同じ人間とは思えないぐらいで、撃たれても警棒で殴られても全然って感じでお構いなしにただただ暴れて……そう、ゾンビ、ゾンビが暴れてるみたいでした」
どうやらよほどショックだったらしい。目の前のカクテルガールには特別に有給と病院の紹介状与えるべきかと悩みながら、とりあえずの相槌を打つ。
「ゾンビ? ゾンビってあの、動く死体?」
ルーレット台やスロットマシーンの被害額とその復旧予定を頭の中で軽く見積もりながら、椿は忌々しげに男の死体を睨みつけた。
「そのゾンビです。お墓の下から出てきて、うーうーって人間食べちゃう、映画とかゲームの」
人間を食べるかどうかは別として、ある程度一般化されているらしいゾンビのイメージが彼女にそう言わせているだけだというのは重々承知している。
「ゾンビ、ねえ……まあ、何であれ確実なのは事を起こしたときにはもうあいつは死体だから生け捕りもできなかった、ってことか。死人に口なしとはよく言ったもんだ。もしそんなことができるならまさに最高の鉄砲玉ってわけだ。現にうちはしばらく一部営業不可能になってる」
「事を起こした時点ですでに死体、か。確かに厄介な刺客だね」
「せめて、こいつをぶっ込んできたのがどこわかれば、利子つけて返してやれるんだけどな~」
賠償の請求ではなくお礼参りを画策するのは、年頃の女子としてどうかなんて倫理観はどこかに置いてきた。でなければこんな業界でこんな仕事を務めてはいられない。
「とりあえずあの死体の身元ぐらいは洗ってみてもよいかもしれないね」
アリスベルの進言に露骨に面倒くさそうに顔をしかめた椿だったが、そのとき、
「あ、ひ、一つ、ある」
途切れがちにそう零したのは、アリスベルのすぐ隣で挙動不審に震えていたクロエだった。部屋に一人になりたくなくてアリスベルにくっついてきてしまったらしい。
「あんた、ダメじゃん。何のためにあたしらがかくまってると……って、何があるって?」
さすがに立場をわきまえてもらいたいもんだと呆れつつ、クロエからの発信を逃すわけにもいかなかった。
「あ、あの、あの人が、話せれば、いいの?」
クロエが指差したのは、穴だらけ血だらけで立ち往生している渦中の男の死体だった。
何を言い出すのかと思えば、と内心では若干いらつきつつ答える。
「そだな、あいつが洗いざらい全部喋ってくれればあたしらの手間は一兆分の一になる」
もちろんそんなご都合主義がこの世にないことは重々承知している。だからこそ、自分は今こんなところでこんな仕事をしているのだ。
「んで? 一体何があるって……って、おい! ちょ、勝手なことすんな」
椿の問いかけもほどほどに、何を思ったのかクロエはいきなり駆け出した。
慌てて止めようとする椿だったが、小柄なクロエはするすると人垣を掻きわけてほぼ全壊したルーレット台に辿り着いてしまった。
「くっそ。ベル、とりあえず最速であのチビかっさらってきてくれ。あたしはセキュリティに指示して」
ポケットから取り出した端末には警備部門長の連絡先が表示されているし、近場の警備員には無言の視線とジェスチャーで周囲を警戒するように伝えていたが、
「え?」
「おや、これは」
目の前で起こった事態に、椿の脳は一瞬でフリーズ。思考は全て蒸発してしまい、半開きの口は果てしなく間抜けだった。
それも仕方のないことかもしれない。だって、
「え? 何で、動いてんの?」
男が、動いた。
死んでいるはずの男が、死してなお動いたという、しかしもう二度と動くはずのない、動いてはならない男が、ゆっくりと手にしていた観葉植物をその場に置き、生きているときはそうだったんだろうなと思わせる生々しい動きでその場にゆっくりと腰を下ろしたではないか。
ごく稀に、死後硬直やその解放の過程で体が動くことがあるが、死亡からそれほどの時間がたっていもいないし、何よりとてもではないがそんなレベルではない動きだった。
明らかに意思を感じさせる動きだ。
そしてその目の前には、照れくさそうに腰の前で両手をもじもじさせながら、ちらちらとこちらを見るクロエの姿。
そんなことになれば周囲で待機していた警備員だけではなく、未だ騒動から気持ちが解放されていない野次馬連中の間にも一瞬にして動揺が走るのも当然だ。悲鳴混じりのざわつきが瞬く間に静寂を押しのけてその場に充満し、警備員達は慌てて拳銃や警棒を構え直す。
そんな一連の空気の変化をはるかにしのぐ最速の反応を見せたのは、アリスベルだった。
すぐ隣で退屈そうに立ちんぼをしていた警備員の腰から閃光手榴弾を拝借すると、流れるような動作でピンを抜き、
「上だ!」
叫びながら力いっぱい天井に向けて投擲。
次の瞬間、通常のフロアの三倍以上の高さがある天井付近に、小さな太陽が炸裂した。
「ああ、それで頼む。くれぐれも取りこぼしのないように、ちゃんと全員に渡しといて。え? 警備員? 何か特別手当とかそっちの方向で、ああ、経理の方になんか言われたらあたしんとこに振っていいから、うん、じゃ」
きびきびとした口調で指示を飛ばした椿は相手の返事を待たずに通話を終了のボタンをタップ、電話をポケットに直すとほぼ同時に踵を返して、
「ま、あれがベターだったとはいえ、しばらくは警備部門が人手不足だってさ」
アリスベルが使用したのは閃光手榴弾。でっかい音と眩しい光で暴徒の視覚と聴覚を潰し、思考を一瞬停止させる非殺傷性武器なのだが、当然その威力がマイルドなはずはない。
「最低限の被害にするように天井近くで炸裂させたからまだましだったけど、医務室は目眩と難聴のお客さんで満員御礼だってさ」
あの瞬間、アリスベルの声にその場にいたほぼ全員の視線が、突如として動き始めた死体から反射的に天井に向けられていた。
「さすがにあの衆人環視の中から誰にも気取られずに彼女とその男を持ち出すのは困難だったのでね。念には念を入れて、だよ」
アリスベルの目論見通り、あの場にいた椿とアリスベルをのぞくほとんど全員が閃光と爆音に意識を塗りつぶされ、結果アリスベルはクロエと男の死体を連れて脱出することに成功した、というわけだ。
「残念なことに、被害甚大な奴が一人いるけどね」
当然、騒動のど真ん中にいたクロエはアリスベルの目論見など知る由もなく、他のギャラリー同様に、視線と意識を頭上に誘導され、
「痛いぃ……耳も、きーんって……きーんって」
一時的な頭痛と難聴に苦しんでうずくまっているというわけだ。頭の上に生えている獣の耳も今はぺったりと伏せられている。
「耳ふさいでてもけっこうなボリュームで聞こえるもんな。もろに喰らうんだけはマジ勘弁」
目の前でうんうん唸っている小さな背中には酷だと思いながら、そう言わずにはいられなかった。おそらく聞こえていないだろうことが、唯一の救いだろうか。
「にしても、なんちゅうシュールな絵面なんだか」
そう言って見回したのは、つい先ほど二人の男を始末した地下の空間なのだが、そこにはすでに何の痕跡も残されていなかった。死体は言うまでもなく、床に広がっていた血もその痕跡ごときれいさっぱり消えうせて沁み一つ残されてはいない。地下特有の少し湿ってひんやりとした空気が満ちている。聞くところによれば、ルミノール反応すら出ないどころか、分子レベルで計測できる機器ですら騙しきる完璧なクオリティだという。
「毎度思うけど、うちのお掃除班のばーちゃんたちは恐ろしいな」
日ごろはホテルの通常清掃を担当する老齢の女性集団。誰もが人の良さと真面目さをその顔に湛えた柔和な老婆ばかりで、仕事中も談笑が途切れることのない面々だ。が、同じ調子でこういった仕事をしているのかと思うと、さしもの椿も背中に冷たいものを感じずにいられない。
「職人集団だね」
職人、という言葉がまさにふさわしいが、それを彼女らに伝えても笑い飛ばされるだけだろう。だからこそ、尊敬と畏怖を禁じ得ないのだが、
「あたし、あの婆ちゃんらには絶対逆らわない」
お掃除班、恐るべし。
「と、プロのお仕事に感動するのはここまで。とりあえず……きこえる?」
「ひゃいぃっ!」
未だうずくまったままのクロエの肩口をトントンと軽くたたくと、こちらが驚くほどの勢いでその小さな体が跳ね上がる。
「あ、あ~、ごめんごめん、そりゃびっくりするか。おーい、だいじょぶ?」
思った以上の反応に、今度は声だけで呼び掛けることにした。すると、
「ひ、あ、えと。はい。なんか、キーーーーーンって言ってるけど、はい、何とか」
委縮しきった震える声で、しかも全く見当違いの方に向かってだが返事が返ってきた。
「細かいとこはしょるけど、その目と耳は一時的なもんで、すぐに回復するから安心して。んで、今ここにはあたしとベルとあんた、あとあの死体しかいないからそれも安心して」
できるだけマイルドに、けれどほぼ音が聞きとれないであろうクロエに聞こえる程度の大きめのボリュームで告げると、クロエは少しだけほっとしたように肩の力を抜いて、一言「はい」とだけ返事をした。。
「で、大変なことになってるとこ悪いんだけど、単刀直入に。あれ、なに?」
雑な聞きかだが「あれ」としか言いようがなかったのだ。何せ、死体が動いたのだ。
頭痛に苦しむ頭で考えることしばし。クロエは困ったような、泣きそうな顔で答えた。
「魔法……多分」
何とも頼りなげだが、本人が「たぶん」と言うのならそうとしか言いようがないのだろう。
「まあ、あたしも多分そうだとは思ったんだけど、聞きたいのはどんな魔法なのかなんだよ」
それ次第では、保護対象から一気に有効な交渉のカード、最後の切り札になる可能性もある。
「え、と……私、友達、いなくって、おっしょうの家でも、ほとんど一人で」
いきなり始まった自分史に、最初こそ「何言ってんだこいつ?」と怪訝な表情を見せた椿だが、そこで話を遮るようでは交渉者としては二流。むしろ、こうした時間こそが必要な情報を引き出すのに大事なのはよくよく心得ている。
「で、庭で虫とかと、遊んでて、でもすぐに死ぬから……もっと遊んでほしいなと思って、そしたら、できるようになってた」
想像以上に凄惨な過去に、思わず「うわぁ」と声に出しそうになる。
「虫、だけじゃなくて、ちっちゃい動物、ネズミ、とかも大丈夫」
もはや別の理由で聞くに堪えない話も、一点だけどうしても引っかかった。
「もっと遊んでほしい、って?」
「そう。そしたら、死んだ後も、動いて、それまでと同じように、遊んでくれて。でも、やっぱり死んでるから時間がたつと動かなくなって、でも、動こうとはしてくれて」
それはつまり、死体が、腐敗などで自分では動けなくなるほどに崩壊していった、ということに気がつくのに時間はかからなかった。思わずその光景を想像してしまって口の中に酸っぱい唾が溢れそうになるが、必死になって横隔膜の痙攣を抑え込む。
「一番びっくりしたのはネズミの頭がとれて首から下と頭がべつべ」
「おぉっけー! おっけい! よーっくわかった。うん。十分だ!」
きょとんと眼をまん丸くしてるが、そんな顔をしたいのはこっちだ。むしろ、今の話をしながら楽しそうにさえしているクロエに、やっぱりこいつも尋常じゃないなと椿は認識を改める。
と同時に、わかったことが一つあった。
そしてそれをさらなる確信にするために、もう一つだけ質問することにした。
「んで、その魔法でそいつをしゃべらせられる、と?」
クロエはそれまでに見せたことのない自信たっぷりな表情とともに首を縦に振った。
「頭があるから」
ベッドで眠るクロエの寝息は規則正しく、穏やかだ。
「よっぽど疲れたんだろうな。ま、そりゃそっか。あたしでさえまだ今日が終わってないってのが信じらんないもんな」
時計を見ると短針はまだてっぺんまでに少し余裕を残している。
「さすがに最近の中ではとびきり濃密な一日だったね」
ソファにどっかりと腰を沈めたアリスベルは部屋着に着替えてはいるものの、タンクトップにホットパンツというほとんど日中と変わらない露出過多な格好だ。シャワーを浴びたおかげで全身がうっすらとピンク色を帯びているのがどうしようのもなく扇情的だ。
「ん? どうしたね、舐め回すような視線で私を見つめてくれて?」
「あほか。んなことより問題は次の手をどう打つか、だよ」
「だね。よもやあの男がオーバーライトのところの社員、構成員だったとはね」
考えうる中では最悪に近い事態だった。
クロエの言う「たぶん魔法な何か」で動きだした男の死体は、驚くことに口まで開いて訥々と自分の身の上を話し始めた。穴だらけ血だらけで瞳孔も開き切った、どこからどう見ても完璧な死体が喋る様というのは思った以上に現実味が欠落していたが。
「あの男の自覚? 意識? 記憶? があったのは、最初に警備員に撃たれるまでってことだったから、多分その時点で事切れてたんだろうな」
男の話はこうだ。ルーレットで遊ぶ前にクスリを使用したこと、遊んでいる最中にどんどん薬が効いてきて気持ちが高ぶり、気がつけば万能感に支配された意識はどうにも抑えが利かなくなり暴れてしまったこと、そして警備員が現れた次の記憶は小さな少女、クロエの前に座り込んでいたこと、この三点が男の最後の記憶なのだと言う。
「ということは、警備部隊相手に大暴れしてカジノを壊しまくった部分については彼の意思は介在していない、ということになるね」
「ま、クスリやってる時点で意思だのなんだのなんて在ってなきがごとしだけど、そこだけは別の意思、意図? が働いたって考えるのが妥当だな」
「そしてそんな寝物語の様な事を実行せしめたのが」
「そ。たぶんあたしらが駆けずり回ってる魔法ドラッグってわけなんだろうだけど、何でよりにもよって満貫商会から買っちゃってるかな……」
満貫商会といえば表向きはフランチャイズ方式の雑貨屋を主体としたこの世界最大手の総合小売業者だが、そんなものが表向きの仮面でしかないことは子供でも知っている。実際には、犯罪や事件の裏であらゆる人的物的資源を供給する裏社会最大のシンジケートだ。
「マッチ一本から大量殺戮生物兵器まで、金さえ払えば何でも手配ってぐらいだからこんな薬ぐらいはお手の物なんだろうけど」
最初、男の口から術式ドラッグのことが語られた時は小躍りしそうになったのだが、一転その出所が満貫商会となれば何の救いでもない。むしろ一度希望を持ってしまっただけに、再度絶望に転げ落ちたダメージは意外と大きかった。
「どうかしたのかね?」
「どうもしねえよ。ただ、あたしらの生存確率が絶望的にゼロに近づいた、ってだけで」
そう言ってがっくりとうなだれる椿。
「何でよりにもよってルート握ってるのがあの満貫商会かな~」
「既にルートが独占されている、と考えるのだ妥当だね」
「しかも、今回死んだのはオーバーライトんとこの社員。あの男が自分とこの子分殺されて黙ってるわけないしな」
オーバーライトもまた表向きは「会社」という体裁をとってはいるが、一皮むけば所謂マフィアであることに変わりはない。そうした組織の例にもれず、身内との結束を何よりも重んじるのも椿はよく知っている。
「報復は必須、と考えるべきだね」
「ったく、何でうち巻き込むかな……」
すっかり冷え切ったマグカップに口をつけ、ホットではなくなったホットミルクを一気に飲み干すと、そのままローテーブルに突っ伏した。
「にしてもさー、何だよ、あれ?」
突っ伏したまま喋るので椿の頭ががくがくと揺れているが、その光景もどこかほほえましい。
「あの薬。ただぶっ飛ぶだけじゃなくて、死んだとも動いてゾンビになるなんて」
椿の知る限りではあの術式ドラッグにはそのような効果、ないし副作用はないはずだ。
「たしかに、そこは私も不思議に思っていたのだが、別種のクスリということなのだろうか?」
「でも、満貫が押さえたのはあたしらがおっかけてる、あの薬のルートなんだろ?」
それぞれが別の薬という可能性も無きにしも非ずだが、少なくとも椿の知る限りではこの種の薬は一種類だけだ。それこそ、多岐にわたる種類があるのなら、その数だけ流通ルートが確立されていて、それこそルートの開発にこんなにも自分達は苦労しなくてもいいはずだ。
「だったら……なんだ? あたしらがおっかけてるのは、ほんとにあのずつしきろらっぐなのか? そもそも…手ふにゃ」
どうやら限界が来たらしい。テーブルに突っ伏したまま手足から力が抜けてグニャグニャになっていく椿。
「そのまま眠ってしまうと風邪をひくよ」
「ん? ああ、らいじょぶ。寝ないから。寝なけりゃ、明日にならないから。寝なけりゃ、目覚めなくて、明日にならなくて、そしたらやべえことは全然、起こら、にゃいから」
呂律も怪しい夢うつつの言葉で言いながら、椿は必死に瞼を押し上げて眠気と戦うが、もはや意識が溶けだすのは時間の問題だった。
「そうかい。私は明日は社長からの別命で仕事があってね。早ければ昼過ぎには戻るが……と、もう聞こえてはいないかな」
あでやかな唇の端を僅かに釣り上げて作り出した笑みはどんな宝石も花も顔色なからしむる極上の美しさだが、すでに椿の目には映ってはいない。それでも、
「あ~、うん。がんばってきて。あたしは明日はクロエの、魔法のこと調べて、あの死体にもう一回ぐらい話聞いて、んで、違う、寝ないから、明日は来なくて……まだ、今日で」
時計の針は僅かにてっぺんを回って、日付が変わったことを告げていた。
夢は、見なかったと思う。