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◆神聖歴千五百二十六年 五ノ月 第四日 北方辺境領 ルーヴェ街道◆
街道を辿ってプレントを過ぎると、クリュニィまではもう大きな集落は無い。道行く人影が見当たらないのはそのせいでもあった。
この周辺はナハティス僧院群と呼ばれる九つの僧院が連携して開拓しつつある土地で、ヴェルツ海に面するナハティスの港こそ二万近い人口を抱えているが、それ以外は各僧院とその周辺地にそれぞれ千余りの人々が暮らしているだけである。
王都ゴルデンブルクを抱えるウランク平野や旧諸侯領のフンギィリ平原からは北の方角にあり、未開の地であると見なされ、『北方の辺境地』と呼ばれていた。
確かにノルティス平野の北にあるノザァンヌ山脈を越えた海沿いは、極北にある凍結の海から吹き付ける風のため、一年の半分以上が厳冬の地だ。けれども、その山脈が障壁となって北風を防ぎ、ビスケット海からドーバとカレの間の海峡を通ってヴェルツ海に流れ込む暖流のお陰で、ノルティス平野自体はそれほど寒冷というわけではなかった。
だが温かい中っ海とノルド海ビスケット海に挟まれ、温暖な気候と降雨に恵まれたクラウ、アルシェ、ウランクの三平野から豊かな実りを得ている王国の民にとって、北方の地は暗く寒々として獣だけが徘徊する荒野と思われていたのである。
だから『魔王ワズドフの討伐』を成し遂げた『暁の瞳』に『聖女』として参加し、彼女をこの任務に送り出した高位の方々の予想を裏切って生還したばかりか、この戦役を通して大きな役割を果たしたと兵士たちに賞賛されるアルシャーン公爵家の三女ニルヴァーナ・ネフェリス・ドナ・アルシャーンに褒美として与えられたのが、この広いばかりで荒涼とした土地であることが公になると、従軍した多くの兵士たちの間から、失望の声が上がった。
元々の約束では、これから俺が向かうクリュニィの僧院にいるネフには、魔王討伐の報奨として王都ゴルデンブルクの大司教座または商都ポラァノの司教座のいずれかを与えるとされていた。だが実際にヴーランク国王であるルイジから彼女に与えられたのは、ナハティス僧院群の大僧院長の地位だった。
これには港町ナハティスの領主権が付随しているとはいえ、現在その税収は九つの僧院の開拓事業に費やされている。またナハティスの大聖堂の聖職禄も、聖堂の役員や他の有力者と分け合わねばならず、町の規模から考えればわずかなものだ。
今回彼女に与えられたのはニューヴ川より北側の未開拓の領域であり、この川より南にあってウランク平野に通じるリーイン川の河口にある港リーラントやゾルヴェーリン炭鉱など、豊かな財源となりそうな場所は全て王家の物であった。
ことのきっかけは第二王子の妃であり、ネフの実姉であるエレノアの横槍だった。このネフより四歳年上の姉は、若くして僧籍に入った未婚の妹が実力を示して上級神官となり、また今回の功績によりさらに名を上げたことが気にくわなかったらしい。
「ネフェリスには辺境の僧院領でも与えればそれで十分です。そもそも『聖女様』に司教座などの栄華は不相応でしょう。それに王都や大きな都市に置いて、あの子が平民の人気を集めるような事になってからでは手遅れになります」
まったく私的な妬みから出たであろうこの、アルシャーン公爵家の長女でもあるエレノアの言葉を言質として、王は最初の約束を違えたのであった。
その結果として、公爵家からの不満が表だって出されることは無かった。しかし身分の低い騎士や士族たちの間では、王家は『物惜しみ』をした、報奨をケチったと密かに誹る者が後を絶たなかったのである。
実のところ、『暁の瞳』に高位貴族の一員として、ネフの名を挙げ、押し込んだのもエレノアであった。多分、身内の気にくわない人間を生け贄として、下々に下げ渡すというぐらいの考えだったに違いない。
そこまで至った事情を挙げると、あの時『暁』に与えられたのは乾坤一擲、まさに命がけの任務であったから、高貴なる者の責務として、臣下たちから王族またはそれに準ずる者の参加を求める声が強かったのである。
聖騎士であるサティはカイエント侯爵の実子とはいえ、庶子であるのでカイエントは名乗れず、身分不足であった。
リーダーであり勇者の名で呼ばれるロークスは、郷士の次男で、元は赤髭ロークスと呼ばれる一介の冒険者に過ぎない。
魔道士ネネムだって魔導の技こそあれ、その出自を辿れば不審な点が多く、怪しいことこの上ない人物であった。
おまけにその弟子の俺と来たら、あまり大きな声では言えないが、貧民窟育ちの元泥棒なのである。
これでは魔候軍との戦いにおいて『暁の瞳』やその軍団がどれだけ戦果を挙げようとも、それを王国の勝利と声高に告げることはできない。
また、どれだけ手柄を立てても、それを見届け認めてくれるはずの身分高き人物がいない戦場では、兵士たちの士気を維持することは困難だ。
王家に連なる誰かが、『暁の瞳』の一員として参加する必要があったのである。
だが恥ずべき事に、王家の男どもの中には血生臭い戦場に出て活躍できるような武勇の者など、一人として見当たらなかった。
その中でネフの実家であるアルシャーン公爵家は王の曾祖父の弟が初代であり、継承権第二位のマシウス王子が長女のエレノアを妃として迎えているように、婚姻関係でも代々王家と強い繋がりがある。
魔候国との戦いの最前線に、その公爵家の娘であるネフを立たせることで、王族たちはかろうじて体面を保ったと言うわけだった。
一方、戦役に参加した兵士たちの立場から見れば、聖女ネフは戦いでの彼らの活躍を証言し、王家に自分たちの『奉公・手柄』に報いさせるための利益代表あるいは窓口であった。だから彼女が不当に扱われることは、自分たちの功績を王家に連なる高貴な者たちが、蔑ろにしようとしているという不信につながることとなった。
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