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◆神聖歴千五百二十六年 九ノ月 第二日 アルシャーン公爵領 ションティ城◆
「これはまだ、南の森にエルフが住んでいた頃の、お話しです」
少し間を置く。
「北の森には今でもエルフが住んでいますが、彼らは人間とは馴染まないのです」
「北の森のエルフは、人間と出会うと殺すと聞いたわ」
セシル王女は微かに雀斑の散らばる色白な頬の上の眼を見開いて、怖そうに呟いた。碧眼といい、雀斑といい、王女そっくりなカロ王子が、追い打ちを掛けるように付け加える。
「彼らは黒いエルフと呼ばれ、人とは敵対している」
ちょっと賢しらに見えるのは、王女に年長の自分を大きく見せたいだけのことで、本当は彼自身だって怖いのだ。
「南の森に住んでいたエルフはそれより穏やかで、人間を殺さないこともありました」
「そうなの?」
痩せこけているとまでは言わないが、食の細い王女は決してふくよかではない。白い夜着の両肩を自分で抱き、震えて見せても、寒々するだけである。
「これはお姫様が“何でも縫ってしまうクラウス”に出会った時のお話しです」
俺が定番の口上を述べると、王子と王女は肩を寄せ合った。二人とも黙っているので、後を続ける。
「お姫様は森で怪我をしました。お姫様は聖女でしたが、自分だけは癒やすことができませんでした」
「聖女ってなあに?」
「黙って聞けよ、セシ」
王女殿下は不服そうだが、王子の言う通り、お伽話は黙って聞くのが作法だ。ほとんどのことは、話を聞いていれば、その内分かる。
「南のエルフは、白いエルフと呼ばれていました」
「北の黒いエルフは髪が黒いけれど、南の森に住むエルフの髪は白かったからです」
王子が自分と同じ、王女の黒髪にそっと視線を向けた。
「クラウスを見た時、最初はエルフだと気付きませんでした。背が高くて、とても美しい顔をしていたけれど、人間と同じように笑って話し掛けてきました」
「クラウスはどんな眼をしていたのかしら?」
聞きたがり屋の王女が、また呟く。
「クラウスは“歩く木の家”に住んでいました」
俺は肩をすくめ、そのまま続けた。
「お姫様の脚の傷を泡の出る水で洗った後、クラウスはとても細い針と糸を取り出し、傷の両側を合わせてチクチクと縫い始めました。ゆっくりなようでとても早く細かく縫ったので、後から見ても縫い目が見えない程でした」
縫い物をする手振りをしてみせると、蝋燭の光で壁に動く影となる。
「縫い終わるとクラウスは微笑んで「お眠りなさい」と、お姫様に言いました」
蜜蝋燭の芯のところで、炎に飛び込んだ羽虫がジジッと焼ける小さな音がした。
「クラウスの家はエルダー・トレントの枝の上に作られていました」
贅沢な蜜蝋燭の光は明る過ぎ、子どもたちはさっぱり寝る気配が無い。
「トレントは一歩一歩でしか進まず、決して走りませんが、敵対者には叫びます。その叫びを浴びた者は、硬直して動けなくなり、そのままトレントに踏みつぶされてしまいます」
「脚に怪我したって、どの辺かしら?」
トレントについては聞かないんだ。王女にとって、気になるのはそれか。
「姫様、はしたないことをお考えになるものではありません」
年嵩の侍女が、小声で窘める。俺がネフからこの話を聞いた時には、トレントもエルダー・トレントも知らなかった。そして後日ネネムに教えて貰うまで、鶏の足の上に載った冬の魔女の小屋のようなものだと、思い込んでいたのである。
「まあ、怪我したのよ。気にならない? 怪我の跡は残らなかったのかしら?」
「レディは思い付いても、口にはしないものです」
固い表情で侍女が言い聞かせる。自分の信じる淑女の作法について、異議は認めないと言う訳だ。
「心配しなくとも、クラウスがとても上手に縫ったので、跡は残らなかったと言うことです」
寝物語に戻したかった俺は、宥めるつもりでそう言う。
「そのお姫様、何で森になんかいたのかしら?」
「そうですよ、お城に大人しくしていれば、怪我なんかしません」
口を差し挟むのは止めて欲しい。いつまで経っても、話が終わらないじゃないか。
「私たちみたいに、悪者に襲われたの?」と、王女。
「……そうかもしれません」
つい最近、何者かの襲撃を受けたばかりだからな。記憶が蘇るのは、仕方ない。
「悪い奴らはどうなったの?」
これは物語の中の悪漢どものことだろう。
「白いエルフでも、害をなす者は許しておきません。森は、彼らの支配地ですから」
「南の森はどうなったのかしら?」
現実の南の森はもう、歴史の彼方に姿を消している。
「人間が焼いて、畑にしました。今王国にある平野の穀倉地帯が、昔エルフの森があった所です」
「あら、王国にも森はあるわ」
「ええ、でも、エルフの森とは違います。昔は、お城の塔よりも背の高い樹々が、地の果てまで続いていたのです」
俺が見た訳じゃあない。ただネネムから引き継いだ夢の記憶の中に、その光景があっただけだ。
「クラウスはどうなったの?」
「エルフは歳を取りません。何かの理由で死んでいなければ、まだ生きているでしょう」
無論俺は、直接会ったことはないがね。
「お姫様は?」
「昔のことですから、もう歳を取って、亡くなっているでしょう」
「そう、私もエルフだったら良かったのに」
「姫様、そんなことをおっしゃってはいけません!」
この侍女、邪魔ばかりしている。本来子守は、お前の仕事だろうに。
「だって、歳なんか取りたくないわ。ルザは、シワシワのお婆さんになりたいの?」
「定命の者が老いるのは当たり前のことです。姫様は、知っている者がみんな年老いて居なくなっても、独りだけ自分は変わらず、生きていたいですか?」
「あら、でも、老人になるのは、嫌よ」
「人は生まれ、育ち、成長して大人になり、伴侶を得て、子を成して育て、子が大人になるのを見て満足し、老いてやがて死ぬのです。それが定命の者の定めです」
聖教会の教えではそうなっている。そう言えばこの女、元修道女だったな。
「どうして老人にならなければならないの? エルフのように、ずっと若いままでいても良いでしょう!」
「そうでなければ、人は生を諦めることができません。そして人は非常に愚かですから、年を経ても生き残っている己の醜さに気付かないでしょう。それに、あの賢いエルフでさえ、長く生きると厭きると言います」
お前、エルフに会ったことがあるのか? 少なくともここ百年、エルフが姿を現したという記録は無いはずだ。
「どうして? 私だったら、ずっと生きて、地の果てまでのことを知りたい」
「水を入れていようが、葡萄酒を入れていようが、革袋は革袋。無理に中身を増やしすぎれば、やがて破れて裂けてしまいます。それに姫様はもし、地の果てまでのことを知り尽くした後まだ生きていたとして、その後どうされるつもりですか?」
聖教会の説話に出てくる譬じゃないか。抹香臭い寓喩が染みついている元尼僧には、この子たちの世話は難しかろう。
「その時になってみなければ分からない。でも今は、歳を取りたくない」
「ずっと、お小さいままでいたいと言うことですか?」
「えっ?」
この遣り取りは何時まで続くんだ? 王子が苛ついているじゃないか。
「ブドリ、蝋燭を消してくれ。僕はもう寝る」
「えっ、兄様。お話しは?」
「お前たちだけで、勝手に話してろ。女のお喋りには、うんざりだ」
「灯りを消すのであれば、この身は扉の外へ参ります」
寝室の扉に背を預けて寝れば、中に入るのには俺を押し退けねばならない。それで護衛の任は果たせる。
「そうだな。城の壁をここまでよじ登って来る者もいないだろう。窓には格子があるから、大丈夫だ」
「ではエルザ殿、後は頼みます」
王子も王女も、どうしても添い寝を必要とするほど幼くはない。それに今夜はセシル王女の機嫌を取るため、久しぶりにカロ王子が一緒のベッドに寝ることことになっていた。
エルザというこの侍女は、部屋の隅の長椅子で一晩を過ごすことになる。扉を背に廊下の石畳の上に座って眠る俺と、どっちが気が抜けない一夜だろう?
今夜は十三夜。廊下の高い所にある縦長の弓狭間窓から、月光が差し込んでいた。秋に入り、石畳の床に横たわっては体温を奪われる。絨毯などと贅沢は言わないが、身の下に敷く物が欲しいところだ。部屋の中から、何か持ち出せばよかった。
エルフたちがこの国から姿を消して、彼らの森も今はない。トレントも、物言うエルダー・トレントも、物語か夢の記憶の中にしかいない。
北方の森には、まだ巨大な樹々が残っている。だがそれも北方の辺境を開拓している修道僧たちが、やがてすべて伐り倒し、材として彼らの富に変えてしまうだろう。
修道僧たちは樹々を伐採した後に、必ず苗木を植える。禿げ山は災害を引き起こすと、聖教会の教えにより知っているからだ。しかし山が、巨木が立ち並んでいた元の姿に戻るのは、何百年も先のことである。
聖教会の各宗派が抱える各地の僧院は、写本という形で多くの歴史資料を保存していた。夢の形で世代を越えて引き継がれる知識は、時として曖昧なものであり、個々人の興味によって記憶が異なる姿を取るように、変化し風化していく。
僧会は、知識の伝承を夢だけに頼るわけにはいかなかったのだ。即ち写本の製作は各僧院の力の源泉、富の一部であり財産でもある。金銀や宝石だけが財宝であると考えるのは、実に愚かなことだった。
ションティ城は、アルシャーン公爵領の領都パーリスの郊外にある。
領都に着くと、公爵家当主のマリオ・マルス・ソアレ・ドン・アルシャーンがわざわざ馬車で出迎え、まるで拉致するようにこの城に運ばれた。
俺なんかはどうでも良いが、王子と王女は、いやラゴ伯爵夫人でさえ、この国では知らぬ者の無い貴顕である。この扱いは、ただ事ではない。
シーバ女伯爵と郎党も、侍女や従僕たちも一緒であり、拘束されているわけではなかった。しかし公爵はいつの間にか姿を消し、その後何の説明も無く時ばかりが過ぎていく。
女伯爵は数名の手下を城外に放ち、事情を探らせているが、まだ何の成果も無いという。
俺も城内の召使いや下僕などに探りを入れるが、いずれも口が堅い。これは公爵の威令が行き渡っていると考えるべきだろう。
俺たちは子どもたちを不安にさせないよう、知らぬふりで振る舞っているが、いつまで通用するものか?