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◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第二十五日 アルシャーン公爵領 ゼド運河◆
昼近くなり、船室の中では中食のため、炭火で温め直した料理とパンが、低いテーブルに並べられている。
「ねえ、ローズ。パーリスには、いつ着くの?」
ゆっくり移り変わる運河沿いの風景にも、段々見飽きてきたらしいセシル王女が、そう尋ねた。
「三度船泊まりで休む予定ですから、二十八日には運河を抜けましょう。月末には、領都で公爵に挨拶しなければなりませんよ」
指折り数えて、伯爵夫人が答えると、王女は不満そうに口先を尖らせた。
「えー、三回も途中で泊まるの? 私たち、どうせ船の上で寝るんだから、泊まる必要あるの?」
「夜は不用心でございます。船を曳く驢馬たちの足元だけでなく、闇に紛れて船を狙う河賊が、いつ何時襲撃してくるか分かりません」
シーバ女伯爵が、そう諭した。脅す口調ではなかったが、前に待ち伏せされたことを思い出したらしい王女が、怯えた顔になる。
「大丈夫だセシ、僕もノア士爵も一緒だ。それに前と後ろには、チェリスの郎党の船だって付いてきている。王都と同じぐらい、船の上も安全だ」
宥めるようにカロ王子が、王女の手の甲に、自分の掌を重ねた。しかし二人にとって、王都はどれだけ安全なのだろうか? 心配するべきは、そちらかもしれない。
月末にかかって新月が近づき、日没後は雲がなくても茂みに潜まれれば、その姿を見つけることは難しい。よっぽど急ぎの旅でもない限り、夜は運河の途中にある船泊まりで過ごすのが常套である。
「泊まっても、船から出てはいけないんでしょう。つまらないわ」
「陸に上がって身体を動かすくらいのことは構いませんが、船から離れるのは……さて?」
俺が伯爵夫人を見やると、彼女も迷っているようだった。
「船から……下ろすのですか……」
「できればカロ殿下の鍛錬に、少しの時間でもと思います」
鍛錬の問題もあるが、狭い川船の上でずっと過ごすのは、健康な子どもたちには耐えられないだろう。
「そうだ。鍛錬は、毎日続けたい」
カロ王子が力強く言う。半分は陸に上がって気晴らしがしたい、そんな魂胆が見え見えだ。
「それは、船の上では?」と、伯爵夫人。
「それでは周囲の船や岸を通る者たちの、見世物になりかねない。どうなのかな?」
女伯爵が、珍しく口添えしてくれた。
「左様です。かと言って、動いている船の上では、万が一落ちた時、危険でしょう」
「それは、船止めの側でも、同じことではないですか?」
俺の提案のどこかにアラが無いかと、伯爵夫人が追及する。
「船泊まりには必ず宿があり、食事や寝床を提供しております。たいていの宿には裏に空き地があり、そこで安全に足慣らしができるようになっているのです。中には、建物に囲まれた中庭という場合もありますが」
俺が説明すると、伯爵夫人が首を傾げる。はて、この女は、運河宿を利用したことがないのだろうか?
「それは?」
「船に乗りっぱなしで身体が鈍るのを嫌がるのは、誰しもということです。運河沿いの宿泊地は、そういう客目当てに運動できる場所を用意しているのが、普通なのです」
どうやら女伯爵の方が旅慣れているらしい。そう言えば先刻、王家の命で野盗を討つため東奔西走させられている話を聞いた。
騎士団のような重装備の兵力を動かすには、大変な準備とそれに要する掛かりが欠かせない。これに対してシーバ女伯爵の郎党たちは軽装であり、しかも貧弱な武具しか持たない盗賊などに対して、その(毒を使った)武器の殺傷力は非常に有効だ。
つまりシーバ家は、低コストで使役できる便利な駒というわけである。“鼠退治の走狗(Chien pour exterminer les souris)”と侮蔑的な陰口を叩かれながら、チェリスが女伯爵という地位を与えられているのには、それだけの裏付けがあるのだ。
ただシーバ家にしてみれば、このように都合良く利用され続けていることに対する不満を、持っていないはずがなかった。それには、同じように使い回されてもおかしくない王家の魔導師団の他のメンバーが、盗賊狩りなどにほとんど携わっていない不公平さが、更に拍車を掛けている。
聞くところによると確かに、第一席の“炎獄”、第三席の“雷鳴”、第四席“暴風”の三人の能力は、大味で威力が大き過ぎ野盗征伐などには向かない。王家にしてみれば、軍同士の大規模な戦いで相手に脅威を与える、高火力の魔術だという認識なのだろう。
これに対して第四席より下の八人は等しく準男爵の身分にあり、王宮内に居室を与えられているが、領地も邸宅も持たず、五万エキュに及ばないその年金だけでは、戦力となるはずの郎党を養うことも無理である。
だから彼らが身の回りの世話をする数名の召使いだけを連れて盗賊退治に出ても、然るべき成果を上げることができるわけがなかった。
そう考えれば、シーバ一族だけが酷使されているのにも、それなりの理由がある。しかしそれで不公平感が無くなるかというと、そうはいかないのが人間というものだろう。
チェリスがルミナ王妃、つまりはポルスパイン閥に接近しているのも、この辺に理由があると俺は思う。
「もう、お船は嫌。馬車に乗っている時でも、夜はお宿に泊まるじゃない!」
「姫様……」
まあ、宿賃に困るわけでもないんだろうから、宿に泊まる方が子どもたちにとっても良いと思うよ。
結局、昼を大分過ぎた頃に着いたケルノの船泊まりで、宿を取ることになった。船溜まりに三隻の川船を引き込み、係留柱に舫う。
ここの宿は壁が漆喰塗りの三階建て。地面が限られている都市の中ではないのに、三階に屋根裏部屋まで載っている建物は珍しい。それもケルノが、運河のできる前から街道の宿場として拓かれた場所だと聞いて、合点がいった。ただ古い街道の方は、運河のせいで利用者が減り、寂れているそうである。
「カロ殿下。この宿には中庭があると聞きました。明るい内に、日課を片付けましょう」
「わかった」
王子が上着を脱いで出てくると、何故か王女までが付いてきた。そして「私も」と言う。
だが服装は、裾の長いドレスの中に何枚も重ねたペティコート、そしてパンタレットを穿いている。旅の途中であるので枠付きスカートでこそないが、どう見ても運動には不向きな服装であった。
仕方なく俺は、宿から借りた物干しの綱を低く張り、セシル王女に飛び越すように言った。要するに“縄跳び”というやつだ。これは下々の娘っ子たちが、今の王女よりもう少し歳上になった時に始めるゲームである。
伯爵夫人に見つかったら、「はしたない」と止められるに違いない。娘たちが集まってする“縄跳び”は、要するにスカートの中の足や下着をひけらかして、同年代の男どもを挑発する遊びなのである。
連れ添う相手を自分で見つける必要が無い(というより、それが許されない)王族貴族の娘には、縁の無い遊戯だ。それを俺があえて王女にやらせたのには、無論それ相応のわけがある。
先ず何よりも、王子と違って王女の場合、その身体に俺が手を掛けるわけにはいかない。身分の低い俺などがそんなことしたと知れたら、たちまちこの首が飛ぶ。バレさえしなければ良いという考え方もあるだろうが、気分屋の王女がいつまでも口を閉じていられるとは、到底思えないのだ。
かと言って、このまま何もさせないで子ども時代を過ごさせたら、王女は馬を乗りこなすどころか、まともに走ることさえできないことになるだろう。物語に出てくる“深窓の令嬢”とかいう代物の正体は、実のところそんなものだ。
だがこの先に待ち構えているであろう厄介ごとに直面した時、セシル王女がそんなヤワな存在であっては、カロ王子の足手まといにしかならない。思い返せば、ネフがあれだけ“戦場で動ける女”だったのは、自ら望んで僧院に入り、厳しい神官修行を体験したお陰である。
そのことを考えると、単に王子を鍛えるだけでは彼の望むように、自分の手で未来を切り拓くことができるようにはならない。何故なら今のカロ王子には、いざという時足手まといの妹を切り捨てる事ができるとは、思えないからだ。
つまり、王子を俺が必要とする“強かで折れない王族”に育て上げるためには、王子だけでなく王女をも鍛え上げる必要があるということである。ラゴ伯爵夫人は、それをどこまで理解しているだろうか?
「おや、楽しそうだな。あの五月蠅い侍女二人を排除したのは、このためか?」
鎧下に、騎乗用の厚手の脚衣を身に付けたチェリス女伯爵が、部下のニコラシカ・リュウモンを連れて姿を現した。黒一色の騎士姿は、まるで悪役の頭目のようだ。
「別にそういう訳ではありませんよ。不実な者が伯爵夫人の信頼を失ったのは、自業自得というものでしょう」
「本当かな? 荒事があったと、聞いたのだが」
「殿下たちの前で、見苦しく騒ぎ立てようとしたので、押さえ込んだだけです」
「押し込まれたオレルア城の部屋で、助けを求めて泣きわめいたとか。……預けられた城宰も、閉口したろう」
「お城におられなかったのに、よくご存じで」
「側に控えているだけが、警護ではないのだよ。町中や周辺での情報収集も、必要だ」
「肝に銘じておきましょう」
口の軽い男だとでも言うように、ニコラが俺をギョロリとにらんだ。こいつは確か準男爵様で、俺より偉いんだった。主人が話しているから黙っているが、本当なら俺に対し、一言も二言もあるだろうに。
シーバの一族は、歴代の当主の手腕により、一介の土豪から成り上がった。その分旧来の宮廷貴族たちからは見下されており、都合良く使われている境遇には、鬱屈した不満を抱えている。
女伯爵の俺に対する好意的に見える態度も、裏には俺を通して東方辺境伯であるロークスや、北方の辺土に足場を築きつつあるネフと、繋ぎを作りたいという魂胆があるはずだ。いずれも中央から排斥され、不遇を託っているに違いないと、判断しているのだろう。
「セシル殿下のために、もう少し身軽に動ける衣装が、欲しいのだが」
「何故わたしに言う? それに子どもの衣類など、ローズの領分だろうに」
「伯爵夫人では、窮屈な物しか用意できないだろう? あなたが身に付けているような、騎乗できる服装が望ましいのだ。あなたが用意したと言えば、王女殿下も見方を変えるだろう」
シーバ家は“毒を使う一族”と陰で囁かれ、忌諱されてきた。直接そのことを聞かなくても、侍女たちの態度から王女は、女伯爵を怖れて近づこうとはしなかった。その状態を改善するための贈り物と考えれば、シーバ伯爵家にとっても、損になる話ではない。
「ふむ、承知した」
「言っておくが、黒は駄目だぞ」
「分かっている」
これは女の子の衣類の寸法や意匠など、俺には分からないからだ。決して俺がケチだからではないぞ、ケチだからでは。俺が隠している予備資金の額から言えば、その辺の伯爵様より俺の方が、実はずっと金持ちなのである。