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◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第二十日 アルシャーン公爵領 オレルア◆#3
「確かにヴァーナ様も、戦場では軍団とともにあり、一緒に行軍しておりました。ワズドフの天幕を強襲した際にも、騎乗して山を越え、我らがあの魔王を仕留めた場におられました」
「では、あたしが乗馬を習っても、良いのではなくって?」
嬉しそうな笑みを浮かべ、王女が両手を打ち合わせる。
「それがどういうことか、ご理解なさっていますか、殿下?」
「えっ?」
「馬に乗るのに、どれだけ筋力が必要か、ご存じですか? きっと直ぐに、足腰が辛いとか、お尻が痛いとか、音を上げ逃げ出してしまうに違いありません」
「「お尻⁇」」
おや、これは貴族の女性には、お下品な言葉だったようだ。だが俺は、気付かなかったふりで、頷いて見せた。
「今、カロ殿下も、乗馬を始めたばかりです。最初は誰でも筋肉痛で辛いものですが、我慢強く続けておられます。さてセシル殿下に、それができますかな?」
「姫様、ご無理はなさらないで下さい。あなた様は、両王家の血を引く貴い身なのですから」
ラゴ伯爵夫人は、俺が何故この姫君を煽るようなことを言っているのか、理解しているのだろうか?
騒乱を予感させる今、ルミナ王妃の庇護の元から離された王子と王女に、幼いままでいる贅沢はすでに許されない。だから伯爵夫人は、王女の背を押す決心をしているはずなのだが……。
いや、いくら伯爵夫人が王妃から教育係を拝命しているとは言え、王女に剣を持たせたり騎乗させたりすることまでは、考えていなかっただろう。せいぜい脅しを掛けて危機感を持たせ、王女として必要な立ち回りを身に付けるよう、促す切っ掛けとしか捉えていないはずだ。
だから伯爵夫人が王女に掛けた「無理をするな」と言う言葉は、文字通りの意味に違いない。だがそれは逆効果だと、俺は思う。
「できるわ! 兄様にできるのですもの、私にもできます!」
セシル王女は、伯爵夫人が見積もっていたよりお転婆な気性だったようである。今までは多分、押し隠してきたのだ。だが最近の経験が、幼い王女にも変化をもたらしたと見える。これは成長の一環と捉えるべきだろう。
「何を仰います、姫様!」
思惑が外れたとしても、そんなに狼狽することはないと思うのだが、老練なはずの伯爵夫人があわてている。そう言えば夫人には子どもがいないのだった。これは、子育ての経験が無いのか?
子どもなんて、思い通りに育つと、思う方が間違っているのだ。親は「どっちに転んでも良い」と覚悟して、どっしり構えているくらいでなくては、上手く子どもを育てることなどできない。
もっとも高位の貴族は、自分で子育てなどしないと聞いたことがある。我々下々と違い、子どもの世話は乳母や家庭教師に丸投げだと。
しかしそうだとしたら、王妃は何で伯爵夫人を両殿下の教育係に選んだのだろうか?
「まあ伯爵夫人、一度試してみれば王女殿下も、どれだけ厳しいのか理解されると思いますよ。それに、どのみち直ぐとはいきません。明日か明後日には、運河が利用できるという話ですから、乗馬の訓練はパーリスに着いて以降となりましょう」
「えーっ」
「そう、そうですね。私たちは、間もなくこのオレアンスを出立するのでした」
残念そうな王女と、問題を先送りできそうだと気を取り直した伯爵夫人の表情が対照的で、何ともおかしかった。