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◆神聖暦千五百十四年 八ノ月 第十四日 ポラァノ◆
次にアルと繋ぎを付けるのに二日かかった。奴が一人の時に、塀の外から投げ込んだ石になかなか気付いてくれなかったせいだ。まさか大声で呼びかけて、家人に見つかるなんてヘマをするわけにもいかなかった。
だが一度俺を見つけると、アルの奴はニコニコしながら近づいて来た。そこでまた、小さな声で話すようアルを説得するのが一苦労だった。
それで分かるように、こいつは危機感というものを全く抱いていなかった。
ただし家人たちは別だ。あれ以来アルは信用を無くし、屋敷の外へ出ることを禁じられていた。
だから俺にとって都合の良いことに、アルは退屈していた。
最初は塀越しに喋るだけだったが、やがて大胆になったアルは、俺を自分の部屋に引き込むようになった。と言ってもやることといったら、暇潰しに俺が市場や下町の噂話を聞かせ、アルが厨房からくすねてきた食べ物を、二人で一緒に食うくらいなものだ。
ジャド親方の教えでは、こんな時あんまり長引かせるのはドジを踏む元だというのだが、俺は調子に乗っていた。アルの家の者に気付かれずに忍び込んで長居をする自分に酔いしれ、天狗になっていたのだろう。
そこで下手を打って家人に捕まり、町の警吏に引き渡されれば、いくら子どもだとはいえタダでは済まない。盗人の一味だとバレれば、片手を切り落とされる羽目にもなりかねなかった。
ところが、そんなことになる前に、物事は明後日の方に進むことになる。
この日、いきなりアルが悩みというか、相談事を持ちかけてきた。
「父上が僕に、変な男と寝ろと言うんだ」
「へっ? いったい何の話だ?」
「明日の晩そいつが来るんだけど、一緒のベッドで寝ろってさ」
いかにも嫌そうにアルが言う。まあそうだろう。知りもしない相手と同衾しろだなんて、いきなり言われて嬉しいはずがない。
俺の知り合いの中には男娼もいるが、あれは才能というか適性が無いと長続きしない商売だ。食うためだと割り切っているつもりでも、嫌だ嫌だと思っていると相手にもそれが伝わってしまう。
まあそれでも、仕方なく続けている者はいるわけだが、決して売れっ子にはなれない。
かく言う俺もそっちの嗜好は無いし、盗人働きの方で何となく才能を認められているお陰で、その筋の商売人から声をかけられる事もなく過ごしていた。
ただ貧民窟の出で、名前も知らない奴と雑魚寝して不思議とも思わない俺と、坊ちゃん育ちのアルとでは、抵抗の度合いが違っただろう。
頭と口の廻りの遅いアルは、奴の親父に向かって嫌だと言うことも、どうしてそんなことをしなければならないか尋ねることも、できなかったのだ。
「どうしたらいい? ねえ、どうしたらいい?」
尋ねているのではなく、俺にどうにかしろと言っているのだ。どうやら、この前のもめ事から助け出したせいで、アルは困りごとを解決するのは俺の仕事だと勘違いしてしまったらしい。
突っぱねるのは簡単だが、それではこの我が儘っ子は容易にパニックを起こすだろう。いきなり叫び出しでもでもされたら、俺としても困ったことになる。
自業自得とは言え、いつの間にか俺は、その晩アルの身代わりを務めることを、承知させられていた。
夕刻、薄暗くなってから、俺はアルの手引きで忍び込んだ浴室で沐浴し、アルの寝間着に着替えた。
面識の無い相手の男は、父親との宴会の後で寝室にやって来るから、先に寝ているようにと、アルは指示されていたのだ。
アルに安請け合いはしたものの、自分でも何をしているのかよく分からないほど、俺はうろたえていた。今にしてみれば、子どもの浅知恵としか言い様がない。だが、なるようにしかならないと、どこか開き直っていた。そうは言うものの、その夜考えなしにもぐり込んだ寝床の中で、当然俺は眠れるはずが無かったのである。
夜半になって、小柄で貧弱な体躯の男が、少し覚束ない足取りで部屋に入ってきた。
男は唸ったり呟いたりしながら夜着に着替え、寝床にもぐり込んだ。それから今にも正体がばれるのではないかと心臓をドキドキさせている俺を一顧だにせず、イビキをかいて爆睡し始めたのである。
これがネネム、俺の師匠となる人物だった。
後で聞いたら、アルの両親と話しているうちに面倒臭くなったネネムは、しこたま薬酒を聞こし召してから寝室へ向かったらしい。そのために用意された物であるから、アルの両親もそれをとがめる事はしなかった。
そしてネネムが、俺に一言もかけることなく寝てしまったのは、アルの両親の依頼に縁故と一宿一飯の義理以上のものを感じていなかったからだ。
「この二人の息子では、どうせたいした者ではなかろう……」
会った途端そう思ったと、後々ネネムは俺にそうこぼしていた。面倒ではあるが、血族とあって無視するわけにもいかない。気が進まないまま、『夢の試し』を行うことになったという。
だがそのせいで次の朝まで、アルと俺が入れ替わっていることに気付く者は誰もいなかったのである。