◆10の3◆
◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第十五日 アルシャーン公爵領 オレルア◆#2
俺の腕を確かめるだと! 無礼な奴だ。随分と挑発してくれるではないか。しかしこいつも貴族の端に連なる人間。ここまで無茶なことを自分から言うだろうか?
ひょっとしてこれ、エドナンテスの仕込みなのか? だとしたら、何の目的で?
「さて、殺し合いという訳ではないのでしょう。勝敗は、どのように決しましょうか?」
エドナンテスに探りを入れるつもりで、俺はそう尋ねる。
「そうだな、両手両膝が地面に着くか、背中が地面に着くかではどうだ?」
「よろしいので?」
思わず気の抜けた声を上げてしまう。そんな生っちょろい勝負で済ませるつもりなら、最初から凄んで見せたりしなければ良い。さっきのあれは、何だったんだ?
するとサムソンが、いきり立って、叫んだ。
「血を見るまで、どちらかの血が流されるまででお願いします」
「落ち着け!」と、モールスが宥める。ちなみにモールスは、騎士団の副団長だそうだ。抑え役に廻っているが、こいつも何だか胡散臭い。直ぐさま代案を出してくる。
「どちらかが動けなくなるか、負けを認めるまで、ではどうでしょうか、団長?」
オレルア騎士団の団長は、エドナンテスである。公爵家継嗣で都市伯、おまけに団員六百名の騎士団団長。どう考えても、俺には雲の上の人だ。
「魔王を倒した『暁』の人間には物足りなかろうが、それでよいかな?」
「お言葉のままに、エドナン様」
いくらご身分が高かろうと、“ネフの弟”じゃあないか。確か、“エドナン”と呼んで良いと俺に言ったよな。しかし馴れ馴れしくその名を口にした俺に、モールスが鼻白んで顔を固くし、サムソンに至っては眼を血走らせていた。うん、煽りは十分だ。
「審判はモールスが務めろ」と、エドナンテス。
「承りました」
革鎧を補強した胸の板金を叩いて、モールスがそう答える。なるほど、こいつが審判ね。判定勝ちは無理と言うことだ。それどころか判定に持ち込まれれば、負ける可能性が大きい。
「木刀を選ぶなら、あちらに」
モールスが顔を向けた先には、何本かの木の棒を抱えた従者がいた。多分樫か何かであつらえた、木刀だろう。
「いや、得物はこれにいたします」
そう言って俺が取り出したのは、エドナンテスがカロに譲ってくれた短剣である。無論刃引きをした、練習用の方だ。カロからエドナンテスに礼を言わせるため、二本まとめて持ってきたのだ。
「しかし、それでは……」
エドナンテスが首を傾げるのも無理はない。刀身が一尺三指、最大幅二指という、玩具のような短剣だ。鍛造の鉄製であるとはいえ、サムソンの持つ太い木刀と打ち合えば、一撃で折れてしまいそうに見える。
「サムソンの木刀は、五尺近くあるぞ。いくら何でも、間合いが違い過ぎるのではないかな?」
「いえいえ、これで十分でございます。あ、もしかして、刃引きしてあっても金物は危険過ぎるということでしょうか?」
「何だと! 馬鹿にするのか! 自分は素手で十分だ、そんなちゃちな得物!」
サムソンが、またまた激高する。まったく、沸点が低い奴だ。
「これはエドナンテス様が、昔使われていた武器だとのこと。カロ様にと譲り受けたのですが、不都合でしょうか?」
「むっ。それは……」
主の持ち物を謗ってしまった形になるサムソンが絶句する。モールス副団長も顔をしかめ、困惑気味で異議を唱える。
「そんな謂われのあるものを、このような試合に使う訳には、いかぬでしょう……」
だがエドナンテスが、その言葉を遮った。
「気にすることは無い。その刃引きの剣は、練習用に一晩で誂えさせた、ただの数打ちに過ぎん。サムソン、遠慮なく打ち合って、お前の力を示すが良い」
「は、ははあ」
勢いを削がれた形のサムソンが、気を取り直して俺を見る。仕切り直しというわけだが、さっきとは打って変わって大人しい。今のやり取りで、ちよっとは頭が冷えたのだろう。
「では、試合を始めてよろしいですかな?」と、モールス。
俺を威圧しようというのか、サムソンの取り巻きたちが周りを囲み、大声で彼に声援を送り始めた。さすがにエドナンテスがいる前だから、横槍を入れることは無いだろうが……。
「では騎士サムソン、勝負だ!」
「始め!」
審判が開始の声を掛けたので、俺は姿勢を低くして素早く前に出た。一瞬でサムソンの突き出した木刀の下をかい潜り、奴の右側を抜けて、背面から後ろ足を伸ばし、膝関節の裏を踵で蹴る。
サムソンはモールスと同じように革鎧を身につけ、同じく革製の腰巻きと、すね当て、膝当て、腿当てに、金属で補強したブーツという格好だった。
これらを訓練で身に付けているのは、激しいぶつかり合いでの怪我を防ぐ防具の意味もあり、実戦では鎧を着て戦うのだからという理由付けもあろう。だがこれだけの防具の重さは、多分四十斤ほどにもなる。いくら剛の者の大男とは言え、短剣一振りしか持たない身軽な俺のように、素早く動けるわけがないのだ。
そして膝の裏には当然装甲が無い。その部分を固めてしまえば、膝を曲げることができないからである。そこを蹴られたサムソンは膝の力が抜け、右膝と両手を地面に着けて、這いつくばることになった。
「降参するか?」
奴の背後に廻った俺は、短剣を伸ばし喉笛と頸動脈に刃先を当てて、そう尋ねた。いくら大男とは言え、這いつくばっているのだから、短剣でも十分届く。
「くっ」
「それまで!」
顔を引き攣らせて、審判のモールスが勝負を止めた。短剣をほんの少し横に引けば必死の局面であるから、当然であろう。刃引きしてあるとは言え、間違いが起こらぬとは言い切れないのだ。
「これでよろしゅうございますか?」
俺は短剣を下ろして鞘に収め、エドナンテスにそう尋ねる。あっけなく終わった勝負に、ご不満があるとでも言うなら聞いてやろうじゃないか。するとエドナンテスの顔に、驚きの表情が浮かぶ。
「まだだあ!!」
五尺ほど離れた位置に蹲っていたサムソンが突然叫び声を上げ、飛びかかってきた。一歩長の間合い。徒での格闘戦で、彼らがいつも組み打ちしている距離である。
だが先ほど言ったように、俺の方が素早い。組み付けば膂力で圧倒できると考えたのだろうが、木刀を拾って使った方が、まだ勝負を長引かせることができたろう。
咄嗟に俺は奴に身を寄せ、革鎧の合わせ目に手を掛けた。ちょっとだけ身体強化を使いながら、腰から肩に引っ担ぐように背負って投げると、ギュルンと俺の背中の上で一回転したサムソンは、ドンと地響きを立て赤土の地面に叩き付けられる。
「ぐっ!」と言ったきり、動かなくなった。
審判のモールスは、口を「あっ!」と開けたまま、固まっている。
「ふむ、この男は“勝負はついていない”と思ったらしいが、 実戦ではとっくに死んでいますな。それが分からぬ内は“まだまだ”と言うことです」