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◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第四日 アルシャーン公爵領 オレルア◆
次の日、カロ王子の前に姿を現したのは、アルシャーン公爵家の継嗣、エドナンテス・ライオス・ドン・アルシャーンだ。細面で長身、碧い瞳に銀色の長い髪、色白。身長が六尺一指あるが痩せ形である。男女の別はあれ、ネフにそっくりだな。
王子に丁寧な礼をして、話しかける。
「殿下、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。先ほど領内の巡視から戻ったばかりです。ご到着の報せを聞いたのは、ここから馬で一日ほど先の運河修理の現場でした。運河が使えれば、もう少し早く帰参したのですが」
「運河が使えぬのか?」
カロ王子の偉そうな口調は、ラゴ伯爵夫人の指導の賜物だ。一瞬、エドナンテスの口元が綻びそうになる。
「先日の大雨で堤防が決壊し、低地に水が流れ出ました。雨が収まるまで修復もままならず、水位が下がっております。それで所々で船が立ち往生し、元に戻るには、まだ数日かかりましょう」
「ここでそんなことが起こっているとは! シャンボー城では、この夏ほとんど雨が降らなかったのだ」
「お堀の水は不足しておりましたか? 干上がり掛けていたということは?」
「いや、そんなことは無かった。あそこは近くのラモレ渓谷の、上の方から水を引いていると聞いた。だからだと思ったのだが」
「お堀の水を引き込む水路には、水門が設けられています。水涸れがあれば分かりますが、川の水が多い時には、水門を閉めてしまいます」
ここでラゴ伯爵夫人ローズが口を差し挟んだ。
「運河が使えるようになるのは、いつ頃でしょう?」
エドナンテスは眉を顰めたが、王子と王女の教育係という立場を慮って、彼女の無礼を見過ごすことにしたようだ。
「気がせいておられるようだな、伯爵夫人。まあ、足止めを喰らっているのだから、無理はないが。運河は水位が戻るまで使えん。あの雨の後空は晴れ上がり、雨雲の様子など一欠片も見えんのだ。渓谷から運河に引き込まれている水量では、そう直ぐには水位の回復は望めない」
「その水量を、増やすことはできないのでしょうか?」
「無理を言うな。渓谷の上の方から、水密管の力を使って運んでいるのだ。あの長い配管を、いきなり増やすことなどできることではない。通常であれば不足分を補うに十分の量だが、これほどまでの量の水が失われては、最低でも十日はかかるだろう」
「これから更に十日ですか?」
「そうだが、馬車で同じ路を行くより、運河の再開を待つ方が結局は早くパーリスに着けると思うぞ。それに安全だ」
そう言われてしまえば、ローズには言い返すことなどできなかった。伯爵夫人の地位は、公爵家の継嗣よりは低いのである。
「エドナンテス、運河の方が安全なのか?」
カロ王子の問いに、エドナンテスは会釈して答える。
「はい、ゼド運河には要所要所に警士の詰め所を置いていますし、見回りもさせています。両側の茂みなども刈り払い、盗賊が隠れる場所もありません。街道などよりよほど安全でございます」
まあ、相手に魔導師などが紛れていない限りその通りだ。こちらには毒霧の魔女ことチェリス・ブランディ・ドナ・シーバとその郎党がいるが、彼女の業は風向きや地形に左右される面が大きく、迎撃戦には向いていない。
「ところで殿下、お側のその男は見かけぬ顔ですが?」
「ああ、お前はブドリが王宮に呼ばれた時、王都にいなかったのだな。この者は騎士ノア・グスコブドリ、今回の旅で私の護衛を務めている」
「グスコブドリ。その名は聞いたことがあります。しかし騎士でしたか?」
「騎士に叙任したのは母上だ。私の護衛とするためにな」
「左様でございますか。その者は我が姉に縁あると聞いております。殿下の護衛になっているとは、聞いたらあれも驚くことでございましょう。その者に声を掛けることをお許し下さいますか?」
「良いとも」
俺はこの若い貴族同士のやり取りを聞いていて、正直ケツが痒くなり出していた。俺にはあんな会話はできそうもない。
ネフの弟エドナンテスは確か二十五歳、俺より一つ歳上だ。だから目上として奉ることに抵抗は無いが、あの喋りは無理だ。
「セニョール・グスコブドリ、お前のことは姉より聞き及んでいる。共に苦労した仲間だと」
エドナンテスには三人の姉がいる。この場合、姉と呼んでいるのはネフのことだ。長女のエレノアは第二王子に嫁しているし、次姉も何と言ったかな、とにかくどこかへ嫁いでいる。
「はっ、できればブドリとお呼び捨て下さい。王妃様にはカロ殿下のお側に従わせるには騎士の身分が必要だと言われました。エドナンテス様の前で何ですが、とても慣れることができません」
「そうか、では私のことはエドナンと呼ぶが良い。どうせ姉はそう呼んでいたはずだ」
「はい、エドナン様」
「姉に最後に会ったのは何時だ?」
「クリュニィの僧院で、五ノ月の第六日に。もう三ヶ月近く前になります」
「私が会ったのは姉が北方領に向かう前だ。あれから五ヶ月ほど経つ」
「王宮での叙勲は二ノ月、その直ぐ後でございますね」
「急いで王都に向かったのだが、姉は出立を急かされていて、ほんの少ししか話す暇が無かった」
「クリュニィでお会いした時も、エドナン様とお父君のことが気にかかると言っておられました」
「ふふ、上の姉二人とは、私もネフ姉も、仲が良くはなかったからな」
「左様でございますか」
「ああ、上の二人は、どうせ嫁ぐ身だからと、実家の公爵家からどれだけ持参金を毟り取ることができるかという話ばかりしていたよ」
「貴族の子女ならば、嫁いだ先と実家の絆となることを第一と考えるべきです」
幼い王女に言い聞かせるように、ローズが少し辛辣な脇台詞でそう評した。姉たちを貶されたエドナンも、自分の口から出た言葉が元であるし、聞かなかったふりをしている。
「十日もあれば、馬車でも相当な道程を進むことができると思いますが?」
女伯爵のチェリスが、なおも疑問を口にした。確かに護衛の任務を担う身としては、十日の足止めは苛立たしいことだろう。
「女伯爵は、陸路でこの地方を旅したことがおありかな?」
「いえ、これまでは二度とも水路を利用しました」
「ではお分かりでないのも仕方ない。現在運河沿いには、船を曳かせる牛馬のための狭い路があるだけで、馬車が進めるものは無いのだ。要所要所の船着き場と周辺の土地を繋ぐ馬車道は、運河の両側に向かって乱雑に延びている。運河を外れて陸路で領都へ向かうなら、それを縫うようにたどらなければならない。しかも馬車が通れる路ばかりではないのだ」
これは運河が便利である弊害だろう。何と言っても大量の荷を少ない労力で運べる水路は、商売人にとって有利であり、好んで利用される。すると商人以外の人の流れもそれに合流し、集まって来るのが人の常なのだ。
昔あった街道は、皆が使わなくなって廃れたせいで整備されなくなり、今は切れ切れの田舎道か獣道と化してしまっているのだろう。路というものは、人が通わなくなれば直ぐに荒れて灌木が生い茂り、跡形も無くなってしまうものなのである。
「やはり運河の復旧を待つしかありませぬか?」
「うむ、騎馬であれば行けない事もないが、かなり難儀な旅になるだろうし、何より不用心だ。山の民が巣喰っている森の中、廃道の道案内ができる者を見つけたとしても、信用できるかどうか……」
ローズの問いに、エドナンテスがそう答える。俺や暁の仲間であれば、騎馬行でこなせる旅程だ。しかし、まだ子どもの王子と王女を連れてはとても行けない。結局俺たちはまだしばらく、オレルアに滞在するしかないということになった。
自分で読み直して、今後の整理のため、主な登場人物の設定を確認することにしました。
本日2月15日午前9時、『◆◆◆9章までの登場人物について◆◆◆』を投稿します。本文ではありませんので、関心の無い方は読まずに飛ばして下さるようお願いします。
2021.02.14. 23:17 野乃




