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◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第一日 ラモレ渓谷の街道◆
「さてそこで私どもは夜闇に紛れ、ワズドフとその眷族どもが夜営している谷間に近づきました。その昼頃には、ヨージフ将軍が偽りの退却を演じ、奴等がすっかり油断しているのを見定めてのことでした」
あれから街道を塞いでいた倒木の始末に手間取り、時刻はすでに八ノ刻に及んでいた。しかし夏の陽はまだ高く、白い雲の浮かぶ青空は明るい。
箱馬車の中には王子と王女、ラゴ伯爵夫人、チェリス女伯爵、侍女が二人、最後に俺の七人がいたが、まだまだ余裕がある。
この馬車の車室は巨大な車輪の付いた車台に、伸縮性のある動物の腱と革を編んだ太い張り綱で懸架されていた。それと座席に重ねられた分厚いクッションの効果もあり、四頭の引き馬が力強く歩みを進めているのにも関わらず、時々車輪が大きな石を乗り越える時以外は酷い振動が伝わってくることはない。
その中で俺は、半年余り前俺たちが魔王ワズドフの軍営を夜襲し、その首を討ち取った手柄話を王子と王女に話して聞かせていた。
「十一ノ月のことですから、もう秋が深まり冬間近、陽が落ちるとあの地も寒くなります。魔侯軍陣営の各所には篝火が焚かれ、魔王ワズドフも天幕の入り口を閉めて中に籠もっておりました」
寒風を避け谷間に幕舎を設営したのは、圧倒的な武力で勝ち続けてきたことによる奴等の驕りであった。山稜の陰に僅かな手勢で身を潜め接近した俺たちは、その寒風に吹き曝されながら尾根を越えた。
「ヨージフ将軍の敗走は、魔王と呼ばれるあの狡猾な男をこの谷に誘導するためのものでした。本来ならばあり得ない犠牲を払うことにもなりましたが、私が物見のため野営地に忍び込みますと、奴等が油断していることが見て取れたのです」
「すると彼等は……さしずめ、酒盛りでもしていたのですか?」
ラゴ伯爵夫人が身体を乗り出してそう尋ねた。興味を惹かれたのか、いい歳して頬を紅潮させている。
「いいえ、そこまではさすがに。むしろ奴等は、戒律で酒を口にすることを禁じられております」
「まあ、なんて奇妙な!」
「魔獣と交わるような、穢らわしい奴等なんだぞ、ローズ!」
伯爵夫人の驚く様子に、調子に乗ったカロル王子が知ったかぶりにそう言った。
「ホントなの? カロ、その……あいつらは……」
セシル王女はそこまで口にし、伯爵夫人と女伯爵を交互に見て言葉を濁した。王子と王女は侍女か誰からか、その穢らわしい噂を聞いたのだろう。
「魔侯軍には魔獣を使役する部隊が確かにおります。奴等は騎馬の代わりに魔獣に乗り、また我らが狩りのための使う猟犬や鷹のように扱うのです。ツロイアでの攻城戦では巨竜を城壁に体当たりさせて崩したとも聞きました」
「そんな怖ろしい魔獣が、その場所にもいたの? ブドリ、見たの?」
王子が眼を見開いて尋ねる。
「いえ殿下、奴等の連れて来た大型の魔獣というのはその、寒さに弱いらしく、おまけに図体が大きいだけに大食らいです。多分そのせいで、秋になった頃から姿を見せなくなりました。その野営地にいたのは、馬と驢馬、あと牛と羊と豚だけです。大方途中で略奪して来たものでしょう」
「牛と羊と豚? 魔王じゃなくて?」と、セシル王女。
「いや、魔王もおりましたとも」
「それから、それから?」王子が続きをせがんだ。
「はい、私めがワズドフの休む天幕を突き止め、仲間を先導して突っ込みました。真夜中から一刻過ぎた頃でした」
「何と! お前が、そんな重要な役目を果たしたとは、知りませんでした」
意外そうにチェリス婆さん、いや女伯爵が、言う。
「物見、斥候は、『暁』での自分の本来の役割です。武技においては、勇者ロークスや聖騎士オリザに、到底かなうものではありません」
「それでも十八人もの武装した手練れの男たちを、一気に倒したではないか。では『暁』で武勇に優れるという『勇者』や『聖騎士』は、どれほどのものか! 我ら『魔導師』は自分の『得意』とするところで王家に仕える。聖銀の脳筋たちと違い、お前のような者を認めることに吝かではないのだぞ」
ひょっとしてこの婆さん、俺を懐柔しているつもりか? それに比べ伯爵夫人の方は、浮かない顔をしているところから見ると手詰まりか? いやいや、ローズがそんなに簡単な相手のはずはない。海千山千の相手と見た方がいい。
「ねえ、魔王退治のお話の続きは?」
おっと、王子様はもう退屈し始めたようだ。王女様は伯爵夫人の膝に頭を載せて、オネムになっている。二人とも半刻ほど前に砂糖まぶしの焼き菓子を食べたので、空腹は感じていないのだろう。
「魔侯国の奴等も周辺に物見を放ち、夜番を立てておりましたが、途中出会ったその者たちに騒ぎ立てることを許さず倒して、陣営に奇襲をかけました。谷は絶壁に挟まれておりましたので、長く広がった営地の両側こそ厚く守りを固めていましたが、魔王の天幕が置かれた中央付近では気を緩めているのが一目瞭然でした。奴等もまさか、我らがその切り立った絶壁を夜中に逆落としで下り、魔王の寝所を直撃で襲うなどとは考えてもみなかったのでしょう」
「おおぅ!」
王子が興奮して甲高いうなり声を上げ、華奢な拳を振り回す。王女とは見ると、伯爵夫人の膝の上で寝てしまったようだ。
「当然そのような崖を駆け下りることができるような者など、そう多くはありません。ワズドフの天幕を急襲したのは、『暁』の軍の中でも、『身体強化』のスキルを持つ手練れの者どもだけでございました」
「ねえ、誰? 誰がそこにいたの?」
「勇者ロークスと呼ばれたエンブリオ辺境伯様、聖騎士オリザ様、軍団の副将であったモリア子爵様、私の師匠である魔導師ネネム、そして何より聖女であるニルヴァーナ様、その他は私を含め数名でございました」
「えっ? ヴァーナが? ヴァーナも一緒にいたの!」
そう言えば『俺たちの聖女様』は王子や王女の縁戚であり、ちょっと歳の離れた叔母さんとして彼等も見知っていたはずだ。まさか彼女がそんな危ない戦場の、しかも困難な奇襲攻撃に参加していたなどとは、思っていなかったのだろう。
「何なの、カロ兄様?」
王子の上げた声に、眼を醒まされた王女が身を起こして聞いた。
「ヴァーナ叔母さんが、魔王を倒した襲撃で一緒に戦ったんだって!」
「本当!?」
王女が眼を丸くして尋ねる。信じられないようだ。
「真実でございますよ。魔王が死んだ時、彼奴の天幕の中に私も一緒におりました。ニルヴァーナ様は騎乗も巧みでございますし、山野を駆け抜けることもおできになります。それにヘカテの娘たちであるアルトゥ僧団の高位神官は、魔導力を身体強化に用いることも知っております。このことについて最高の知識を修め、騎士たちの加行を指導しているのは、彼女たちなのですから」
彼等の本来の仕事は戦闘とは真逆だが、神聖教会の神官僧の多くが大なり小なり身体強化を修得していることは確かだ。治癒の技を行使するためにも、あるいは魔導力行使による石化に抵抗するためにも、加行は必要だし、身体強化はその一環として身に付けねばならない。
「知らなかった!」
「凄いわ! 私たちには、あんなにお優しいのに」
「ニルヴァーナ様は怪我や病に苦しむ人たちを救うことをお仕事としておられます。普段は荒事に手を染めることなどありません」
「じゃあ、なぜ?」
「あの襲撃は乾坤一擲、国を救うための命懸けの試みでした。ニルヴァーナ様は王家の一員として、我らの戦いを見届けることがご自分の責務だと言われました」
ヴァルシェリン村までの道程はまだ半ばだ。到着は陽の落ちる頃になるだろう。話はまだまだ続きそうだ。
一日は十二刻に分割されていますので、一刻は約二時間です。物語の設定として、この時代は『ほぼ』定時法が用いられているとお考えください。ただし、計時手段が一般的では無いので、都市部以外ではかなりいい加減です。大きな都市では、時鐘が設置されている所もあります。