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◆神聖歴千五百二十六年 五ノ月 第三日 北方辺境領 ルーヴェ街道◆
二人の更に後ろから、やってくる者がいないかと気配を探ったが、誰もいないようだ。この二人は、見届け人かせいぜい後ろ備えといった役回りなのかもしれない。
後方に気を配りながら二つの遺骸を街道の脇の茂みに引きずり込む。着衣や持ち物を調べると、装備品にやや金をかけている方の男の隠しの中に、変わった品を見つけた。
それは王の道の駅馬を借用するための特許状と印章だった。
偽造品や盗難免状が使われたり、本物であっても高位の役人の縁者が私的な旅行のために濫用したりすることがあるにしろ、誰でも持ち歩いているような代物ではない。
特に印章は、代え馬を受領するたびに、駅舎の台帳に捺さなければならない。
王都の元帳と照らし合わせれば、誰が何のために誰に当てて特許状を出させたか、また持ち主がどのような道筋を辿ったか、明らかになってしまう。
特許状の作られた日付の方は四ノ月の第十二日だから、まだ二十日ほどしかたっていなかった。王都からの道程を考えれば、随分と急いで来たものと見える。
俺は二人の持ち物から金目になりそうで、かさばらない物を剥ぎ取った。
「まあ、お互い様さ。俺の命を狙ったんだ。狩人が狩られるってこともある」
自嘲半分に呟く。単騎行になると、どうしても独り言が出る。馬たちに話しかけると、いかにも分かっていると言うように、鼻を鳴らして応えてくれるから余計だ。
それから倒れて鼻を鳴らしながらもがいている二頭の馬へと注意を向ける。片方は左前肢を折っていたので、下顎の側の血管を切り裂いて殺し、放置することにした。歩けなくなった馬はどうせ苦しんで死ぬことになるから、こうするしかない。もう一頭は手をかけると起き上がったので、馬具を全て外して放した。
次に、馬具やかさばる旅道具類を引きずり、街道から離れた茂みの中に押し込んで隠した。一頭分の馬の死骸は残るが、こちらはこれで良しとしよう。
「さて、厄介なのは切り通しの向こう側だ」
俺が今回使ったものは、蕃椒、硝石、硫黄、鉄粉、辰砂等を細かく粉砕して混ぜた物である。通常は敵の顔面に向かってぶつけたり振りまいたりして、目潰しとして使う。ただ今回は量が多かった。
俺が奴らの頭上で開いたセルは最小の物だが、それぞれ葡萄酒の小樽ほどの容積がある。満杯にしていたわけではないけれども、それでもあんな狭い範囲に撒く量ではない。
空中に広がった分はすでに、風に吹き散らされてしまっているだろう。だが地面に落ちたり、奴らの身に降りかかったものが、まだ相当量残っている。
あの粉末は口や鼻から吸い込めば痛みを与え、咳・涙・嘔吐等が止まらなくなる。また皮膚に付着したまま放置すれば、炎症を起こし糜爛や潰瘍を起こす。
しかし普通は即死性のものではなく、混乱させ無力化させる目的で使うだけだ。
ただあれほどの量を、直撃と言える距離で使用した場合は別だ。
兜の中に入った粉末を大量に吸い込んだであろう二人の騎士、同じく頭から粉を被った弓士たちは、数呼吸もしないうちに意識を失ったはずだ。胴鎧の男たちも、視覚を失い、粉塵を吸い込めば、直ぐに呼吸もままならなくなる。
あれから四半刻ほどしかたっていないが、多分まともに息をしている者はいないだろう。
面倒なのは、あの場所に踏み込めば、地面に降り積もっているあの粉を、再び舞い上げてしまうということだ。
濡らした布で顔を覆い、足裏をゆっくりと地面に下ろしながら、馬や男たちが倒れている場所に戻った。時折風が通り過ぎるが、幸い微風である。それで舞い上がるような軽い成分は、もう残ってはいないようだ。それでも迂闊に埃を立てないよう歩く。
念のため止めを刺していく。喉を切り裂いても、一人として血が流れ出すことはなかった。当たり前だ、呼吸ができなければ直ぐに心の臓は動きを止めてしまう。
騎士たちが騎乗していた二頭以外の馬は、片方の弓士の後ろの樹木に繋がれていたが、気の毒なことに近過ぎたらしく、六頭とも泡を吹いて死んでいた。
ブリーズと呼び寄せたオヴェロンの頭部をそれぞれ濡れた布で覆い、一頭ずつ引いて赤い粉の飛散している場所を通過させた。その後、男たちの馬具から取ったものをつなぎ合わせ、幅広の長い革紐を作った。奴らの死骸や馬具等を引きずって、切り通しを抜けた後の林の中まで運ぶためだ。
こちらも、馬の死骸までは動かすことができなかった。この辺りの地面を覆っている粉の臭いは、しばらくは野生の獣も近寄らせないだろうから、大雨でも降らない限り、しばらくこのままだ。
どちらにしろ厄介な痕跡を残してしまうことになるが、街道に人間の亡骸が転がっているよりはましだ。そんな物を見つけられたら、王都まで届く噂になりかねない。
まあ余程のことがなければ、通りかかった旅人がこの周辺を調べて、樹間に隠した屍体にまで行き当たることはないだろう。
こっちの連中の装備品は、刺激臭の強い粉に塗れているので、財布に入っていた硬貨や指輪や耳飾りなど、後で洗うことのできる物以外は諦めることにした。
後始末が終わった頃には、もう陽が落ちかかっていた。だがこの近くで野宿する気にはなれなかったので、薄闇の中馬を進める。
しばらく行くと、街道のかたわらに河原が広がっている場所に出た。
馬から下り手綱を引いてそこに入る。夜目の利く俺には、誰かが残していった石組みの竈の跡が見えた。こいつを組み直せば、直ぐ火が焚ける。
普通だったら暗い中、薪を拾い集めなければならないところだ。だが俺は普通ではない。辺りを見廻し人影が無いことを確認する。それから左手を一振りすると、目の前の空間が一尺ほどめくれ、そのセルの中に納めてあった柴束と点火具一式がドサッと地面に落ちた。
月明かりの中で火打金を使って火種を作り、付け木に移して焚き火にするまでには、俺もヘトヘトになっていた。だがこれで、今晩凍えなくてすむ。
近くから枯れ木を引きずってきて手斧を振るい、薪を増やす。
オヴェロンから長櫃を下ろし、もう一つセルを開けて袋に入ったライ麦を出して与える。
分け前を要求するブリーズにもオヴェロンの四半分ほどを食べさせ、疲れた身体を鞭打って二頭の世話を終わらせる。
遠くから狼の遠吠えが微かに聞こえるが、夜の見張りはオヴェロンに任せ、俺は寝ることにした。