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◆神聖歴千五百二十六年 六ノ月 第二十三日 ゴルディア海峡◆
デルの港を出てから六日目、いよいよ緑海から中っ海への出口であるゴルディア海峡を通過する。ここは旧都市連合の都市タンディヴォリが、海峡を挟んで魔侯国の港町ヴィスタンブルと向かい合っている。
海賊の襲撃を受けた後は事も無く、天候にも恵まれて航海は順調だった。ただ季節柄北東から吹く風はまだ弱く、船足はやや遅い。『中っ海の連環する真珠』と呼ばれる港湾都市を順に廻る船旅自体は、のんびりしたものだった。
あれから俺を腫れ物に触るように扱うダンデス船長や、遠巻きにして近寄らない船員たちには辟易した。
「ちょっと脅しが過ぎたかなぁ」
「まぁ、噂が広がるのは避けられんじゃろ」
「えっ、あれだけ釘を刺してもか?」
「そりゃ、直ぐにというわけじゃなかろうが……やがてはなぁ」
月日がたてば船乗りたちの口から漏れるだろうとリオスは言う。つまり俺たちが船を下りた後だ。それって、拙いのか……いや、だいたいホントに喋っちゃうのか?
「まず寝物語で女に喋るな。あん、ま、港の酒場にいる女あたりだ」
『あん、ま』って何だ、リオス?
「酒が入った話なんか信じるかなぁ……」
「確かに法螺話の類いと思われても仕方ないが……一瞬で三隻の海賊船を沈めるなんてな。だが、逆に余計広がりやすいかもしれん。半信半疑、話半分というやつは話の種になりやすい。聞いた女が面白がって、誰かれとなく吹聴するだろう」
俺は水で割った葡萄酒を、リオスは火酒で割った葡萄酒を飲んでいた。こいつはやけに酒に強く、薄い酒を飲む俺を馬鹿にする。二日酔いで航海なんかしたくないんだよ。まだ昼間だし、この先は長いんだから。
「拙い、かなぁ?」
「拙いに決まっとるわい。それに、『巨岩の拳』って何だよ! 『拳』って。普段、呪文なんか唱えたこと無いじゃろ」
「一回言ってみたかったんだよ、一回。……それじゃあ、どうすれば良かったんだ?」
「そ、それはじゃなぁ……」
「俺が悪いのか? えっ? 俺か?」
デルを出た後、シモア、ミズリル、コーンエ、サヴォと四ヶ所の港に一晩ずつ停泊した。その間数名の商人が下船し、新たに別の数人が乗り込んだ。あの下りた連中が喋るかな?
だがリオスに打つ手があったわけではなし、俺を責める声にも迫力は無い。
「商売人たちは黙ってるだろう、暫くはな。何しろギィの手下の目が光っておる。少なくとも、その筋に『お恐れながら』と注進する奴はいないはずだ」
「口止め料を受け取っているのに、ギィの面子を潰しちゃあ、この国じゃあ商いで生きてくことなどできなくなるってか」
「まあ、そんなところじゃ。だが船乗りの中にはそんなこと気にせん根無し草もおる。あいつらの言い草は『板子一枚下は地獄』じゃからな、陸の柵になぞ縛られるものかと思っとるじゃろ。船長がいくら言い含めても直ぐ忘れるオツムの軽い奴もいるはずじゃ。俺たちの顔が見えなくなった途端、そいつらの舌が動き出すのは止められん」
いずれにしろ、そんなに間を置かず俺のしでかしたことの噂は俺たちを追いかけてくるだろう、リオスはそう言った。てぇことは、マルシィに着いたら直ぐ身を隠した方が良さそうだ。
ゴルディア海峡は最も狭いところでは幅一歩里に満たない。旧帝国以前の神話では『女神の使徒に追われた雌牛が泳いで渡った』と伝えられるが、ダンデス船長によると実際は、よほど潮目を読むことに長けていなければ小舟で越えるのは難しい場所、だそうだ。
ちなみに船乗りが距離を測るのに使う一浬、いわゆる海里は、陸上で軍隊が使う一歩里とは大分違う。一浬は千尋であり、一歩里は千歩長である。一尋は両手を広げた幅で六尺であるが、これに対して一歩長は片足を踏み出してから次に同じ足を踏むまでの長さで、ほぼ五尺に等しい。つまり一浬の方が一歩里より千尺程度長いことになる。
一歩里の三倍、つまり三千歩長が一里で、人馬が半刻で歩く距離となる。これは旧帝国時代に街道の整備を担ったのが、その地方の治安を担当する軍団だったことに由来する。つまり今も利用される街道を拓いたのは軍団の兵士たちであり、街道は元々軍用道路だったということだ。
長距離の進軍には半刻に一度小休止を入れるから、街道に置かれた里程標を見れば旅人も足を止めることになる……なんてのは、ネネムの受け売りだ。
で、この狭い海峡を抜けようとすれば海賊のいい獲物になりそうなものだが、如何せん潮の流れが複雑なので、よほど操船に自信のある奴らでなけりゃそんな気を起こしたりしない。それほどの腕前のある船乗りなら、真っ当に稼いだ方がよほど良いだろうってことだ。
ダンデス船長の操船技術は確かなもので、長さ六里近くあるこの海峡を『ぽっちゃり娘』号は一刻ほどで抜けた。すると目の前に広がるのは、中っ海の群青の海面であった。
ギィが甲板に出てきたのは、それから暫く過ぎてからだ。太陽は天頂を目指して昇り切ろうとしている。だが昼飯の時間にはまだ間がある。
昼飯と言っても、毎日相も変わらずだ。朝出航する前に港に届いた種なし麺麭、塩水に漬けて渋を抜いたオリーブの実か干した棗椰子、豚か山羊の燻製肉や山羊の乳のチーズ、葉物のサラダ。船には厨房も竈もあるのだが、めったに火を通した料理は作らない。船火事が怖いからだ。
日の出前に港から出港し、日没前に次の港に入る。今は夏至が近づいて来る季節で、一日十二刻の内、半分以上は太陽が望める。中っ海西廻り航路での丸船の巡航速度は、風次第ではあるものの、おおむね一刻あたり九浬だそうだ。
冬至の頃になると、日の出から日没まで五刻弱になり、暗くなっても次の港にたどり着けないということが起こる。だから冬季の航海は余程のことが無ければ、避けるべきなのだ。何もその季節に天候が悪くなるというだけが理由なのではない。
で、まあ、まともな料理が食べられるのは、港に入り上陸してからだ。夜は酒場兼宿屋で晩飯をたっぷり食ってから寝る。早起きすれば温かい朝食を食べられるかもしれないが、前の晩飲んだくれていれば、何も食わずに船に駆け込むしかない。
船賃は前払いだし、明るくなれば余程のことがない限り船は港を出る。飲み過ぎて船賃を無駄にした乗客の話は、耳に胼胝ができるほど聞かされるから、飲み助は要注意だ。
無論、星を頼りに船を進めることも出来ないではない。だがダンデス船長に言わせると、しないで済むのに夜の航海をする奴は、増長慢の大馬鹿者だそうだ。ギィもそれには同意している。いくら見知った航路でも、夜になると島影を見誤ったり、波の下の岩礁に気がつかなかったりは、ありがちなことだと言う。
前に船長に、何で暗くなる前に港に入るのかと尋ねたら、そんなこんなで命を失う阿呆を揶揄する話を、延々と聞かされた。まあフスファじゃあ『砂漠では、何事もなく旅するのが良い駱駝』と言うそうだからな。
ギィの話では、船楼の下にある船長室での昼食に招かれたそうだ。ダンデス船長もあれ以来のギクシャクした関係は、放置できなくなったのだろう。旅程はまだ半分を過ぎたばかりだ。海峡は抜けたが風が弱くて船足が遅いから、今日は早い時刻にタンディヴォリへ入港するそうだ。そのまま進んでも、明るい内に次のツロイアにたどり着くことはできない、ということだろう。
甲板の船尾側にある扉をノックして開け、三人で入ると、食卓と長椅子二脚で狭い船長室はほぼ一杯だ。奥の方に船長が座り、中央に固定された食卓の両側に長いすが置かれている。船長の背後には鎧戸の着いた船窓があって、光を取り入れていた。
「ささ、どうぞお座りください」
船長に勧められて、俺とリオスが向かって右側に、ギィが俺と向かい合って左側に腰を下ろした。様子を伺っていた若い水夫が籐の編籠に入れた麺麭と葡萄酒の壺、それから木製の鉢に盛った茹で野菜と卵やハムなどを運んでくる。
手づかみで食べるのだが、海の上では手洗い鉢なんて洒落たものは無論ない。だいたいそんなものが出てきたら、中の水を飲んでしまう奴の方が多いだろう。
「お三方とはもっと早く親交を深めたかったのですが、旅の最初からいろいろありまして……」
「何がありましたかな?」
船長の言葉を遮るようにギィが片眉を顰めると、あわてて船長が前言を取り消した。
「いや、別に何もありませんです。ちょっと船荷のことで忙しかっただけでした」
「それはご苦労様でしたな」
「まま、まずは喉を潤して下され」
仕切り直しとばかり船長は錫の酒杯を取り出し、俺たちに配った。それから葡萄酒の壺を取り上げ、手を伸ばしてそれぞれに注いだ。
「では、最後まで航海が無事に続くことを願って」
船長が酒杯を掲げたので、俺たちもそれに倣った。
長いので途中で切って、連続で本日投稿します。