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◆神聖暦千五百二十六年 五ノ月 第二十一日 ブン川◆
干鰯を船着き場に下ろした川船は、ほぼ空荷だった。俺たち三人と案内の僧侶、それに三頭の馬が乗り込んでも十分ゆとりがあった。
川の流れは穏やかで、五ノ月の風が北国の初夏の香を運んで来る。陽射しが水面に煌めき、川岸の土盛りは緑に覆われていた。船尾に座る船頭が舵棒を握り、その相棒が三角帆を操って、川船を大きく蛇行する流れにのせている。
水行すること三日、遅いように見えるが陸路を辿るよりはるかに早く、俺たちは目的地の秘密僧院に近付いていた。やがて前方に巨竜の背のように隆起した幾筋かの山並みが、交互に重なるように立ちはだかる。川筋はその間に分け入り、山と山の間を抜けると、眼前に長く伸びる峡湾が開けた。その湾を挟む崖の片側の上に僧院は建ち、俺たちを見下ろしている。
ブン川の河口に建設されたこの僧院は、王都の大聖堂にある神聖教会の公式記録には載せられていない。クリュニィのネフが大僧院長として支配下に置く、十番目の僧院である。
『北の瞳』と仮に名付けられたその僧院の建つ切り立った崖の下には、断崖に挟まれた奥深い湾があった。幅一里ほどのその湾は、屈曲した最奥部が漁船を引き揚げられる小砂利の浜になっている。またその片側は崖に沿って岩石を積み、喫水のある外航船用の埠頭が築かれていた。
北方の地特有の、あの凍結の海から吹き寄せる冬季の嵐も、この崖に挟まれた港湾では余程に和らげられるため、冬の避難所として利用されている。ただ冬至の前後月は湾口が押し寄せる流氷に閉ざされることが多く、航路は利用できない。
その頃にはブン川の川面も凍り、陸路のわずかな行き来を除きこの地はほぼ閉塞されて、冬籠りの時期となる。毎年人里から完全に氷雪の白さが消えるのは、三ノ月の声を聞いてからなのだ。
元農奴だという案内の僧は最後にサンザと名乗り、僧院の門番に俺たちを引き渡すと、ドロミット洞窟へと帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺はギィに尋ねた。
「おい、あいつは何者なんだ? 俺たちを送り届けるためにだけ付いてきたのか?」
「お前が迷子にならないようにだろうよ」
「そんなに俺が信用ならないってか?」
「お前が王都からクリュニィに着くまでの間にやらかしたことを考えると、仕方なかろう。王都を出る間際にも、一悶着あったそうだな」
別に俺は好んでもめ事を起こす訳ではない。偶々もめ事の方で俺の方に寄ってくるというだけのことだ。
「何のことだ?」
「うちの商会の前で、何をした?」
「……何もしてない……って」
「王都の店の番頭が知らせてきたぞ。それにナハティスから手紙を運んできた者が、街道の途中で馬が怯えて往生したと言っていた」
街道の方はあの時撒いた目潰しの粉が残っていたせいだろう。王都の件と言うと……あれか?
王都のバラバムート商会から馬二頭を引いて抜け出そうとしたら、店を見張っている者がいた。だから表でちょっとした火事騒ぎを起こさせ、その間に裏から出たのだ。王都の盛り場でちょっと粋がっているガキたちに声を掛け、調子に乗って悪ふざけをやらかすよう仕向けるのは簡単だった。
「べ、別にお前の店を燃やさせたわけじゃないだろ」
「番頭が騒ぎを起こした小僧どもを探し当て、白状させたそうだ。警吏の奴らがたどりつけないと、どうして言える?」
ギィの冷たい眼を見て、俺の背筋が冷え冷えとした。御店大事の王都の番頭なら、関わりが露見しないようガキどもを始末してしまいかねない。そうなっていたとしたら……少しは後ろめたい気は……しないわけでもない。
こいつはちょっと困った。だいたいネネムが行方不明になっているこの時点で、俺の評価はダダ下がりだ。奴がいなければ俺は、セルに物を『入れる』ことができない。今入っている物を出せば、それでおしまいである。
師匠のネネムは『出す』方は俺にしかできないと言っていたが、本当は入っている物を管理するのが面倒なだけではないかと思う。確かに俺自身も、何がどのセルに入っていてどうすれば出せるか、紐付けて記憶しておくのは煩雑で苦労しているのだ。
だがネネムがセルの使用には俺と二人組でなければならないと言ってくれたせいで、俺の『暁』の中での位置は、それなりに高いものになった。『瞳』の中だけなら「まあ便利だな」くらいだが、『軍団』にとっては不可欠の存在だった。おかげで俺は若年でどう見てもたいした戦力ではなく、育ちだって卑しい下級民にもかかわらず、オドオドすることなく生きてくることができた。
万が一ネネムがこのまま見つからなかったり、死んでしまったと判明したなら、今後の俺の行く手はじり貧でしかない。確かに俺はもう十二のガキというわけではないし、セルの中には『暁』の帳簿に載っていない隠し金だってある。
だが俺は出自の怪しい小物だ。それなりの身分や知恵のある人間と対等にやっていけるかというと、そんなわけがない。現にこうしてギィに睨まれてビクビクしているじゃないか。所詮ネネムという『虎』の威を借る狐、いやそれ以下の何かだった。
「まあ、二人ともこんな場所でする話じゃなかろう。ひとまず、この僧院で休ませて貰おう。ブルンブルグ行きの船便の手当も必要じゃ」
リオスがギィと俺の間を取り成そうと声を掛けた。俺はギィから視線を逸らして、僧院に向かう石段を登り出す。ギィの奴、『暁』の資金管理を俺から取り上げようとしているな。気持ちは分からんでもないが……。
ニィメア湾からニッヒ岬を廻り、インネーレ海の奥、ブーニュ川の河口にある港町ブルンブルグ。そこで上陸すればエンブリオ辺境伯領だ。あとは辺境伯領の領都パイセアまで、陸路で行くしかない。海路は順風で七日、その後は馬で五・六日というところか。遅くとも六ノ月の中頃までにはたどり着けるだろう。
だが、その間ずっとギィに付きまとわれることになる。僧院では幸いにも独居房をあてがわれたが、船旅では顔を突き合わせて過ごさざるを得ないだろう。今から憂鬱なことだ。多分奴が最初にやろうとすることは、俺のセルに納められている資産の在庫調べだ。
セルに入っているのは何も金銭だけではない。いろんな場所で手に入れた貴金属装身具、衣装類、寝具、家具調度、什器、武器装具馬具から、攻城兵器、小舟、兵站野営道具、糧秣、酒や高価な食材、果ては美術品、等々。この他に様々な状況で見つけた書簡や書類・証文など、経済価値だけでは推し量れない品物もある。ある意味、『暁』の活動の集大成とも言うべき内容だった。
ギィが真綿で首を絞めるように搦め手から攻めているのも、無数のセルの中にどれだけの物が納められているか知るのは俺だけだからだ。奴が納品した商品や入手に関わった財物だって、出し入れに全て関わっているわけではないから、何が残されているか把握できるはずがない。俺がだんまりを決め込めばそれまでということだ。
だからこの女は、俺に完全に敵対するつもりはなかろう。多分、騙し賺し薄皮を剥ぎ取るように探りを入れ、めぼしい物を吐き出させようとするはずだ。いくら何でも、俺を脅しつけて完全に隷属させることは不可能だし、こいつが俺のタイプじゃないことは知っているから、俺をたらし込もうともしないだろう。
俺の好みは、女らしくて俺という人間を受け入れてくれる優しさを持つ子だ。ギィは決して悪い人間ではないが、金と商売が第一の基準になるし、事業のためなら荒事も厭わない逞し過ぎる女だ。自分が女だということを利用することはあっても、情に流されることはない。少なくとも、出会ってから十年以上の間、俺の知る限りそうだった。