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◆神聖暦千五百二十六年 五ノ月 第十九日 ブン川中流域◆
山岳地帯から少し下り、川幅を広げたブン川の流れが緩やかになった辺りで、俺たちは川船に乗った。川船と言っても、三頭の馬と俺たちを乗せることができるくらいの大きさがある。この辺に広がるライ麦畑の収穫を、ブン川がニィメア湾に流れ込む場所にある僧院まで運ぶ船だ。川を上って来る時は、干し鱈や大型魚の燻製などの海産物を、主に運んでくるらしい。その際一緒に運んでくる干した雑魚類も、畑の肥料となるという。
船着き場には魚肥を受け取りに来る開拓者たちの牛車が並んでいた。石積みされた土台の上に、オーク材で組んだ吊り上げ機が設置されている。川を遡ってきた船から叺に詰め込まれた干鰯が、牛の牽く荷車に直接荷下ろしされていた。
「この町の猫は鼠を追いかけられないくらい太っているな」
「こぼれた干し魚を盗み食いすれば腹一杯になるからな」
ギィとリオスが、俺たちの乗る川船と入れ替わるように船着き場に着いた船を眺めて、そう言った。船着場をうろついているのは猫だけではなかった。カラスや野良犬も物陰からおこぼれを狙っている。
「あの男たちは僧院の農奴なのか? 随分いい暮らしをしているようじゃないか」
農奴は都市に暮らす人間と違い、耕作地に縛られている。だがその暮らしぶりは土地により様々だ。一般に南方の、暖かい地方の農奴は作柄が良ければ北方より楽な暮らしを送ることができる。古くから続く荘園では、領主との関係が確立しており、慣例を越えた無理な課税は難しい。武力を持つ領主側も、農地を耕す人間がいなくては立ちゆかないからだ。
北方の開拓地は日射量が南部に比べれば少なく、寒冷な気候である。温暖な中っ海周辺で行われている二圃式の耕作では、十分な収穫が望めない。冬穀・夏穀・休耕の三圃式農法や休耕地への放牧に加え、船着き場に吊り上げ機が使用されるような組織的な施肥があって初めて、目に見える収穫の増加が生じているのだろう。
「腹一杯食っているのは猫だけじゃないということか……」
牛車を引く男たちは体格も良く、衣類もまともだった。何より仕事ぶりが手慣れていて、お互い邪魔をしないように気配りしている。そもそも男たちの間には、他のどこかで見たような喧嘩や罵り合いが無かった。
「あいつらは開拓に従事する屯田兵として契約しているんじゃ」
「労働僧も混じっているがな」と、ギィ。
「農奴じゃないのか?」
「二十年の年季奉公で、開拓した土地が手に入る契約じゃよ。農奴と違い、今耕している土地を捨てる気があれば、自由にどこにでも行ける」
「二十年……長いな」
「収穫に対する税を納めていれば、魚肥を配給してもらえる。全体の収穫量が増えれば税だけでなく、彼らの取り分も増える。条件は悪くない」
戦乱で逃亡した人間がここに住処を見つけたということだろう。逃亡した農奴は、元の領主の要求があれば引き渡さなければならないと、王国の法に記されている。だが元の領主が一族もろとも絶えてしまった領地が無数にあり、それらの多くが王家によって横領されている。そういう場所では領民の逃散が当然起きて、王家は元の農地に戻るようお触れを出していた。
ただ農耕地の戸籍は、各村落に礼拝堂を持つ神聖教会の協力の下に管理されている場合がほとんどだった。領主側に写しがあったとしても、戦時下の略奪に際して失われてしまうことが少なくない。王家の意向に反しても、教会の手助けがあれば、この地で新しい生活を始めようという人間が移り住むことは容易だと言える。
「王都に根を張っているメルクリウス派は、地方の諸事情には疎いからな」
「大きな都市の大聖堂には各派の僧侶がそれぞれ駐在しておりますじゃ」
黒髭の僧が言った。こいつはブン川河口に位置する秘密僧院まで、俺たちと同行することになっているのだ。労働僧だと言っていたが、名前も明かしていない。いったい何者だろう?
「村の礼拝堂に常駐しておるのはゲェに仕えるヴァナディス派の、それもせいぜい助祭というのが相場だ。都市に駐在し村落を巡回するアルラトゥ派の医療僧は、中間的な立ち位置かな」
ギィの言葉に、僧は曖昧な笑みを浮かべた。
「ヘカテの従者でぇあんひとたちゃあ、誰からも尊敬されちょりますだ。ただ治癒の技を身に付けることができる神官は絶対数が多くはありませんでぇ。医療僧や調剤僧とて専門の知識を身に付けるだけでも多くの年月がぁかかりますけんのぉ……」
治癒の技を施し、病や怪我に対処してくれるアルラトゥ派の神官が、その力を十分に発揮するには、人の心身の働きや機構に関する深い知識と理解が必要だ。アルラトゥの教団は長い年月を掛けてそれを研究し続けてきたし、また彼らを支える薬師や看護僧の育成にも力を注いできた。
そもそもアルラトゥ派の魔導と人間に対する知見無しに、魔導力の多用が魔導師に及ぼす副作用、『石化』や『獣化・暴走』など、を避けつつ魔導の技を行使する手立てが明らかにされることはなかったろう。
ネネムのようなかなり野放図な魔導師でも、アルラトゥ派の神官による検診を避けるようなことは肯定しない。いや強力な魔導術を使えば使うほど、そのような危険は大きいのだから、力ある魔導師であるほど、彼らに頼らざるを得ないのである。
例えば聖銀騎士団にも、従軍僧や神官が必ず在籍しているのはそのような事情によるものだ。戦闘時の『狂戦士化』の後の、神官による瞑想の指導や治療が、騎士たちの正気を保っているのである。
しかしそれだけに、絶対数が不足するのは避けられなかったし、彼らが余計な活動、例えば『政治』に関わることは、人的資源の無駄遣いと思われていた。
第二王子妃エレノアの『聖女は……』という発言も、貴族層によるこのような通念を、己の嫉妬心のために曲解した上に成り立っていたと言える。
「あの屯田兵たちは、魔侯国の軍勢が再びやってきた時は、『自分たちの土地』を守るため戦う、というわけだ」
「それが『辺境伯様』の政策さ」
「それだけではありましねぇだ。万が一王家が土地を取り上げて、あの男たちを元の農奴に戻そうとしたりすれば、彼らは辺境伯様の元に庇護を求めるでっしょう」
「お前さん……暁の軍団にいたのか?」
「さぁて、どうでござりましょうかぁ」
ひげ面の僧侶は口を濁した。軍団に参加したにもかかわらず王家から何の見返りも与えられなかった男たち女たちは多い。エンブリオ辺境伯となったロークスは、彼らを自領の支配管理のための人材として登用したはずだ。
ロークスとネフが連携して、東方と北方の僻地を統合し、開拓しようとしている。王家は二人を東と北に分離したつもりだろうが、あの隧道の存在がその目論見を崩すことになるかもしれない。