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◆神聖暦千五百二十六年 五ノ月 第十四日 北方辺境領 ノザァンヌ山脈◆
クリュニィの僧院を出てから七日目、俺たちはドロミットの隧道を抜けた。元は天然の洞窟なのかもしれないが、あれだけ整備されてしまえば人工の地下道と言ってよい。
僧院から隧道の入り口まで三泊、岩塊で守られた関門の砦で一泊、隧道の中で二泊した。隧道の出口は谷川に面した切り立つ崖の上にあり、崖っぷちに沿って渓谷を見下ろしながら、木道をたどっていくことになる。
「筏で川下りをしたければ、谷底に下りる道もごぜいますよ。急流ですので、馬は無理でごぜますが……」
道案内の僧にそう言われたが、ブリーズやオヴェロンを置いていくわけにはいかない。しかし整備された木道とはいえ山道だ。馬たちには食料などの荷を運んで貰うとして、俺たちは歩きである。
「お前が馬や人間を運べれば簡単なんだが」
「元々生きている動物は駄目だし、俺一人じゃ入れることができない」
無理な注文だと分かっているくせに、ギィが文句をつける。セルは外部との空気の流通が無い。おまけに中は真っ暗で、外の音も聞こえない。たいていの人間なら不安と恐怖で直ぐに錯乱してしまう。セルの容量にもよるだろうが、そう長くは保たない。
「随分不便なもんだ」
「さんざんこき使ったくせに、何を言いやがる」
俺が加行を修めて魔導の技を学び始めるまでに二年かかった。その後『セル』の移動と開放ができるのに一年だ。体術や武技の訓練もさせられ、読み書きと算術、礼儀作法と言葉遣い、その他諸々も仕込まれた。魔導力を使った初歩の身体強化を身に付けたが、あくまで初歩だけ。
その後、ネネムの実験に付き合わされた。だが俺はどうしても自分一人だけでは、『セル』を見つけて引き寄せ開けた後に物を入れて閉める、この作業ができなかった。
すでに物が入った『セル』を管理し、選んで引き寄せ、開いて物を出す。俺にできるのはこれだけだ。
『金庫番』などと言われるが、収納する方はびた銭一枚収納することができない。ネネムだよりの『技』でしかないのだ。
もっともネネムに言わせると、奴は俺のできることができないそうだ。どの『セル』に何を入れたか記憶判別し、その『セル』をどうやって引き寄せるかというところが、うまくできないらしかった。
だが俺とネネムのこの『能力』のおかげで、暁の軍団の進軍速度と継戦能力はとんでもないことになっていた。何しろ輜重に必要なはずの牛馬が、ほとんどいらないのだ。
実は軍隊にとって食料や飲み水の運搬は、最大の足枷と言ってよい問題だ。人間一人が運べる分量は、せいぜい数日分でしかないし、飢えた兵士はそう長く戦えない。だが牛馬などの大型動物に荷を運ばせるとなると、その動物自体の飼料も必要になる。おまけに身体の大きい動物は、大量の飲み水を消費する。それらを荷の一部としては、肝心の補給物資が運べなくなってしまう。
現地調達はいつでも十分な量が確保できるわけではないし、できなかった時には軍が崩壊してしまう。もう一度言うが、飢えた兵士は戦えないし、規律を保つこともできないのだ。
俺たちは予め計画を立て、資金を用意しさえすれば、食料や装備・資材を可能な限り安価に入手し、軍のいる場所まで運ぶことができた。ただ、この利点は俺たちに脆弱性を抱え込ませることにもなる。俺とネネムを排除すれば、暁の軍団はたちまち飢えてしまうからだ。当然このことは軍団の幹部以外に知らされていない。
正確なことを知っているのは『瞳』の五人とヨージフ将軍及び従兵のラシッド、副将のダグウッド、騎兵隊長トマス、歩兵隊長アドモン、工兵部隊長ヴィル、輜重部隊長ネルコ、それから女商人のギィ、錬金術師リオス、あと鍛冶師のモナリスあたりか。
うーん、どう考えても多すぎる。しかし、この中に裏切り者がいるとは思えない。中央のお偉方と違い、全員が最前線で魔侯軍の脅威に直面し、命懸けで戦ってきた人間ばかりだ。仲間の弱点を漏らせば、自分の首を絞めることになると思わないはずがない。
しかし不完全な情報はどうしても漏れてしまうから、いろいろと憶測されることからは逃れられない。特にネネムは胡散臭い言動が多かったから、疑いだけで排除してしまえと考えた『お偉方』がいても不思議はない。
俺たちがやらなければならなかった『商売』に関わった人間は多い。最初、資金の用意と購入をギィが、運搬と供給は俺とネネムが担当した。まるで後ろ暗い取引をしているかのように、夜闇に紛れ、顔を隠し声を誤魔化した。その内、ギィの部下や俺たちが直に従えた地下組織の人間も関わることになった。だから『その筋』の奴らに突かれると不都合な所は、山盛りある。
「ギィ、最初は軍団の輜重のためだけだったが、後半は随分と商売のために利用してくれたよな」
「ぐ、軍資金が必要だったからだ。お前だって納得していたじゃないか」
「お前の儲けの為じゃ無いと……?」
「分け前はブドリにも渡ったはずだ!」
「端た金じゃないか」
「お前の貰うことになる年金の百倍以上だろう」
「で、ギィはその何十倍儲けたんだ?」
「『暁』には還元している。だからこそ、金庫に千八百万もあったんだろ」
「俺が金の流れを押さえてないとでも……。全部俺の手元を通っていったんだぞ」
「クソッ! あたしには養ってやらなきゃならない奉公人とか家族とか……がいるんだ。だいたいお前は穀潰しの盗人のくせに……」
旅支度とはいえ、立派な衣装を身につけた長身の婦人が、汚い言葉を使って突然毒を吐き始めたので、案内役の僧侶が口をポカンと開けて立ち止まった。
リオスはいつもの事と知らぬふりを決め込んでいる。
山道を下る途中、木樵たちの野営地で泊めて貰った。切り落とした枝で差し掛けただけでも、屋根があると無いとでは大違いだ。挽き割りにした大麦の粥を分けて貰う返礼に、途中で仕留めた二羽のキジバトを提供した。
「デェーデェー、ポッポー」と、不用心にもさえずっていた馬鹿な雄鳥だ。この辺の山の中では、石を投擲するだけで簡単に落ちてくる。人間に狩られるなんて、予想していなかったらしい。僧たちの話では、矢を無駄にする可能性があるので、弓矢での猟はしていないということだ。木の葉や枝に遮られると、鳥に矢を当てるのは意外と難しいのだろう。
二日目に山麓まで下りることができた。丘の上に花崗岩らしい切石を積み重ねた狼煙台の塔がある。中央に四階建ての塔屋があり、三本の小塔で囲まれている。小塔の最上部は胸壁で囲まれ、見張りの兵が立っていた。中央の塔屋の真ん中に旗竿があって、斧を握った飛竜と一角獣が背を合わせ、その上に三つの五芒星と二つの六芒星が配された旗が翻っている。エンブリオ辺境伯の紋章旗だ。
ここは本来であれば北方辺境領。しかし北方辺境伯のライノルン家が誰かに継がれたという話は聞かない。跡継ぎがいなかったからこそ、ノルティスの開拓が僧団に任されたのだろうし、ナハティスの町がネフに与えられたのだ。
アルシャーン公爵家としてはネフをノルティスに配することにより、将来は北方の領有を主張したいという目論見があるのかもしれない。だが、ヨアヒムの銀鉱は王家のものだ。それ以外の、『夜の森』や亡霊岩礁帯を含む北の海の領有を主張する者などいるはずがない。
『夜の森』やその周辺及び東側の土地については、ノルド海より東の亡霊岩礁帯やノザンヌ海の航路が開かれておらず、陸路でもノザァンヌ山脈の北側は踏破されていない以上、声を上げさえすれば、すでにブン川沿いに狼煙塔を配置するエンブリオ家の先有が主張できることだろう。