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◆神聖暦千五百二十六年 五ノ月 第十三日 北方辺境領 ノザァンヌ山脈◆
ノルト川の流れに沿ってかなり遡った後、木道は不意に分岐し、俺たちはノザァンヌ山脈の山稜に向かう路を進んだ。
前方に立ちはだかる山々の頂は険しい岩壁に守られ、登攀は不可能に思われる。だが木道は、高い崖に挟まれた狭い谷間に分け入って行く。
馬を引いて半日進み針葉樹の間を抜けると、わずかな広がりをもつ盆地に出た。
前方には垂直にそそり立つ岩壁が行く手を塞いでいる。その真下までたどり着くと、家よりも大きな岩塊がゴロゴロと転がっていた。よく見るとそれらは、意図的に動かして並べられたように隙間なく続いている。
路はそれら巨石によって形成された壁の片側に開かれた数十間の狭間を抜け、この高い防壁の内側に入った。
「ようこそドロミット洞窟へ」
ギィがニヤリと笑って俺に話しかける。リオスと組んで俺を驚かそうと企んでいるのは察していたが、こんな代物が跳び出してくるとは思わなかった。
「それで、ただのデカい洞穴というわけじゃないんだろう?」
切り立った岩壁に入った大きな亀裂の奥に、縦に裂けた割れ目が続いている。
「ふふん」
「思わせぶりに引き延ばすなよ、ギィ。そりゃあな、これだけ山の中なのに、手間ひま掛けて守りを固めている。これで単なる穴蔵だと言われて、おやそうですかと納得できるはずがない」
振り返ると、この場所を囲む頑強な防壁の内側には岩に刻まれた階段があり、積み上げられた岩塊の上に登れるようになっていた。そして外周に沿って廻らせてある通路には、こんな人気のない山中なのに、数人の見張りが立っている。
もったいぶっていたが、実は言いたくて堪らなかったのが見え見えの顔をしてギィが口を開く。
「驚くなよブドリ。この洞窟はな、ノザァンヌ山脈の地底を抜けて、ブン川の上流まで続いているんだ」
「あ?」
悔しいが、後の言葉が続かなかった。
あまり知られていないが、ブン川はノザァンヌ山脈の向こう側、ヴァレンツ海に面したニィメア湾に流れ込む大きな川だ。極北の凍結の海の南側にあるヴァレンツ海は、西側から陸沿いに流れてくる暖流と北からの寒流がぶつかり合い、冬には天候が激変しやすい海域である。
ヴーランク王国側のノルド海やヴェルツ海からは、沿岸沿いに亡霊暗礁という海の難所があるので、この辺りへ海路往復することは非常に危険とされている。それは小型の船ばかりではなく、沖合を航行する能力のある三本マストの大型船についても同様だ。
東方辺境伯領の北側の開拓が今まで滞っていたのも、北回りの航路のリスクが大きすぎ、船舶を利用した輸送が困難であるためと言ってよい。
「ブン川の河口には、ネフの指示で造った秘密僧院がある。そこから東へ海路進んでニッヒ岬を回れば、インネーレ海に入れる」
インネーレ海の奥には、ブルンブルグという漁港があった。確か、ブーニュ川とかいう川の河口だ。そこからは陸路、東方辺境領の領都パイセニアまで行くことができる。その辺りは東のナルコムス平原から続く、比較的平坦な土地だ。
「つまりネフ様は、北の辺境地と東の辺境領をつなぐことで、新たな開拓地を見いだそうとしているのですじゃ」
リオスのしたり顔は、俺には気に食わなかった。どう考えてもそんなに簡単にいくとは思えなかったし、俺には面倒に感じられた。
「いったい何年かかると思うんだ? そのうち王都辺りの貴族たちが気付いて、横槍を入れるに決まってる」
「奴らは辺境の事など眼中に無いさ。魔侯軍のことさえ、もうすでに忘れかけている」
目の前にあるのは、狭い谷間の上部が互いにもたれ掛かったような構造の、どこまでも続く隧道だった。
「まさか、これを魔導の力で切り開いたと言うんじゃなかろうな」
気がつくと、俺の額に冷や汗が流れ落ちていた。そんなことを試みる人間がいるとすれば、それはネネムしかいない。だがいくらあの男でも、そんな強大な魔力をふるえばどうなるか……いや、それを一番よく知っているのはネネムのはずだ。
俺の知る限り、ネネムほど魔導の技について博識な者はいない。古代の粘土板から転写したというリィルイェの異本や、太古の異種族が残した記録の断片集であるプナコト手稿について、何度も自慢そうに語る奴のことを、俺は決して傲慢とは思わなかった。
ネネムによると、源魔力の最大のものは太陽から降り注ぐ陽気であるが、『個』たる意識存在にとって、そのままではあまりに雑多な位相を含みほとんど利用できない。大気を通過する過程で陽気の一部は大気中に拡散・蓄積されるが、非常に希薄であり、これも利用が難しい。
最終的に大地に降り注ぐ陽気は、近くのシマ層の玄武岩様構造体とマントルの橄欖岩様構造体の間の境界面上に、マントル層を包み込むように網状に広がる『泡包』に吸収・変換され、その内部に蓄積される。
実は、約六千五百万年前地球に降り注ぎ、地殻を貫いて上部マントルの流動化部分にまで達した『針』が増殖し、形成したのがこの泡包である。この泡包は様々な速度で生々流転し、文字通り泡沫となって消え、新たな泡包として生成される。
この泡包から立ち昇り地下の龍脈に沿って流れる魔導力こそ、旧支配者たちをこの地球世界に惹き付けた原因である。しかし彼ら『旧世界』の支配種族たち自身による『侵攻』の試みは、結果として彼らが『地球世界』に適応できず失敗した。
彼らの一部が『現身』あるいは『分霊』をこの世界に残したが、あとはことごとく、オールト雲の彼方へ撤退したとされる。二万年以上前のことだ。
さて神聖歴紀元より四千二百年ほど昔、『現身』や『分霊』たちによる『地球世界』の間接支配の時代があった。『神話時代』あるいは『魔力利用伝授の時代』とも言われる。
この時代に起こった一連の事件の結果、人間種は神々を騙る彼らから『魔導術』を盗み取り、後の『魔導文明』が生まれることになる。だがまた、人間種の数が今より少なかったこの頃は、一部の人間による魔導『知・技』の独占による神権支配の時代でもあった。
以上のことはネネムやその先人たちが明らかにしたことである。さて、その後何が起こったということだが……。
蒼海の東側に広がるナドゥ平原を中心に神権支配の時代が千年ほど続いた後、『中っ海』の周りの広い範囲で農耕が盛んになり、人間が増え、そこに文明が興隆した。魔導の力を持たない被支配層の数だけでなく、魔導を行使できる人間の数も増加する。やがてその中でも権力を持つ者と持たない者の格差が生まれ、魔導の独占による支配に疑問を持つ者が現れた。
その中にネネムの先人たちの一部がおり、魔導の来歴を解き明かすことにより、人間種のため役立たせようと考えた。この一派が起こした思想が後に神聖教会の成立を導くことになる。
神聖教会はそれまでの一部の権力者による魔導の独占を覆し、各地に跋扈していた地神たちを奉じる族長たちを滅ぼすか従える事で、あの旧帝国の覇権を打ち立てた。しかしそのことは同時に、新たに生まれた皇帝という存在の地位を支える『帝権』が『神授のもの』では無いことを意味したのである。帝国の繁栄と共にその民は奢り高ぶり、単なる『人』である皇帝を倒し成り代わろうとする者を輩出することとなった。
つまり旧帝国を成立させたのも、またその崩壊の原因となったのも、神聖教会だと言える。
そもそも魔導力は、人間の利用を前提としたものではない。それは六千五百万年ほどの過去に、次元の彼方の存在がこの地球世界を彼らの利用に供するため改造しようと送り込んだ『針』が生み出したものである。
この『針』は地球の地殻ばかりではなく、この世界の生物の遺伝子の中にももぐり込んだ。このため地球の生き物たちは、魔導力に共振・共鳴する部分を抱えている。だが余りに魔導の部分が増大すると、生物の構造を成す組織の中で鉱物質様の『針』が増殖し、異常を引き起こすことになるのだ。
魔導師、戦士、神官たちが行う加行や修法・護法などは、すべてこの現象を制御し抑制しようという試みである。それでも過去、様々な必要にせまられて魔導力を過剰に行使した結果、『石像』と化してしまった者、あるいは魔導の暴走で人ならぬものとなってしまった者は、数え切れない。
だがそれでも、魔導の可能性の限界に挑戦してしまうのが、ネネムのような魔導研究者の業というものかも知れない。ネネムが俺に語ってくれたことを思い起こしながら、そう考えた。