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◆神聖暦千五百二十六年 五ノ月 第十二日 北方辺境領 ノザァンヌ山脈◆
俺たち、俺とギィとリオスの三人は、ノルト川に沿って作られた木道をたどり、ノザァンヌ山脈とサザンヌ山脈が連結する辺りに向かって北上している。
二つの山脈が連なることで形成される山系が、ノルド海沿岸から緑海近くまで斜めに広がる夜の森の中央部を、その背骨でもあるかのように貫いていた。この山系が障壁のようにそそり立っていることで、あの魔侯軍も夜の森を突っ切ることを諦め、緑海沿いに進軍せざるを得なかったのである。
前方に連なる山々はいずれも険しく、山頂には雪冠がまだ残っていた。山中に分け入り、夜の森の向こう側に抜けようとするこの旅程は、いくら初夏とはいえ無謀としか思えない。まともに考えれば、少なくとも馬を連れての山越えは不可能のはずだ。
ところが今、馬を引いて俺たちがその上を進んでいる木道は、伐採された樹木の枝を払い、並べて敷き詰めた堅固なものである。正規に整備された街道ほどではなくとも、こんな山奥で通常期待できる獣道や踏み分け路に比べたら、格段の差があった。多分荷を積んだ馬車や牛車であっても、ゆっくりとであれば登っていくことができるだろう。
「ヴァナディスの修道会は、いつの間にこんな路を作ったんだ?」
北方の辺境で開拓事業を運営している彼ら以外に、この林間道を造った者がいるとは考えられない。現に途中幾度か、木道の周辺で働いている労働僧たちの姿が見られた。だがこの領域でいくら大きな造成や建築を進めているにしろ、険しい山間にこれほどの路を造ってまで材木を切り出す必要があるのだろうか?
「この辺りで切った常緑樹は、丸太にして筏に組みノルト川に流されている。楢のような落葉樹は、標高の高いこの辺りではなく、山裾の温暖な土地でしか大きく生育しない。だから楢類の丸太筏が流されるのはルーヴェ川の中流からだ」
ギィの説明によると、ノルト川はブリュッセとノルトスの僧院がある場所でルーヴェ川に合流している。そしてルーヴェ川は更に下流のナハティア僧院のところでナハト川の流れも引き込んで、最後にナハティスでヴェルツ海に出る。ナハティスでは造船と製材が行われているし、木材の生産地としても知られていた。
「この山の中だけでなく、北方の森全体から材木を伐り出しているのか……」
「アルラトゥだけでなくヴァナディスも関わっているのさ」
旧帝国が支配した地域を中心に、国境を越えて広がる神聖教会には、三つの大きな神殿組織がある。父なる主神オージンを奉じるメルクリウス僧団、母なる地母神ゲェに仕えるヴァナディス僧団、星々の夢を伝える星辰の娘ヘカテを信奉するアルラトゥ僧団である。
教会の公式経典ではオージン・ゲェ・ヘカテの三つは同一の混沌から発した力ある存在であり、三位一体の最高神とされている。ただネネムに言わせれば、それは表看板に過ぎない。経典は古代から連綿と続く多様な神々の系譜を、神聖教会の都合に合わせて長年にわたり統合編纂したものに過ぎないからだ。
旧帝国の成立は、初代皇帝カエサルの命により、この三位の神を一つの聖堂に祀ったことに始まるという。つまり三つ巴で争っていたこの三大勢力をまとめ、支配した者がロマ帝国を創ったのだ。
けれども、この三つの勢力が完全に統合されたわけではなかった。神聖教会は一つの教皇冠の下にあり、各地に存在する聖堂に同居する形で三位の神像が祀られてはいる。しかし帝国の成立から十五の世紀が過ぎたというのに、神聖教会の内側では三位の神の名の元に創立された三つの僧団が主導権を握ろうと暗闘を続けていた。
三位の神格は旧帝国の各地方に根付いていた土着の神々をそれぞれの眷族として従えており、古の時代から続くこれら眷族たちの不和が、根本的に三僧団の融合を困難にしているとも言われていた。
このうちメルクリウス僧団は戴冠の祭儀を司ることから国政に深く関与し、また王国の中央官僚や軍人に人材を輩出することが多く、信奉者は主に支配層に偏っている。
それに対し、ヴァナディス僧団は土着の勢力との関わりが強く、ゲェが豊穣神ニヌルタを眷族としていることから、農耕・牧畜・狩猟・漁業・林業などに従事する地場の人々の信仰を集めていた。
最後に、ネフの所属するアルラトゥ僧団だが、ヘカテは下級神として知識と書記の神ネボと霧の神ムンムを擁し、医療と魔導及び学問や技工芸に携わる者を守護すると見なされている。医療に携わる神官を多数抱え、医学と魔導の研究を推進していることも、アルラトゥの特徴だ。
「ありゃあ、いったい何なんだ!」
山奥に踏み込んでも木道は整備され、続いていた。その木道を、直径が四身長もありそうな巨大な丸太が、ズリズリと這い進むように下って来るのを見つけて、度肝を抜かれた。取り付いて押したり引いたりしているのは、労働着を纏った僧兵たちだ。丸太の長さは二十身長に届きそうだ。
「ここでは大木の伐採や運搬に、魔導僧の力が使われている」
ギィの言葉を聞いて俺は目を剥いた。開拓の最前線にいる僧兵の主立った者は、魔導の力で岩を砕き、周囲数十尋の巨木を切り倒す。また別の僧兵は、身体強化で得た怪力で、巨石や大木を動かしている、というのだ。
「馬鹿な! そんなやり方で魔導力を使い続けたら、石化するか、それとも魔侯国の兵士のように獣化し狂ってしまう!」
身体強化を使って戦う聖銀騎士団は、平素の暴走を抑えるため、身体の数カ所に獣化した肉体には毒となる聖銀のメダイを埋め込む。そして霊肉を修練によって鍛え、強化された身体の万能感の中でも理性を保つことを目指す。
だがそれも『戦い』に特化した能力としてのみ活用することで、かろうじて可能であると言われているのだ。魔導の『普段使い』という形で歯止めを失った結果は、獣化して後戻りできなくなった奴ら、ヨーセルムを占領するため海を渡った欲深い騎士たちの末路が示している。
魔導の濫用は危険なのだ!
「ネフが知らないはずないよな」
「無論じゃ」
リオスが顎髭を引っ張りながら応えた。わしは賛成しているわけじゃないんだぞと言いたげな、しかめっ面だ。
「……ここの僧兵たちは、そんなに高徳な方々なのかい?」
「んなわけなかろぅ!」
てぇことは、普通の奴らだってことだよな。あんな風に魔導の力を毎日使い続ければ、個人差はあれど、十日もすれば人ならぬ何かに変わってしまうのが『普通』なのだ。それを避けるためには、厳しい修練だけでなく『魔導の才』が必要だ。しかも素質無しにその技を得ること自体が困難なのである。
「アルラトゥの者たちは、獣化を食い止める手立てを見つけたと言っておる」
「本当か?」
「完全なものではないと、ネフも認めている」
ギィが目の前を通過する巨木を睨みながら、そう言った。