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◆神聖歴千五百二十六年 五ノ月 第六日 北方辺境領 クリュニィの僧院◆
前にも説明したが、ロークスが拝領したエンブリオ東方辺境伯領というのは、元々ヴーランク王国の領土でも何でもなかった。いやそれどころか、今回の戦役の結果王国がせしめた旧諸侯領や旧都市連合領のさらに東側に位置する、ほとんど未開拓な領域である。
人が多く住む場所としては緑海沿いに、ミズリル、シモア、デルという三つの港湾都市があるが、内陸に入るとほとんど獣しか住まない『夜の森』があるのみであった。
この三つの港湾都市は、ミクラガルドからヴーランク王国最大の港湾都市マルシィまでをつなぐ航路の連結点としての役割を、永らく果たしてきた。だがこの辺りの港湾都市の為政者たちは、今まで内陸地には何の関心も払わずに過ごしてきたのである。
都市周辺に若干の農地があるにしろ、食料さえ完全には自給自足できてはおらず、西から船便で運ばれてくる物資に頼っている始末だった。
ではこれらの都市の経済がどうやって成り立っているかというと、港湾の利用や商品の売買に掛けられる税、水食料の補給についての対価、また陸地の寝床で安心して休みたい人間への宿の提供などによるものであった。
まあ言ってみれば、これらの都市の支配層というのは、海の回廊に飛び飛びに存在する宿場町の親爺みたいな奴らなのである。
彼らにしてみれば失敗する可能性の高い、危険な内陸地を開発する事業に投資するリスクを選ぶ理由が、今まで見当たらなかった。座していればやって来る回航船を待っているだけで、これらの都市は長い間それなりに栄えてきたのだから。
しかし魔侯軍の来寇で、そんな暢気な考えは愚人の酔夢と化してしまった。
こういう都市は、時として襲ってくる海賊への防備こそ備えていたが、それはせいぜい何隻かの中型船に乗り組んでいる人数に対抗する兵力でしかなかった。また、略奪品を売り払ったり、海の上で生活するために物資の補給地が必要だというような事情から、海賊たちもそう無茶なことはしなかったのである。
だが海沿いの地を怒濤のように進軍してきた魔侯軍は、そもそも陸上からの軍勢に備えていなかったこれらの都市を、あっという間に呑み込んだ。彼らが直面したのは、略奪と虐殺、そしてもし可能だった場合は、今まで顧みもしなかった獣の徘徊する荒れ地への逃避行であった。
『暁の瞳』のあの一撃によって、魔侯軍が統制を失い撤退したことは、彼らには奇跡とも神の救いとも感じられたろう。そして再来寇に備えるためナルコムス平原の西側に新たな国境線を引き、旧諸侯領との間の領域をロークスの治めるエンブリオ辺境伯領とすることで魔侯軍への守りとするとの宣言がなされ時、異議を唱える者はいなかった。
ヴーランク王国の傘下に入ることで、今まで謳歌していた放漫な自治の夢は失うことになり、税を上納しなければならないにしろ、身の安全には代えられないと考えたはずだ。
しかし、この地の辺境伯に任じられたロークスにしてみれば、財源となり得るのはたった三つの、それも再建途中の小都市である。そこから上がる税収など多寡が知れている。これで緑海からインレーネ海までナルコムス平原の西側を横切って引かれた長い国境線の防備を固めろというのは、全くの無理難題だった。
開領に当たって国庫からもぎ取った百万エキュだって、焼け石に水である。ロークスがデルを河口とするドーニュ川の中流に現在築いているはずの、領都パイセニアの城壁に要する費用だけでも、それで足りるはずがなかった。。
だがパイセニアから王都までは遠く、王宮でロークスを代弁する者などいはしない。ネフは北方の僧院に追い遣られた。サティは聖銀騎士団の副団長という地位こそあてがわれたが、カイエント侯爵家の庶子という立場から、伝もない王宮では目立った動きがとれないでいる。
王都で政を牛耳っている宮中伯や財務官僚たちにしてみれば、分不相応な身分も領地も与えてやったのだから、あとは何とかしろと言うのだろう。だが、俺から見ればあいつらは、馬鹿者たちの集まりとしか思えない。
現在、魔侯国にはワズドフの下に位置していたハジーブとワズイールという二人の総督がいて、魔侯王の地位を巡って主導権争いを行っている最中だ。共倒れになってくれるのが一番理想的なのだが、多分そんな都合のいいことは起こらないだろう。
だから遅かれ早かれ、奴らの軍勢はやって来る。
そもそもと言えば、数十年前に聖銀騎士団の狂信的な一派が、聖戦と称し、実のところ欲に駆られて緑海を渡り、魔侯国の聖都ヨーセルムを占領したのが切っ掛けだ。
その際の騎士団の、俺から見ても悪逆非道を極めた遣り口の結果、魔侯国の人間にとって、騎士団の奉ずる神聖教を国教とするヴーランク及びポルスパイン王国との戦いは、彼らにとっての『聖戦』となってしまった。
だいたい聖銀騎士団の『獣化・狂戦士化』による戦闘力の強化を継続して使用することは、多大の危険性を含んでいる。サティのように、日頃の鍛錬修行を怠りなく続けることにより、高度の自制心を持つに至っていなければ、暴走することを避けることができない。欲に塗れた生活を送っていた者たちに、そんな克己の精神を期待できるはずもなかった。
『獣化』による力の横溢に酔い、己に歯止めを掛けることができなくなった彼らは、戦闘場面以外でも獣のごとく振る舞った。身代金をとるため捕らえた女や子どもの人質を、代価が支払われたにもかかわらず返さず、親族の眼前でいたぶり殺して、約に反したことを恥じなかった。
挙げ句の果てに「聖戦の目的のために異教徒を欺き、神の名の元に根絶やしにすることは、神の意志にそった行いである」との弁明の元、好き勝手に増長して、ついには帯同した自国の民まで略奪の対象とするに至った。これには、さすがに本国の教団も援護できなくなってしまったのである。
さらに、海を渡ってまで攻め入った『遠征』の見返りが思ったほどではなかったせいもあり、やがて本国からの人的物的支援も先細りになる。せっかく占領したヨーセルムも、周囲を敵ばかりに囲まれたこの状況では、十年と持ちこたえることはできなかった。
結局海に追い落とされ、命からがら逃げ戻った彼らを待っていたのは、恣意に任せて投じた人的物的資源の浪費の責任を問うことが目的の、宗教裁判である。だがこれは責任の押し付け合いの内紛で泥仕合となり、宗門の力の弱体化、ひいては王権の強化につながることとなった……とは、ネネムからの受け売りである。
で、ヴーランク王国内部では何とか後始末を終え、一件落着と思われていたのだが、魔侯国の民にしてみれば恨み骨髄で、忘れるはずもなかった。本来であれば、ヴーランク国側から何かしら関係改善の働きかけがあるべきであったのであろう。しかしほとんどのヴーランク国民が見たことも無い海の向こうの国でのことでもあり、魔侯国でそんな怨念が鬱積し、爆発寸前にまで高まっていることに関心を払う者はいなかったのであった。
「六百万エキュの金を何に使う……と聞くのも野暮だなぁ。最初は北方辺境地の開拓費用かと思ったが、結局はあっちの辺境領を守るためか!」
「無論だ」
ギィが珍しくしかめっ面で答える。
「だが、こんなもんで足りるとは思えない……。ギィ、お前だって無駄に金を減らすだけの投資は嫌いなはずだ」
「まあ、普通に考えれば地べたに水を撒くようなもんだな」
「じゃあ、何故?」
「なぁに、あたしと一緒にパイセアに行けばわかるさ」
「ロークスの所へか? それじゃあ、随分と遠回りをさせたもんだ!」
「それが、そうでもないのさ」
白い歯をむき出して、ギィがニヤリと笑った。