◆3の4◆
◆神聖歴千五百二十六年 五ノ月 第六日 北方辺境領 クリュニィの僧院◆
口の軽い奴だと見なされているんだろうが、つんぼ桟敷に置かれているようで、俺は非常に気分が悪い。
「俺が知らない方がいいと判断したのは師匠なのか?」
「よく分かったな」
ギィが、少し感心したような目で俺を見た。相変わらず、完全に馬鹿にされている。
「まあ、海千山千の貴族どもをたぶらかすのは、俺には無理だったかもな。王宮の中では大人しくしていろと言われていたし……」
「ブドリ殿の言うとおり、彼らに我らの企みを悟られるわけにはいかなかったのです」
山羊鬚をしごきながらリオスが頷く。真面目でどちらかというと俺に親身になってくれるこいつが言うなら、今は矛を収めることにしよう。
「それで、この荷はどこに渡せばいいんだ? こんな物を抱えたまま何日も待たされるのはごめんだぞ」
「では直ぐに僧院長の所へ行くことにしよう」
そう言ってギィが先に立ち、俺は二頭の馬を引いてついて行くことになった。
内側の石塀の入り口を抜けると、両側に木立の並ぶ一本道の先が、先刻崖下の街道から見上げたレンガ造りの建物へと続いていた。中央と両端の三箇所に高く立ち上がった搭屋があり、それを長い切り妻屋根の三階建てがつないでいる。
木立に挟まれた道の両側には牧草地が広がり、飼料搭が付属する牛舎や馬房と思われる建物が点在していた。多分その背後には様々な作物を栽培する農地が控えているのだろう。この内側の石塀の中が、本来のクリュニィ僧院なのだ。
「ネフがこの場所に来たのは、あのエレノアという姉貴の嫌がらせのせいじゃなかったのか?」
俺がそう問いかけると、ギィが少し顔をしかめながら答えてくれた。
「あの馬鹿女が素直に妹の出世を喜ぶなんてことが期待できるとは、端から思ってなかったからな。それに王家の吝嗇も計算の内だ。だから、アルシャーン公爵家にも根回しをしておいたのさ。姉妹喧嘩されて、泥仕合になっては公爵家にとって損になる。当主の公爵もそう考えたのだろう」
「それで、ここは?」
「宗門が北方での開拓に力を入れ始めてから四十年ほどになる。中央部や南部は強欲な王家や高位貴族の狩り場だからな。フンギリィ平原は諸侯たちの争いで踏み込めなかった」
「王都じゃ、こっちはとんでもない僻地ということになってるがなぁ」
「別に間違いではない。ここの石塀だって、僧会が資金をつぎ込んで、この数年で造ったものだ」
「数年だって!? そんな短い期間でか!」
「見かけ倒しさ。内塀だってまだ未完成だ。出来上がるまでにどれだけかかるか……」
ギィの話を聞きながら、俺は自分が運んできた物の使い道が、何となく想像できた。ここで行われているのは大事業だが、それには資金が必要なのだ。
門をくぐってレンガ塀に囲まれた外陣に入ると、風が遮られ寒さが和らいだ。ギィが出てきた僧たちに指示し、オヴェロンの背から長櫃を下ろして運ばせる。
二頭の馬の世話を頼んで、俺は長櫃と共に建物の中へと入った。ぞろぞろと天井の高い廊下を進み階段を登ると、その奥にがっしりとした扉がある。
ギィがノックすると、中から聞き覚えのある声が応えた。
「入りなさい」
奥行きのある広間だった。三箇所にある暖炉で薪が燃やされている。天井に近い位置に、ガラスのはまった明かり取りの窓が二面に巡らされていて、ここが角部屋だと分かった。
扉に近い位置の暖炉の傍に絨毯を敷き詰めた区画があり、そこに置いた書き物机に向かってネフが立っていた。麻布の簡素な長衣を着て、その上に被った袖無しの茶色い上っ張りに、晒した麻縄を三重に巻いて腰骨の位置で縛り、端を下に垂らしている。北方の僻地での、下級神官が平素にまとう身仕舞いだ。
「よお」
俺が声をかけると、彼女は疲れた表情で微笑みを返した。
長櫃を運んできた僧たちが、それを暖炉の脇の床に下ろして姿を消す。
「受け取れよ。運んできたぜ。あんたの婚資だ」
俺が持ってきたのは、アルシャーン公爵三女ニルヴァーナ・ネフェリス・ドナ・アルシャーンの婚資である。正確に言うと、ザッケルト子爵領の前年度分の年収約十万エキュと、ネフが受け継いだ貴金属・宝飾品類のうち長櫃に入れて運べる分の品物だけであった。
このネフの婚資は、彼女が神殿に入ったとき、僧籍にあるネフには不必要だろうと姉のエレノアが横領しようとしたといういわく付きのものだという。さすがに父親のマリオが許さず、結局王都の司教座が預かって管理することとなったそうだ。
まあ、実際に管理運用していたのは王都にあるバラバムート商会で、俺が受け取ったのもそこである。運べなかった分の服飾品・家具調度・その他諸々は今でもそこに預かってもらっている。
「ああ、手間をかけたようですが、無事で何よりです」
「他人行儀だな……それより、途中でちょいと邪魔が入った」
「ネネムのことですか?」
「いや、三日ほど前に街道で待ち伏せして、足止めしようとした奴らがいた」
ネフだけでなくギィとリオスもこれには顔をしかめた。
「怪我は無かったのですか?」
「ああ、だが十人いたので、リオス、あんたに作ってもらったあれを使った」
「わしが作ったあれと言うと、目潰しの粉のことかな?」
「目潰しってか、あれは随分えげつない代物だったぞ! あれを食らった奴らは、俺が手を掛ける間もなく、全員死んじまったからな」
「はて、そこまでの効き目は無いはずだが……」
「うん。まあ、小樽三つ分、頭からぶちまけてやったからかな」
「なんと! 全部ですか! あれはそのように運用するものでは……狭い谷間のような場所に相手を誘い込んで、数百人を無力化することを想定しているのです」
「確かに無力化できたぞ。奴らの乗っていた馬ごとな。即死に近いんじゃないかな」
「なんとも無茶な使い方をしたものじゃ。後始末はしてきたのですかな?」
都合の悪いことを尋ねられ、俺の背筋に汗が伝い下りた。
「馬の死骸はそのままになっているが、あとは隠した」
「まさか、その量の粉を一箇所に撒いて、そのままにしてきたと……」
「いや、その……俺一人じゃどうしようもなくてね……」
ギィと視線を交わしたネフが怪訝そうに尋ねる。
「何か拙いことが……?」
「街道がしばらく使えないことになりそうですな」
そう応えるリオスは、苦虫をかみ潰したような顔だ。ネフが表情を曇らせて尋ねる。
「毒を撒いたのか?」
自分が調合した物なのでリオスも答えづらそうだ。言葉を選ぶように説明する。
「多分しばらくの間、牛馬は、いや、まともな臭覚を持つ獣は、その場所に近づくことを嫌がるでしょう。早めに雨が降って、痕跡を押し流してしまってくれればよいのですが、この季節そう都合良く雨が降るとは思えません」
後から考えれば、あんなに大量に撒く必要はなかったかもしれない。だが一樽だけで瞬時に奴ら全部を無力化できたかというと……何で俺が責められなきゃならない?
「馬に乗った全身鎧が二人、弓士が二人、その他にも手練れが四人、それに後ろからは二人。俺にどうしろと言うんだ?」
開き直ってそう言うと、ネフが諦めたように溜め息をついた。
「相変わらずですねブドリ、あなたという人は」
「俺だってもっと身軽な状態だったら、とる手段はいくつもあったさ。だが、このお荷物を運ばなきゃならなかったんだ。大目に見てほしいな」
そこで何か言い出すところだったギィを、ネフが片手を振って押さえた。
「はぁ、まあ仕方ありません。あなたの言うとおり、私たちには資金が必要だったのです。それに、終わってしまったことをどうこう言っても、今さら無駄なことです」
「いいのか? この頭の軽い小僧は、また同じことをやらかしかねないぞ」
まだ納得していない顔でギィは俺をにらんでいる。
「そこまで言うなら、あんたがこの仕事を引き受ければ良かったんだ、ギィ」
「あの時は、お前が一番適任だと思ったのだ……」
「俺は『暁の荷運び』だからな。だがネネムが引き渡しの場に来なかったのは俺のせいじゃない。俺は、自分のやれることをやっただけさ」