甘露のにゃんにゃんさしすせそ
白猫をとっ捕まえて、お醤油をかけてみた。
普段は通らないような、薄暗い路地裏で、その猫だけが月明かりに輝いていた。砂糖菓子のような柔らかい硬さが、艶々と黄色く染まっている。僕はその猫に見入るあまり、道端にあった誰かの吐瀉物を踏んでしまったのだが、それに苛立ちさえ感じないほど、白猫はおいしそうだった。
大抵野生の猫は白い部分なんて薄汚れて、まるっきり灰色になってしまっているものだが、この猫は違った。まだ子猫だからか、真っ白でふわふわしていて、腹の部分の柔らかい毛などは羽毛のように滑らかだ。
僕は猫の扱いなど分からなかったので、ただフラフラと近寄ったが、白猫は逃げる素振りも見せずにじっとこちらを見つめていた。白い髭が見えるほどに近寄ると、猫は僕の靴に付いたゲロが気になったのか、むしろ身を寄せてきた。
僕はそこで居ても立ってもいられなくなり、自分の空腹に任せてその猫を捕獲、家に連れ帰りこうしてお醤油をかけているわけだ。
家に持ち帰るまでの間、警戒心の欠片もなく抱かれていた猫は、ようやくおかしいと気付いたのか「ふんがろ」というような奇妙な声を出して部屋の奥、窓へ走っていった。猫が動くと、背中に掛かったお醤油の素敵な香りが部屋に充満して、僕の空腹は増長した。猫が炊き立ての白ご飯のように見えてきた。
こちらを睨むように見つめる金色の目玉はお豆さんみたいだったし、ピンク色の耳と鼻は鮭フレークか鱈子のようだ。
全身がおいしそうな猫は、黄色いカーテンの隅で震えるばかりで、ちっとも動く気配を見せない。とても野生では生きていけるとは思えないほどの臆病さだった。どうせ長くは生きられまい。僕が食べて正解だ。
僕は自分の優位を認識しているため、猫に飛びついたりはしなかった。あくまで自然ににじり寄る。洗濯物を取り込みたいから窓のほうへ行くのだと嘘をつくように、口笛さえ吹いてみる。
猫は目の上に皺を寄せて、怪訝そうに僕を見た。この小さな生き物にも、そうした微妙な切り替えがあることに少し感心する。場所を移動するか、このまま様子見をするかを考えている真面目な顔に反して、背中のお醤油のしみが間抜けといえば間抜けで、自分がやったことながら奇妙な哀愁さえ感じた。
猫の真正面に立つ。僕の影に包まれると、猫の黒い瞳孔はバカに大きくなって、反射板のように平べったく光った。白い光がギラギラという音を立てることを、その時始めて知った。その光が猫の最大の抵抗のようでいじましい。
しかし、逃がしてやる気はなかった。もうお醤油だって掛かっているのだ。僕が逃がしたところでカラスに突付かれて終わりだろう。僕だってこの猫を逃したら、この先いつこんなご馳走にありつけるか分からない。
いよいよだ。こちらを見上げる猫を見て息を吐く。既にお醤油は乾いて、猫の毛を不自然に逆立てていた。丸まった背中が激しく上下しており、あちらの緊張も手に取るように分かった。
猫に向かって手を伸ばす。その瞬間だった。僕の横を、白いものがびゅんと抜けた。振動とお醤油の香りで、僕は何が起きたか少し遅れて理解する。
早い。
信じられなかった。つい先ほど、カーテンまで走った時のスピードとはわけが違う。僕が気付いたときには、目の前に猫の姿はなく、僕の両手が空しく伸ばされているだけだった。右手にはまだ醤油さしを握っており、その慢心が敗因のように思われた。
少し屈んだままの体制で、首だけ後ろを向くと、ちょうど対角線上にあるクローゼットの前にそいつはいた。全身の毛が逆立っており、お醤油の掛かった部分はカピカピして特に悪魔めいていた。比較的明るいところに出たためか、瞳孔は先ほどとは打って変わって細く縦に伸びきっていて、表情が人とのそれとはかけ離れている。
まっすぐ床に突き立った四本の足の筋肉が張っていて、今にも駆け出さんとしているのが見て取れた。一筋縄ではいきそうにない。
僕はスポーツ選手がライバルと対峙した時のように、厳粛な気持ちで猫へ向き直った。屈みかけた腰をしゃんと伸ばし、少し歩くと、部屋の中間、壁際に寄せられたちゃぶ台に醤油さしを置く。硬い音が、部屋に響いた。
「ギャッ」
猫は、獣の声で一声鳴いた後、四肢の形をそのままに垂直に飛び上がった。それをゴング代わりに、僕は猫に向かって駆け出す。駆けると言っても、狭い部屋だ。小またでほんの二三歩で猫の居る位置にたどり着く。しかし、それだけではお話にならなかった。猫は先ほどと同じかそれ以上の速度で、いとも簡単に僕の横をすり抜けて行った。
僕も負けていられないとすぐさま猫を向き直るが、その時点で猫は動き始めていた。狂ったような足音が、部屋中を駆け回る。
ここが壁の薄いアパートの二階だということには、もはや構っていられなかった。幸い角部屋で、隣の部屋は空いている。下の住民には少しだけ我慢してもらおう。
僕は猫に習って遠慮なしに足音を響かせて、滑り込んでは立ち上がり、躓いては踏ん張り、猫を追いかける。不思議なもので、八畳もない部屋がそのときはどんなグラウンドよりも広かった。部屋の隅から隅まで余すところなく使った追いかけっこはどこか新鮮で、僕はスーツがくしゃくしゃになるのも構わず、時々笑いさえする。時々目に入る猫の顔はとても険しく、呼吸が荒いせいで体が伸びたり縮んだりして、僕の口には唾液があふれた。
何度も何度も、部屋の角と角。上と下。
触れるところまではいくのだが、どうしてもその体を掴み取ることが出来ない。油でも塗ったように艶やかな毛のせいか、柔らかな肉のせいか、はたまた僕の躊躇のせいか。その小さな体は僕の両手から滑り落ちるように抜け出てしまう。その後掌に残る白い毛が儚くて、僕はとうとう大声で笑い出した。惜しい。おかしい。おいしい。ぎゃははははは!
身を捩って、ちゃぶ台の下へ逃げ込んだ猫に向かって飛び掛った。僕の体は床に叩きつけられて、今日一番の大きな音が爆発する。床から、下の階の住民の甲高い怒鳴り声が振動になって伝わった。
猫に向かって鋭く右手を突き出したときだった。僕の右手は疲労のためか正確なコントロールを失って、ちゃぶ台の足に強か打ちつけられた。骨と木製の足がバチンとぶつかり、戦い破れた右手には痺れるような、痛みとも悲しみともつかない空しさが散らばった。折れた。
ちゃぶ台のほうにも衝撃があったが、壊すには至らず、ただ位置が弾かれたようにずれる。それに伴って、上に乗っていたものは慣性の法則に則って僕の上へ落下した。具体的に言うと、醤油さしだ。
バリン、という音と共に、重厚感のある、青いガラスで出来た醤油さしは、一片の容赦なく僕の頭にぶつかって砕けた。僕の頭も少し砕けた。額を伝い落ちる液体がお醤油か血かは分からなかったが、僕の脳みそにスーッと静かで冷たい風が吹き込んでいるのだからまず間違いない。絆創膏に閉じ込められていたぐじゅぐじゅの傷口に、乾いた風を当てたときと同じ爽快感。僕の頭が、清らかになっていく。
それと反比例するように、体からは力が抜けていった。脳みそと一緒に、体温も冷まされているのだろう。熱が出たときに額に当てる布と同じことだ。頭が冷えれば全身冷えて当然である。ただ、ちゃぶ台にぶつかった右手だけが嫌というほど熱を持っており、ドクン、ドクン、という音もそこから生まれている。心臓の位置は思ったよりも動きやすいらしい。右手が僕の脳みそや胴体を捨て、独り立ちしていく奇妙な妄想が一瞬で頭を駆け巡った。それはそれでいいかもしれない。
しかし、右手だけになってしまうと、猫も食べられないしお醤油の匂いも嗅げない。それどころか感情さえ失われてしまうと考えると、少しかわいそうな気もした。
「にゃアーん」
猫の声が、突然僕の首の後ろから飛び出して、ひゃあ、と情けない声を上げる。猫の声は追いかけっこの時の、プルルル、という音とは違い、穏やかで典型的な猫の鳴き声だった。とても高くて、澄んだ声で、この猫は本当に完璧なんだと僕は誰かに自慢したくなってしまう。
猫はなぜか、僕の後頭部から顔のほうへ回りこんで、僕の顔を見つめた。黒々とした瞳孔が真ん丸くなって、潤んでいる。水晶体の作りがとてもよく分かるので、この目は食べないで取っておきたいなと思った。
猫は僕の口元にキスでもするように、そうっと顔を寄せた。といっても本当にキスをするわけではない。どうやら僕の口腔の匂いが気になるらしく、スンスン鼻を鳴らす音がうるさいくらいに鳴っている。しなやかな体の割には騒がしい生き物だ。それに、どうも臭い。お醤油の匂いに混じって、何か不快なにおいがツンと纏わっている。綺麗な猫といっても、所詮野生ということなのだろうか。
何の匂いなのか、僕は気になって猫の真似をして鼻を鳴らす。間違いなく、嗅いだことのある匂いだった。猫と一緒に鼻を動かしていると、何度か濡れた鼻が僕の口や頬にぶつかった。鼻水か激しい運動のために掻いた汗か判然とせず、少し不快だ。
そして僕は、更に不快なことに思い至る。これはゲロの匂いだ。あの時、路地裏で踏みつけたゲロの匂い。ヒヤッとした鼻が、あの時僕の靴にも接触していたのだろう。
気が付いた瞬間、ただでさえ冷え切った体から血の気が引く。地べたに落ちていた、誰のものとも知れないゲロを口や肌に摺り付けられたのだ。
お醤油の匂いとゲロの匂いが、猫から体から喉元から競り上がってくる。完全に思考が停止していた。気付いたときには胃液がたらたら口からはみ出していた。久々に味わう胃酸は僕の舌をひりひりと焼き、刺さるようなすっぱさが嫌な懐かしさを持っている。しかし頭に開いた穴のせいか、大きく咳き込むことも嘔吐くことも出来ず、僕はただ不機嫌に呻く。舌をみっともないくらいに出して、何とか口の中の不快なものを逃そうとすると、猫を舐めそうになり、そのイメージでまた少し吐いた。
猫はしばらく目を丸くして立ちすくんでいたが、やがて僕の足の方へ向かって歩いていった。倒れている僕の足の、半ばまでしかないじゅうたんを超え、フローリングにたどり着くと、肉球が付くたびペタペタ陽気な音が鳴るので、猫がどこに居るのか見なくても分かった。
猫は僕の足元へ付くと、少しだけ匂いを嗅いだ。そしてまた少し変な声を出して、足元のフローリングをバタバタ駆ける。階下の住人が、一声叫び、床が二重に振動した。恐ろしく苛立った声色で伝えられた文句から察するに、そろそろ部屋に来るかもしれない。このような惨状を見せるのは少々気の毒な気がする。
猫は振動に驚いたのか、今度は僕の背中を通り、後頭部の辺りで再び動きを止めた。ちょうど、お醤油と血が混じっている、僕の穴の辺りだ。
僕は、猫の気配が変わったことを姿も見ずに知る。どんな顔をしているのかが分からないのは残念だが、この際仕方がない。僕はこの後に起きることがなんとなく分かった。
スンスン、という音が頭の後ろで響いた。穴の周りの髪の毛が猫の鼻息でそよそよと揺れる感覚。醤油さしの破片で、猫の肉球が傷ついていないか、ふと気になった。長靴を履いた猫がいかに賢かったのか、出来ることならもう一度読み直してみたいと思ったが、そんな日が来るとはなかなか思えない。
猫は僕の穴に、鼻を突っ込んだ。自分では穴の規模も猫の鼻先が全て入っているかも分からなかったが、先ほどまで吹き込んでいた風とは全く異質の、湿った息が僕の脳みそに直に当たっているのは確かだ。そして、脳みそに痛覚はないという話を聞いたことがあるが、まるっきり嘘だったと知る。
猫は鼻を鳴らしながら、僕の脳みその表面に湿った鼻をぐいぐいと押し付けた。二つの柔らかい肉が触れ合い、どちらともなくへこんでいる。あまりに近いので、時々猫の鼻は鼻をかむ時のような音を立てた。
それだけならまだしも、猫は脳みそが気に入ったようで、ついに舌を出した。ザラザラとした、短くて薄い舌だ。ピンク色の肉は、ちょっとの戸惑いもなく僕の脳みそへ触れ、入り込んだ。
ジャリッ、ザリ、ヂコヂコ。ねこねこ。
およそ脳みそから出そうにない音が、耳よりも内側から鳴っている。僕の脳みそが、あの小さな舌に少しずつ、少しずつ削られていく。もう嘔吐する気力さえなかった。むしろ、そのまま噛み付いてくれはしないか、と思う。もともと食べるはずの猫に食べられるのだったら、それはとても順当な話だ。僕が食べても猫が食べても、残る物事には大差ない。どちらにもお醤油が掛かっているので、きっとおいしく食べられるだろう。
猫が脳みそのぷりぷりとした部分を執拗に舐めこすったため、鑢の要領で外皮が剥がれたのか、新たな液状のものが飛び出して、僕の後頭部を伝う。これ幸いと、猫は噛み付くのではなく僕の穴の中にその身をねじ込んできた。頭蓋骨に前足の柔らかな肉球が引っかかって、猫の頭部は穴へ吸い込まれていく。僕が思っていたよりはるかに穴は大きかったようだ。それとも猫が小さいのだろうか。体が柔らかなので、小さな穴にも入れるのかもしれない。
猫は僕の首や頭を後ろ足で蹴り飛ばし、その反動で身を捩って僕の脳みそを掘り進んだ。勢いのついた前足が脳みそを下から押し上げるように入ったとき、僕の眼球は視神経に引っ張られてパコッと眼孔の奥に引っ込んだ。頭蓋骨の内側に入り込んでしまったようで、もう視界は真っ暗だ。更にその後でねじ込まれてくる胴体のせいで脳みそに食い込んでしまい、もう取り返しはつきそうになかった。
胴体をほとんどしまい終わった猫は、締めとばかりに勢いよく、水泳のバタ足のように後ろ足で空を掻きながら、脳みそを泳いでいった。脳みそがかき回されるたび、穴からは液が漏れ、僕の背中を濡らしている。全て掻きだしたところで全身が入るのか懐疑的だったものの、どうやら無事入ったようだ。ただ、筋力が足りなかったのか、白い尻尾だけがひょろりと仕舞い忘れたまま穴から伸びており、そいつが元気よく僕の後頭部や首、背中をはたいている。少しくすぐったいが、邪魔とは感じなかった。
猫はしばらく脳みその中でごそごそと蠢いていたが、やがて落ち着く姿勢を見つけたのか「にゃあん」とくぐもった声で鳴くと、眠ってしまった。
とても暖かい。
脳みそを猫に占拠されたにも拘らず、死ぬ事も、思考を失うこともなかった僕は、拍子抜けしながら、もう体を動かせることに気付く。猫が入っているためか、僕の後頭部の穴からは何も出てこない。いい栓が見つかったものだ。頭部の痛みもない。
ただ、依然として右手はひどく痛む。それに眼球が奥に入り込んでしまったので、どうなっているのかも詳しくは分からなかった。そこから生み出される全身を駆け巡る鼓動だけは、鮮明に感じることが出来る。
恐らく、心臓と同じくらい、心や思考というものも動きやすいのだろう。それなら右手が独り立ちしようとも寂しくないな、と僕は安心した。穴から生えている尻尾も、連動するように左右に柔く振れた。
体を起こすと、ガラスの破片がサラサラと僕の体から降り落ちて、お醤油の匂いがこれでもかとばかりに香った。血と脳みそとちょっとのゲロの匂いの中で、それでも芳しく感じるのだからお醤油は偉大だ。
僕は、その時気が付いた。とてもお腹が減っている。
猫とひとつになることで頭の中は満たされたが、それではお腹は膨れない。庇うように膝の上に乗っている右手には感じられない、ある感触が左手を包んでいた。
にちゃにちゃとした、僕の脳みそ。おいしいだろうか。
少しだけ左手で掬って、スンスンと匂いを嗅いだ。少々血なまぐさいが、その中にひとつ、馴染み深い香りがある。味噌の香りだ。海栗や蟹味噌と同じように、はたまた本物の味噌のように、使えそうな気がした。
僕はしばらく座り込んで、この調味料を塗ることの出来る土台を考え始めた。目の見えない今、僕が外へ何かを捕まえに行くことはできない。デリバリーも電話番号が分からないので頼むことは出来ない。今すぐに、この場に呼び出せる、おいしいもの。
ひとつだけ思いついた。
もう一度、身を床に横たえて、耳を床にぴったりと着ける。頬に少しガラスが刺さったが、もうあまり気にはならなかった。
トクトクと右手の鼓動が聞こえる。その下。階下の住人。声のよく響く、血の通った生き物。色の白い女性ではなかったか? 少なくとも、先ほど聞こえたしょっぱい怒鳴り声は、確かに女性のものだった。
白くて柔い、女の肌を思い浮かべる。張りのある肌に脳みそを摩り付けて食べたら、どんなにおいしいだろうか。
階下の住人の顔は思い出せなかった。しかしどうせ僕にはもう目が見えないのだ。それに、本当に空腹だった。
僕は静かに立ち上がると、片足をわざとらしいほどに持ち上げる。後頭部の尻尾が、ピンと立った。
「にゃああご」
大きく息を吐いて、吸った。
さしすせそは料理の基本です。