第七章
六日の午後に鳥島が『懐古堂』に立ち寄り、桐原森彦は警察に連行される途中で逃亡したと教えてくれた。四宮本家の協力のもと、警察が行方を捜索中だと言う。
茉莉花はお茶を出しながら、まあ、と眉間に皺を寄せた。
「せっかくあんたが捕まえてくれたのに申し訳ない。‥実はね、俺も偶然にもちょっと引っかかりがあって、被害者の娘さんたちと桐原義人について探っていたんだ。」
鳥島は家出して戻ってきたあとに別人のようになっていた娘たちが、元に戻って、桐原に拘束されていたと証言したのだと説明してくれた。
「あの人は、彼女たちの霊力が目当てだったんです。自分の力に組みこんで使っていました。‥‥桐原義人さんはどうなりましたか?」
「病院に戻ったよ。無理に退院させられていたんだ。残念ながらあとひと月だと医者は言ってたが‥。まあ、死ぬ前にほんとうの息子さんと和解できそうだからよかった。」
「ほんとうの息子さん?」
「うん。離婚して生き別れていた息子を、ちょうど依頼を受けて探しててね。ま、探すまでもなくずっと同じ場所に住んでいたんだが、それさえもわからなくされていたらしいよ。養子縁組の件を無効にするのはちょっと面倒そうだけど。」
そう、と茉莉花は再び眉をしかめた。
「‥大人しく警察に連行されたほうがよかったのに‥。たぶん、行方は見つからないと思います。桐原さんの財産はほんとうの息子さんのものですよ。」
「見つからないって‥なぜ?」
「あまり考えたくないですけど‥‥。もしかしたら夜鴉一族に処分されたかもしれません。掟を破った能力者は、四宮の保護外となりますので。」
茉莉花は昨日、若頭領が桐原邸の上空にいたことを知っている。茉莉花を助けてくれるつもりで待機していたのだということも。
「そりゃ‥。自業自得とはいえ‥気の毒だな。」
鳥島の口もとに浮かんだ苦笑はやや引きつっていた。想像してしまったらしい。
「お茶、煎れなおしますね。」
立ち上がりかけた茉莉花を制して、鳥島は自分が腰を上げた。まだ仕事の途中だったようだ。
店の戸口まで見送りに出ると、鳥島は急に振り返った。
「そうだ‥。三日の晩、偶然咲乃さんに会ってね‥。」
鳥島の話はうすうす予想していた内容だった。咲乃に気をつけてやってほしいと言う彼の依頼にうなずいたものの、咲乃の気持ちと情況を思うと胸が痛くなる。
店に戻ってから茉莉花は咲乃にメールをしてみた。
夕ご飯を食べに来ないかという誘いだ。しかし咲乃からの返信は、二時間経っても三時間経ってもこなかった。大丈夫だろうか?
黒鬼は鬼人界に呼ばれたのだ。それは疑う余地がない。だが若頭領が教えにきてくれないということは、まだ最終決定ではないのだろう、と思う。
七時過ぎにやっと、咲乃から返信があった。
今日の午後は大学でガイダンスがあったので、電源を切っていたのだと言う。茉莉花は心の底から安堵した。
「よかったら今からでも来ませんか。」
再度メールを送ってみる。咲乃は既に夕食をすませたから、明日にでもまた誘ってほしいと返してきた。では明日、と送って携帯をテーブルに置いた。
ちょうどそこへ玲が帰ってきた気配がした。二階から留守番をしていたノワールが、階段を喜んで跳ね下りてくる音がする。
茉莉花は既に支度を終えた夕食を温め直そうと、台所へ向かった。
そこでぎょっとして立ち止まった。
台所から裏玄関へ続く廊下に、見知らぬ男が立ってこちらをじっと見ていた。
紅の髪にダークパープルの瞳、アイラインの入った目元にはきらきらした星形のスパンコールがついている。純白のスーツにブルーの縦縞のシャツ、黒のリボンタイを締めて、瞳と同じ色の口紅。胸元にはシルクのハンカチーフが覗いていた。
「‥‥堂上さん? また変な格好して‥。もしかして新しい名前なの?」
「君にはバレちゃうか。‥気配でわかる?」
いつもより低めの声だ。曖昧な感じで耳に余韻が残る。こういうのを官能的というのだろうか、ちょっとどきどきする。
「そうね‥。堂上さんだと思えばわかる、という程度。道で通り過ぎたらわからないでしょうね。‥いつも思うのだけれど、どうして気配まで変えられるのかしら?」
玲であって玲でない男はさあ、と肩を竦め、満足げに茉莉花を上目遣いで見やった。
「君がやっとわかる程度なら、成功と言えるな。‥ぼくの名前は吉川聖。これが名刺。」
渡された名刺には、株式会社アンジュ、エージェント吉川聖と記されている。
「‥今度は何を始めるつもりなの?」
「ふふ。まだ内緒。準備中だからね。」
彼はにこにこっと楽しそうに頬笑んだ。まるでいたずらを考えついた子どもみたいだ。
「もう夕飯はできているんだけど‥。堂上さんに戻るの、それとも吉川さんでご飯にするの?」
「茉莉花の好きなほうで。」
吉川の声で言われたせいか、一瞬不覚にもびくん、と反応してしまった。また面白がらせてしまう。茉莉花は非常な努力をして、むくむくとこみあげた怒りを抑えこんだ。
「じゃあ、堂上さんに戻って。この家には吉川さんは全然似合わないから。」
ふふと怪しげな微笑を浮かべながら、了解、と答えて彼は二階へ軽やかに階段を上っていった。
ほんとうに面倒くさい人だ、とつぶやいて、茉莉花は外しかけたラップを元に戻した。時間がかかるだろうからもう少し後でいい。
それから先ほどまでいた弐ノ蔵に戻って、鬼人に関する記述をまた探し始めた。
鬼人の記録は中世まではけっこうあるのだが、近世以降はほとんど見当たらない。ちょうど江戸に政治の中心が移る少し前に四宮本家が能力者の総元締めとなり、夜鴉一族との壮絶な闘いの末に休戦協定が交わされたあたりから、ぷっつりと記録に出てこなくなっている。
―――江戸時代以降、京都の記録が激減しているせいかしら? あちらにはまだ、鬼人の子孫がいたかもしれないし‥。
茉莉花は首をかしげた。
古代から『鬼』と鬼人は混同されている場合が多い。『鬼』は平安時代までは怨霊など、闇に住まう悪しき怨念全般を呼んでいたふしがある。古代中国では鬼は死人を意味していたというから、それで混同されたのだろう。
現代の四宮本家の分類によれば、悪霊怨霊は死霊とか幽霊の類で、闇から生まれるモノはすべからく物の怪だ。封じる方法が異なるので、まったくの別物として扱われている。従って古い呼び方としての『鬼』は、祭りなどに伴う伝承や民俗学、文学などの学問上にのみ残存し、現代の霊能力者の認識には『鬼』という曖昧なモノは存在しない。
それに比べ、鬼人というのは明確に異界の存在だ。
たとえば桃太郎伝説の鬼ヶ島の鬼たちは鬼人、大江山の酒呑童子は鬼人の落胤などといったように、異能を持つ超人という認識で記録されている。決して曖昧な存在ではない。現に能力者の中には、先祖は鬼人だったという家伝を持つ者も少なくなかった。
まだ調べ始めたばかりなので何とも言えないけれど、茉莉花の直感では鬼人界はずっと以前には人間界ともっと行き来があったのではないかと思う。だんだんと接点が失われていって、今ではすっかり途絶えてしまった。そんなふうに感じる。
明日は図書館へ行って、他に参考資料になるものはないか探してみよう。茉莉花はそう決めて、弐ノ蔵を閉めた。
四宮本家には何か記録が残っていないだろうか、とふと思いつく。
本屋敷は消失してしまったが他にも蔵はあるはずだ。本家に直接関わりのない記録ならばむしろ、別の場所で保管されて残っている可能性が高い。
しかし瑞穂に見せてほしいと頼むのは何となく気が退けた。
台所に戻ったところで、玲が浴室から出る気配がした。
再び夕食の温め直しにかかる。
四月の夜は時にぐんと冷えこむ。すっかり火の気の失せた台所は、古い家だけに床から深々と冷える。茉莉花はストーブを点けた。
―――瑞穂さんならきっと、堂上さんを危険な立場に立たせるような選択はしないわね。
唐突にそんな考えが浮かんだ。
昨秋、台風の中で、彼女は玲が物の怪に喰われたと思いこんでひどく取り乱していた。
恋をすると彼女ほど冷静で頭の良い人でもあんなに取り乱すものなのか。強く印象に残っている。
あの時は黒鬼が抑えてくれたし、龍笛に残る念の影響だとも説明してくれた。だがそもそも龍笛に残る念というのがあの四宮泉のものだ、と言うのだから不思議だ。茉莉花には感覚的に理解できない。
感情に動かされて何もかも見えなくなる、冷静に考えられなくなる。そういった経験はもちろんある―――認めたくないが大いにある。けれどもそれは、良かれと思ったのに判断を間違えていたというだけで、誰かを犠牲にしてでもすべてを破壊してでも貫きたい個人的感情、という類のものではない。そもそも茉莉花がそんな感情を持てばそれだけで危険だ。
白崎健吾は自分が周囲に危険な存在になるのならば、死んだほうがいいと言った。
彼の恐怖感はよく理解できる。茉莉花自身ももしも自分が暴走して、無制御状態の霊力を歪んだ目的のために振り回すような事態が起きたとしたら―――迷わず誰かに滅してほしいと心のどこかで思っている。
深層部分に根を張るその恐怖は、このまま人であるべきではないのかもしれないという切実な想いにたどりつく。若頭領が引き受けてくれると言うのだから、夜鴉一族に嫁にいくのも賢明な選択なのだろう。これ以上玲を危険にさらす前に。
「何、深刻な顔してるの‥。また考えごと?」
いつのまに入ってきたのか、玲が隣に立っていた。反射的に振り向くと、ちゃんと玲に戻っている。
「いえ‥。何でもないの。」
「でも‥泣いてるじゃない。」
え、と慌てて目蓋を押さえてみるが、別に濡れていない。玲はにやっとした。
「またからかったのね‥。もう!」
「ごめん。でもほんとに深刻な顔してたよ。何かあった?」
「‥‥咲乃さんのことがちょっと心配で‥。」
茉莉花は黒鬼が人間界から姿を消しているみたいだと話した。
ふうん、と玲は微かに苛立たしげな表情を浮かべた。
「黒鬼はさ。だいたいが傲慢なんだよ。待ってろって言えば女は待ってると思ってるんだな。いつまでとも言わないなんてさ、どれだけ俺様なんだよ?」
「やけに‥‥怒るのね?」
「咲乃さんみたいな女性が泣くのがいちばん嫌なんだ。きっと誰もいないところでひっそり泣くんだよね‥。デートに誘って慰めてあげようかな?」
茉莉花はぎょっとした。
「ちょっと‥。これ以上敵を増やしてどうするの? 若さまと違って、煌夜さんは口を開く間もくれないと思うわ。」
怖いもの知らずの玲でもさすがにもっともだと思ったらしく、そうだな、とうなずいた。
「ま。このうえ黒鬼にまで恨まれたらちょっとやっかいだもんね。つい腹黒い手段に出ちゃいそうだけど、それで四宮の女性に総出で非難されるのは嫌だし‥。」
「腹黒い‥?」
「うん。たとえばね‥‥」
言いかけて、はたと口を噤み、にっと笑った。
「言わない。生真面目な君に本気で嫌われちゃうから。」
「つまり‥とっても非道な手口なのね。」
茉莉花は呆れた。同時に可笑しさがこみあげる。そうだった、いつだって玲は、茉莉花の考えの及ばない行動を取るのだから心配するだけ無駄なのだ。
「仕方ないじゃん? 夜鴉の頭領だとか鬼人だとか、そもそもハンディがありすぎなんだし‥。無力な一般人としてはさ、何をやっても許されると思うんだよね。」
ぶつぶつとつぶやきながら、夕食の膳の支度をごく自然に手伝ってくれる。
「そうね。それはほんと、そう思うけれど‥。」
「けれど?」
「自分からやっかいの種を背負いこむこともないと思うの。今までのは大半がわたしのせいだけど、咲乃さんに手を出すのだけはやめたほうがいいわ。」
ふふふ、と玲は楽しげに笑った。
「彼女はすごく好みだけどね。出さないよ、心配しないで、今度の吉川聖は胡散臭いけど女性関係はまったくないってキャラで考えてるから。‥どんな時ももう君一人だけだよ、茉莉花。」
茉莉花は髪に触れてきた手を思い切り振り払った。
「‥‥だから。人の名前で遊ばないで‥!」
「呼び始めたらすごくしっくりするんだもん。姫さまってのも気に入ってたけどね。」
ぴょんと手の届かない微妙な距離へ跳び退いて、彼は再び楽しそうな顔をする。
聞こえよがしに諦めの吐息を一つついた後、ご飯にしましょう、と茉莉花は仄かな笑みを浮かべた。
その晩遅く、茉莉花は誰かが怯えている気配で目を覚ました。
布団から出て時計を確認すると、真夜中の一時を過ぎたところだ。
がたがたと震えている気配は店のほうで感じる。燭台を手にして寝間を出て、店を覗きこむと、土間の真ん中でうずくまって頭を抱えている人影が目に入った。
「誰‥?」
びくっとして振り向いた顔は、茉莉花を見てひどく驚いたようだった。
「‥‥ここは? 俺はどうして‥?」
おずおずと立ち上がり、周囲を見回している。
茉莉花は蝋燭を消し、電灯をつけて土間に下りた。
震えながら立っている人影は白崎健吾だった。恐らく何かに怯えて茉莉花の与えた護符をつかんだのだろうが、護符の護りが発動したということは、彼の身が実際に危険だったということだ。
ともかく座敷へ上がるよう声をかけて、彼が裸足なのに気づいた。それどころか身につけているのはTシャツ一枚と下着だけだ。青ざめて震えているのは寒いせいもあるのではとちらりと思い、ちょうど現れた黒達磨に納戸から祖父の袷を取ってくるよう頼んだ。
「何の騒ぎ‥?」
桜に起こされたらしく、二階から下りてきた玲は、健吾を見て一瞬立ち竦んだ。
「まだわからないの。でも護符が発動したみたい。」
茉莉花は健吾に着物を着せて帯をきゅっと締めてやる。
健吾はいくらか落ち着いてきたようで、すみません、と頭を下げた。
漆黒の瞳には涙がにじんで、顔色は蒼白だった。
何だかとてもかわいそうになった茉莉花は、熱いお茶と熱いおしぼりを用意してあげるよう黒達磨に頼んで、自分は手を引いて座布団に座らせてやった。何と言ってもまだ生まれて一年経っていないのだから、幼児のようなものだ。
「やれやれ‥。まるでママだね。」
皮肉っぽい声でつぶやいて、玲は健吾に近づいた。
「君ってさ。母性本能をくすぐるタイプらしいよ。」
そう言いながら隣に片膝をつく。健吾はおずおずと振り返ったと思うと、いきなり彼に抱きついた。そして再びふるふると震え出した。
「おいおい‥。今度は俺にさわっても大丈夫なのか?」
肩に顔を埋めて、ただうなずいている。
「主人だから‥。」
玲は黙って見下ろしていたが、少し間をおいて健吾の背中を軽く撫でた。
不安定に揺れ動いていた健吾の妖気が少しずつ安定し始めるのを感じて、茉莉花はほっとした。
「白崎さん‥。何があったのか、話せそう?」
健吾はびくっとして、怯えた目で茉莉花を見返した。それから不安げな、今にも泣き出しそうな視線を玲に向ける。
「心配するなよ。何を聞いても見捨てたりしないから。‥‥白炎か?」
「わ‥わかりません。俺は‥寝ていたはずなんです、なのに気づいたら‥。女性の部屋にいて‥。」
「女性の?」
「はい‥。知らない人です。ベッドから‥俺を、ものすごく怖そうに見つめて‥がたがた震えて泣いていました。俺‥俺は‥何かしちゃったのかも‥。どうしたらいいのか‥。」
健吾は頭を抱えて、すすり泣いた。
「それで怖くなって、護符をつかんだのね?」
「たぶん‥。いつつかんだのかは‥はっきりしないけど‥。茉莉花さんに声をかけられた時には‥つかんでました‥。」
ふうん、と玲は考えこんだ。
「普通に考えると婦女暴行か暴行未遂って感じだな。下着しか着てないし、裸足だし。その女性は美人だった?」
「きれいな人みたいでしたけど‥。暗かったし、よくわかりません。でも初めて会ったのに‥そんな真似をしちゃったんでしょうか‥。どうしよう?」
「そうだとしたら、同じ顔してるんだから俺もヤバいよ。‥とにかく、その女性が誰なのか突きとめなきゃね。どうするかはそれから考えよう。」
「‥どうやって突きとめるんですか?」
健吾は気弱そうに、恐る恐る顔を上げた。
「どうやってって‥。君が思い出すしかないだろ? 何でもいいからよく思い出して。その女性は何か言わなかったか? どこで会ったとか、ヒントになりそうなこと。」
「‥‥何も。すすり泣いていただけで‥。」
健吾はうつむいた。
茉莉花は玲の肘をつっつく。
「‥‥あの。誰に何をしたかの前に、どうして寝ている間に知らない場所にいたか、が重要なのでは‥? 意識を乗っ取られていたのかもしれないでしょう?」
「だけどさ。それはゆっくり考えてもいいんじゃない? 起きてれば乗っ取られる心配なさそうだし、乗っ取ったなら十中八九白炎の仕業とわかりきってるんだから。‥それに比べて誰に何をしたかは切実だよ。向こうが健吾を知ってたら訴えられるのは健吾だけど、俺を知ってる人だったら俺が訴えられるんだからね。不法侵入だけか婦女暴行かで、示談金の額も変わるし‥。」
「‥前にも訴えられた経験があるみたいね。」
玲はにっこり笑って、ないよ、と答えた。非常に―――胡散臭い。
茉莉花は冷ややかな目で見返した。
「‥白炎が見知らぬ女性に暴行するためだけに、はるばる鬼人界から妖力をとばしたなんて考えられない。あるいは単にあなたに嫌がらせするため、とでも? ‥‥それよりその女性は白炎の知っている女性だと思うのが自然じゃないのかしら。」
「ああ‥。なるほどね。‥で、君の考えでは誰?」
「‥‥咲乃さんだと思う。煌夜さんの行き先が鬼人界なら、それを白炎が知っていても不思議ではないから。留守なのを知っていて‥それで‥。」
茉莉花は眉をしかめて、口を噤んだ。きっと心を苛むような言葉を言いに来たのに違いないと思う。白炎は咲乃を手に入れたいとまだ思っているのだろう。
「え? すごくヤバいじゃん、それ。黒鬼が留守なのを知っていて、俺が夜這いをかけたみたいに誤解されたら‥。」
玲は健吾を振り返り、髪型とか女性の特徴を確認し始めた。健吾の説明する内容によるとどうやら咲乃で間違いなさそうだ。
「あのね‥。咲乃さんなら、来たのが白炎だってすぐにわかるわ。ややこしいから婦女暴行疑惑は頭から消してしまって。」
茉莉花は呆れ果てて、とりあえず真夜中ではあるが咲乃にメールを送った。
白炎は予想どおりだったことに満足していた。
他の四宮の女に比べて咲乃は心をガードする訓練ができていないから、窓の妖力を利用して夢を繋げ、心の中に入りこむのは雑作もなかった。
窓が案外と早く自我を取り戻したのは少々誤算だった。
白炎としては咲乃を苛めるくらい面白くて有益なことはないのだが、当分は我慢するしかあるまい。窓が完全自立して、白炎を拒否したら元も子もない。気づかれないよう、髪の毛一本ほどの霊力を使って窓の体験を一緒に味わう楽しみが失われたら、退屈極まりない囚人生活しか残らないのだから。
できれば咲乃の近くに窓を貼りつけておければ、この牢を脱出するくらいの霊力はたやすく溜まるのだが、窓とは女の好みが決定的に違うから仕方がない。
それでもだいたいにおいて窓の状況は上出来以上といっていい。特にあの男と再契約が成立したとは驚くほどの幸運だ。あっちが主人なのはやや面白くないが、今はそれも我慢しよう。窓の存在―――それも白炎の分身としての存在が、人間界で安定するための主人としてはあの男が最良の選択であって、あのまま四宮花穂の霊力で安定していくと数年後には窓は白炎とは独立した単なる物の怪になってしまうだろう。それはもっと面白くない状況だ。
―――まあ頃合いを見て、主人どのとはじっくり話をしようじゃないか‥。その時あいつが驚くのか驚かないのか、それだけでも十分面白い。
白炎はほくそ笑んだ。
咲乃はベッドで茫然とたたずんでいた。
今の男は―――何だったのだろう? 幻影だろうか。一瞬で消えた。
咲乃は怖い夢を見て目を覚まし、起き上がろうとした時に男が立っているのを見つけたのだ。夢の中の恐怖が現実となって全身にこみあげ、声も出せなかった。
雪のように白い髪、冷たい微笑。見忘れるはずもない、あれは白鬼の人間形で白田という男の顔だった。なぜ彼がいたのだろう―――戻ってきたはずはないのに。
夢の中に現れたのも彼だった。久しぶり、と言って冷たい嘲笑を浮かべ、じっとこちらを見ていた。
―――黒鬼は戻らないよ。まもなくおまえのことは忘れちまうだろうな。
戻るわ、と咲乃は答えた。約束したのだから必ず戻ると。煌夜は決して約束を破ったりはしない。
白田は憐れむような目をして咲乃を見た。
―――約束を覚えていられたら守るだろう。だが約束どころか、人間界での記憶をすべてきれいに忘れちまったら、守るもへったくれもねえよ。そうだろ?
―――どういう意味なのかわからないわ。
咲乃は夢でそう言い返したけれど、ほんとうはわかっている。記憶が失われれば約束など意味がない。そもそも咲乃と出会ったことさえ忘れてしまうならば、戻るという言葉自体に意味がない。更に煌夜が忘れてしまうのならば―――咲乃の存在にも意味はない。
しかし白田―――白炎の言葉になど惑わされてはならないと、咲乃は必死に自分に言い聞かせた。動揺させようとして咲乃がいちばん聞きたくない言葉を聞かせるのが白炎のやり方なのだから。いやこの夢も白炎の仕業なんかではなくて、咲乃の心の弱さが生んだ幻にすぎないのかも。
―――幻じゃないよ、咲乃。でも心配するなよ。まだ帰ってきたわけじゃない、喋るくらいしかできない影だ。‥俺は鬼人界にいる。だからね、黒鬼が何をしているのか知ってるのさ。それでかわいそうなおまえに知らせてやろうと思ったわけ。
心を見透かしたように白炎はすっと近づいて、咲乃の髪に触れた。
―――かわいそうに‥。捨てられる女の気持ちってどんな感じ? 地面に穴が開いて果てしなく落ちこんでいく感じかな? 素直に泣けよ。胸を貸してやろうか?
あっちへ行って、放っておいて、と叫んで、目が覚めた。そうしたら目の前に白炎が立っていて、一瞬でかき消えたのだ。
やがて恐怖が薄れゆくとともに涙があふれてきた。ひとりぼっちに戻ってしまったという実感がどっと胸に押しよせる。煌夜に会う前の、誰一人気に留めてくれる人のいない、いてもいなくてもどうでもいい咲乃へ。
その時、テーブルに置いた携帯からメールの着信音が鳴った。
咲乃の返信を見て険悪な顔になった茉莉花は、真夜中なのに咲乃の部屋へ行く支度を始めた。
「‥‥よろしくない状況?」
襖ごしに玲が訊ねると、ええ、と短く答える。
「‥‥こっちはどうする?」
やや間をおいて、セーターとジーンズを身につけて出てきた茉莉花はジャケットを手にして玲に向かい、あなたに任せるわ、と答えた。
「任せるって‥。ここに置いといて構わない?」
「大丈夫だと思う。あなたの近くにいると妖気が安定しているようだから、むしろできるだけ一緒にいてあげて。」
「ふうん‥。じゃ、一緒に行こうか。」
「え? あなたも行くの?」
驚いた茉莉花に、当然だろ、と玲は振り返った。
「こんな夜中に歩いていくつもりじゃないだろうね? いくら防御結界があるからって危ないよ。部屋には君一人で入ればいい。ドアの前で帰るから。」
言葉どおりに咲乃の部屋の前で茉莉花が気配を確認してから別れ、健吾の手を引いたまま路上に駐めた車に戻る。数分して、朝まで咲乃といるから先に帰ってほしいとメールが入ったので、車を発進させた。
「あの‥。俺は‥これからどうしたらいいんでしょう?」
ずっと黙ったままだった健吾が、意を決してという顔で口を開いた。
「そうだねえ‥。ま、なるべく俺の近くにいれば? そうだ、せっかく似た顔なんだしさ、俺の仕事を手伝う気はないかな?」
「え‥仕事って‥。」
「コンビニが好きなわけじゃないだろ? 花穂ちゃんとは週一くらいでデートの約束すればいいじゃん。」
健吾は赤くなってうつむき、いいえ、と手を振った。
「そんな‥デートだなんて‥。彼女はつき合ってる人がいるし‥俺なんか‥。」
「つき合ってる人? こないだ今はいないって言ってたけど‥?」
「いえ‥。内緒なんだと思います。夜鴉だから。」
「‥‥夜鴉?」
はい、と健吾はうつむいたままはっきり答えた。
「何度か、夜にデートしてるの見たし‥。花穂さんは人間じゃないとつき合っちゃいけないらしくて、知られるのはまずいって言ってたから。掟がどうとか、お姉さんにバレたら破門されるとか‥。そういう意味じゃ、俺がうろうろするのも迷惑なんだろうし。」
健吾は作り話ができるほど器用ではない。一方花穂は―――本気じゃないんだろう、と玲はあっさり切り捨てた。
「さっきの話ですけど‥。咲乃さんという方は大丈夫なんでしょうか‥?」
「うん。夢を見ただけらしい。でもこれではっきりした、推測だけじゃなくて君は白炎と関わりがある存在に間違いない。寝ている間に意識を乗っ取られたんだな。」
健吾は大きな溜息をつく。
その暗い顔をちらりと見やって、玲は慰めた。
「おい‥。また死にたいなんて考えてないだろうね? つまんないこと考えてる時間があったら生きる理由を探せよ。そうすれば白炎とは縁を切れるさ。」
「そうでしょうか‥。」
「そうだよ。‥だから俺と一緒に仕事をしよう。」
少しだけ健吾は微笑んで、玲を尊敬のまなざしで見上げた。
「俺が‥怖くないですか?」
「健吾は怖くないけど、白炎は怖い。だから出てこないように協力する。」
「‥‥ありがとうございます。俺‥何だか、すごく嬉しいです‥。」
玲は微笑み返した。
「疲れた顔してる。少し眠れば? とりあえず今日はまた、早朝勤務があるんだろう? 『懐古堂』に着いたら起こしてやるから。大丈夫、護符があるから何も起きないよ。」
「はい。‥‥主人。」
やがて健吾は安心しきった顔ですやすやと眠り始めた。
玲は彼の寝顔を冴えた瞳でつくづく眺め、わざと遠回りする道へ方向を変えた。車量の少ない夜の道をすいすいと走りながら、しばらくして低い声でつぶやく。
「‥‥出てこいよ、白炎。話をしないか?」
助手席がすうっと光り、寝ている健吾の髪が雪のように真っ白に変わった。
「よくわかったな、主人どの。霊力もないくせにおまえにはほんと、驚かされる。」
「すごく嫌だけどわかっちゃったんだ‥。おまけにあんたに主人って呼ばれるのは気分が悪いってのも。健吾は可愛いけどね。」
玲は苦笑した。
「ところであんた、何しに来たんだ? まだ咲乃さんに未練があるのか‥?」
「親切心だよ。俺は今、退屈で仕方がない。でも身動きできないし、こうして話すのもやっとってェ体たらくだ。おまえのせいだぜ?」
「自分の行動が招いた結果だろ。」
「ふふ。言ってくれるねェ。ま、恨み言はいいや。話の続きだが、黒鬼のガキがこっちへ来た。何のためだか知ってるか、主人どの?」
「知らない。嘘はなしで、教えてくれないか?」
「いいよ。嘘より事実のほうが今回の場合は面白いからね。黒鬼は鬼人界の次世代の統治者候補として呼ばれたんだ。俺の代わりにね。だから咲乃とはお別れってわけ。‥ずっと待ってたんじゃかわいそうだから、知らせてやろうと思ってね。」
「‥‥黒鬼の意志なのか?」
「何が?」
白炎は指を曲げたり伸ばしたりしている。
「咲乃さんと別れて統治者になるってこと。」
「ガキだからね。言いくるめられてるのさ。あいつはなぜ黒く生まれたのかが知りたいだけだ、なんて青臭いこと言ってたけど、結果は同じなんだよ。人間界じゃなく鬼人界で答を得たいと考えたんだから。咲乃との絆は必要なくなるし、霊山に長くいればいずれ人間界での記憶も完全に失われる。‥‥教えてやろうか? 鬼人の二十年は人間で言えば五、六年なのさ。幼稚園児がほんのひと月一緒にいた人間をいつまで覚えていると思う?」
「‥鮮明な記憶なら覚えているよ。」
白炎はバカにするように鼻を鳴らして、大仰に肩を竦めた。
「忘れたほうが幸せだろうね。咲乃を鬼人界へ連れていこうなんて思いつけば後悔する。霊山では、咲乃とはいえ五日と保たずに消滅するよ。黒鬼はバカで気づいていないんだが、白巌はわかってるくせに咲乃に未練があるなら連れていけと勧めた。お偉い白鬼さまから見れば、咲乃はどうせ枯れる花にすぎないのさ。束の間愛でれば十分だろうというわけ。」
「‥‥ムカつくな。」
「だろう? ‥って、誰にだ?」
「あんたにもその白鬼にもだが、黒鬼がいちばんムカつく。一度は自分から捨てた世界なんかに執着するな、と言いたいね。黒く生まれた理由? 自分のことなのに誰かに教えてもらわなきゃわからないのかよ? 見損なったな。」
白炎はじろじろと冷めた視線を浴びせた。
「何をそんなに怒ってるんだ‥? おまえには関係ない他人の話じゃないか?」
「勝手だろ。俺はあんたとは違うし、友だちにはなれないって言ったじゃないか。関係なくても腹が立つ時があるんだよ。」
にやりと笑って、へえ、と白炎は面白そうに目を輝かせた。
「おまえの考えることは今一つ読めない。だから面白いんだが‥。」
「あんたには人間の考えることは大抵読めてないよ。鬼人は傲慢だから知った気になってるだけだ。大人しく健吾の中で、感情ってものを勉強するんだな。単純な感情なんて一つもないってことをね。」
「ふふん。この俺に大人しくしろとはどっちが傲慢なんだかね‥。ま、いいや。一つ条件がある。俺はおまえと話をするのが面白い。時々こうして俺を呼ぶと約束するなら、勝手に窓を操るのは止めてやってもいいんだが?」
考えておく、と玲はにべもなく答えた。
白炎はふてぶてしい笑みを浮かべ、すうっと消えた。
玲は車を路肩に一時停車させ、隣で寝ている健吾の無邪気な顔を見つめた。そうっと髪を撫でてやる。
同じ顔の全然性格の違う男に他人とは思えない愛情を抱きつつある、なんて。ずいぶんとセンチメンタルで玲らしくない感情だ。案外ナルシストだったのかも。
何となく白崎健吾という名で働いていた時期のことを思い出した。
その時の健吾はメッシュの入った茶髪で、今よりずっと小柄で細っこい小生意気な少年だった。目の前の健吾とは大違いで、他人の迷惑なんて考えたこともなかったし、他人の好意はできる限り利用した。まあその点は今でも大して進歩してはいないのだが、少しはましになったと思う。利用してもいい好意と瞞してはいけない人間の区別がつけられるようになったからだ。
「桜‥。どうだった?」
玲は後部座席に退避させていた桜に小声で訊ねた。
「はい、ご主人さま。鬼人にはやはり桜は見えないようです。よかったです、鬼人は怖いですから‥。あ、でも先ほどの白い方は、黒鬼さんほどの霊圧は感じられませんでした。」
「ふうん‥。でも健吾には桜は見えてるんだよね?」
「はい‥! 先日レストランで、デザートを要らないからと桜にくださいました。とっても美味しかったですよ‥! おやさしい方です。」
なるほど。やはり推測は正しいようだ。
玲は車を帰路へと向かわせ、発進した。
「ねえ、桜。それじゃ、健吾が一緒に暮らすようになっても構わない?」
「え‥ではご主人さまとご一緒に寝るのですか‥? 少しお布団が小さいのでは‥。」
桜が耳元で声を低くして心配そうに囁くので、思わずふきだした。
「健吾とは一緒に寝ないよ。部屋を片づけて、同居するってこと。布団は別だ。」
ああよかった、と桜はほっとした声を出した。
「最近ノワールが大きくなってきて、ちょっと狭いのではと思っておりましたので‥。」
最近大きかったのは桜のほうなのだが、本人はすっかり忘れているらしい。
それにしても桜が健吾を好いているのなら、やはり健吾は白炎の分身というより玲の分身としての属性のほうが強いのだろう。白炎との繋がりは白崎健吾という名前から来るところが大きいと思われる。
白炎は大して力がないようだ。体がじんじんするような圧倒的な霊気は全然感じられないし、どこかに閉じこめられていて退屈だから、誰かと話をしたいだけと言うのもあながち嘘でもなさそうに思える。だが悪賢いヤツだから、うっかり気を抜けば寝首をかかれるだろう。
今度月夜見神社に行った時、念のため白炎の霊力はどうなったのか確認しておこう。あの迦具耶さまのことだ。鬼人の霊力を召し上げるチャンスをみすみす逃すはずもないから、白炎はかなりの部分を持っていかれたに決まっている。だが実際のところを確かめておくに超したことはない。
『懐古堂』の軒行灯がぼうっと光って見えた。営業時間外だが、黒達磨が灯を入れてくれたらしい。車を車庫に収め、エンジンを切ると、ボンネットの上に縞猫が現れた。
「‥‥嬢さまは?」
「今夜は咲乃さんのそばについてるってさ。何か急用なの?」
「‥ん。夜鴉の若さまが今夜の事件を察知したらしい。嬢さまは留守で、咲乃姫のとこへ行ってるって言ったら、日暮れたらすぐ来るって‥。」
「ふうん。夜が明けたら戻るだろうから、伝えておくよ。‥て言うか、いつも自分で伝えてるよね。どうした、もしかして俺に用?」
縞猫は言いにくそうにそっぽを向いた。
「それがね‥。若さまから旦那に伝言。とりあえず危害は加えない、逃げるなってさ。」
「‥‥やっかいだけど‥しょうがないか。また名前を名のれって言うのかな? とっくに知ってるだろうにさ。」
「そりゃね。本人から直接聞くってのは基本だからね。」
縞猫はひげをぴん、と伸ばして答えた。
「基本? 何の基本だよ? まさか取り殺すためとか言わないよね?」
「あのさあ、物の怪は人間を取り殺してなんぼなんだよ。‥まあそれはともかくとして、名前を名のらせるのは従えるための基本。従えた後どうするかはそれぞれだけどさ。旦那、気をつけないとたいへんだよ。」
「あまり慰めにはならないけど、一つ勉強になったよ。ありがと。」
「どういたしまして。おいらはけっこう、旦那が好きだしね。嬢さまと末長く仲良くしてほしいと思ってるよ。」
縞猫は礼を言われたのが嬉しかったらしく、ちょっと照れた顔で偉そうに言うと、すっと姿を消した。
玲は苦笑し、助手席の健吾に着いたと声をかけようとして、結局やめた。
時刻はもう三時半過ぎている。どちらにしてもあと三十分で起こさなければならないなら、このまま寝かせてあげようと思う。
疲れて眠るなんてどんどん人間らしくなってるな、と寝顔を見て考える。
桜が車のトランクから毛布を引っぱり出してきて、健吾にそっとかけた。さっきの玲の真似なのかそれとも自分が先輩だからと思っているのか、よしよしと髪を撫でている。
「桜。桜には彼は人間に見える、それとも違うモノ?」
桜は可愛らしい頭をちょこんとかしげた。
「人間ではありませんね。ですけれど‥おやさしいお方ですよ。まったく物の怪らしくありません。どちらかと言えば、精霊に近い感じがします。」
「精霊か‥‥。そうなのかもしれないな。」
玲は小さくつぶやいて、微笑んだ。