第六章
鬼人界の中央にそびえ立つ霊山の山頂には、雲におおわれた白い宮殿が建っていた。
鬼人界を統べる白鬼は、最も多く存在した時期には十二人いたが、今では三人しかいない。それも全員五百才を超える老人ばかりだ。
白巌は眉間に皺を寄せて、他の二人白流と白樹に迫った。
「このまま放置すれば、鬼人界を統べる者はいなくなってしまうのです。今すぐに、決断すべきでしょうぞ。」
「ううむ‥。だが、鬼人界が生まれし時よりずっと、統治するは白鬼のみと決まっていたのだ。」
五百三十五才の白樹は、五百十二才の白巌に渋い顔を向けた。
「ですが、やっと生まれた唯一の白鬼が‥‥あのように歪んでおります。白炎を牢から出す時は、もはや我らの生きている間にはございますまい。」
白巌の言葉に、五百八十才の白流は嘆息をついた。
彼は幼い頃の白炎の養育係で、人間界で罪を犯して月神に送還された白炎をいまだ可愛く思っていた。その反面、育てたからこそ白巌の言葉の正しさがよく理解できる。
「そなたが連れてきた黒鬼は‥確かに太刀を出し、次元移動をするのか?」
「はい。齢はやっと二十年だそうで、誰に教わったわけでもないのに、自在に操ります。角が二本で瞳は金色。白炎の申したとおり、白鬼の亜種に違いありませぬ。若輩者ゆえ、また苛酷な幼少期を過ごしておるゆえか、気性は荒く攻撃的ですが、低次の世界に居住していたわりには鬼人の誇りを失ってはおりません。教育次第では正統なる白鬼を凌駕する逸材になろうかと‥。」
「そうか‥。では会おう。白樹どのもよろしいか?」
「致し方ありませぬ。白炎が生まれしよりも既に百年近い時が過ぎようとしているのに、次なる白鬼が生まれたとは聞きませんからな。亜種であっても、赤鬼や青鬼よりはましでありましょうの‥。」
三人の老白鬼はそれぞれ異なる種類の嘆息をつき、別室へと出ていった。
岩に囲まれた暗い地下牢で、白炎は三人の老鬼人たちの会話を盗み聞いていた。
―――ふん。偉そうに‥。黒鬼がおまえらの言いなりになんかなるもんかよ?
皮肉な笑みを浮かべ、それから黒鬼のいる別室へと意識を移した。
今のところ両手両足に鋼鉄の枷をはめられ、口には猿ぐつわをされて鎖で岩に繋がれているため身動き一つできない状態なのだが、これはこれで結構楽しんでいる。
鬼人界へ強制送還された時に霊力の大半は月夜見の神に召し上げられてしまった。でなければもちろん、こんな鎖や牢など一瞬で破壊してやるところだ。だが鬼人界じゅうにごろごろ転がっている赤鬼の赤子並みの霊力では、じっと寝ているくらいしかできることはない。こんな大仰な拘束などまったく必要ないのに、老人たちは厳重な監視下においているという形が欲しいのだろう。バカげたやつらだ。
―――しかし‥。ウサギ並みの霊力でも、要は使いようだ。
白炎は残っている霊力のほとんどを感知されない程度の、髪の毛一本くらいの細い糸に撚りあげて、宮殿のあちこちに蜘蛛の巣のように張りめぐらせた。影響力は及ぼせないが、会話の盗み聞きには十分だ。
老白鬼たちに黒鬼の話をしたのは、鬼人界がどれほど硬直化した世界かを皮肉ったつもりだった。
鬼人界では二十才はまだ幼児に相当する。赤鬼や青鬼ならばやっと学齢年齢てとこだ。なのに黒い色に生まれたというだけで忌むべき者として迫害され、人間界へ落ちのびた黒鬼が、鬼人界最高の霊力と技を持つ白炎と一歩も退かずに闘ったのだ。これは何を意味するのか―――すなわち鬼人界の滅亡と終焉が近いということではないのか?
「鬼人界は存在意義を失ったんだ。まもなく寿命を終えるあんたらにはちょうどいいだろうが、俺には退屈極まりないのさ。俺は必ずもう一度、人間界へ行く。鬼人界なんぞ消えようがどうしようがどうでもいいよ。」
三人の育ての親たちは白炎の言葉に、悲しみと失望と怒りをそれぞれの顔に浮かべた。
―――だが。人間界へ迎えに行くとはね‥。角一本のヤツを後継として育成するよりは低次の世界へ足を踏み入れるほうがまだましだったってことか? 下らない自尊心だねェ、相変わらず。
白炎は意識の奥で嘲笑い、黒鬼のほうへ霊力を集中した。
広く開いた窓から、煌夜は鬼人界を隅々まで見渡した。
さすがに霊山は高い。ここからならば鬼人界のあらゆる場所を、山も川も街並みもすべて一望のもとに見下ろせる。
右手の端に見える山並みが、煌夜の生まれ育ったあたりだ。あそこに住んでいた頃には、いつも遠く見上げていた霊山に招かれるなど考えたこともなかった。
「おまえを迎えに来た。わたしたちのもとで教育したい。鬼人界の未来のために。」
あの時白巌は静かな瞳でそう言った。
「鬼人界の未来など、俺の知ったことか。追われた世界に未練はねえよ。」
「だがおまえは鬼人だ。人間界にいてなお、誇り高き鬼人を保っている。鬼人として学ぶべき事柄はたくさんある。人間界にいては学べぬことばかりだ、どうだ、知りたいとは思わぬのか?」
「思わない。俺は‥このままでいい。他に望みはない。」
白巌は苦々しげに顔を歪めた。
「愚かな‥。それほどの力を持つのは何ゆえか、考えたことはないのか? 鬼人の霊力は鬼人界の山川より得ている。おまえに多大な霊力を与えたということは、鬼人界はおまえを必要としているということだ。己一人の身ではないのだ。それだけではない。鬼人界が消滅すれば、おまえも鬼人ではいられなくなる。卑しい人間の身に堕ちるが本望ではあるまい?」
それからちらりと下を透かし見て、吐息をついた。
「あの女も連れていきたければ連れていけばよい。どちらでもかまわぬ。‥‥よいか、おまえを早く見つけられなかったことはわたしたちの失策だ。素直に詫びよう、すまなかった。だがおまえが特異な宿命の下に生まれたのは確かなのだ。わたしたちのもとへまいれ、黒鬼。何ゆえ白鬼に生まれず、黒鬼に生まれついたか。その答も恐らくわかるであろう。」
そして白巌は、一日だけ待つ、と告げて気配を消したのだ。
考え抜いた末、煌夜はとりあえず鬼人界で他の白鬼とも会って話をしてみることに決めた。白巌にもそう告げた。
煌夜にとって鬼人界とは生まれ落ちた場所だが、排斥の記憶しかない場所でもある。未練はないし、どう変わろうと関係ない場所だ。育ててくれた老赤鬼が霊力の源は自然の中にあると言っていたから、鬼人界が仮に消滅したとすれば確かに煌夜も霊力を失い、鬼人ではなくなるのかもしれない。だがそれが何だと言うのだ? 人間になるか物の怪になるか―――いずれ人間界には曖昧な存在ばかりがいる。
ただなぜ自分が黒鬼に生まれついたのか。それだけは無性に知りたいと思った。
「他のことはどうでもいい。なぜ俺は黒鬼に生まれたのか‥。必然があったというのなら知りたいと思う。‥少しの間だけ待っていてくれるか、咲乃?」
予想どおり咲乃はすぐにうなずいて、いつまででも待っていると答えた。咲乃の胸の中が悲しみでいっぱいになるのを感じたが、気づかないふりをした。
咲乃は言葉どおりにずっと待っていてくれるだろう。何があろうとどれほど離れようと、彼女は煌夜を忘れはしない。だから煌夜は安心して前を向ける。帰る場所があるから。
近づいてくる気配に、煌夜は身構えた。
都合のいいように使われるつもりはない。煌夜は煌夜の目で真実を見極めたいだけだ。
三人の白鬼が、前触れもなくすっと目の前に現れた。
静かで氷のように冷たい気配が、威圧的に上段から煌夜を見下ろしてくる。まるでこの宮殿そのもののようだ、と煌夜は思った。
会話を盗み聞いていた白炎は、心の内でくすくすと笑った。
体は休眠状態においているので、反り返って大声で笑えないのが残念なくらいだが、黒鬼の無邪気さには呆れてしまう。老鬼人たちの掌中にまんまと填ったことに気づいていないらしい。
―――人間どもに相談すりゃよかったのに‥。所詮坊やは坊やだな。だが面白い展開になった。
黒鬼は咲乃の霊力を見くびっているようだ。黒鬼が二度と戻らない予感に怯えきって、今頃咲乃はまた泣いているだろう。時間が経てば経つほど咲乃の絶望は深くなり、いつか我慢の限界が訪れるに違いない。
再び笑いがこみあげた。
―――惚れた相手のことは逆にわからなくなるものなんだな‥。黒鬼といい、鴉の親分といい、女の気持ちなんかまるでわかってないんだから可笑しいよ。
うまく利用すればもう一度人間界でゲームを楽しめるかもしれない、と白炎は冷ややかな金の瞳をうっすらと開けた。
まず鈴の女を思い浮かべた。それからあいつ、月神の寵愛を受けている男。まだあの二人とは十分遊んでいない。
白炎は宮殿じゅうに張りめぐらせた霊力の糸をすべて手の中に引き戻した。いくらかは膨らんだようだが、元に戻るまではあと百年かかりそうだ。
あらためて細い糸を黒鬼の近くにとばしておく。それから残りをかき集めて、体の中心に戻した。
―――窓を使う時が来たようだ。一つ残っていてよかったよ。ふふ‥。
白炎は牢の中で静かに集中した。
「おい‥。市、いるかえ?」
一人で柳楼を訪れた若頭領は、いつにもまして不機嫌な顔をしていた。
お艶は不穏な気配を察知してか、座敷に案内すると、さっさと常連たちを帰して自分も奥へ引っこんだ。さわらぬ何とかに祟りなし、だからだ。
「若頭領‥。ちょうどいいとこへ来なすった。美味い酒が手に入ってね‥。相手が欲しかったところだよ。」
市之助は普段と変わらない様子で、冷めた瞳を若頭領へ向けた。
愛想笑いも浮かべやしねェ、と若頭領は苦々しくつぶやいて、でんと腰を下ろす。
一応若頭領からすれば、市之助は唯一友人と呼べる存在だ。他には肩を並べる存在など認めていない。だから多少の無礼も大目に見てやっているつもりなのだが。
注がれた杯を受け取り、一気に飲みほした。
市之助は呆れ顔で見遣る。
「せっかくの美酒だってェのに‥野暮な飲み方をする。あんたらしくもねェな。いったいどうしたい?」
「とぼけるなよ。おめェの孫娘のことだ。」
ああ、と煙管を手に取り、懐手でふかす。
「茉莉花がどうかしたかい‥? あれは俺と違って生真面目だから、あんたの領分を邪魔するような真似はしねェはずだが。」
「そんな話じゃあねェよ。どうしてもとぼける気なら言わせてもらおうか。俺はあの姫が欲しい。嫁にしたいと思ってるのさ。‥邪魔するヤツはただじゃおかねェぜ、市、おめェでもだ。」
ふうっと煙を吐いて、市之助はぱんぱん、と灰を落とした。切れ長の瞳がまっすぐ若頭領を見据える。
「そりゃ無理だろうよ、若頭領。生まれる前から自分で決めちまったんだから、こればかりはしょうがねェのさ。」
「生まれる前から、だと? 前世でってことかい?」
若頭領は傀儡師の家の上空で感じた、強い絆を思い起こした。あれは前世で結んだ契りなのか。
「‥詳しい事情は知らねェがね。前世で二人は何やら約束をしたんだそうだ。その約束を果たすために、守護精霊を残しておいたんだよ。」
「‥‥いつから知っていた?」
「守護精霊の主人が見つかったと聞いた時かね。」
「それで『懐古堂』の二代目にあいつを据えたってェわけかい?」
苦々しげに若頭領が言うと、いや、と市之助は珍しく微笑した。
「ありゃ違う。月夜見神社の札をもらえそうなお人が他には見当たらなかったのさ。」
市之助は酒を若頭領に注いで、自分にも注いだ。
「いったい‥あの男は何なんだ? ただの人間には思えないがね‥。」
「ただの人間だよ。‥だが夜鴉の闇にゃいちばん遠い類のお人だ。」
ふん、と若頭領は酒を飲みほした。
「それにしてもなぜ突然、そんな話をしに来なすった? なんぞあったのかい?」
「バカらしくて言いたくないがね‥。うちの連中に愚痴るのはもっとバカらしいから、教えてやるよ。」
若頭領は昼間の傀儡師の件を話した。
市之助は酒をすすりながら黙って聞いていたが、桜が邪気を一掃したくだりでちらりと目を上げた。
「茉莉花を助けようとして守護精霊が破邪を発動した‥? そりゃ間違いないのかい、若頭領?」
「間違いなんぞあるかよ。霊力も持たねェ人間に何ができると、高ァ括って見てたら出し抜かれたんだぜ? たとえ主人の命令があろうと、守護精霊が他人を助けられるはずはないってェのに‥。しかもその守護精霊は‥姫と同じ姿形だとくる。どういうことだとおめェに聞きに来るのは当然だろうが?」
まくしたてる若頭領を後目に、市之助はふふっと微笑した。
「‥‥思い出したか。」
「何だ? 何、一人で笑ってやがる? ‥ふん、面白くねェ。」
若頭領はお艶を呼び立てて、料理と酒を注文した。
「こうなったら朝まで騒いでやる。柳女、きれいどころを呼んでくんな。姿が良くて踊りの上手いのだぜ?」
あい、とお艶はにっこり微笑んだ。
一昨日からお蔵番になった要は鍵を閉めようと蔵に出向いて、紅蓮がまだお喋りを続けているのを見つけた。
「紅蓮‥。もう寝る時間だから、静かにしなさい。」
毎朝日の出前に起きて掃除をし、夜は八時に蔵を閉める。昼間は瑞穂に言われるままに霊力を集中して高める訓練と精霊たちの世話に明け暮れている。ずいぶんと勤勉な生活をしていると自分で感心している―――まだ二日しか経っていないけれど。
「ふんだ‥! あたしに命令できるのはご主人さまだけなんだからね。偉そうに言わないでよ。」
「瑞穂お嬢さまの命令なんだよ。大人しく言うことを聞きなさい。‥その代わりに欲しがってた髪飾りはお嬢さまに頼んであげるから。」
紅蓮はぱああっと輝くように微笑んで、要の首に飛びついて頬にキスした。
「絶対だからね、約束よ‥! じゃ、お休みなさい。」
そう叫ぶとふわふわと風のように飛んで、瑞穂の居住棟のほうへ去っていく。
蔵の灯りを消して、外に出るときっちり錠をかけた。そしてやれやれ、と溜息をついた。
「お嬢さまにまた叱られるな‥。命令をきかせるために交換条件をつけてはいけないと言われているのに‥。」
ポジショニングを間違えるなときつく言われている。甘やかすのと躾けるのは別で、使役するためには躾けなければいけないのだから、と。
「いい? ポイントは誰が主人かをしっかりわからせるの。要くんは能力は十分なんだから、あとは心の持ち方よ。友だちになっちゃだめ。犬の訓練と同じ、四宮に仕えるモノは精霊であれ物の怪であれ、ペットじゃなく訓練されたモノにならなければいけないのよ。自信を持って。」
そう言われても自信など持てそうもない。
現在本家敷地内で飼われている仔犬二匹の顔が浮かんだ。
精霊遣いとして一人前になれば、動物の使役もできるようになるだろうと瑞穂は言った。あの犬たちが妖怪化してしまうまでに、一人前になれるのだろうか? とてもそうは思えないが、彼らが滅せられてしまわないように何とか頑張らなければいけない。
しかし瑞穂の多忙さにはびっくりだ。高校生をしながら当主代理もこなし、なお要の面倒まで見てくれているのだから頭が下がる。
実家の北家では、本家は権力に胡座をかいてただ威張っていると散々聞かされてきたが、実際は逆で、分家こそ本家の威容を借りて四宮の名に胡座をかいているだけだと思う。まして昨夏の事件のあと、おろおろして本家を非難するだけだった分家を一喝して、夜鴉一族との手打ちを敢行し、空中分解しそうな四宮をまとめあげたのは若干十七才の少女なのだ。いくら霊力の差がすべての世界とは言え、瑞穂を間近で見ているとそれだけではないと感じる。
要は正月以来本家で過ごしていて、毎日のように聞かされる祖父の私見を抜きにしても、瑞穂には素直に尊敬の念を抱いている。いや畏敬といったほうがいいくらいだ。
祖父の言葉どおり早く瑞穂の役に立てる人間になろうとは思っているのだが―――なれるのか? 溜息だけがこぼれてくる。
蔵の鍵をしまうために瑞穂の執務室へ向かった。すると廊下で、紅蓮がまだふわふわと飛んでいるのに出くわした。
紅蓮、と叱ろうとした時、紅蓮のほうも気づいて慌ててしっ、と口に指を立てた。
「要くん、ちょっと待って。今は執務室に入っちゃだめ。」
近づいてきた紅蓮は彼の耳に口を当てて、ひそひそと囁いた。
「え? 誰かいるの‥?」
「そうじゃなくて‥。ちょっとだけ乙女の時間なのよ。」
「はあ? 乙女の‥‥時間?」
要は思わず赤くなった。
それはつまり着替え中とか、あるいは―――お風呂上がり?
「お‥乙女ってさ‥。どのへんが乙女なの‥?」
こそこそと紅蓮に訊いてみる。紅蓮はにまっと笑って、要をつっついた。
「何赤くなってるのよ。要くんは関係ないから。‥‥例の夢魔の件に関して、ご主人さまの想い人さまからメールの返信がきたところなの。とっても嬉しそうだから、少しの間そっとしておいてあげて。」
なんだ。そういう乙女モードか。ちょっぴり失望したものの、今度はむくむくと好奇心がわいてきた。あの毅然とした瑞穂が、恋人からのメールをどんな顔で見ているのかと思うと、無性に気になる。
そっと障子の隙間から覗いてみる。
ところが机に頬杖をつき、スマホを翳している瑞穂の顔はむしろ厳しいくらいで、とても甘やかな内容を見ているとは思えなかった。しばらくしてスマホを机に置くと、ふうっと大きな吐息をつく。頭を抱えてうずくまる肩が、やけに悄然と寂しげだ。
やがて再び溜息をつくと、しょうがないわね、とつぶやいた。
要は何だかひどく恥じ入った気分になった。
静かに廊下を玄関先まで戻って、それから深呼吸をすると姿勢を正し、ゆっくりと廊下を歩いていった。執務室の前で跪いて手をつき、声をかける。
「お嬢さま。要です、蔵の鍵を返しに来ました。」
どうぞ、と声がして中へ入ると、瑞穂はいつものきびきびした表情に戻っていた。
「鍵を保管庫にしまったらここの戸閉まりを頼むわね。あたし、先に部屋に退がるから。」
立ち上がって、執務室の鍵を手渡す。
「これは磯貝に渡しておいて。」
「あ‥はい。わかりました。お休みなさい。」
お休みなさい、と微笑して、瑞穂は部屋を出ようとした。その後ろ姿に要は思わず、あの、と声をかけた。
怪訝な顔で瑞穂は振り向く。
声をかけてしまってから気づいた。まさか事情は知ってます、元気出してくださいとは言えないではないか?
「ええと‥その、そうだ、紅蓮が瑞穂お嬢さまの髪飾りをほしがっていて‥。」
「髪飾り‥? このヘヤピンのこと?」
瑞穂は前髪を留めている、紅い花を形取ったステンドグラス風のピンを指さした。
「はい。朝からずっと‥その飾りがうらやましいって‥。それ、どこで買ったんですか?買ってあげる約束しちゃって‥。」
瑞穂は眉間に皺を寄せた。
「また甘やかす! だめだって言ってるでしょ。‥いいわ、これをあげる。紅蓮ならあたしの霊力が溜まってる物でも平気だから。」
「それじゃ、だめなんです。‥お嬢さまとお揃いがいいんだそうで。」
瑞穂はまあ、と目を瞠り、ほんわりと優しい表情を浮かべた。
「そうなの‥。紅蓮、どこ? いるんでしょ、出ていらっしゃい。」
要の背後に隠れていた紅蓮がもじもじと姿を現す。要にはすぐ剣突をくらわすくせに、瑞穂の前では猫を被って大人しげにしている。
「‥お揃いがいいの?」
はにかんでうなずく。
「じゃ、あたしが買ってあげる。だから要くんにわがまま言ってはだめよ。ね?」
紅蓮は再びしおらしくうなずいて、気恥ずかしそうに要の作務衣の裾をつかんでいた。瑞穂のことが大好きだという紅蓮の気持ちが、その小さな手からびしびし伝わってくる。いつもこんな風情なら可愛いのに、と要は苦笑した。
瑞穂は紅蓮をそっと抱き上げて、ぬいぐるみを抱きしめるみたいにきゅっと抱きしめた。それから不思議そうに要を振り向く。
「ところで‥‥ピンをどうやって紅蓮につけるの?」
「ああ、それはお任せください。昨日はリボンを、ねだられて結んでやりましたから。全然問題なくつけられます。」
得意げに言うと、瑞穂は呆れ返った表情を浮かべた。
「だからね‥。あなたが使役されてどうすんのよ?」
「あ‥‥。そうでした。」
瑞穂の腕の中で、紅蓮が口に手を当てて笑いだした。明らかにバカにされている。要は目を逸らした。
まずい。これではまた叱責をくらってしまう。せっかく瑞穂を元気づけようとしたはずなのに、頭痛の種を増やしてどうする?
だが瑞穂は紅蓮につられたみたいに、ぷぷっとふきだした。
「人でないモノにも隔てなく親切なのは結構だけど‥。頑張ってよね。あなたと同じ能力の人は誰もいないんだから。」
はい、と畏まって答えたものの、ちょっぴり自分が情けなかった。