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第五章

 翌四日は朝から空は穏やかに晴れ渡っていた。

「この分なら、今日は桜は一気に開くね。達磨さんもそう思うだろう?」

「そうでやんすね。夜までこの天気が続けば、七分咲きくらいにはなりやすかね?」

 玲は庭の掃き掃除をしている可憐な少女を窓ごしに見て、にこっと微笑った。

「だいぶ慣れたけど、やっぱり早く元の桜に戻ってほしいな。あの姿で一緒に寝てると、何だか自分が変質者になったみたいな気がしちゃう。」

 黒達磨はくすくす笑って、お茶を淹れてくれた。

「天気予報じゃ、今日からしばらくは晴れるそうでやす。桜のあの姿も、せいぜいあと一週間てとこでやんしょう。‥ですが旦那。旦那のほうはどうなんでやす? 少しは前世の記憶とやらが思い出せやしたかい?」

 桜がぼんやり思い出した内容によると、前世での主人は桜の季節には最後に会った日の姫の姿になってほしいと頼んだそうだ。ちなみに普段の可愛い稚児姿も、幼い頃の姫なのだという。

「それがね‥。さっぱり。やっぱり無理なんじゃないかなあ、記憶まで引き継ぐのはさ。」

 出会ったのは満開の桜の下、ぼろ寺―――もとい古寺の境内で。姫は十、主人は十二だったそうだ。それから時折会うようになって、四年後の桜の季節に姫は輿入れが決まったからもう会えないと、懐剣を形見に渡した。

「ボーイ・ミーツ・ガール。典型的なメロドラマだな。ちょっとばかばかしいほど。」

 手伝おうとまとわりつくノワールに声をかけて、春の日溜まりの中で桜はおっとりとした屈託ない微笑を浮かべている。茉莉花に似ているけれども雰囲気が異なる。前世の姫は茉莉花とは違って、もっと感情を表にあらわす人だったようだ。

 思い出せそうな気配もないな、と苦笑しつつ、少女の桜をじっと見つめた。

 前世の自分は何を思って、桜に姫の姿になれなどと命じたのだろう? 大名家の姫が十四、五で嫁ぐのはよくある話だし、身分違いなうえにたったの十六ではどうにもできなかったに違いない。胸にあったのは歯がゆさ、または無念さ? あるいは諦めか。

 何にせよ、未練がましいつまらぬ感傷だ。それくらいならさっさと攫ってしまえばよかったものを。下らない男だったんだな、と自嘲気味に思う。

 お茶を飲みほして、柱時計を見た。午前十時を過ぎている。

「達磨さん。ところでうちの姫さまは? まさか寝坊じゃないよね。」

「あれ? 旦那はご存じじゃなかったですかい? 嬢ちゃんは朝早くからお仕事でやんすよ。昨日の夕方に依頼人がありやしてね。今日訪ねると約束なすったようで、とっくにお出かけになりやしたよ。」

「‥知らなかったな。人の依頼、それとも物の怪の依頼?」

「ありゃ‥何ですかね? 人みたいに見えやしたがねえ‥。腰の曲がった爺さんで、息子の嫁がいなくなったとか言ってやしたよ。人形がどうとかとも‥。」

 黒達磨は首をかしげた。

「すいやせんでした。てっきり、旦那には昨夜説明なすったと思いこんでやしたもんで、詳しく事情を伺っておりやせん。相すまないこってす。」

 昨夜は部屋にこもって、パソコンでアンジュの新しい事業についての企画書を作ってたな、と思い出す。そう言えば茉莉花が一度覗きにきたような気もする。忙しそうだと思って、何も言わなかったのだろう。

「いいよ。俺が忙しくしてたせいだろうから。きっとすぐに帰ってくるよ。」

 玲はそう言うと二階へ戻り、続きを仕上げてしまおうとパソコンの電源を入れた。


 その頃茉莉花はどっぷりと妖気の漂う邸宅に招かれていた。

 邸の主人は桐原義人といって六十半ばの、ひと言で言えば土地転がし成金の老人だ。本人の得意げな述懐によれば―――なりふりかまわず金儲けにいそしんだ、その結果がこの広くて豪華な邸宅であったり銀行に預けてある預貯金の残高であったりするらしい。

 茉莉花が気になるのはぴかぴかの邸宅自体や金のかかった調度品などではなく、まだ新築の部類に入る家なのにどうしてこれほど妖気が溜まっているのか、という点だった。

 とりあえず中に入る前から、一般人の耳には触れない程度に鈴を鳴らして、結界で身を包んでいる。玄関を一歩入ってからは、気持ちの悪い視線がずっと背中に貼りついているのを感じていた。それも一つじゃなく複数だ。

 もしかしたら罠にはまったのかもしれない。そんな気分が胸をよぎった。

 ―――桜に一緒に来てもらえばよかった。

 けれど桜の状態はまだ完全ではなく、玲の傍から離すのは望ましくない。自動的に玲にも一緒に来てくれるよう頼まなければならないけれど、茉莉花は彼にできるだけ借りを作りたくないのだ。

「桐原さん‥。ご依頼の件は密室から息子さんの婚約者が忽然と消えてあとに人形が置かれていた、というお話だったかと思うのですが‥。それで息子さんは今どちらに?」

 自慢話をさえぎられて老人はやや鼻白んだが、息子はまもなく参ります、と答えた。

「ではその人形は‥?」

「人形は他のと同様にあちらに並べてありますよ。ほら、あの飾り棚です。立派な物でしょう? イギリスの有名な家具職人に特注で作らせたんですよ。」

 この人はだいぶ―――取り憑かれている。

 茉莉花は棚の人形を振り返り、静かに気配を探った。

 飾り棚に並べられた人形は大きさも種類も様々だった。西洋人形から市松人形、陶器の人形に木彫りの人形もある。

 複数の視線はどうやらこの人形たちから発せられているらしい。

 茉莉花は鈴の音を大きく鳴らした。

 部屋じゅうに波紋が広がり、飾り棚へ集約していく。人形たちは泣き叫んで悲鳴をあげ、ぐらぐらと前後左右に揺れ動き始めた。

「お嬢さん。やめてくれないかな。ぼくのコレクションがだめになっちゃう。」

 振り向くと部屋の入口あたりで、三十を少し過ぎたくらいの男が微笑を浮かべて立っていた。彼はすたすたと近寄ってくると、ソファに腰を下ろし、足を組んでこちらを見る。

 焦点の会わない瞳で窓辺にぼんやりと突っ立っていた桐原老人が、いきなり体を震わせたと思うと何ごともなかったかのように茉莉花に向かって笑いかけた。

「息子です。森彦、こちらは四宮茉莉花さんだよ。美しいお嬢さんだろう?」

 何かが変だ。茉莉花は会釈を返しつつ、飾り棚の人形を眺めた。人形たちは小刻みに震え、怯えている。微かに助けて、という声が聞こえた。

 ―――そうか。この男は人形遣い、傀儡師(くぐつし)だ。

 傀儡師とは本来は歌や音楽に合わせて糸で人形を操り、舞を踊らせたりする大道芸人の意味だが、霊能力者の間では霊力で作った糸を使い、人間を操る能力者のことを指す。

 傀儡師に糸をつけられた人間は自分の意志に反し、傀儡師の思うとおりの行動を取り、言葉を喋ってしまう。それで明治以降、四宮本家は傀儡師の技を禁術として取り締まってきたのだが、ひそかに禁術を伝える一族が甲州地方に存在していると聞いた。

 茉莉花は鈴の音を高らかに鳴らして、金色の結界で自分と桐原老人を包んだ。ところがその途端、桐原老人はいきなりばたりと倒れてしまった。息子と紹介された男は、父親の倒れた姿を見て可笑しそうにくすくす笑い出した。

「だめだってば。無理に糸を切ろうとしたら死んじゃうよ。」

「あなた‥。息子だなんて嘘でしょう。ほんとうは誰なの?」

「嘘じゃないよ。ぼくは桐原森彦。ちゃんと養子縁組してるから桐原義人は戸籍上、ぼくの養父(ちち)なんだ。どうせガンで長くない命だから、今死んでもかまわないけどね。」

 茉莉花は呼吸を整えて、桐原森彦と名のる男に対峙した。

「‥何が目的?」

「君の霊力。ぼくと結婚してくれないか? 金なら腐るほどあるし、お姫さまみたいな暮らしを保証するよ?」

 にやにやと薄ら笑いを浮かべながら、森彦は言った。

「そう言って何人の女性を傀儡にしたの?」

「ほんの‥‥六人かな? 君はどんな人形が好き?」

「人形は好きではないの。あなたのすべてを拒絶します。」

 茉莉花がそう言った瞬間、金色の結界が火花を散らして何かをはじいた。

 糸が見えない。気配は感じるのに、いったいなぜだろう?

 あの人形たちに感じる気配は人間のものだけれど、魂封じの術には思えない。糸は人間の体につけているのだろうか。ならばあの人形は何のためにある?

 金色の結界にぶつかっては消える糸の端緒がちらりと見えた。

「ふふん‥。さすがに四宮の血を引くだけはある。一筋縄ではいかないね。」

 森彦は不機嫌そうな顔で、指をパチンと鳴らした。

「ならこれでどうだろう? 言うことを聞く気になるかな。」

 すっとドアが開いて、女性が一人入ってきた。まだ若い。茉莉花と同年齢くらいだ。

「紹介するよ。彼女は昨日までぼくの婚約者だった、春奈さん。可愛い人でしょう?」

 無表情だった顔が唐突ににっこり笑い、笑顔のままで彼女は手にしていた細い紐を自分の首にかけた。部屋のどこからか、恐怖でパニックになっている気配がどっと押しよせてくる。

 茉莉花はつかつかと春奈に近より、首にかかった紐をあっさりと奪い取った。

 罠だとはわかっていたが、みすみす彼女を死なせるわけにはいかなかった。それに森彦の操り糸が見えるかもしれないとの狙いもあった。

 予想どおり紐を手にした途端、春奈につけられたピンク色の糸がはっきりと見えた。ピンク色の糸は傀儡師の左手の人さし指に繋がっている。

 茉莉花の手の中で紐はぶるぶると震え、指に絡みついて霊力を吸い取り始めた。茉莉花の霊力がみるみる金色の糸に撚りあげられて、傀儡師の手の中へと向かっていく。

 なるほど。被害者はみないくばくかの霊力を持つ人間で、自分の霊力で縛られているわけか。では人形は何のため?

 体の自由が次第にきかなくなってくる。

 茉莉花は冴え冴えとした軽蔑の視線を桐原森彦に向けた。

 傀儡師は歪んだ笑みを浮かべて近づいてくると、茉莉花の髪に結んだ鈴をちぎり取った。それからベルトにはさんだ鈴も取り上げる。

「君が選ばないなら、ぼくが選んであげよう。とっておきの人形があるんだ‥ほら、これだよ。」

 それは白無垢の花嫁衣装に身を包んだ博多人形だった。

 傀儡師は茉莉花の手から流れ出る金色の糸をたぐりよせ、人形へ流しこんでいく。

 飾り棚のほうへ意識を集中し、あらためて確認してみると、人形たちには被害者それぞれの霊力が詰めこまれているようだった。

 茉莉花はようやく全容を把握した。

 霊力は魂の一部に等しい。霊力を詰めこまれた人形は被害者のいわば形代(かたしろ)となり、そこに傀儡の糸をつけて操るという仕組みになっているわけだ。

 つくづくと目の前の傀儡師を眺める。

 この男自身にはどうやら大した霊力はないようだった。四宮本家分類に従えば―――せいぜいレベル一、やっと能力者と呼べるかどうかといった程度だ。

 だから意識して拒否すれば最初の引き糸をつけられることもなく、術にかからずにすむはずなのだが、一般人や修法を身につけていない隠れ能力者ではたぶん簡単に操られてしまう。

 また無防備な隙をつかれれば上位の能力者であっても引き糸をつけられて、霊力を奪われてしまうかもしれない。そうなれば自分の霊力だけにやっかいな情況に陥ってしまうだろう。たった今の茉莉花のように。

 とりあえずは被害者の救済が優先だ、と茉莉花は考えた。

 そのためにはまず、飾り棚の人形につけられた傀儡の糸を切らなければならない。次に再び糸をつけられる前に、霊力を被害者の体に戻せばいいわけだが、傀儡師に邪魔をさせないよう、何とか一時的にだけでも彼の意識を逸らしておく必要がありそうだ。

 茉莉花は目を閉じ、部屋のどこかにうち捨てられた鈴を低く呻らせて、飾り棚の人形たちにつけられた傀儡の糸を、次々に断ち切った。

 春奈の悲鳴が聞こえ、ばたばたと逃げていく足音がする。

 気をつけて、と叫ぼうとしたが声は出なかった。茉莉花の体は金縛りにあったように動かない。

「せっかく溜めこんだコレクションなのに‥。ひどいことをするねえ。まあ、また糸をつければいいだけなんだけど。」

 森彦が鈴を拾い上げるより早く、茉莉花は鈴から霊力を引き揚げる。

 目の前で鈴は壊され、花嫁人形に糸がつけられた。自分の手足が自分の意志ではない動きをしようとしているのを感じる。茉莉花は残ったわずかな霊力で結界を張り、奪われた自分の霊力を拒絶した。

「あれ‥? なぜ動かないんだ?」

 腹立たしげな声で、傀儡師は自分の霊力のすべてを茉莉花の人形に注いで操り糸を作ろうとした。

 その隙にいちかばちか、柱時計の振り子を使って霊力の波動を起こし、人形たちへ送る。

 人形たちが飾り棚の中で激しく震えだした。共振でガラスがぐらぐらと揺れ、ついにガシャンと割れて床に落ちて散らばる。

「くそっ!」

 慌てて傀儡師は人形たちを再び自分の糸で縛りあげようとしたけれど、間に合わずに人形たちに詰めこまれた色とりどりの霊力糸は空中に弾けとんだ。そのまますごい勢いで、どこかへ飛び去っていく。どうやら持ち主のもとへと帰っていったようだ。

 良かった、と茉莉花はほっとする。これで人質はいなくなった。

 森彦は何が起きたかよく解っていないようだった。呆気に取られた表情で、散らばったガラスと茉莉花を見比べている。

 やがて次第に怒りの色を濃くして、柱時計を薙ぎ倒すと、気配の失せた人形たちや音の出そうな調度品を手当たり次第に床に叩きつけて壊しまくり始めた。

 そして険悪な形相で茉莉花に向き直り、じっと睨みつける。

 だが彼はしばらくすると辛辣な乾いた声で笑い始めた。

「ずいぶんとお人好しだな‥。他人を助けて、自分はどうする気なんだい? ぼくの糸を拒んだところで、どうにも動けないんだろう?」

 森彦は椅子にすわったままの格好で固まった茉莉花の体を、じろじろと無遠慮に眺め回した。

「こうなったら根比べしようじゃないか? 君の人形はぼくが手元に置いて可愛がってあげる‥。」

 そう言って傀儡師は花嫁人形を操って、茉莉花の目の前で腕の中に抱きよせた。

 動揺してはかえって相手の術にはまる。茉莉花は胸に言い聞かせ、心を固く閉ざして身を守る結界を更に強化した。金色の光が燃えたつ炎のように輝いて全身を包みこむ。

「あちっ! ‥‥くそ、いまいましい女め!」

 茉莉花の体に触れようとした森彦の指は結界に阻まれて、火傷したように赤く腫れ上がった。

「まあいい。そのうち疲れて、糸を拒めなくなるんだ。その時には思い知らせてやる。」

 三文芝居の悪役みたいな捨て台詞を吐いて傀儡師が出ていくと、部屋は急にひんやりと薄暗くなった。澱んだ妖気が溜まっていて、息苦しさを覚えるほどだ。

 ―――さて。これからどうしたらいいかしら?

 茉莉花は身動きできないまま薄闇をじっと見つめ、心の中で嘆息をついた。


 桜吹雪が舞いしきる日溜まりの中で、その人はゆっくりと振り向いて微笑んだ。

 お別れに参りましたと告げると、存じております、とうなずいて、なお微笑む。春の日ざしに溶けこむようなその優しいまなざしに、胸が痛くなった。

 ―――これを。どうぞ今生の形見と思い、お受け取りくださいませ。

 帯に挟んだ懐剣を取り出して、両手で差しだした。

 ―――この懐剣が縁を繋いでくれましょう。できるならば来世では‥‥お互いに何の縛りもない、簡素な身分でお会いしたいものです。

 その人は跪き、両手で押しいただく格好で懐剣を受け取った。そしてまた微笑む。

 ―――簡素な身分とは‥。あなたらしい言い回しですね。どれほど簡素であればいいですか? 

 ―――わたくしは‥できうる限り、何も持たぬ身分でありたいと思います。

 四度(よたび)微笑んで、その人はうなずいた。

 ―――ではわたしも‥。何もかもそげ落として、あなたを待ちましょう。‥今生(こんじよう)でのあなたのご多幸をお祈り申し上げます。

 あとからあとから髪に落ちてくる桜の花びらを払いのけもせず、胸に溜まる淡い切なさをそっと抱きしめていた。この優しくて苦い感情は、あまりに美しい花の情景のせいだと、出会いと別れの春であるからの感傷だとずっと思っていた。

 化け物だと(そし)られて陽の当たらぬ牢に繋がれ、どれほどの時が過ぎたのかわからなくなって、いよいよ儚くなった命が尽きかけたその瞬間になって初めて気がついた。

 あの春の日のひとときが今生のすべてであったのだと。

 願わくばあの日溜まりの中に立ち戻って、ひと言付け加えたいと思った。たったひと言だけでいい。その言葉は―――


 カーテンごしに日がさしこんでいた。

 どうやら眠ってしまっていたらしいけれど、茉莉花の結界は眠っている間もちゃんと機能していたようだ。服は乱れていないし、ちゃんとまっすぐ前を向いている。

 頬に当たる日ざしは朝日のようだ。とすればひと晩経ってしまったのだろうか。

 邸内の様子は探れなかった。充満している妖気から身を守るだけで精一杯、というところか。情況は昨日よりも悪化している。

 『懐古堂』ではみな、心配しているだろう。何とかしてここから出たいけれど、そのためには花嫁人形に吸われた霊力を取り戻さなければならない。鈴さえあれば。いや、音の出るものならば何でもいい。何かないか?

 しかし部屋の中は何もかも片づけられてしまって、空っぽだった。

 ―――桜がいれば。

 再び茉莉花は後悔した。

 縞猫やノワールは本体が生き物なので傀儡師に会うのは危険だが、桜ならば傀儡師には見えないだろう。何しろ白炎にさえ気取られなかったくらいなのだから。

 ちらりと夜鴉の若頭領の顔が浮かんだ。が、すぐに脳裏から消す。

 傀儡師は一応人間だ。若さまに助けてもらうのは、人間界の均衡にとって不都合極まりない。それに茉莉花はまだ人であることを捨てる気にはなれない。

 今はとりあえず体力を温存しておこう、と茉莉花は冷静に考えた。

 傀儡師は必ず、茉莉花を挑発しに来る。たぶん人形を連れてくるだろう。

 その時がチャンスだ。傀儡の糸を切ってしまいさえすれば霊力は茉莉花に戻ってくる。仮に糸を切ることができなくても、目の前にあれば人形を茉莉花の意識下に従えられる可能性も出てくる。そうして霊力を取り戻したらまず最初に、あの男の霊力を封じるのだ。

 最低限の生命維持活動以外はすべて休止させ、意識を防御結界にだけ注いでなるべく記憶や思考と切り離し、空っぽにした。今は夢を見るのさえ無駄だ。

 どこかで既視感を覚えた。

 記憶の奥にある魂の感覚。ずっと遠い昔もこんなふうに何かと闘ったような気がする。だがその時は―――帰る場所がなかった。


 若頭領は桐原邸の上空でぴたりと静止した。

 妖力を抑えて中の気配を探ってみる。目当ての茉莉花はすぐに見つかった。どうやら苦戦中らしい。

「なんだい‥。相手はどさんぴんじゃねェか。何を出遅れたんだか‥。」

 若頭領は腕組みをして、苦笑いを浮かべた。

 相手は三流の能力者だ。まともにやり合って茉莉花が負けるはずなどない。恐らくまたお人好しを発揮して赤の他人をかばったか、殺さずに処理しようと考えたか。

 もう少し様子を見るか、と若頭領は愛おしげに眼を細めた。

 茉莉花は一人で何とかしようとあがいているところだ。助けるのはいつでもできる。

「呼べばすぐに助けてやるのに‥。俺はそんなに器量が小さいと思われているのかね?」

 あんなクズ能力者から助けたくらいで、嫁になれと強要するつもりは全然ないのだが。

 まあ接吻一つでさえ、命がけでなければありえないと言った生真面目な女だ。惚れた弱味につけこむような真似はしたくない、と律儀に思っているに違いない。若頭領としてはむしろどんどんつけこんでほしいくらいなのに。

 ふと桐原邸の門前にたたずむ男の姿に目を留めた。

 たちまち不機嫌な顔になり、皮肉なつぶやきを口にする。

「おやおや‥。姫の救出に来たってわけかい? ‥‥ん? 守護精霊の姿が違うな。どういうことだ?」

 男についている守護精霊はとても強力で、夜鴉一族が彼に手を出せない主因だ。あれほどの強い縁ならばてっきり、血縁者が遺した精霊に違いないと思っていたのだが―――あの姿は何だ? 茉莉花の姿に似ているとは。

 若頭領はあらためて男をじっと見つめた。

 この男は何者なんだろう? 茉莉花とどういう縁があるのか。単に先代に見こまれて『懐古堂』の二代目を名のっているだけではないのだろうか?

「ま‥。何にせよ、あいつに助け出せるのかどうかだ。‥見せてもらおうじゃねェか。」

 ふふん、と若頭領は冷笑を浮かべた。


 玲は目の前で滔々と喋り続ける老人を、冷静に観察していた。

 桜の言うとおり、この男は何者かに操られている。先刻からずっと自慢話ばかりを繰り返しているのだが、まるでエンドレス再生中のコマーシャル動画のようだ。

「桐原さん。何度も言いますが、ぼくは『懐古堂』の四宮さんを迎えに来ただけです。彼女はどこにいますか?」

 老人が息を継いだところで、穏やかに用件を繰り返した。

「四宮さん‥とは、茉莉花さんのことですかね?」

 やっと反応が返ってきたようだとうなずいた。

「そうです。迎えに来たんですよ。彼女に会わせてください。」

 桜の話ではこの邸には妖気が充満していて、茉莉花の気配はとても弱くなっているそうだ。囚われているのは間違いないので、桜に探させている。会わせてくれるはずはないと思うが、桜が戻るまで玲も時間稼ぎをするつもりだった。

 ところが桐原老人は、相好を崩していいですとも、と答えた。

「茉莉花さんはあちらで衣装合わせをしている最中ですがね‥。都合を聞いてきましょう。ええと‥あなたさんはどちらさまでしたか?」

「『懐古堂』です。‥衣装合わせとはどういう?」

「婚礼の衣装合わせですよ。やっと息子の嫁に相応しい娘さんが現れて、たいへん嬉しく思っているのです。」

 いそいそと部屋を出ていく老人の背中についていきながら、訳が解らず狐につままれたような気分だ。

 ―――いったいどんな事態になっちゃってるんだ?

 廊下を歩いていると桜が戻ってきた。茉莉花を見つけたと言う。

「姫さまはご無事ですが‥。霊力の大半を取られてしまっているので、すわったまま身動きができないでおられます。」

 どこにいるのかと訊ねようとした時、老人が振り返って、ここですよ、と微笑んだ。

 案内された部屋はファミリールームのようだった。ソファセットと大型テレビがあって、サイドボードに洋酒とグラスがずらりと並んでいる。モデルルームみたいに生活感のない空間だ。

 大理石のマントルピースの前に置かれた安楽椅子に、白無垢の花嫁衣装を着せられた茉莉花が座っていた。隣に三十半ばくらいの男が立っている。

 茉莉花はまっすぐ玲を見て、なんとこれ以上ないほどにこやかに微笑んだ。

 まるで今日初めて会ったかのように小首をかしげて会釈し、目線を上げて隣の男を親しげに見る。玲は呆気に取られた。

「お客さまですか、お義父さん?」

 男が訊ねると、老人はそうだと答えた。

「おまえの婚約者にぜひ会いたいと仰ってな。ご案内したんだよ。」

「そうですか。ええと‥失礼ですが、お名前は?」

「堂上です。」

 玲の名前を聞いても茉莉花はまったく動揺する気配もみせない。普段まったく浮かべたことのない、にこやかな微笑をふりまいている。

 ―――ご主人さま。これは姫さまではありません。どうぞ落ち着いてくださいまし。

 桜の声が頭の中に響いて、やっと自分がかなり冷静さを失っていたらしいと気がついた。

 確かに茉莉花ではない。茉莉花のはずがないではないか。しかしそれならば―――この女は誰だ?

 ―――傀儡(くぐつ)です。花嫁姿の人形に、姫さまから奪った霊力を着せて姫さまの姿を取らせているのです。隣の男が術師です。

 男は花嫁人形の手を取って立ち上がらせ、肩を抱いて玲を振り向いた。

「堂上さん。義父の話では‥あなたは、茉莉花を訪ねていらしたとか? どんなお知り合いですか。」

 茉莉花と呼び捨てにしたのがめちゃくちゃ癇に障る。それでも表面上は、努めて平静に微笑んだ。

「それはこちらが聞きたい質問ですよ。彼女はこちらへ仕事で伺ったはずですが、いったいどうして突然、結婚するなどという話になったのでしょうね?」

「お互いに一目惚れしたのです。よくある話でしょう?」

 男の瞳が光ったように思った。桜が何かを弾きとばしている。

 ―――ご主人さまに傀儡の糸をつけようとしています。大した力ではございません。どうぞご安心くださいまし。

 玲は微かにうなずいて、冷ややかな微笑を男に向けた。

「まあ、よくある話ですよね。では仕事はすんだと考えてよろしいですか?」

「ええ。すべて解決しましたのでご心配なく。」   

「そうですか。それだけ伺えばけっこうです。お幸せに。」

 男は玲の心を操ることに成功したと思っているようだ。大した能力者ではないらしい。

 では、と会釈して廊下に出るが早いか、玲は桜に茉莉花のいる場所へ案内するよう命じた。

「こちらです。廊下の突きあたりのお部屋です。傀儡師の結界が張ってありますので、桜についてお入りくださいませ。」

 桜のあとについて廊下を走っていき、指示どおりに突きあたりのドアを勢いよく開けた。

 茉莉花は部屋の中央にぽつんと置かれた肘掛け椅子に、無表情な顔でたたずんでいた。

 そうっと近寄ると微かに呼吸しているのがわかる。だが見開いた瞳は虚ろで焦点が合っていない。大丈夫か、と耳元で訊ねても身じろぎ一つしない。常にも増してやけに静かで、ひっそりとしている。血の気の引いた白い顔はこちらのほうがよほど人形みたいだ。

 何かが玲の胸の中で、ぱあんと音を立てて弾けた感じがした。

 玲は冷たい、蝋のように白い頬を両手で抱えて、青ざめた唇に口づけた。目を閉じて柔らかい感触を舌でなぞり、深く貪る。

 唇には低いけれどちゃんと体温が感じられ、微かに洩れる呼気は温かかった。どっと安堵する気持ちがこみあげて、閉じた目蓋の隙間からひと滴の涙がこぼれ落ちた。

「‥‥必ず助けてあげるから。待っていて。」

 脳裏を桜吹雪がよぎる。それから懐紙にくるまれた一房の黒髪。

 今度こそは必ず救い出さねばならない―――記憶にないはずの強い想いが、胸をぐっとしめつけた。


 桜の声に目を覚ました茉莉花は、玲が近くにいる気配を感じた。それとともに、上空に待機している若頭領の気も感じる。

 人形に詰めこまれた霊力を何とかして解放してほしいと桜に伝えたものの、桜は大丈夫、と微笑んだ。

「ご主人さまがいらっしゃれば問題ありません。こんな結界は桜が吹きとばしてみせますゆえ、お任せくださいまし。」

「でも‥桜‥。」

 大丈夫です、と桜は繰り返していなくなったと思うと、まもなく玲を連れてやってきた。

 軽く息を弾ませて近づいてきた玲は、心配そうな表情を浮かべたかと思うと、いきなり茉莉花にキスした。

 ―――何やってるのよ‥!

 どなってひっぱたきたいところだが、あいにくと体の自由はきかないし、防御結界は『懐古堂』の護符付き懐中電灯を懐に入れている玲には作用しないようだ。しかもなぜか感覚のないはずの唇に、目眩がするほど熱い感触を感じてしまう。錯覚だろうか?

 怒りと狼狽と羞恥で胸が破裂しそうになった時、思いがけないことに玲の頬をひと筋の涙がつたった。

 ―――泣いてるの‥?

 驚きすぎて茉莉花は頭が真っ白になった。何が彼に起きたのだろう?

 続けて彼の言った言葉にもっと驚いた。いや言葉そのものよりも、真摯で切なげなそのまなざしにだ。もしや―――?

 玲の背後で桜がにっこりと微笑んだ。

「ご主人さま‥。そのまま姫さまをしっかりと抱えていてくださいね。では、まいりますよ。桜吹雪、破邪の舞‥!」

 桜の姿が(あで)やかな舞装束を身につけた舞姫に変わり、手にした扇を一閃させた。

 たちまち部屋じゅうを桜の花びらが埋めつくし、呻りをあげてくるくると舞い始める。玲は茉莉花の頭を自分の胸に押し当てるようにして、ひしとかき抱いた。

 桜吹雪の風は桜が軽やかに踊るのに合わせて、自在に動き回り、室内に立ちこめていた妖気を一瞬で吹きとばした。そしてすごい勢いで開け放たれたドアから外へ出ていき、邸内の妖気をくまなく一掃していく。

 茉莉花の閉じられた意識の中で、花嫁人形につけられた傀儡師の糸がシュレッダーにかけられたみたいに細切れにされて消滅するのが見えた。

 同時に離れていた霊力がすごい勢いで戻ってくる。

 体の隅々に感覚がよみがえってきた。たった今自分をきつく抱きしめている玲の腕と、少し前のキスの感覚とが急に体に実感となって押しよせてきて、茉莉花は激しく混乱した。

 思わず彼を両手で思い切り突きとばす。

 突きとばされて尻餅をついた玲は、しばらくの間茫然としていた。何が起きたかわからないといった顔で、真っ赤になって身を固くしている茉莉花をじっと見つめる。

 不意にくくく、と可笑しそうに笑い始めた。

「ごめん‥。そうか、動けなかっただけで意識を失っていたわけじゃないんだね。‥殴られないだけましってとこか。」

 それからゆっくりと立ち上がり、晴れやかな笑顔で手をさしのべる。

「行こうよ。こんな場所、長居は無用だ。」

 遅まきながら助けてもらったお礼を言っていないことに気づいたけれど、先に思い切り突きとばしてしまって、今更何と言えばいいのかわからない。ともかくもさしだされた手につかまり、もごもごと消えそうな声で礼を言うと、彼はどういたしまして、と再び頬笑んだ。

 そこへ桜がふわふわと帰ってきた。桜は以前のような幼い童女形に戻っていて、にこにこと満面の笑みを浮かべていた。

「桜‥! 戻ったんだね。でもどうして? やっと満開になったばかりなのに‥。」

「前世でご主人さまに申しつけられた使命を終えたからですよ、ご主人さま。」

 桜は可愛らしい、はきはきした声で答えた。

 一瞬だけ何かを懐かしむようなまなざしを桜に向けて、そうか、と玲はつぶやいた。


 桐原親子は人形の傍らで気を失っていた。後始末を電話で鳥島に頼んで警察に通報してもらい、さっさと屋敷を後にする。

 『懐古堂』へ戻る途中、玲はずっと黙ったままだった。

 彼が何かを思い出したのではないかと感じるものの、あからさまに訊くのはためらわれる。茉莉花が訊ねて彼が答えれば、そこで前世の約束のなにがしかが確定された事実になってしまうだろう。それは今生での玲自身が選択すべきことだ。

 では茉莉花はどうなのだろう?

 だいぶ覚醒時の混乱から頭が冷えてきたので、何か変わったのか現状を検討してみた。

 鍵になるのは先ほどの破邪の舞だ。桜の力が急激に増した理由は何だろうか? 

 桜は本来は、前世の茉莉花の護身刀だったわけで、霊力も姿もその姫から受け継いでいる。今まで桜が持っていた、主人を守護する力は、いわば姫の想いを具現化した力だ。では同様に先ほど茉莉花を助けるために発揮した力は、前世の主人の想いから生み出されたと考えるべきなのか。玲が思い出した、姫への想いから。

 つまりあのキスも涙も前世の玲から姫へのものであって、今生の玲と茉莉花の関係に変化があったわけではない。茉莉花は今までどおり静に徹して、いずれ定まる彼の選択を受け入れるだけだ。

 それにしてもあれは違反だ、とちらりと横顔を仰ぎ見て思った。免疫のない茉莉花には少々刺激的すぎた。もっと軽く、唇に触れるくらいならまだよかったのに、あんなに濃厚な―――いや、考えるのはやめよう。また気持ちがざわざわしてしまう。

 『懐古堂』の軒行灯が見えた時には、心の底から安堵した。

 黒達磨と縞猫が嬉しそうに出迎えてくれるのを見れば、自分がいかに危険だったかと身にしみてくる。

「ね‥。まだ、怒ってる?」

 唐突に玲の声が耳元で囁いた。

 怒っているかとは―――何のことだろう?

「ずうっと怖い顔したままだし、時々ちらちらこっち見て睨むしさ‥。悪かったよ、許可もなくキスしたりして‥。」

 黒達磨と縞猫のほうへ視線を走らせて、茉莉花は慌ててさえぎった。

「その話はもういいの。‥誰にも言わないでくれれば。」

 知らぬ間にくっきり刻んでいたらしい眉間の皺を、指でごしごし伸ばしてみる。

「大丈夫、忘れることにしたし‥。もう忘れたから。」

「忘れた? ‥手厳しいなあ。けっこう本気(マジ)でキスしたのに‥。」

「は‥?」

 苦笑いを浮かべた横顔を、呆れてまじまじと見返した。前世の記憶のせいではないのか?

「だってあの桐原ってヤツが、君そっくりの人形を操ってべたべたしたり花嫁衣装着せたりするから、ちょっと頭にきててさ‥。おまけにあいつ、茉莉花って呼び捨てにしたんだよ? 俺だってしたことないのに。」

「あ‥あたりまえでしょ。」

「そう? でも今から名前で呼ぶことにした。茉莉花って。」

「どうして‥‥!」

 声が思わず上ずってしまった。

「俺がほんとの、君の許婚(いいなずけ)だから。」

 玲はにやっと笑って、絶句している茉莉花を置いてさっさと家に入ってしまった。

 今のはいったい―――どういう意味だ? 

 選択を終えたという意味なのか、それともいつもの気紛れだろうか。わからない。茉莉花は急に頭痛がしてきた。

 家に入ろうとして、裏庭の桜が満開になっているのに気づいた。たった二日でいっせいに蕾が開いたようだ。緩やかな風が流れて、花をつけた枝がそよぐ。

 ふと一瞬だけ、日溜まりの中に懐かしい何かが浮かんだように見えた。


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