第四章
鳥島祐一は『アスカ探偵事務所』近くにある公園で桜を眺めた。
四月も三日になったというのに、まだ半分も咲いていない。今夜は事務所の面々に吉見達也を加えて花見の予定なのに、どこまでもついていないなと苦笑いを浮かべた。
ついていないのは夜から雨だと天気予報が伝えたのもあるし、仕事が終わりそうもないせいでもある。今のところ電話待ちなのだが、昨日かかってくるはずの電話がまだこない。時計を見れば、既に午後の四時になろうとしている。
そこにメールの着信音が鳴った。
急いで確認すると、はたして電話を待っていたクライアントだ。
―――娘は無事帰宅しました。ありがとうございました。
鳥島は思いきり険しい顔になった。
春休みは家出人捜索の依頼がどっと多くなる季節だ。鳥島も三月の中旬あたりからそんな仕事ばかり受け持っている。しかしそれにしても―――この既視感は何だ?
受信メール履歴を見れば、まったく同じ文章のメールがこれで三件目だ。三件とも娘は大学生で二十才前後の年頃だった。
共通しているのはインターネット上のオカルト系サークルに所属しているという点だ。
気にはなるが今は刑事ではない。あくまでも家出人捜索の依頼を受けた調査員だ。家出人が帰宅すればそれで仕事は終了。次の依頼が待っている。
事務所に戻って所長に報告をすると、頭から疑念を振り払い、別の案件に移った。
今度は二十年以上前に別れた妻と息子の所在を捜してほしいと言う依頼だった。依頼者は都内に住む六十代の男性で、別れた当時は一文無しだったが現在は事業に成功してそこそこの資産ができたので息子に譲りたいという。妻は北海道の出身で、離婚後息子を連れて実家に戻ったそうだが詳しい住所は不明だった。
書類を揃えて段取りをつけているうちにすっかり日が暮れた。そろそろ吉見達也との待ち合わせの時間だ。
雨はまだ降りだしていない。
茉莉花の話では桜の木の下にはこの季節、桜鬼が出るのだそうだ。儚い美しい姿で人々を惑わすので、特に夜桜見物の時は注意するように言われた。
「桜鬼は花の散り際に、目の合った人間を連れていってしまうと聞いたことがあります。」
何も感じない人間は問題ないけれども、鳥島や吉見のように少しだけ見える人間は危険だから、と茉莉花は心配そうに眉をひそめていた。最近彼女は出会った頃より表情が動くようになったと思う。
待ち合わせの場所へ吉見達也を迎えに行くと、なぜか一緒に四宮早穂が立っていた。
「桜鬼の話を聞いたから、あたしが一緒にいて結界を張っていてあげることにしたの。だって吉見さんはそういうの、絶対引っかかるもん。」
「あのね‥。まだ満開じゃないしちゃんと君の作ったお守りも持ってるんだから。‥すみません、鳥島さん。夜なんかに中学生が出歩いちゃだめだと言ったのに聞かないんです。」
鳥島は思わず浮かんだ笑いをかみ殺して、姉さんには言ったんだろうね、と確認した。
「もちろん。それにあたし、四月から高校生だもん。義務教育は終了したの。」
早穂はにこりと微笑んだ。
すらりと伸びた手足、濃い睫毛に囲まれた理知的な瞳。私服でいれば大学生でも通りそうな大人びた早穂をつかまえて、頭から子ども扱いするのは吉見達也くらいのものだろう。彼にはどうしても早穂が背伸びした子どもにしか見えないらしい。
早穂はそれがむしろ楽しいようで、妙に懐いてまとわりついている。
茉莉花といい早穂といい、四宮の娘たちは物心つくとすぐに霊力で物を考えなければならなかったせいで、感情のままにふるまうという幼児期を通らなかったのかもしれない。早穂は達也といて、今更ながら幼い少女に戻る感覚を味わっているようだった。
「行こうか。」
賑やかな二人の会話を耳に心地よく感じながら、鳥島は先に立って歩いた。
ちらほらと早い花見客が散見する広い公園に着いて、事務所の面々を探そうと歩きながらきょろきょろしていた時、鳥島は池のほとりにあるベンチでしょんぼりとうつむいている女性に気がついた。
「咲乃さん‥? こんなところでどうしたの。」
怯えた表情で顔を上げた咲乃の頬には、涙の痕がにじんでいた。
ランチを終えた花穂は、一人でぶらぶらとウィンドーショッピングを楽しみつつ、今日の贅沢な時間を反芻していた。
健吾が玲と会ってあらためて話をすると聞いたので、好奇心八割と心配二割で付き添っていったのだが、玲は花穂の顔を見ると、ランチの場所を雑誌などで話題の洒落たレストランに変更してくれた。
「ここって、何日も前から予約しないとだめなんじゃ‥?」
「大丈夫。さっき電話したけどちょうど空いてるって。」
玲は仄かに微笑して、手慣れたしぐさで花穂をエスコートしてくれる。ちょっぴり瑞穂に申しわけなく思いながらも、花穂は大人のレディになったような気分を味わった。
健吾はというと、その点とても不器用だった。よく似た顔をしているのに、まったく正反対の雰囲気だ。逆にだからなのか、健吾は玲を眩しそうに見上げる。すっかり主人として慕っているようだ。
玲は健吾に白炎について簡単に説明し、白崎健吾という男は白炎と契約をしている、と告げた。
「白炎は月夜見の神さまの神力に阻まれて、人間界へは二度と戻ってこられない定めだ。だが契約をたどって霊力だけをこちらへ送りこもうと企んでるふしがあるんだ。うちの姫さまが言うにはね、鬼人の霊力は凄まじいモノだから、仮に全部送られたりしたらいくらでも分身なんか作れちゃうんだって。そうしたら本体がいようがいまいが同じで、あっという間に人の世はメチャクチャになっちゃうだろうね。」
怖ろしい話を、噂話の一つでも楽しむかのようにあっさりとした口調で話す。
「だからね、君が白炎とは違う自我を保つのが肝心なんだそうだよ。君が白崎健吾でいる限りは、ここにいる花穂さんを始めとした人間はみんな、無事でいられるわけ。君が白炎に乗っ取られちゃったら、いちばん初めに危険なのは花穂さんだろうね。あいつの領域に取りこまれて霊力ポイントの人柱にされちゃうかも。」
「そんな‥。それは困ります。花穂さんは‥恩人ですから。」
「恩人? それだけには見えないけどね。」
くすりと笑って玲は頬杖をつき、返事を催促するようにじっと健吾を見つめる。健吾は真っ赤になった。
「いや‥だって、そのう‥。花穂さんは‥きれいだから‥‥」
「きれいだから?」
「ええと‥。その‥見てるだけで幸せって言うか‥。お、俺は‥花穂さんが幸せそうに笑っていてくれれば‥」
健吾はうつむいたままでちらりと、アイスクリームを頬張っている花穂を見た。
「それで俺も幸せだから‥。」
再び熟れたトマトみたいに真っ赤になる。
花穂はありがと、とにっこり微笑んだ。
「熱烈なラブコールだな。うちの姫さまが君のことを生まれたての赤ん坊みたいに無垢だと評していたけど‥。確かにそんなふうだ。さしずめ、花穂さんはママってとこかな?」
微笑を浮かべて玲はコーヒーをすすった。
「ともかく頑張って。君の存在を引き受けると言ったからには一蓮托生なんだからさ。仲良くしようよ。」
「お‥願いします‥。」
健吾は神妙な顔でぺこりと頭を下げた。
夕闇の中で印象に残るのは、噂に違わぬ美味だったフルコースのランチと―――しかもおごりだ―――桜がなかなか満開にならないとつぶやいた時の玲の小さな吐息。
平気な顔で鬼人の分身の身元引受人なんかになっちゃう大胆さと、霊力がないのに花穂の美貌にまったく動じない強さ。やはり瑞穂の手に負える相手じゃないとしみじみ思う。
花穂は何となく切羽に会いたくなった。
でも今は会うべきじゃないとわかっている。切羽はいろいろな意味で侮れない相手だから、すぐに花穂の体にまとわりついた健吾の妖気を感じ取ってしまうだろう。問い詰められればあの漆黒の瞳から逃れられる気がしない。
四宮本家も夜鴉一族も、健吾の正体を知れば必ず滅しにかかるはずだ。分別があれば誰でもそう考える。だが花穂だけでなく茉莉花もためらってしまった。健吾を救う道があるほうへ天秤を傾けたのだ。この件に関して花穂は『懐古堂』の二人と同じ立場を取っているから、瑞穂にも切羽にも打ち明けるわけにはいかなかった。
玲はたぶん健吾に同情したのではなく、茉莉花の代わりに決断したのだろう、と花穂は思う。彼自身は必要ならば健吾を見捨てるなど何の躊躇もなさそうだが、あえて茉莉花に彼女自身の望まない選択をさせたくなかったのだ。だから代わりに選択と決断を引き受けた。
花穂はその意味をよくよくかみしめてみた。
愛情って何だろう? 花穂はよく好きだと告白されるのだが、未だ他人に深い縁を感じたことはない。自分は何かを待っていると思うのだけれど、その何かはまだ現れない。
夜鴉の若頭領は茉莉花に執心だそうだ。若さまなら茉莉花を護るために、考える間も与えず健吾を消滅させてしまっただろう。一時の感傷で、二人して手を取り合って危険な道を行く必要などない。それが大人の分別だ。
茉莉花は花穂から見たらずいぶんと大人だが―――『懐古堂』はそもそも境界の場所。すべてが曖昧なのが彼女の本分だ。可能性が一パーセントでもある限り健吾を助けたいと、たぶんあの瞬間彼女は思った。だから玲は、彼女の進みたがっている危険で先の見えない道を一緒に行くだけでなく、重いほうの荷物を躊躇なく背負った。
どんな時も護ってくれる人とバカげた決断でも受け入れてくれる人のどちらが、より深く愛していることになるのだろうか。花穂はどちらの種類の愛情が欲しいだろう?
宵闇がざわめく街をゆるやかに包んでいく。
懐に抱いた淡い緑色の珠とそこに眠る精霊に、花穂は翡翠と名をつけた。
翡翠が目覚める時はたぶん、花穂が何らかの選択をする時だ。そんな予感がひしひしとこみあげる。その時翡翠はいったいどんな音を鳴らすのだろう?
豪華な三段重ねのお弁当を広げて、早穂は初対面の人たちに礼儀正しく挨拶をした。年長者への第一印象はどんな時でも良いほうが、あとあと都合がいいものだ。
みなが口々に美味しい、料理上手だね、などと褒めてくれるので、はにかんでみせたりする。評判は上々、早穂の思惑もまあまあ上首尾といったところなのだが。肝心の達也は早穂にも早穂の料理にも今一つ関心が薄いようだった。
少し離れたベンチで鳥島と深刻そうな話をしている咲乃のほうばかり、ちらちらと見ている。早穂は面白くなかった。
「‥‥そんなにうちの従姉が気になるの?」
小声で訊ねると、ほんのり赤くなったりしている。
「今どき清楚で品のいい人だよね。女子大生? いくつなの?」
「二十一になったばかり。ねえ、吉見さんて泣き顔に弱いの? 翠さんの時もそうじゃなかった? 言っておくけど、咲乃には強面の彼氏がいるのよ。うっかり下心持って近づいたら、命の保証はできないから。」
「じゃ、もしかして‥。その彼の暴力問題で悩んでいるとか?」
「‥‥全然違うと思うわ。彼は咲乃には赤面しちゃうほどベタ甘だもん。つい一昨日も路上キスしてたし。あたしと茉莉花さんがいるのに、ガン無視よ?」
「へえ‥。情熱的なんだね‥。」
結局咲乃に見惚れている。いったいどうしたのだろうと首をひねって、早穂ははっ、と気がついた。これは早穂のお守りのせいなのでは?
早穂のお守りは、物の怪除けの機能の他に女性除けもついている。かなり強力に作ったはずだが、咲乃の霊力は桁外れだからまったく効果はないだろう。それどころか反作用して、逆に惹きつけられる情況を生んでいるのかも。
「あ‥あのさ、吉見さん。あたしがあげたお守りなんだけど‥。」
「ん? ああ、いつもちゃんと持ってる。‥助かるよ、これ。仕事で遅くなった時なんか、よく路上でへんな黒いモノ見ちゃったりするんだけど、お守りのおかげでそういうのが一切寄ってこなくなったんだ。ほんと、ありがとう。」
「ああ‥そう。役に立ててよかった。」
まずい。女性除け機能もついてるなんて言えない。
そこへ少し明るい顔になった咲乃を連れて、鳥島が座に加わった。
咲乃は早穂を見つけて、まあ、と頬笑んだ。ほっとした顔で隣に腰を下ろす。
「早穂さんが鳥島さんと知り合いだったなんて、知らなかった‥。一昨日も会ったばかりだし、偶然って重なるものね。」
早穂は従姉だとみなに紹介した。咲乃はお酒が飲めないからとウーロン茶を注いでもらい、急に参加させてもらうことになって、とすまなそうに挨拶した。
ふと気づくと、達也以外の男性もほとんどが咲乃に注目している。
あらためてよくよく見ると、今までまったく気づかなかったが咲乃は相当な美人だった。なぜ気づかなかったのだろう?
本家にいた時には地味で目立たない印象だった。あれは祖母が霊力を封印していたせいだったのかもしれない。けれど最近でもこんなにきれいだと感じたのは初めてだ。
―――そうか。黒鬼の気配がないんだ。
いつも咲乃を包みこんでいた黒鬼の霊気がほとんど感じられなかった。今は咲乃自身の霊力だけが彼女の体を取りまいている。
咲乃の泣いていた理由が急にわかった気がして、早穂は何だか胸が痛くなった。一昨日のキスシーンは映画の一場面みたいに目蓋に焼きついている。あんなに仲が良かったのに、いったい何が起きたのだろう?
早穂はそっと席をずらして、鳥島のほうへ近づいた。
「鳥島さん‥。咲乃、いったいどうしたの?」
鳥島は小さく首を振った。
「何も言わないんだ。喧嘩したわけじゃないらしいが‥。待っている、と言ってたな。早穂ちゃんは何か感じるのか?」
「咲乃のまわりにいつもあった黒鬼の気がきれいになくなっているの。用事があってどこかに行ったとしても‥人間界じゃない場所だと思う。」
早穂はひそひそと一昨日白鬼が現れた話をした。鳥島はびくんと一瞬肩を揺らしたが、すぐに平静な顔に戻った。
「じゃ‥そいつに呼ばれて、鬼人界へ戻ったのか?」
「その時はまったく考えなかったけど、そうなのかもね。」
ふうん、と鳥島は咲乃を不憫そうに見やった。
彼の恋人だった尾崎亜沙美の体には咲乃の母の紫が入っていて、息を引き取る間際に咲乃を頼むと言い遺したそうだ。だからなのか鳥島の咲乃への視線は、年齢差のわりに標準的な父親目線に近い。
「きっと戻ってくるよ‥。俺はそう信じてる。」
そうね、と答えつつ、早穂は若頭領が茉莉花に言った言葉を思い出した。
―――あのガキが結論を出したら、教えてやる。
結論って何だろう? だいたいそもそも黒鬼はなぜ人間界にいたのだろう?
早穂は咲乃の隣で親身に世話を焼いている達也を見て、少しだけ腹が立ったものの、まあ今夜だけは貸してやろうかと傲慢に考えた。