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第三章

 まだあと丸一昼夜あるはずの修業の途中で、磯貝要は禊ぎ場の隅で泣いている女の子を見つけてしまった。

 年の頃は三才くらいだろうか。七五三の三つのお祝い着みたいな格好で、肩口で切り揃えたまっすぐな髪を振り乱し、しくしくと泣いている。どう見ても人間ではない。

 ああ見えてしまったと困惑しながら、最初は我慢して無視していた。

 何しろ罰として命じられた修業の最中だ。これ以上瑞穂に叱られるのは困る。祖父や実家の体面を甚だしく傷つけているという自覚は、さすが暢気な要にも十分にあった。

 しかしなぜ、本家敷地内の人でないモノたちはいつも要に寄ってくるのだろう? 要は不思議に思った。

 もっと頼りがいのありそうな―――たとえば瑞穂とかに訴えればいいのに。下っ端の要は本来忙しい立場で、小さな物の怪たちの苦情係ではないのだ。

 目を閉じて無視していると、女の子の気配はだんだんと近づいてくる。それでも無視していたら急に髪を引っぱられた。

「ちょっと‥。見えているのでしょう? どうして幼気(いたいけ)な女の子が泣いているというのに無視するのよ? この人でなし‥!」

 幼気な女の子が人でなしなんて罵るだろうか、と心から疑問に思う。

「俺は今、大事な修業中なんだ。頼みごとがあるなら別の人のところへ行ってくれよ、お願いだから。」

 女の子はつんと口をとがらせて、だめなんだもん、とつぶやいた。

「他の人にはあたしたちが見えないの。あたしたちは四宮に仕える精霊なんだけど、もう百五十年近くも本家にはあたしたちの声を聞いてくれる人がいないのよ。おかげで困っちゃって‥。去年の夏の騒ぎの時だって、あたしが一年以上も前から異変があるって一生懸命に教えていたのに、誰一人気づいてくれなかったし。」

 そうして彼女は悲しそうに要を見上げた。

「お願い、あたしの妹たちを助けてあげてよ。とっくに目覚めているのに蔵に閉じこめられたままなの。あたしの姫さまは‥全然あたしの声を聞いてくれないし。あなただけが頼りなんだってば。」

「わかったよ、わかったけどね‥。明日の正午まではここから動けないんだ。そのあとでもいいだろう?」

 だめ、と女の子は癇癪を起こして、要の背中をバンバン叩いた。

「だめ! 明日じゃだめなの‥! あなた、能力者のくせに一昨日の騒ぎに気づかなかったの? 白鬼がまた現れたのよ、あたしたち姉妹が急いで必要なんだから!」

「白鬼‥? またって‥何、それ?」

「白い鬼人よ。去年の夏に五百年続いた四宮の結界を、おぞましい蜘蛛の巣に変えちゃったヤツ。もっともその時は、あたしが破壊したんだけどね‥。」

 自慢げに鼻をうごめかして、説明してくれた。

 要にとってはまったくの初耳だった。鬼人なんてこの世にほんとうに存在するのか?

「とにかく‥。瑞穂お嬢さまの許可がなきゃここから動けないし、蔵の鍵も手に入らないんだよ。明日の午後になったら‥‥」

「じゃ、姫さまのところへ行きましょ。あたしが頼むから、あたしの言葉を通訳してよ。」

 女の子は要の言葉をさえぎり、腕を引っぱった。

「君の姫さまって‥誰?」

「瑞穂さまよ。姫さまにはあたしは見えないけど、あたしは姫さまの秘密をいっぱい知ってるから、教えてあげる。そうすれば信じてくれるわ。‥急いでってば。」

 秘密って―――それは困る。いや教えてもらうのは一向にかまわないけれども、聞きましたって瑞穂に告げなきゃいけないのは非常にまずい。

「早く、早く! 四宮が今度こそ完全になくなってもいいって言うの?」

 それはよくないが―――要の身の安全は誰が保証してくれるのだろう?

 要は溜息をついて、仕方なく禊ぎ場から外へ出た。


 要が執務室に顔を出した時、あいにく瑞穂は非常に機嫌が悪かった。

 早穂を通して『懐古堂』から得た情報では、夢魔を作り出していた男は人と物の怪の中間的存在で、今は安定しているから任せてほしいとのことだった。妹たちがそれでいいだろうと言うので、『懐古堂』預かりで了承したものの、どこか釈然としない。

「堂上さんの知り合いだったみたいよ。瑞穂にくれぐれも謝っておいてほしいって、堂上さんからの伝言。」

 玲から頼まれたのでは仕方がないけれど、瑞穂の直感では聞いた以上の裏があるような気がしてならない。

 そこへおずおずとした声が聞こえ、禊ぎ場にこもっているはずの要が顔を出したので、瑞穂の顔は思い切り険しくなった。

 瑞穂が口を開く前に、要は畳に手をついて深々と頭を下げ、さぼっているわけではないのだと説明し始めた。

「‥四宮に仕える精霊? 聞いたことがないけれど‥。」

「はい。百五十年近く、本家では精霊が見える能力者がいなかったそうで‥。」

「それがあなたには見えるって言うの?」

「見えるどころか‥さっきから殴られたり蹴飛ばされたり‥いてっ!」

 要はよろめいて転びそうになった。

「ここにいるんですけど‥。あの、瑞穂お嬢さまに仕えているという女の子が‥。ほんとに見えないですか‥?」

 今にも泣きそうな情けない顔で、瑞穂を見る。瑞穂は溜息をついた。

「それで‥? その子の名前は何? あたしに用があると言うの?」

 要は隣にいるらしい何かを見つめていたが、更に困惑した表情を浮かべた。

「名前は‥つけてもらってないからないそうですが‥。本体は肌身離さずお傍においていただいているとか‥。昨年の夏、母屋を倒壊して白鬼の呪術から本家を救ったのは自分だと‥。」

 瑞穂の眉がぴくりと上がった。

「白鬼ですって‥? どこから聞いたの、そんな話。磯貝が話したわけ?」

「ち、違います。祖父は俺には何も‥。まだ未熟者だからって、内情については一切話してはくれません。こ、ここにいるこの子が言うんです。」

「ふうん‥。他にはなんて言ってるの‥?」

 要はまた何もない場所に視線を合わせ、それから思い切り嫌そうな顔をした。

「えーっ、そんなこと言えないよ。‥‥他の人は絶対に知らないから? でもね‥。」

「ぶつぶつ言ってないでさっさと言いなさい。なんて言ってるの?」

 しぶしぶと振り向いて彼は愛想笑いを浮かべ、怒らないでくれと前置きした。

「瑞穂お嬢さまの‥そのう、好きな人にも‥精霊がついていて‥。そちらは名前を呼んですごく可愛がられているとか‥。毎晩一緒に寝ていて、外出の際は懐の中や肩に乗って出かけるそうで‥。自慢されて悔しい思いをした、と‥あ、泣き出しました。」

 瑞穂は真っ赤になって、要の視線の先をじっと見た。ぼんやりと淡い霞のようなモノがふわふわと動いている気もする。

「す‥好きな人って‥。名前も言ってた?」

「いえ‥。でも‥その人には前世からの‥。待てって、それは絶対言えないって!」

「前世からの何? 言いなさいよ。」

「‥俺じゃないですよ、言ってるのは。」

「わかった、信じるから。その人には前世からの何?」

「前世で約束した許婚がいるそうです。約束どおり、今生でめぐり逢ったとか‥。」

 茉莉花の言葉が脳裏によみがえる。

 ―――あの人には守護精霊がついていますから‥。

 ―――わたしにとっては一応許婚に当たるのですけど‥。

 あの言葉は前世からの縁を示していたのかと思えばがっくりくる。瑞穂は目眩がしてきて、頭を抱えた。

「あ‥あの‥。瑞穂お嬢さま‥? 信じていただけたならばですね、本題の用件がありまして‥。」

「なあに? 信じるわよ。そこにいるのは龍笛の精霊なのね? 名前を付けてあげなくて悪かったわ。相応しい名前を考えておくわね。」

「はあ‥。とっても嬉しいそうです。で、用件なんですが‥彼女の妹たちが蔵で目覚めているので、出してやってくれと‥。」

「妹たち? 箏と鼓なの?」

 瑞穂は顔を上げた。

「はい。蔵で泣いているそうです。‥それから一昨日白鬼が現れたのは‥予兆だと。」

「予兆‥?」

 どうして要が白鬼の件を知っているのだろう? 考えるまでもなく、龍笛に聞いたのだと思い当たる。では精霊はどうしてわかったのだろう?

「ちょっと‥。それも精霊に聞いたのよね?」

「はい。」

「精霊ってそんなに感得力があるの?」

 ちょっと黙ってから要は言いにくそうにおずおずと付け加えた。

「あの‥もっと可愛がって大切にしていただければ、もっともっと力を発揮できるはずだと‥。精霊が言うんですよ、俺じゃありませんから。」

「わかってるから、いちいち言い訳しないの。男でしょ、しっかりしなさいよ、もう!」

 叱られて、要は悄然とうなだれた。

 なぜよりによってこんな男に百五十年ぶりの能力が授かったものかと、頭痛がしてくる。確かに四宮の血を引いてはいるが―――四宮の本道を表す能力ではない。

「とにかくその子を連れて一緒に蔵に来て。あたしには見えないんだから、あたしの代わりに抱っこしてあげてね。ちょうどいい、あなたを精霊たちの世話係に任命するわ。特に龍笛、箏、鼓の三姉妹のね。よく可愛がって面倒見るのよ。いい?」

「えーっ、そんなあ‥。すっげェ、わがままなんですよ‥。」

「当主命令。他の人にはできない仕事なんだから、光栄に思いなさいよ。ねえ、龍笛さん。可愛い名前と綺麗な名前のどっちがいい?」

「‥綺麗な名前でお願いします、と言ってます。力がつけばどんどん成長して、成熟した美女になるんだそうです。‥‥ほんとかよ。」

 最後の言葉はぼそっと付け加えられたようだが、瑞穂が咎めるまでもなく龍笛は自分で頬を引っぱたいたらしかった。要の頬にくっきりと、真っ赤な小さい手の跡がついている。

 思わず吹き出しそうになるのをこらえて瑞穂は立ち上がり、行くわよ、と声をかけた。


 磯貝と花穂と早穂を呼んで、古い道具蔵に向かった瑞穂は驚いた。

 封印の札を解除して入った蔵の内部には、たくさんの気配が充ち満ちていた。ざわざわと澱んだ空気が揺れ動き、奥にある葛籠(つづら)がぼうっと光っている。

 初めにひえっ、と叫んだきり、重たい扉戸の陰に隠れたまま出てこない要を振り返って、瑞穂は中へ入ってくるよう命じた。

「何がどれだけいるのか、見える限り教えてちょうだい。」

「無理‥! 入ったら二度と出られない予感が‥‥」

 祖父の磯貝が、要のめいっぱい退けている腰をぐんと前へ押し出した。

「バカ者! お嬢さまに何という口の聞きようだ!」

「だって‥。怖いんだもん。デッカいのから小さいのまで、二十はいますよ‥。ほんとにみんな精霊?」

 前につんのめって、膝をついた格好で要は隣の霞っぽい塊を見上げた。

 龍笛はそうだと答えたらしい。瑞穂は蔵の真ん中にすっくと立って、回りを取り囲んだうごめく気配たちをぐるりと見回した。

「二十はいる、ね‥。みんないつから目覚めていたの‥? ずっと前からここに閉じこめられてたわけ?」

 瑞穂の背中に寄りそうように立つ花穂と早穂を見習って、要も瑞穂の横にはりついた。

「ええと‥。いっぺんに話しちゃわからないから、代表が前に出て。‥誰? わっ、デカっ! あんまり近づくなよ!」

 もやもやとした大きな気配が要を押し潰しそうになったのを感じた瑞穂は、彼の腕をつかんで引っぱってやった。要は息を弾ませて、瑞穂の袖に縋りついた。

「で、何て言ってるの?」

「‥‥目覚めたのはこの正月だそうです‥。あのう‥言いにくいんですけど‥。俺が本家に来た時みたいです。」

 なるほど。百五十年ぶりに精霊の声を聞く能力者が現れたので目覚めたわけか、と納得する。

「かわいそうに‥。なぜもっと早く、精霊について進言しなかったの?」

「今日まで、俺以外には見えないって知らなかったんです‥。みんな見えてるんだと思ってて‥。」

 瑞穂は呆れ返った。花穂と早穂はくすくす笑っている。

「仕方のない人ね‥! 自分で自分の能力属性くらいわかってなかったの? 北家にいた時には修業してなかったわけ? それともサボってたの?」

「はあ‥。四宮では男に能力があるはずがないと、祖母も伯母も取り合ってくれませんでしたから‥。正月の訓示で本家の登用試験があると聞いたもので、ためしに受けてみたら受かっちゃって‥。ですから本家に来るまで、修業なんて何にも。」

 はああ、と溜息をついて、瑞穂は気配のうごめくほうへ向き直った。

「まあ、いいか。これで要くんの属性はわかったから‥。もう見習い修業はしなくていいわ、お蔵番を務めてもらうことにする。ここにいるモノたちは全員、四宮に仕える精霊たちなんでしょ? そのとりまとめ役よ。」

 要はものすごく情けない表情を浮かべた。

「‥まさか、こいつらの世話係ですか?」

「世話係は龍笛と箏、鼓の三姉妹だけ。他のモノたちは四宮の式神としてあなたが使役できるようにするのよ。」

「し‥式神? どうやって?」

「しばらくあたしに付いて特別に修業を積んでもらうわ。言っておくけど、そんな弱腰じゃ精霊は使えないわよ。心を強く持つのが肝心なんだから。‥花穂、早穂、笑ってる場合じゃないから。あの奥の葛籠を開けて、それぞれ自分のパートナーを見つけなさい。」

 妹たちが言われたとおりに奥の葛籠を覗きこんでいる間に、瑞穂は龍笛と思われる朧気な霞の塊に話しかけた。

「ね? 今、不意に頭に浮かんだんだけど‥。あなたの名前、紅蓮ていうの、どう? あなたが繰りだす赤い炎みたいな刃からイメージしたの。」

 霞はふわふわと揺れ動いて、やがてうっすらと透きとおった少女の姿になった。

「‥‥すごく嬉しい、と言ってます。」

「うん‥。笑ってる顔がぼんやりだけどあたしにも見えたわ。‥もっともっと絆が深くなれば、姿もはっきりするし声も聞こえるようになるわよね?」

 透きとおった少女ははにかんだ顔でもじもじして、小さな頼りない手を差しだした。

「紅蓮。こちらこそ、よろしく。あたしの大事な相棒さん。」

 瑞穂は少女をそっと抱きしめた。


 花穂と早穂はそれぞれ、古ぼけた箏と鼓を手に取った。

 すると花穂の手の中で、箏は瞬く間にピンポン球くらいの緑色の珠に変わった。

「なんで‥? てっきり弦楽器に変化すると思ったのに‥。あたしじゃだめなのかしら。」

 あたしも、と早穂が不思議そうに言う。その手には同じような青い珠があった。

「ちょっと、要くん。こっちへ来て。あたしの箏の精霊さんに、どうしてなのか聞いてみてよ。」

 花穂に呼ばれた要ははい、と大きな声で返事をして嬉しそうにすっ飛んでいった。

 ―――何よ、あの態度の違いは‥!

 瑞穂の前ではいつもおどおどしているくせに、花穂の前ではへらへらとにやけた笑いを浮かべている。

 まあ考えてみれば、要に限らず本家にいる男性はすべからくそんなふうなのだが、と思いつつ、隣でほっとした顔をしている老家令を見やった。磯貝だけは別だ。瑞穂を下から見上げずに、いつもまっすぐ正面から見る。

「瑞穂お嬢さま‥。ではあれは‥本家でお役に立つ見こみがついたのでしょうか‥。」

「そうね。本家としては重要な役目だから頑張ってもらわなきゃね。外に出る役目ではないから、修業してちゃんとこなせるようになれば家令見習いの時間もできるでしょうし。でもそれまでは磯貝、まだまだ隠居は許可できないわよ。いい?」

 はい、と老人は静かに答えた。

 この落ち着きがなぜ遺伝しなかったものか、とつくづく残念に思う。

 花穂と早穂の精霊は、まだほんの赤ん坊らしかった。ずっと姿を保ってはいられないので、普段は珠になっていていざという時に術具の形を取るのだそうだ。

「じゃあ‥あたしたちが可愛がって育ててあげればいいのね?」

「たぶん‥。何しろ、片言だし赤ん坊だし、言葉がよくわかんなくて‥。龍笛の紅蓮さんが言うにはそうらしいです‥。いたっ! なんで蹴飛ばすの?」

 どうやら紅蓮は要に『紅蓮さま』と呼べ、と強要しているらしい。

 瑞穂は紅蓮を叱った。

「紅蓮。わがまま言っちゃだめ。要くんはれっきとした四宮本家の能力者なのよ。あなたは四宮に仕える精霊でしょ? 敬称はなくていいの。」

 紅蓮はしぶしぶ納得したようだった。

「要くんも精霊に『さん』なんて迂闊につけちゃだめ。紅蓮にとってもよくないのよ。あたしたちはみんな、四宮本家そのものの霊力の流れに包まれて関わり合っているんだから、存在の立ち位置を間違えると力が正しく発揮できなくなるの。」

 要のほうは紅蓮と違って、頭上にはてなマークが飛びかっているようだ。

 まあ今まで何の修業もしていないのだから―――いやどちらにせよ分家では、霊力の在りようについての認識がずれているから、徹底的に基本から仕込まなければいけない。

 瑞穂は懐から龍笛を出して、ゆったりとした曲を奏でた。

 蔵の中にたちこめたざわめいた空気を、瑞穂の霊力で調えるためだ。曲に合わせて透きとおった紅蓮が柔らかな春の風のように舞い踊る。

 やがて曲が止むのと同時に紅蓮は瑞穂の肩にふうわりと下りた。蔵の中は見違えるように明るくなり、清廉な空気が満ちた。

「すごいですね! みんな、眠っちゃった‥。瑞穂お嬢さまはほんと、すごいんだな‥。」

 要が感嘆の声を上げる。祖父に訊ねられて、情況を説明しているようだ。

 瑞穂は紅蓮の髪を撫でながら、くるりと振り向いて、蔵の鍵を要に渡した。

「感心している場合じゃないわよ。今日はあたしの霊力を使って蔵の場を調えたけど、明日からはあなたの霊力でやるんだから‥。これから当分の間、朝は日の出前に蔵の掃除をして朝食後に執務室に来て。いいわね?」

「あのう‥。罰が明日の正午まで残ってるんですけど‥。」

「それはもういいわ。お昼ご飯のあとで、蔵の目録で精霊たちをチェックするからもう一度執務室に来て。‥花穂、早穂。あなたたちも昼食がすんだらその珠を持って来てちょうだいね。扱い方を紅蓮に確認するから。」

 花穂が困った顔をした。

「あたし‥。一時にランチの約束があるんだけど‥。今じゃだめ?」

「あたしはいいけど‥。要くんがいないとね。紅蓮の声を通訳してもらわなきゃならないから。‥彼は禊ぎ場にいたのよ、お腹が空いているはずでしょう?」

「あ、大丈夫です。ほんとなら明日まで水だけだったんですから、全然問題ないです。」

 瑞穂が口をはさむ前に、花穂は要に向かってありがとう、と微笑んだ。要はぽっと赤くなって、にやけた顔になる。

 呆れ返った瑞穂に隣の早穂が、あたしもいいよ、と同情的に囁いた。


 昼食のあとで、瑞穂は椎名を呼んだ。

 夢魔の件についての『懐古堂』からの事情説明は、椎名も一緒に聞いた。瑞穂が了承したので彼は何も口をはさまなかったけれど、恐らく椎名には椎名なりの情報があるはずだった。その点を問い質しておこうと思ったのである。

 ところが椎名はややうつむいて、彼にしては珍しく答えるのを逡巡していた。

「どうしたの?」

「いえ‥。『懐古堂』さんの説明には一応、裏を取りました。今朝ほど『懐古堂』の護符を身につけている男を感知して観察しましたが、問題はなさそうです。気配はほとんど人間で、妖力は微少しか感じません。ただ‥」

「‥ただ?」

「どこかで見たような気がしたのです。その場では思い出せなくて、本家に戻ってきてから急に思い出しました。眼鏡がなくて雰囲気がかなり違うのですけど、昨夏の事件の時に最後に入っていった長谷部遼一という男に似ているのです。」

「長谷部‥‥。」

 瑞穂は高級ブランドスーツに身を包んだ上品な物腰の男を思い浮かべた。

「もっとも別人かもしれません。今朝の男はコンビニの店員だったんですが、温和しそうでちょっと暗い感じがしました。長谷部は堂々とした華やかな雰囲気の男でしたから、顔が似ていても受ける印象が正反対です。他人のそら似かと思ったんですけど‥。」

 椎名は自信がなさそうに首をかしげた。

「微かに感じた妖力に‥お香みたいな匂いを感じたんです。やっぱりあの事件の時にそんな匂いが漂っていたなと思って‥。」

「お香のような匂い、ね‥。」

 瑞穂は下を向いて考えこんだ。

 長谷部遼一のことは瑞穂も憶えている。『懐古堂』への伝言を届けに来たと言って、物の怪提灯代わりの懐中電灯を持って中へ入った人だ。あの提灯があるから夜鴉一族もすんなり結界の中へ彼を入れていた。そう言えば出てこなかったが、茉莉花たちと一緒に帰ったのだろうと気にもしていなかった。

 今回の物の怪もどきは玲の知人だと言うのだから、長谷部遼一とも知り合いだったと考えて不思議はない。物の怪は人の姿を取る時に、自分がよく知っている相手の姿になったりするものだ。だから似ているのはいいとして―――問題はお香のような匂いだ。あれは鬼人の霊力が発する香りではなかったか?

「それから‥。当該の男は先ほど午後一時に勤務を終えましたが‥。待ち合わせをしていたようで、女性と手を繋いで新宿駅のほうへ向かいました。」

「待ち合わせの相手は人間なの‥?」

 瑞穂は驚いて椎名を振り返った。

 すると椎名はなぜか、窓のほうへ視線をずらす。

「その‥。実は‥花穂お嬢さまでした。」

「はあ? 花穂ですって?」

 よりによってランチの約束とはその、人ではない男なのか。瑞穂は頭を抱えた。

 長谷部遼一に似ているのならば、そこそこ美形なのだろう。花穂はだいたいが面食いなのだ。だがいくら何でも人ではない気配くらいつかめないはずがないだろうに。知っていてつき合っているなら―――明らかな掟違反だ。

「椎名、花穂の件はしばらく誰にも言わないでいて。まさか掟違反じゃないと思うけど、確認してみる。」

 椎名は普段の静かな瞳にわずかながら同情の色を浮かべ、低い声で答えた。

「瑞穂さま‥。わたしは誰にも言うつもりはありません。その男はほとんど人でした、現にわたしは『懐古堂』の護符を手がかりにするまで、男の発する微かな妖気に気づかなかったのですから。花穂さまは気づいてらっしゃらないだけだと思います。」

 ありがと、と瑞穂は呻くように答えた。


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