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第二章

「白鬼がまた現れた‥‥?」

「ええ。でも白炎ではないの。どうやら黒鬼さんに会いに来たみたい。」

 翌二日の朝、起きだしてきた玲に、茉莉花は昨日のできごとについて話した。

 玲は昨夜は神域で深夜まで宴会だったそうで、下界の騒ぎなどはまったく知らなかったらしい。桜もびっくりして、怯えた表情でまあ、と叫んだ。

 桜はあれからずっと大きいままだった。十三、四の童女の姿で、はしゃぐこともケーキをねだることもなく物静かに玲の背後に控えている。

 本人の説明によれば、桜の時期はこの姿になると前世で主人と約束したのだそうだ。

 なぜかと訊ねると、ぼんやりと首をかしげた。連夜押しかけてくる夢魔を退散させるのにかなり消耗しているせいなのか、大きくなっているせいなのかわからないけれど、桜はだいぶ薄まっていて、昔の記憶を鮮明にするのは難しいようだった。

 玲は表情にはあまり出さないがすごく心配していた。時折本体へ戻って休むようにと命じている。だが桜は素直に戻るものの、一時間もしないうちに出てきて彼のそばをついて歩いた。

 今年はまた不都合なことに桜の開花がひどく遅い。咲き始めは例年どおりだったのに、冷たい雨が続いて、蕾がなかなか開かなかった。

 これも夢魔の異常発生と関係があるのだろうか。

 茉莉花は早穂がもたらした夢魔の情報についても説明した。桜のためにもとにかく、夢魔の出所をつきとめて、なぜ玲を目がけて毎夜やってくるのか解明しなければならない。

 玲は自殺未遂事件が頻発している点に興味を示した。

「二十前後の若い男がターゲット? 飛び下り自殺を誘っておいて、自分が下敷きになって消える? それ、うちに来るのとほんとに同じモノなのかな。」

「そう思う。‥飛び下り自殺を誘っているというより、悪夢から逃れようとして窓から飛び出すのでしょう。よほど怖い夢なのね。」

 茉莉花はお盆を持ってきて、朝食の後の食器を片づけながら答えた。

 流しに運んで洗い始めると、玲は隣にきて布巾を手に取った。

「‥‥いっぺん、見てみようかな?」

「バカなこと言わないで。死にたいの?」

「だって夢魔が助けてくれるんだろ?」

「あなたのことは助けないかもしれないでしょ? 本命なんだから。」

「どうして本命ってわかる?」

「毎晩来るじゃないの。他の人には一回だけよ。」

「同じヤツが毎晩うろうろしているのかも。でなきゃ一回来たらちゃんと悪夢を見るまで来続けるとか?」

「取り憑けなかった夢魔は朝には消滅するの。他の人の場合はさまよってきた夢魔がたまたま取り憑いたのでしょうけど‥。ここは学園から五キロどころか二十キロは離れているし、狙っているのでなければ『懐古堂』の結界を潜り抜けて入りこめるはずがない。」

 ごしごしと茶碗を洗いながら、辛抱強く答えた。

 いっぺん見てみたいなどと話題のホラー映画じゃないんだから、と少々腹が立つ。こんなに心配しているのに―――桜の消耗が激しいからだけれど。

 茉莉花がすすいだ食器を慣れた手つきで素早く拭き上げながら、玲は、でもね、と吐息をつく。彼の視線の向こうにはほんわりとした顔でノワールを遊ばせている桜がいた。

「夢の内容がわかれば、なんで俺を狙うのかわかると思うんだけどな。」

「夢魔を撒き散らしている人を見つけるのが先。危険はなるべく避けたほうがいいから。」

 茉莉花は断固とした口調で言った。

 玲は苦笑いを浮かべたが、ふと何かに気がついた顔で茉莉花を見返した。

「そう言えばね。昨夜は来なかったよ。」

「え? 何が?」

「夢魔だよ。昨夜は来なかったんだ。迦具耶(かぐや)さまのご利益(りやく)かな? だとするとそれはそれでやっかいだけど。」

 神さまは人間に対価を求めてはいけないはずなのに、月夜見神社の迦具耶(かぐや)さまはやたらと人を縛りたがる。何と言っても神なので神力は半端ないから、うっかり言質(げんち)を取られると非常にやっかいな羽目に陥るのだ。

「昨日は‥‥来なかった?」

 茉莉花は思わず手を止めて問い返した。どういうことか想像もつかない。

「‥どういうことなのかしら。」

「ま、行けばきっとわかるよ。洗い物、終わらせちゃえば?」

 そうね、とつぶやいて茉莉花は手を再び動かし始めた。


「‥どういうことかしら。」

 今にも雨になりそうな曇天(どんてん)の下、用心のために持ってきた傘を思わず強く握りしめる。

「どういうことなんだろう‥?」

 傍らで玲も眉をひそめた。

 二人が立っている場所は瑞穂たちの学園から道路を渡った正面、コンビニの駐車場だ。

 夢魔と同じ波動を感じると桜が言うので、コンビニの中に入ってひとりの男を見つけた。そして慌てて出てきたところだ。

「桜、彼で間違いないんだね?」

「はい。夢魔の波動と同じ気配です。間違いありません。」

 桜はきっぱり答えた。

 頭を抱えて呻いた玲の横顔を、茉莉花はおずおずと覗きこんだ。

「‥‥髪の色が違うわ。目の色も‥。それに雰囲気が全然違うから‥。」

「だけどさ‥。長谷部や佐山よりよほど似てる。そう思わないか?」

 茉莉花は店の中を振り返る。

「長谷部さんには似てる気がするけど‥。佐山さんには全然似ていないわね。」

「そういう意味じゃなくて。彼のほうがむしろ、俺自身の亜流よりオリジナルの俺と近いって話。気持ち悪いくらい似てる。」

「そう‥? そこまでじゃないと思うけど。」

 桜が不思議そうに、二人の顔を交互に見やった。

「ご主人さまも姫さまも、何のお話をなさっているのですか‥? 桜にはあのお方は、ご主人さまとはまったく似ていないように思えますけれど‥。」

「そうね‥。桜は魂で見るから、人間の目に映る形とは違うんだったわね。」

「そうなの‥? じゃ、桜にはまったく別人に見えるんだ。よかった。」

 玲はあからさまにほっとした顔で、茉莉花そっくりの桜を抱きしめた。

 茉莉花は見ないように背中を向ける。文句を言っても無駄なのでもう諦めた。

「とにかく‥。あの人に話を聞かなくては。ちょっと中に戻って、仕事が終わったら時間をもらえるように頼んでみる。」

「ちょっと待って。あの人って‥‥彼は人なのか?」

「見た感じは人だけれど‥。桜はどう思う?」

「人の気配が強いのですけれど‥。中味は曖昧なモノです。達磨のおじさんが言う半端もん、て感じでしょうか‥。(よこしま)なモノではなさそうですが‥不安定ですね。」

 桜は眉間に皺を寄せて、小首をかしげた。そんなしぐさをするとますます茉莉花に似ている。

 桜が茉莉花に似た姿を取る季節に、よりによって玲によく似た姿を取る物の怪が現れるなんて。まったくどうしてこんなややこしい事態になっているのだろう?

「‥‥話をしてくる。」

 茉莉花はこっそり溜息をこぼした。


 白崎健吾は時計を見た。正午を過ぎた。上がりの時間だ。

 お先に失礼します、と挨拶して奥に引っこむと、机で書類を書いていた店長が含み笑いをしながら声をかけてきた。

「そわそわしてるな。さっきの超美人と約束? 羨ましいねえ。」

 思わず赤くなる。

「そんなんじゃないです。あの人は‥初めて会った人で‥。何かの調査だとか。」

 そうかい、と店長はよけいにくすくす笑った。彼の言い訳がましい態度が可笑しかったみたいだった。

 健吾にとっては彼女が美人かどうかよりも、渡された名刺のほうが興味深かった。

 『懐古堂』。この名前は以前小さな妖したちから教えてもらった。トラブルを抱えている妖怪を助けてくれる人間なのだそうだ。まさかあんな若い女性だとは思わなかったけれど、もしかしたら健吾の問題も解決してくれるかもしれない。

 今まで訪ねるのをためらっていたのは少し怖かったからだが、彼女は気配が非常に静謐(せいひつ)だった。ちゃんと話を聞いてくれるのではないかと期待している。

 帰り支度をすませて外へ出ると、既に彼女はそこにいた。健吾を見留めて会釈をする。

 健吾はそちらへ走り寄ろうとして、彼女の後ろに立っている男に気がついた。

 男はすらりと背が高く、色の濃い大きめのサングラスをかけてこちらへ半分背中を向けていた。別に何てこともない、普通の人間だ。

 一歩一歩近づくたびに複雑な気分が満ちてくる。

 自分が何者なのかがこの先にあるという予感と、これ以上接近すれば危険だという直感が胸の中で交錯する。なのにその感じがどこから来るのかよくわからない。目の前にいる二人の人間にはまっとうな人間の気配しかしないし、敵意も悪意も感じないのに。

 ともかくもそばまで行くと、彼女は落ち着いた丁寧な口調で一緒に『懐古堂』へ来てほしいと頼んできた。

「あの‥。お話って‥何の‥。」

「ここではちょっと‥。いろいろと事情が込みあっていますし‥。」

「事情‥? あの、その前に‥。どうして俺に声をかけたんですか‥?」

 胸がどきどきしてくる。まさか夜鴉の依頼で探していたわけではないだろうな、と不意に疑念が湧く。

 彼女は少しためらってから、微かに微笑みらしきものを口もとに浮かべた。

「正直に言いますね。十日ほど前から時々悪夢に悩まされていませんか? わたしは夢魔という物の怪を調べていて、あなたからもその波動を感じたのです。夢魔に取り憑かれているのではないかと思うので、お話を聞かせてもらえれば、あなたの悩みも解決してあげられるかもしれません。‥わたしは人と人でないモノの間のトラブルを交渉で解決するのを生業にしております。」

 人と人でないモノの間のトラブル。では健吾が人ではないことに気がついていないのだろうか?

 いやそうとは思えない。それどころか夢魔を生みだしているのが健吾だと気づいて、対処するために来たのだとすれば―――滅するつもりか?

 健吾は緊張して、ズボンのポケットに手を突っこみ、しまいこんであるハンカチをぎゅっと握った。

「‥‥悪夢にはちょっと悩まされていました。でも‥もう、大丈夫なんです。昨日、か‥解決しましたから‥。もう、見ないですむんです‥。」

 そう言うと健吾は身を引いた。

「あの‥お話がそれだけなら‥‥。」

「ちょっと待って。」

 後ろにいた男が背を向けようとした健吾の腕をがしっとつかんだ。思わずびくびくっとして、体が震える。

「白崎健吾くん。聞きたいことは他にもたくさんあるんだ‥。たとえば名前。白崎健吾って名前、誰に教わって使ってる?」

「え‥? いや‥それは‥。誰にも‥。」

 誰に聞いたわけではない、ただ一つ記憶にあっただけだ。健吾は混乱した。

 それと同時につかまれた腕がじんじんと熱い。何かが体じゅうを駆けめぐり始め、健吾をたまらなく不安にさせる。

「は‥放してください‥。」

「話を聞きたいだけだよ。そんなに怯えなくてもいいだろう?」

 頭がずきずきしてくる。体の中を何かが激しく暴れ回っている。

「だめ‥。お願いだ、手を放して‥。抑えられなくなる‥‥」

「抑えられなくなる? 何を?」

 『懐古堂』を名のった女性が離れて、と小さく叫んで、鈴を鳴らした。

 男の腕が離れると同時に、不思議な鈴の音が健吾の体を包みこんで、内側にあふれだす力の暴走を抑えこもうとするのを感じた。だが鈴の音は内なる力をなぜかもっと活性化させていく。

「だめ‥! 鈴を鳴らさないで‥!」

 健吾はシャツの袖をめくって、左腕にはめた華奢な腕時計を右手で触れ、気持ちを集中させた。

 鈴の音が止んだ。二人の凝視を感じつつもその場から一歩も動けない。とにかく時計とハンカチに意識を注ぎ続ける。額に汗がにじむ。

 何とか妖力の暴走を抑えこんでふうっと息を吐いたちょうどその時、背後で声がした。

「茉莉花さん? こんなところで何をしてるんですか?」

 振り返ると花穂がにっこり微笑んで立っていた。

「か‥花穂さん‥。」

 茉莉花が花穂の名をつぶやくのより先に名を呼んだ健吾に、花穂は訝しげな視線を向けた。

「あれ‥? あたしの名前、知ってるんだ?」

「花穂さん‥。この方を知ってらっしゃるんですか?」

「まあ‥。ここ、学校の前だし。多少は‥。」

 健吾は何だか急に腹の底から恐怖がこみあげてきて、無意識のうちに花穂の手をつかむと、だっと走って逃げ出した。

「ちょっと‥何、何‥?」

 花穂は呆気に取られながらも、健吾の勢いにつられたのか必死についてくる。

 そのまま路地に入りこんで、思いつくままに角を曲がり、袋小路みたいな狭い場所に隠れた。なおもおどおどと様子を窺う健吾に、あのねえ、と花穂は呆れ声を出した。

「追いかけてくるわけないでしょ。なんで逃げたの?」

「いや‥その‥。何だか‥怖くなって‥。」

 うつむいて唇を噛む。せっかく自分が何者かわかるチャンスだったのに。けれど無性に怖くなったのだから仕方がない。

 花穂はじっと見つめていたが、しばらくするとにこっと微笑んで話を変えた。

「ね‥? あたしの名前、知ってたの? やっぱり前にも会ってた?」

「‥‥四宮花穂さん。君のことなら‥よく知ってる。」

 うつむいたままで健吾は答えた。

「妖し祓いの総元締め、四宮本家の二の姫で‥。誕生日は十月十六日、十六才。新学期が始まれば高校二年生になる。東京でも一、二を争う霊能力者で、霊力の一部を美貌を保つのに使ってて、周囲の男たちを惑わしてるとか‥。」

「ちょっと‥! あたしが霊力で誑かしてるとでも? 失礼な、あたしの美貌は生まれつきの本物なんだから‥!」

 うん、となおうつむいたままちょっと頬笑んだ。

「知ってる。俺には霊力は利かないから‥。学園に棲んでる小妖怪が教えてくれたんだよ。人でないモノもけっこう、深夜なんかにコンビニに来るんだ。」

 へえ、と花穂は健吾の顔を下から覗きこんだ。

「あなたって見える人なの? もしかしてあたしのこと、ストーキングしてたりする?」

「す‥ストーキング‥? してないよ、そんなこと‥! ただ‥‥」

「ただ、なあに?」

「‥‥君がすごくきれいだから‥。名前を知りたかったんだ‥。」

 おずおずと顔を上げて、間近にある花穂の顔を見つめた。花穂はあ、と叫んだ。

「わかった! 椿の花のヒトでしょ、あなた? 二月に切羽に追われてた、謎のヒト! やだぁ、すっかり人間ぽくなっちゃって‥。全然わからなかった。」

 そうして花穂はまたもや惜しみなく、にっこりと微笑んだ。

「あの時もあたしのこと、『すごくきれい』って言ってくれたじゃない? その言い方でわかったの。ねえ‥‥あたしに会いたいから、そこのコンビニでバイトしてたとか?」

 健吾はつい、真っ赤になる。

「あ‥会いたい‥とか、そんな‥そんな、大それたこと考えたんじゃ‥。その‥近くにいれば‥。君の気配を感じられれば‥安定してられるっていうか‥人間でいられるから‥。」

「そうなんだ? 相変わらず不思議なヒトね。じゃあ、友だちになってあげようか?」

「えっ!」

 健吾はびっくりして、思わず身を引いた。

「だってあなた、人間になって暮らしていたいんでしょ?」

「そうしたいって言うか‥他にどうすればいいかわからないだけ‥。俺は、去年の夏までの記憶がないんだ。夜鴉一族に追われるようになるまで、人じゃないモノだってことも自分じゃわかってなくて‥。」

 花穂は可愛らしい眉を微かにしかめ、両手を腰に当てた。

「それなら『懐古堂』さんから逃げちゃだめよ。東京じゅうで、あなたの悩みに親身になって解決してくれるのは茉莉花さんだけだと思う。なんで怖いの?」

 健吾はうなだれて首を振った。

「わからない‥。だけどあの人に触れられたら急に、俺が俺じゃなくなる感じがして‥。すごく怖くなったんだ。」

「ふうん‥。」

 困惑した表情で花穂は小さな溜息をつき、仕方ないわね、とつぶやいた。

「じゃあね。一緒にいてあげるから、『懐古堂』さんに行きましょう。あたしといれば人間でいられるんでしょ? あたしが結界を張って守ってあげるから、大丈夫よ。」

 そして腕をつかんで、歩き出そうとする。

「‥そんなにしてもらっちゃ‥。君に迷惑をかけたくない‥。」

「友だちになってあげるって言ったでしょう? 迷惑じゃないわよ、全然。」

 振り向いた花穂は花のように柔らかな微笑を健吾に向けた。すると彼女の気配が温かい春の空気のように体を包みこんできて、なぜだかものすごく安定した気分になった。

「‥‥ありがとう。」

 気恥ずかしくて下を向いたものの、思い切って自分からほっそりとしなやかな手を取った。すると花穂は指を絡めてきっちりと手を繋ぎ、もう一度、行きましょう、と言った。


 玲は車を走らせながら、嫌な予感に包まれていた。

 先ほどの白崎健吾の様子はただごとではなかった。霊力のない玲には感じ取れなかったが、健吾が『抑えきれない』と言った時から、桜はひどく怯えているし茉莉花は黙りこくって眉間に皺を寄せている。

 あとを追わずに『懐古堂』へいったん戻ろうと言ったのは茉莉花だが、玲も少し整理して考えてみたかったのでちょうどよかった。

 信号待ちで停止した時、助手席から唐突に静かな声がした。

「堂上さん‥。『白崎健吾』という名前に心あたりがあるようだったけれど‥。もしかして以前あなたが使っていた名前なの‥?」

 そうだと答え、信号が青になったのを見すましてアクセルを踏む。茉莉花はそれ以上は訊かなかったが、玲のほうでも彼女に確認したいことがたくさんあった。

「ね‥。俺が今考えてることは君の推測してることと同じだと思う?」

「そうだとしたら‥夢の内容が問題だわ。夢魔はもう出ないとしても彼が言ってたようにそれで解決だとは思えない。やはり話をしなければいけないと思うけど‥。」

「直接触れなきゃ大丈夫なんじゃない?」

「さっきのがきっかけなら、そうとも限らない。」

「‥‥花穂ちゃんは知り合いなのかな?」

「そのようね。」

「じゃ、代わりにインタビューしてもらおうよ。俺の携帯に彼女のメアドと番号が入ってるからさ、君がかけて頼んでみてよ。」

 そう言って玲は上着の胸ポケットから携帯を出して、茉莉花の手の中へ落とした。

「佐山徹の携帯を処分する時に、念のために移しておいたんだよ。役に立ったね。」

 ああ、と茉莉花はすんなり納得したようで、素直に携帯を開くと律儀に自分の携帯に情報を移してそこから花穂にメールを送った。

 花穂からはすぐに返信があり、今から白崎健吾を連れて『懐古堂』へ向かうところだとあった。茉莉花は少しだけ躊躇したものの了解した旨のメールを返し、そう玲に告げた。

「『懐古堂』なら結界を強くできるから大丈夫だと思うんだけれど‥。堂上さんはなるべく離れていてね。」

「最悪の場合も考えておいたほうがいいよ。‥若頭領を呼べば?」

「それはだめ。よけいに最悪の事態を生んでしまう可能性が高くなるもの。」

 すっかり見慣れた路地を曲がって、神社の鳥居の前を過ぎ、軒行灯の横を抜けて裏庭の車庫へ車を入れた。エンジンを停め、携帯を受け取りながら玲は茉莉花をじっと見た。

「何‥? 何か質問でも‥?」

「いや‥。せっかく携帯渡したのに、全然チェックしないなと思って‥。ちょっとがっかり。そんなに俺には興味ない?」

 茉莉花の視線がぐっと冷ややかになった。

「呆れた。とても深刻な状況だというのに‥。よくそんな冗談が言えるわね?」

「冗談じゃないよ。真剣。最悪の場合を想定したらさ、その前に一度くらいキスしておいてもいいんじゃないかなと‥。」

 肩に手をかけたところでばしっと頬を引っぱたかれた。茉莉花は憤然として車を降りていく。思わず苦笑いが口もとに浮かんだ。

「大丈夫ですか、ご主人さま?」

 桜が無邪気な顔で訊ねた。

「うん。目が覚めた。ちょっとネガティブ思考に陥りかけてたからね。‥さてと。もう一人の俺の話を聞く準備をしようか。」


 花穂に連れられてやってきた白崎健吾は、落ち着かない様子で茉莉花の勧めた座布団に正座した。

 時折玲のほうを怯えた目でちらりと見ては、急いで顔を伏せる。緊張感が体じゅうににじみ出ているようだ。

 玲は視線を合わさないようにしながら、髪の色と瞳の色が真っ黒な以外はコピーしたみたいに自分と同じ顔の男をそれとなく眺めた。何だか複雑な気分を通りこして、無性に笑い出したくなってしまう。これはいったいどういう冗談だ?

 初めに話の端緒を開いたのは花穂だった。

 彼女に促されて健吾は、おずおずと去年の夏に目覚めて以来、自分が何者なのかと悩んでいること、夜鴉に追われ始めるまで人じゃないと気づかなかったこと、白崎健吾というのはただ一つだけ記憶にあった名前なので、てっきり自分の名前なのだと思いこんでいたことなどを、切れ切れに話した。

 玲は部屋の隅で黙って聞いていたが、嘘が混じっているようには思えなかった。経験上、作り話や嘘はわりと解る。

 彼は二月に花穂に助けてもらって、それから人間でいることが楽になったのだと説明した。なぜか花穂の近くにいれば妖気を抑えこんでいられるので、夜鴉にも見つけられずにすむようになったらしい。

「‥‥悪夢を見るようになったのは‥彼女の学校が春休みに入ってからなんです‥。」

 静かに聞いていた茉莉花の表情が、ほんのわずかに変わった。恐らく玲の他には誰も気がつかないくらいの、微かな変化だ。

「夜も昼も関係なくて‥。必死で眠らないようにするんですけど、一人になると引きずりこまれるみたいに夢を見ちゃうんです。」

 健吾は申しわけなさそうに身を縮こまらせた。

「どんな内容の夢ですか‥?」

「それが‥憶えていないんです。とにかくものすごく怖くて‥必死で逃げて逃げて、何とか逃げ切ったと思うと目が覚めるんですけど‥。その時に俺の体から影みたいなモノが剥がれ落ちてどこかへ行くのに気づきました。あとでそいつが夢魔で、人に取り憑いて悪さをするモノだと知ったので、何とかしなきゃと思ったんですけどどうにもできなくて‥。」

 ごめんなさい、と彼は頭を下げて謝った。

「夢魔のせいで何人も怪我してるのは知ってます。わざとじゃないんですけど‥やっぱり俺は‥そのう、滅せられなきゃならないんでしょうか‥?」

「そんなことないわよ。直接あなたが何かしたわけじゃないんですもの。それにもう、悪夢を見なければいいんだから。そうでしょう、茉莉花さん?」

 花穂は優しく微笑んで、健吾の膝に手を置いた。空気が一瞬、ぱあっと明るくなる。

 だが茉莉花は冷ややかな視線を返した。

「夢魔の件では、責任を問われるにしても滅せられることはないでしょうね。現状ではいわばあなたも被害者なのでしょうから‥。問題はあなたが何者かという点です。そちらに関してはあまり楽観できません。」

 戸惑った顔で花穂は茉莉花を振り返った。

「‥‥どういう意味ですか、楽観できないって‥?」

 茉莉花は微かに眉をしかめ、厳しい表情で二人を見た。

「まず‥白崎健吾さんのお名前なんですけど。その名はわけあって人間界に存在すると非常に危険なので廃棄された名前なんです。‥‥そうですよね?」

 同意を求めて玲を見る。玲はうなずいた。

「そう。俺が昔使っていた名前なんだけど、昨年の七月に廃棄処分にしたんだ。」

「‥あなたが自我に目覚めた時期とその名前を知っていたという事実。そして先ほど、彼に触れられた折りに体から湧きだした妖力の気配。更に加えれば、あなたの人としての姿は彼と酷似した容貌になっていますよね? 今日初めて会ったはずなのに。」

 やや青ざめた花穂は、隣の健吾と玲をまじまじと見比べて、あ、と口を押さえた。

 茉莉花は冷たい静かな声で続けた。

「これらが示唆するあなたの正体は‥人間界にあるのは望ましくないモノなんです。別の世界に棲むある危険な存在の分身みたいなモノ。‥曖昧な物言いでごめんなさい、これ以上具体的に言葉で表してしまうとあなたの属性が明確になってしまって、潜在的な危険性が表に出てきてしまう可能性があるので言えないんです。」

 健吾はなお戸惑った表情だったが、花穂ははっきりと理解したようだった。すっかり血の気が引いて、真っ白といっていいほどの顔色だ。

 花穂の様子を見ていた健吾の顔は、次第に絶望的な暗い表情に変わった。うつむいて唇を噛み、それからおずおずと顔を上げる。

「つまり俺は‥生まれてきちゃいけなかったんですね? この世にあると不都合な人間なんだ。‥いや、人間じゃないんだっけ。」

 驚いたことに茉莉花は健吾の縋りつくような視線にたじろいで、一瞬だけ胸を衝かれたような泣きそうな表情を浮かべた。

 なんとまあ―――およそ茉莉花らしからぬ。玲は呆気に取られた。

「わたしには‥わかりません。あなたが自我を保っていられるかどうかが、その答になるとしか言えません。」

「‥‥自分が何者かわからないのに、自我を保つなんてできると思いますか? 今の俺にわかるのは‥ただ誰にも望まれてないってことだけです。そのう‥花穂さんにさえ。」

 暗い瞳をちらりと花穂に向けて、健吾は無理に微笑を作った。

「ごめん。せっかく‥友だちになってくれるって言ったのに‥。やっぱり無理な話だったみたいだから‥。これ、返すよ。」

 彼が花穂に差しだしたのは、華奢な腕時計とハンカチだった。

「あ‥。これ、どこで? あなたが拾ってくれてたの。」

「二月の、あの公園で‥。落ちてたんだ。ごめんね、すぐ返すべきだったんだけど‥。これがあると人になっていられたから‥。」

 花穂は不意に下を向いて、要らない、と大きく首を振った。

「でも‥‥」

「要らないったら要らないの! 友だちになってあげると言ったでしょ! ‥それ返して、どこへ行くつもりなのよ? また切羽に追いかけ回されてもいいの?」

「だって‥。人じゃないから、ビルから飛び下りても川に飛びこんでもうまく死ねないんだ。あとは夜鴉に始末してもらうしかないんだよ‥。」

「ちょっと‥嘘でしょ、死ぬつもりなの?」

 ぎょっとした顔で花穂は叫んだ。

 玲も驚いて、思わず茉莉花と顔を見合わせる。

 彼は真剣な表情で、花穂へ食い入るような視線を向けていた。

「このままずるずる生きていたって、仕方ないじゃないか‥。」

「だって‥だからって、あんなに怖がっていたじゃない?」

「いつか自分が何者か思い出して、周りじゅうの人を危険な目に遭わせるかもしれないなんて‥そのほうがよほど怖いよ。」

「そんな‥。」

 健吾は花穂にすっきりと寂しげな微笑を向けた。

「君は笑っているほうがきれいだよ。‥‥いろいろとありがとう。」

 ふと気がつくと、花穂だけでなく茉莉花までが、無性にやりきれないという表情を浮かべている。

 やれやれ、と玲は溜息をのみこんだ。

「あのさ‥。白崎健吾の名前は君にやるよ。ちょっと紛らわしいけど、その顔も貸しててやる。」

 健吾は怪訝そうに、玲のほうを向いた。

「‥‥それは‥どういう?」

「君はさ、目覚めた時からその顔と名前でいて、どっちも自分のものだと思ってただろ?でもそうじゃないんだ。それはどっちも俺のものだよ。‥君の本体がくれたもんじゃない。俺が貸してやってるんだ。」

 茉莉花が玲を振り返り、名を呼びそうになって慌てて口を噤んだ。

 そちらへ視線を走らせて、にこっと微笑み、もう一度まっすぐに自分とそっくりの男を見据える。

「君の生みだした夢魔はほとんど毎晩、俺をめがけてここへやってきた。その悪夢はね、たぶん君の本体から俺へのメッセージなんだよ。だから悪夢だって俺のもの。君のじゃない。代わりに見てただけだ。‥つまり君はどこの誰から生まれたにせよ、今では俺の分身みたいな存在(モノ)ってわけ。わかる?」

 わけがわからないといった顔のまま、彼はうなずく。

「‥‥何となくは。」

「頼りないなあ。いいかい、そこのところをしっかり理解しろよ。生まれた経緯だとか何のために生まれたとかはどうでもいいんだよ。誰かに望まれるとか望まれないとか関係ないんだ。現状は俺の分身みたいなモノなんだから、たった今から君の存在は俺が引き受けてやる。」

「引き受けてくれる‥んですか?」

 背中に押しよせる茉莉花の怒りの気配が、なぜかくっきり感じ取れるから不思議だ。

「そう。だから君に備わってるモノは妖力も含めて全部、人間界では俺の許可する範囲でしか使えない。そういう理屈になるんだ。わかったかな?」

 先に理解したのは花穂のほうで、健吾の手を取って叫んだ。

「そうか、なるほど‥。早く、わかったと言うのよ! 承知したでも了解したでも何でもいいの、とにかく今、ここでそう誓えばいいのよ‥!」

 花穂に気圧される形で、彼は真面目な顔で誓った。

「わかりました‥。ええと‥俺のすべては妖力も含めてあなたから借り受けたモノだから、人間界にいる限りあなたの許可する範囲でしか使えない。その代わりに人間界での俺の存在はあなたが主人(マスター)として引き受けてくれる。‥これでいいですか?」

身元引受人(マスター)ね‥。OK、そういうことで。絶対夜鴉には見つかるなよ、その顔をしてたら若さまが喜んで引き裂くだろうからね。」

 はい、と生真面目な顔で、なりゆき上被保護者となった男は答えた。


 四宮本家への事情説明の内容には花穂の名を出さないようにするという点で合意したあと、花穂は健吾と連れだって帰っていった。

 路地の角を曲がる姿を見送って、茉莉花はふうっと大きく息を吐いた。

「いいの? 花穂ちゃんをあのまま放っておいて?」

 後ろから声をかけると、キッと眦を上げて冷ややかに玲を振り返る。かなり怒っているみたいだ。

「花穂さんは自分の置かれている情況を正確に理解していると思うわ。わかっていないのはあなたのほう。」

 はいはい、と返事をして背を向け、座敷のほうへと戻る。

「仕方ないじゃん? あいつが俺とそっくりの顔で若さまに引き裂かれるのを想像したら、ぞぞっと背中が寒くなったんだからさ。‥それとも君が自分で滅するつもりだった?」

 (かまち)に手をかけ、振り向いて訊ねると、茉莉花は気まずそうに目を逸らした。

「‥‥滅するなんてできない。あの人はまだ‥何もしていないのだから。」

「何もしていない、理由はそれだけ? ‥君にしちゃずいぶんと感情移入してたよね。」

 くすりと笑って、部屋の中へ入る。

「あのさ。俺は未だかって、自分を生まれてきちゃいけない人間だなんて考えたことないし、誰にも望まれない存在だなんて卑屈に感じたこともないよ。同じ顔してるからってあいつと重ねられちゃ迷惑だからね?」

 ちょっと鼻白んだものの、茉莉花はすぐに冷ややかな表情を取り戻した。

「そうじゃなくて‥。あの人が自殺したがっている事実に驚いたの。物の怪は普通、自殺という概念は持っていないから。ずいぶんと人間に近い考え方をすると思って‥。」

「そりゃそうなんじゃない? 鬼人の分身なんだから、普通の物の怪とは違うよ。」

 玲は白炎の冷たい笑い声を思い出して、つい身震いした。

 白炎は人間を手の内で転がして遊んでいた。思うに―――桁違いの力を持つとあんなふうに傲慢になるのだろうか?

「ねえ‥。あいつも鬼人の霊力でフルパワーになったら、人間なんかゴミだと思うようになるのかな? 誰かを危険な目に遭わせるくらいなら死んだほうがいいと言った男でもさ。どう思う?」

「わからない。あの人が白炎と同じ薫りの霊力を内に秘めているのは確かだけれど‥。人格はまったく別物だと思う。でもあの状況下で、分身がなぜ残れたのかしら? あの後すぐに夜鴉一族が白炎の次元の穴を全部塞いだはずなのに‥。」

「あいつ‥。あの時、必ず戻ってくるって笑ってた。」

 玲はぐっと奥歯を噛みしめた。

「何か既に思惑があったのかもしれないね。黒鬼のところに白鬼が訪ねてきたのと関係あるのかな‥?」

「そう。気になるのはそのことよ。夢魔の出現とあまりにタイミングが合いすぎる。」

 茉莉花は眉間にぐっと皺を寄せて考えこんだ。

 玲はその顔をそっと見つめながら、彼女が別れ際に健吾に渡したお守り袋について考えていた。

 袋の中身は『懐古堂』の護符だ。ノワールの護鈴と同じで、物の怪世界での身分証明書でもあり、身の危険を感じた時には茉莉花の結界に自動的に戻ってこられるというもの。

 白炎は茉莉花を狙っていたというのに、白炎の分身である健吾に護符を持たせたりしたら、万が一の時にもっとも危険なのは茉莉花ではないのか? いやいちばんに危険なのは言うまでもなく玲自身なのだが―――そう思うと自分の無謀な思いつきに茉莉花までもまきこんでしまったのだとつくづく実感する。

 つと茉莉花が視線に気づいて顔を上げた。

「何‥? 何か言いたいことがあるの?」

「うん。すごく重要なことを忘れてると思って‥。」

「え?」

「もう日が暮れちゃうのに、昼ご飯食べるの忘れてる。お腹がぺこぺこなんだけど。」

 茉莉花は一瞬呆気に取られた顔をして、それから急に笑い出した。

「‥‥珍しいね。君が声を立てて笑うなんてさ。」

 だって、と体を折り曲げてくすくす笑っている。

「確かに‥重要だと思って。ご飯を食べるのってもっとも人間らしいことだから。」

 そして彼女ははっきりとした微笑を顔に浮かべたまま、立ち上がった。



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