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第一章

 白崎健吾はバイト先のコンビニで、また自殺未遂があったらしいと話す声に思わず振り向いた。時刻は午前七時前、夜が明けてちょうど一時間くらいの頃だ。

「あの‥。それ、またこの近所ですか。」

 話していたのは店の向かい側にある高校の、テニス部に所属する男子二人だった。

 朝練習の前にいつも立ち寄る常連客で、早朝からの勤務が多い健吾とは顔なじみでもある。

「あっちの角に百均が入ってるビルあるでしょ? その前の路上に救急車が止まってた。飛び下りだって、でも助かったらしいっすよ。」

「‥‥それはよかった。」

 健吾のほっと安堵した顔を見て、高校生は戸惑い気味に顔を見合わせた。

「あのへんに知りあいでもいるの‥?」

「いや‥そうじゃないけど、人が死ぬって嫌じゃないですか。」

 背を向けて棚の整理に戻りながら、健吾は軽い口調でそう答えた。

 そうだよね、と背後で明るい声が聞こえる。健吾は吐息をのみこんだ。

 ―――もしかして‥。俺から生まれた夢魔のせいだろうか。

 悪夢は昼夜関係なくやってきて彼を(さいな)む。逃れようとする彼の意識が夢魔を生んで、代わりの(にえ)を求めて夜をさまよう。いったいどうしたらいいのだろう?

 レジを受けて、高校生を見送り、ゴミ箱の始末をしに外に出た。

 横断歩道の向こうに校門が見える。その奥へ吸いこまれていく制服姿に何気なく目を遣りながら、新学期までまだ一週間もあるのかと痛切に思った。

 ―――彼女に会えたら‥。悪夢なんか見ないのに。

 ちらりとでいいのだ。彼女の姿さえ垣間見ることができれば、現在の不安定な情況を抜け出せるのに。

 会いに行こうか。しかしそれは―――危険だ。

 でも会いたい。心の底から強く思う。彼女が花のように微笑む顔が見たい。ただそれだけでいい。

 健吾はもう一つ吐息をのみこんで、店内へ戻った。


 四宮瑞穂は目の前で畏まっている磯貝要を見下ろして、うんざりした声を出した。

「‥‥だからね。動物は飼えないの。拾ってきてはいけないのよ。こう言っては何だけど、年下のあたしに小学生が言われるみたいなこと何度も言われて、情けなくない?」

「すみません‥。あの、明日になったら友人に引き取ってもらいますから、今日一日だけ許してもらえませんか‥。前足に怪我してて‥。」

 頭を畳にこすりつけんばかりに低くして、要は瑞穂に頼んだ。

「この前もそう言って、結局引き取り手が見つからなかったでしょ? なんで怪我犬ばっかり、探してくるのよ?」

「探しているわけではないんですけど‥。」

 瑞穂は深く溜息をついた。

「‥‥本家敷地内で動物を飼うとその動物は妖怪化してしまうのよ。使役獣にするか、滅するかしなきゃならなくなるの。母屋が倒壊してからは以前ほど直ちに影響を受けるわけではないけど、一週間以上おいてしまえば取り返しがつかないの。」

「‥‥」

「既に二匹の犬があなたの無思慮な行動のせいで、ここに囚われてしまっているのよ? 使役獣を使役できる力があなたにあるならともかく、あの犬たちだって誰かに使役獣にしてもらえなければ滅されてしまうことになるんだから。」

「‥‥俺が使役できるようになれば滅されないんですか。」

 要はうつむいたまま泣きそうな声を出した。

 瑞穂は思わずバカ、と叫んだ。

「助けたつもりで、無駄に動物の運命を弄ぶ結果になってるのを反省しろと言ってるの! 言っとくけど、すぐに修業をサボるような人に使役獣を扱うなんて無理よ。仮に使役印を作りだせたとしても、制御できなくなるわ。終いに自分が取りこまれてしまうはめになるのがオチよ。‥‥少しは能力者としての自分の社会的責任を自覚しなさい!」

 まったくこの男は―――ほんとうにあの厳格で勤勉な老家令と血が繋がっているのか?

「犬は動物病院に預かってもらいます。‥だめ、他の人に連れていってもらうから。あなたとの縁を切らないとまともな犬として暮らせなくなるでしょ。あなたは三度目だから罰として、たった今から禊ぎ場に丸三日間こもってもらうわ。」

 はい、と答えた要はそろそろと顔を上げ、瑞穂に縋るような視線を向けた。

「あの‥。病院てことは‥手当てはしてもらえるんですよね‥。」

「あたりまえでしょ。」

「ありがとうございます、瑞穂お嬢さま。それなら喜んで禊ぎ場に行きます。」

 急に嬉しそうに立ち上がると、ぺこりと頭を下げ、いいとも言われないうちにさっさと部屋を出ていった。

「まったくもう‥。頭痛がしてきた。あの人、精神年齢いくつなんだろ?」

 だが磯貝には黙っておこう、と瑞穂は皺のいっそう増えた忠義者の顔を思い浮かべた。

 四宮の名のつく分家は全部で十四あるが、その中でも北家及び東家、西家、南家の四家は別格だ。それぞれが名の通り本家を中心にして四門を守る位置に屋敷を構え、本家を守護する結界を形成している。だから四家の女たちは本家に出仕する義務を負わず、それぞれの屋敷裡で四宮の女たる義務を果たす。

 その北家の当主に嫁ぎながら娘を生めなかった要の母は、何かと困難な立場にいるらしい。ましてやライバル関係にある南家から本家に嫁いだ初穂が、瑞穂たち三姉妹を生んでいるので、北家の女たちはなおのことやきもきしているそうだ。

 だが分家にどんな子どもが授かるかさえも、すべてが四宮全体の霊力の流れからおのずと定まるものであって、個人的な感情や意志でどうにかできるわけではない。物の怪たちが『姫』と呼ぶクラスの霊力が、咲乃を含めた本家直系にしか現れないのも、また逆に本家直系では無能力者はいないというのも、何もかもが四宮としての大いなる霊力の必然によるものなのだ。四宮の霊力は何よりも均衡―――バランスを重要視している。

 瑞穂は仮の当主として四宮を統括し始めてから、自分にとっては自明の理であるそのような認識が必ずしも全員に浸透しているわけではないと気づいた。

 目下のところ、本家を核としたグループの結束を最大目標に掲げている瑞穂としては、だから北家の女たちの妬心(としん)をくだらないと切り捨ててしまうわけにはいかない。些細な不満が重なれば闇につけいられる心の隙が、能力者であればあるほど大きくなるだろう。

 そのためにも要が本家で重用されれば、少しは北家の不満もやわらぐと思うのだが、本人にはまったくその自覚がないようだった。仕事だけでなく修業もたびたびサボるので、いまだに彼の能力の属性すらはっきり判断できないと、見習いたちの監督官がこっそりこぼしていた。磯貝の孫でなければとっくに家に戻されているだろう。

「仕方がない。彼はあたしのそばにおいて雑用見習いをさせよう。本家に入れたのはあたしなんだから、何とか属性を見つけて一人前にしなくちゃ‥。」

 瑞穂は溜息をつき、机上のインターフォンで磯貝を呼んだ。

 緊張した様子の磯貝がやってくると、要の件には触れず、ここのところ続いている不審な自殺未遂事件についての調査報告を求めた。

「確か、物の怪の仕業かもしれないという報告が一昨日あったでしょ? それについて続報はないの?」

 該当する自殺未遂者はここ一週間で三人。自宅窓から飛び下りて自殺を図ったものの致命には至らず、病院に収容された後は憑き物が落ちたように、なぜ飛び下りたかわからないと言っているそうだ。

「先ほど椎名が戻ってきました。直接報告を聞きますか?」

「そうね。呼んできて。」

 椎名悟は一般出身の能力者で、年齢は三十七。冷静で無駄口をきかない実直な男だ。特に高い霊力を有しているわけではないが、効果的な使い方をするので瑞穂は買っている。彼の調査は信頼性が高い。

 椎名は瑞穂の問いに、夢魔の仕業だと明確に答えた。

「夢魔‥?」

「はい。夢魔に取り憑かれて悪夢を見て、耐えきれずに窓から逃げ出そうとしたようです。ですが不思議なことにショック症状以外に大した外傷もなくすんでいるのは、その夢魔がクッションになって助けているようで‥。」

「夢魔が‥‥クッション?」

「下敷きになっているようです。今朝また事件があったので現場を見てきましたが、被害者の墜落した路上に確かに物の怪の痕跡がありました。どうやら落下の衝撃で霧散したと思われます。」

「では同じ夢魔ではないのかしら‥。似たような夢魔が一日おきくらいにぽんぽん生まれているってこと?」

「そのようです。」

 瑞穂は額に手を当てて、考えこんだ。

「ちょっと待ってね。整理するから。‥‥その夢魔は被害者に悪夢を見せて窓から飛び下りるよう仕向け、結局は自分が下敷きになって消える。先日の報告も合わせると、事件の起こる時間帯はいつも夜明け頃で、被害者の性別は男性‥それも二十前後の若い人。同じ現象を呼び起こす夢魔が頻繁に出現するということは、故意か偶然かはともかくもとになる悪夢を見続けている人間がいる‥。」

「しかも夢魔なのに取り憑いた人間の感情を喰らって成長するのではなく、人間を助けて消滅してしまう。その点が最も不可解です。」

「そうね‥。でもこれからも助けるとは限らないわ。」

 瑞穂はうーんとうなった。

「お嬢さま。気になる点がもう一つあります。事件の起きるエリアなんですが、新宿区の一部、ちょうどお嬢さま方の通う学園を中心とした半径五キロ以内ですべて起きています。時期もまるで学園が春休みに入るのを待っていたかのように。」

 え、と瑞穂は椎名の顔をじっと見つめた。

「‥‥わけがわからないわ。わたしたちが邪魔だったの? それとも‥挑発なのかしら。どちらにしても。」

 唇をぎゅっと噛みしめる。

「夢魔を生みだしているのは人にあらざるモノか霊能力者の可能性が高いわね。ならば‥突きとめて対処するのは四宮の役目。いいわね?」

 椎名と磯貝ははい、と答えて頭を下げた。


 翌日、四宮早穂は姉の瑞穂の密命―――とは大袈裟だが内緒の依頼を受けて、『懐古堂』を訪ねた。

 夢魔について『懐古堂』が情報を持っていないか聞いてこいというのが姉の依頼で、聞けるようならば夜鴉一族からの情報も入っていないか確認しろと言われている。

「あたしが自分で行きたいのはやまやまだけど、仮当主の立場上まずいのよ。それにみんなの手前も、馴れ合っていると思われたら何かと反発されるかもしれないし。」

 そういうわけで部屋住みの早穂に頼んだわけだが、早穂は『懐古堂』を訪ねるのは瑞穂とは違った意味でわくわくするので喜んで引き受けた。

 神社の入口で暇そうな縞猫に会ったので、手土産のお菓子を餌に誘ってみる。だが縞猫は早穂が客ではないという理由で残念そうに断った。

「そ。じゃ、あとでもらってね。」

 にっこり微笑むと、縞猫はにやっと笑い返した。

 ―――やった! 喋って笑う猫を初めて見た。

 これだからここへ来るのは楽しい。いつも何かしら珍しい体験に出会えるのだから。

 軒行灯(のきあんどん)を横目に通り過ぎて、突きあたりの硝子戸をがらがらと開ける。

「こんにちは。早穂ですけど、茉莉花さんいますか?」

「いらっしゃいやす、早穂嬢ちゃん。お一人ですかい?」

 いつのまに近くに来たのか、店内の薄暗がりから黒達磨がぬっと現れた。

「うちの嬢ちゃんは奥にいやすよ。ちょうど咲乃さんがお見えで。」

「えっ。もしかして‥黒鬼も一緒?」

 早穂は声を低めて黒達磨に確認した。黒達磨は苦笑して首を振った。

「それが今日は珍しくお一人なんでやんす。」

「へえ‥。どうしたのかな?」

 何にしろ黒鬼の霊気が苦手な早穂としては助かる。

 奥の座敷では不安げな面持ちの咲乃が茉莉花に何か話していたが、早穂の顔を見て口を噤んだ。

「ごめんなさい。邪魔なところへ来ちゃった?」

 いえ、と咲乃は気恥ずかしそうに微笑んだ。

「いいの。つまらない愚痴を聞いてもらっていただけだから。ちょうどこれ以上は茉莉花さんにも迷惑だと思っていたのよ、切り上げるきっかけができてよかった。」

「愚痴って‥。まさか、彼と喧嘩したの?」

 ううん、と咲乃はもう一度微笑む。

「そうじゃないの、就職活動のこと。なかなかうまくいかなくて‥。煌夜は自分のせいかもしれないと言って、最近昼間は一人でどこかへ行ってしまうの。それで‥‥」

 茉莉花があとを引き取った。

「だからわたしが、煌夜さんのせいではないと断言してあげる約束をしたのです。」

 咲乃はほっと安心した顔をした。

「就職ね‥。ちなみにうまくいかないほんとうの理由は何? もしかして霊力のせい?」

 早穂は自分も将来は大学に進学して、できれば普通の職業を持ちたいと考えているので、切実な気持ちで聞いてみた。

「たぶんあたしがだめなの。緊張しすぎて、うまく喋れないし‥。霊力も煌夜も関係ないと思うわ。それに‥心のどこかに就職したくない気があるから。」

 咲乃は切なそうにうつむいた。

「時々、人であることをやめたら‥もっと楽に生きられるかしらって思うのよ。だけどそうしたら煌夜にとってあたしは役立たずになっちゃうかもしれないし‥。」

「‥‥どういう意味? 人でなくなるって物の怪になりたいの?」

 混乱した早穂に咲乃はすまなそうな顔で、ごめんなさい、と謝った。

「早穂さんにまでこんな愚痴こぼして‥。あたしったらどこまでもだめねえ‥。」

 すると茉莉花が珍しいことに、はっきりとした微笑を咲乃に向けた。

「咲乃さんは煌夜さんとずっと一緒にいたいだけなのでしょう? ほんとうに物の怪になりたいわけではないんですよね。きっと今に収まるべきところに収まりますから、心配しないで。前も言いましたが、煌夜さんと一緒にいたいと心を強く持てば道ができます。」

 咲乃は顔を上げ、縋りつくように茉莉花を見た。

「ほんとうにそう思っていて‥いいのかしら?」

 ええ、と茉莉花は静かに、だがきっぱりと答えた。


 早穂が瑞穂から託かった相談があると言ったために、咲乃は気を利かせて先に帰った。その後ろ姿を見送って、茉莉花は心配そうに眉根を寄せた。

「どうしたんですか? 咲乃が心配?」

「ええ。咲乃さんの心があんなに揺れているのは‥たぶん黒鬼さんのせいでしょうから。」

「え?」

「咲乃さんは素直なので、敏感に感じ取ってしまうのですよ。黒鬼さんは人間界では異端な存在であると同時に、存在し得ないほどの力を持っていますから‥。その彼が安定しないと人間界にとってもよくないんです。困りましたね。」

 早穂は茉莉花の静かな顔をまじまじと見返した。

「じゃあ‥。さっきの言葉は咲乃を使って黒鬼を安定させようとしたわけ?」

 茉莉花は振り向いて、いえ、と否定した。

「咲乃さんは迷わないことがいちばん大切なんです。そうすれば彼女の並外れた霊力が彼女自身の幸福に向かって作用するでしょう。心が弱れば、なまじ受容範囲が大きいだけに何一つ選択できずに立ち竦んでしまうことになる。それは最悪の結果しか生みません。」

 何となくほっとした。咲乃にはぜひ、幸せになってほしい。

「ところで。早穂さん、瑞穂さんのご用とは何でしょう?」

 早穂は短く簡潔に、現在起きている夢魔の事件について説明した。そのうえで単刀直入に関連した情報はないか、と協力を求めた。

「夢魔‥ですか。」

 茉莉花は黙って考えこんでいたが、やがて顔を上げた。

「実はわたしも‥。夢魔を生みだしている人を探しています。詳しくは明かせませんが、あなたがたの学園から半径五キロ以内にその人がいるならば、近いうちに探し出してお知らせできると思います。」

「ほんとですか? それは助かります。」

 早穂は膝を乗りだした。

「はい。その人、あるいはモノに悪意があると判断した場合には、無条件にそちらへ引き渡しましょう。ですがそうでなかった場合にはこちらへお任せ願いますと瑞穂さんにお伝えください。むろん、事情説明はいたしますから。」

 茉莉花はやけに深刻な表情でそう言った。


 咲乃が茉莉花を訪ねている間、煌夜は物の怪街道へ次元移動して柳楼を訪れていた。市之助に会うためだ。

 三週間ほど前から、妙に全身が疼いて霊気が安定しない。初めはほんの微かだったが、その感覚は毎日少しずつ強くなっていくようだ。だが原因がつかめない。

 市之助は話を聞くと、少しの間黙りこくって煌夜を凝視した。

 冷めた瞳は揺らぐ気配は見えない。それだけで煌夜はやや安心したものの、次第に真剣みを帯びてくる視線には緊張してくる。やがて市之助は小さく吐息をついた。

「悪いが俺にはよくわからねェ。だが確かにあんたの霊気が乱れているのは感じるな。体の内側からくるってェなら‥予感てヤツじゃねェかい?」

「予感‥?」

「予兆と言い換えてもいい。これから近い将来に何かが起きる、そんな感覚だよ。」

 煌夜は沈黙した。

 言われてみて冷静に自分の中を探れば―――確かにそんな予感がする。それも悪いことが起こりそうな感じだ。

 だから自分はここのところ、無意識のうちに咲乃を遠ざけようとしていたのだろうか。

 一人になりたい、と告げるたびに咲乃の瞳は不安に揺らめく。言葉では決して逆らわないが、彼女の心が離れたくないとつぶやくのが聞こえてくる。

 切ない想いと同時に安堵感―――咲乃の気持ちは俺のものだという実感が胸に湧いて、煌夜は無性にいたたまれない気分になる。咲乃を傷つけて愛情を確認している自分の卑小さがたまらなく嫌だった。

 だがそれも市之助の言う予兆のせいで、無意識に咲乃を護ろうとしていたのならば。

 これから起こるできごとが何であれ、少なくとも自己嫌悪に陥るのだけは回避できる。

「‥‥どうもあんたの言うとおりらしい。何かが近々起こりそうな気がする。」

 ぽつりと答えた煌夜に、市之助は酒を注いだ。

「良くねェ感じかい?」

 煌夜は答えずに酒をぐいと一気に飲みほす。

 市之助はふふっと苦笑した。


 友人の部活が終わるのを校門前で待っていた花穂は、頬にぽつんと雨が落ちてくるのを感じた。

「やだ。雨が降って来ちゃった‥。夜まで保つって言ってたのに‥。」

 時刻はちょうど正午を過ぎたところだった。

 花穂は横断歩道の信号が青になるのを見澄まして、走って渡った。コンビニでビニール傘を買うためだ。

 濡れたくないので急いで入ろうとして、出てきた店員と正面から鉢合わせしてしまった。

「あ‥すみません。」

 店員は転びかけた花穂の腕を、とっさにつかんで支えてくれた。その声をどこかで聞いたような気がしたが、顔を上げて見れば知らない人だ。

「こちらこそすみません。」

 花穂はにっこりと微笑んで、軽く会釈した。

 若い男の店員は赤くなってうつむいた。つかんでいた腕をさっと放して、慌てたふうに後ろに隠す。そしてうつむいたままぺこりと頭を下げ、急ぎ足で外へ出ていった。

「どっかで会ったような気がするんだけどなあ‥。」

 後ろ姿を見送って花穂は首をかしげたが、よく考えればこの店は校門の前にあるのだし、無意識の内に何度も会っていて不思議はない。

 ビニール傘を買って外に出ると、雨は本格的な降りに変わっていた。

 先ほどの店員は雨の中を、駐車した車の客に何か謝っている。釣り銭でも渡しそこねたのだろうか、と見ていたら、急に車が発進した。彼は急いで後ろへ退いたが、危うく轢かれてしまいそうな危険なタイミングだった。

「何だろ‥。乱暴ねえ‥!」

 困惑した顔の彼の足下にはゴミが乱雑に散らばっている。ぶつけられたようだ。

 花穂は近づいて、傘をさしかけた。

「大丈夫ですか?」

 彼はびくっとしてちらりと花穂を見たものの、すぐにかがみこんでゴミを片づけ始めた。

 花穂は背中から傘をさしかけてついて歩きながら、じろじろと無遠慮なほど眺めた。やはり知っている気がしてならない。

「あのう‥。傘、大丈夫ですから。構わないでください。」

「あら‥? 迷惑だった?」

「いえ、そのう‥もう、終わりましたので。」

 彼は両手を軽くはたいて、店の中へ戻ろうとする。

「ちょっと待って‥。肩がだいぶ濡れてるわ。」

 花穂はハンカチを出して肩を拭き始めた。なぜか思ったより濡れていない。

「ね‥。どこかで会ったことない? あなたのこと、知ってる気がするんだけど‥。」

 彼はまた赤くなって、黙って首を振ると、体をずらして花穂の手から逃れた。そして会釈だけ残して背を向ける。

「待ってよ。このハンカチどうぞ。髪も拭いたほうがいいから。」

 花穂は急いでハンカチを彼の手に押しこむと、返されないうちにぴょんぴょんと跳ねて後じさった。

「それあげるから。要らなかったら捨てちゃってもいいし、返してくれるなら今度また会った時にね。じゃ、さよなら。お仕事頑張ってね。」

 言いながら背を向けて横断歩道へと向かった。背後で何かぼそっと言ったみたいだったけれど、振り向かなかった。妙に弾む気分で、青になったばかりの横断歩道を渡る。校門の向こうに歩いてくる友人の姿が見えて、手を振った。

「さあて‥。縁を繋いだから、次に会えればたぶん、あの人が誰だかわかるわ。でも‥どこで会ったのかな? あの気配には憶えがあるんだけど‥。」

 渡りきってから、花穂はもう一度振り向いた。既に彼の姿はなかった。


 咲乃は家に戻る途中で、降り出した雨に折りたたみの傘を広げた。

 四月の雨は花冷えと言うけれど、今年は桜の開花が遅れている。今日から四月に入ったというのにまだやっと三分咲きだ。

 来年の今頃はいったい何をしているのだろう、と思うと咲乃は不安でたまらなくなる。

 無事に咲乃でも務まる仕事先を見つけて、煌夜と今までどおり暮らせるだろうか。咲乃の望みはそんな些細な幸せだ。

 不意に誰かの視線を感じて、咲乃は立ち止まった。

 何だろう、この背中を突き刺すような冷たい視線。後ろ、それとも右か? いやこの感じは―――上から?

 咲乃は傘を傾けて上空を見上げた。

 思わず傘を取り落とし、あっ、と叫んだ。

 雪のように白い髪、白い顔、金色の瞳。白い着物に袴をつけた男が数メートル上空に停止して、咲乃をじっと見下ろしていた。

 角はなく人の姿でいるようだが、あれは―――あれは間違いなく白鬼だ。

 咲乃は声も出ず、立ち竦んだまま全身がぶるぶると震えてきた。恐怖で涙がじわりと湧いてくる。

 心の中で煌夜、と名を呼んだ。その瞬間、白鬼の姿は冷たい気配とともに跡形なくかき消えた。


 煌夜は咲乃が自分を呼ぶ声を、先に帰宅した部屋のベッドで聞いた。

 いつのまにかうとうとしていたようだった。起き上がれば窓の外は雨模様だ。

 まさか雨だから呼んだわけでもないだろうが、と咲乃の居場所を感知してみる。

 いた、と思った瞬間、煌夜は顔色を変えて咲乃の(かたわ)らに飛んだ。感知した咲乃の心は恐怖に満ちていた。

「咲乃‥! どうした?」

 咲乃は青ざめた顔でただ胸に抱きついてきた。全身がふるふると震えている。

 煌夜は彼女の体を腕の中にすっぽりおさめると、次元移動で部屋に戻った。

「いったい‥何があった?」

 咲乃は涙をぽろぽろこぼして泣きながら、顔を上げて、白鬼が、とひと言つぶやいた。

「白鬼? ‥見たのか、咲乃?」

 しゃくりあげながらうなずく。

 白鬼。あの白鬼が再び現れたのか―――予兆はこれか。

 内心の動揺を押し隠して、煌夜は静かに言った。

「落ち着け。あいつは鬼人界で牢に入れられてる。それに人間界に舞い戻ればただちに強制送還されるよう、月神が網を張っているはずだ。」

「でも‥。白い髪で‥ものすごく冷たい気配‥。き‥金色の目であたしをじっと見てた。空に浮かんでたの、ほんとうなの‥。」

 煌夜は咲乃を胸にかき抱いて、髪を撫でた。

「大丈夫‥。あいつが仮に舞い戻ったところで、今度はやられやしねえよ。俺はあの時の俺じゃない。逆に完全に息の根を止めてやる。」

 咲乃はぎょっとした顔で、腕の中から顔を上げた。

「また‥闘うの‥?」

 咲乃の瞳は傷つかないでほしいと伝えてくる。

 そこで煌夜は初めて、咲乃の恐怖が彼女自身の危険に対するものではなく、再び煌夜が傷つく可能性に対する恐怖なのだと理解した。

 ―――いつも、いつも‥。咲乃は自分よりも俺の存在を優先させる。

 抱いている体から伝わるのは、火傷しそうなほど熱い感情だ。どうしてなのだろう、と煌夜はやりきれなくなる。

 これが人間の女の愛情というものか。護ってやりたいのに―――護られているのは己のほうか?

「おまえを護るためなら、何度でも闘う。」

 静かに答えて、煌夜は咲乃を幼な子のように軽々と抱き上げた。

「俺が勝つと信じろ。そうすれば俺は何度でも勝つ。‥二度とおまえを(さら)われるような、無様(ぶざま)な真似はしねえよ。」

 煌夜、と咲乃はやっと微かに頬笑んだ。

 不意に全身を貫く激しい振動を感じた。凄まじい霊気の振動だ。

 咲乃の顔に再び恐怖がはりつく。

 振動の源は遙か上空にいるらしかった。どうやら煌夜にここまで来い、と言っているようだ。挑発なのか、ほんの数秒で振動は止んだ。

「‥‥俺を呼んでる。行かなきゃおさまらねえみたいだな。」

「煌夜‥‥。」

「咲乃はもう一度『懐古堂』へ行って待ってろ。おまえが安全なら俺は大丈夫だから。」

 一度は止んだ雨のように咲乃は再び、声を出さずに涙を流し始めていた。

 うなずくのを待たず、『懐古堂』の軒行灯の下で咲乃を下ろし、煌夜は厚い雨雲の上へと一気に突き出た。


 霊圧の振動はほんの短い時間しか起こらなかったにも関わらず、『懐古堂』の茉莉花と早穂、四宮敷地内の瑞穂、友人とカフェにいた花穂、更に夜鴉一族幹部の面々はみな感じ取った。

 咲乃と煌夜の動きも察知した茉莉花は勢いよく戸を開けて外に飛び出し、軒行灯の下で裸足で茫然と空を見上げている咲乃を発見した。

 咲乃は全身の震えが止まらず、無意識に結界を張って体じゅうを包んでいた。薄い銀色の光を放ち、降りそそぐ雨の雫を弾きとばしている。

 茉莉花は鈴の音を緩やかに鳴らし、咲乃の結界の中へ入ると、そっと肩を抱いた。咲乃は声を押し殺して泣いていた。

「咲乃さん‥。中へ入りましょう。」

 凍るほど冷ややかな気配。忘れもしない白炎の気配によく似ているけれど―――異なるものだ、と茉莉花は感じた。何より違うのはものすごく静かで、殺気がかけらもない。

 ―――鬼人界には、俺の他に白鬼は三人しかいない。爺いばっかりで、何かにつけて説教がましい連中だ。

 白炎は茉莉花にそう言った。

 ではそのうちの一人がやってきたのだろうか。いったい何のために?

 上空ではいきなり戦闘が始まったようだった。

 咲乃の震えが強くなった。だが彼女は唇をぎゅっと噛みしめて、上を見上げた。必死に心を強く持とうと、自分に言い聞かせているらしい。

 雨空に夕闇が混じり始めて、どっと暗さを増してくる。

 夜鴉一族がざわざわと動き出す気配がして、闇が人の世に覆いかぶさってくる。若頭領の巨大な翼が上空を横切っていく。

 夜鴉一族は今のところ戦闘を静観する構えだ。ぐるりと東京の空を囲んでいる。

 ちょうど真上に若頭領の気配を感じて、茉莉花は苦笑した。若頭領もそろそろ茉莉花を諦めてくれていい頃なのだけれど。

 雲の上の凄まじい霊圧の衝突が、落雷となって下界に落ちた。

 停電が起きて、本物の闇に世界が呑みこまれる。だが数秒で電気は元に戻った。

 雲上の戦闘は三十分ほども続いただろうか。

 うつむいて祈っていた咲乃が不意に顔を上げた。

 鬼人の気配は一つだけになっていたが、もう一つは消滅したわけではないようだった。次元の穴にもぐりこんだらしい。

 夜鴉の闇がゆったりと解除されて、息を切らせた黒鬼がすうと目の前に現れた。

「白鬼は‥‥?」

 咲乃が両手を伸ばして、おずおずと訊ねた。

「‥帰った。心配ない、あいつじゃない。」

「でも‥‥闘ったのでしょう?」

「‥‥挨拶みたいなもんだ。問題ない。」

 黒鬼はそれだけ答えると、茉莉花の目の前なのも構わずに―――というより茉莉花など目に入っていないように、咲乃を抱きしめて口づけをした。

 そのまま二人の姿はかき消えた。


「何ですか、あれ‥。現実じゃなくてドラマみたい。」

 黒鬼の姿が消えたので、ほっとしたらしく早穂が店から出てきて茉莉花に近づいてきた。

「茉莉花さん‥? 何をしているんです?」

「気配を‥探ってみたのですけど。鬼人は自由自在に気配や霊力を消せるみたいですね。前の白炎もそうだったから‥。」

 茉莉花はふと考えこんだ。

 白炎は、自分以外の白鬼は責任や義務を重んじるというような意味の言葉を漏らしていた。ならば今度の白鬼は某かの目的を持って人間界へ来たはずだ。

 黒鬼に会いに来たのだろうか。黒鬼を挑発するように唐突に霊気を発して、戦闘力を試したようでもある。だが黒鬼は鬼人界を追われて人間界にやってきた身だ。白鬼は鬼人界を統べる立場。わざわざ会いに来るならば―――目的は何だろう?

 それに白鬼は帰ったと黒鬼は言ったが、ほんとうに帰ったとは茉莉花には思えない。

「人間界とは‥関係ないのならいいんですけど‥。」

「ほんと。鬼人界のトラブルは、鬼人界に持ち帰って始末してほしいですよね。」

 早穂が呆れ顔でつぶやいた。そのとおりだと茉莉花も思う。

 突然あたりを闇がおおった。

 (つや)やかな黒い翼がばさり、と揺れて、茉莉花と早穂をむせかえるような濃密な闇が包みこむ。

「『懐古堂』、無事かえ?」

「おかげさまで。ありがとうございます、若頭領。」

「おや。素直に礼を言ってくれるとは‥少しは俺を頼りにしてくれる気になったかい。」

「東京の夜は、若頭領なしには立ちゆきません。わたしも東京に住まいしておりますので、分相応に頼りにしております。」

 若頭領は羽ばたきひとつで茉莉花のすぐ隣に立ち、顔を覗きこんで相好を崩した。

「くく‥。小賢しい答えだねェ、相変わらず。‥そっちは四宮の三の姫だな。本家の姫がなんでまた、境界の場所にいるんだい‥?」

 急に視線を廻らされ、早穂は硬直して立ち竦んだ。

 若頭領のいたずら好きにも困ったものだ。茉莉花は内心溜息を呑みこみながら、ほとんど音を立てずに鈴を揺らした。早穂と自分の立ち位置を確保するためである。

 若頭領は気づいて、茉莉花に艶然と微笑みかけた。

 少しばかり胸が立ち騒ぐのは妖力が強すぎるせいだろう。まったく困った妖し(ひと)だ。

「ところで若さま。今しがたの雲の上でのことですが‥。どういうなりゆきなのか、お教えくださいませんか?」

「白鬼がいた。前のヤツじゃない、もっと年を食ったヤツだ。冷静に黒鬼の相手をしていたようだが‥。どっちも本気じゃねェから助かった。どうも話の感じじゃ、黒鬼の潜在能力を確かめていたようだぜ。」

「話の内容は‥お聞きになりましたか?」

「俺ァ聞いたがね‥。他は誰もあの霊圧じゃ聞こえなかったろうよ。」

「‥‥お教えくださいと申しましたら‥対価が必要でしょうか。」

 若頭領はにやっと微笑った。

「そりゃ、魅力的な誘いだがね‥。今は言えねェな。あの黒鬼(ガキ)が結論を出したら、ただで教えてやろう。対価は必要ねェ。楽しみに待ってなよ。」

 若頭領は茉莉花の結界をものともせず、軽く頬を撫でてから、翼をふうわりと広げた。

「じゃあまたな、『懐古堂』。‥今宵(こよい)は一の日、あの男は神さまのお()りなンだろう? 今度は堂々とあいつがいる時に逢いに来るぜ。いつまでもこそこそ逃げてるンじゃねェ、と伝えておいてくれ。」

「‥お戯れを。人間と若さまではそもそもフェアとは言えません。ご勘弁くださいまし。」

 若頭領は頭を上げて哄笑し、すっかり日暮れた夜空に吸いこまれるように消えた。


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