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第十二章

 昼食の準備をしている途中で、玲が帰ってきた気配を察して茉莉花は店の外へ出た。

 路地の角を曲がって姿が見えたと思った時、彼も茉莉花を見留めて手を振った。あの分では今日の首尾は上々だったらしい。茉莉花はほっと安心した。

「お迎えとは嬉しいな。心配だった?」

「ええ‥。あの傀儡師の遣う操り糸は、なぜだか人間にはよく見えないものだから‥。ちょっと心配だったけど、では瑞穂さんは計画通りに捕まえたのね?」

「‥心配だったのは瑞穂ちゃんか。俺じゃないの?」

「堂上さんは‥わたしの心配なんか要らないでしょ。忠告しても聞かないんだし。」

 並んで店に入りながら、玲はあはは、と笑った。

 皮肉を言ったつもりなのに、何が可笑しいのかよくわからない。なのになぜか茉莉花は赤くなった。


 昨晩、若頭領は傀儡遣いの背後にいるのは四宮南家だと告げた。

「四宮を名のるってことは分家? 乗っ取りですか‥。」

「ただの分家じゃねェよ。東西南北の四門を守護する四家の一つだ。しかも南家当主の四宮立夏は三姉妹の母親の姉。血の繋がった伯母だよ。」

 若頭領の言葉に、玲は薄い笑みを浮かべた。

「人間の世界じゃよくある話ですから‥。血の繋がりが逆に勘違いを起こさせるのでしょう。」

「ま、勘違いは人間だけじゃないがね。弱いモノほど己を見失いやすいのさ。‥ついでにもう一つ教えてやろう。南家は機に乗じて、明日にも一気に主導権を握るつもりだぜ? どれほど霊力が強いと言っても、所詮姫たちは成人前の小娘だ。恐怖を植えつければ精神的に支配できると踏んでるのさ。」

 若頭領は茉莉花を振り向いて、妖艶な微笑を浮かべた。

「どうする、『懐古堂』? こりゃ四宮の内紛だ。夜鴉一族もそうだが、交渉屋にも出張る余地はないぜ。姫たちが自力で何とかするのを見守るしかないだろうよ。」

「夜鴉一族が動けないのはわかります。動く義理もないというのも‥。ですがわたしどもの立場から言えば、霊力が欲しいからと安易にわたしや咲乃さんを襲った分はきっちり取り立てる必要があるかと存じます。」

「ふふ‥。そうこなくちゃな。‥‥ところで『懐古堂』。この先助けが欲しい時は素直に俺を呼びなよ。惚れた女を助けるのにいちいち対価を要求するほど、小せェ器量じゃあないつもりだぜ?」

 若頭領はそう言って、茉莉花の頬をひたひたと撫でた。

「‥それはどうぞ他の方に仰ってくださいまし。」

「つれないねえ‥。だが一度口にした言葉を翻すつもりはねェよ。憶えておきな。」

 鷹揚な微笑を浮かべてすっと立ち上がると、(つや)やかな闇をぶんと一閃し、若頭領は姿を消した。

 茉莉花はふうっと大きく息をついて微かに鈴を鳴らし、境界を仕切り直した。

 隣の玲を見ると、厳しい顔で何か考えこんでいる。

 なぜ本名を正面切って名のったのかはともかくとして、白炎についてや前世の記憶に関してなど問い質したいことは山ほどある。しかし今は時間がなかった。四宮本家と傀儡師の問題が最優先なのは間違いない。

「まずは明日までにできるだけ正確な情報が必要だよね。今夜、南家に潜入調査だな。」

 ぽつりとつぶやいた言葉に茉莉花は驚いた。

「潜入調査‥? まさかあなたが?」

「準備期間があれば俺がしようと思ってたけどさ、無理だな。健吾が帰ってきたら相談してみよう。」

 ああ、なるほど、と茉莉花は安堵した。

「もう戻ってくると思うんだけど‥。咲乃さんを連れて。」

「でも‥まだ白炎かもしれないわ。」

「あいつは今頃もう引っこんだよ。咲乃さんを苛めて面白がってるのは明らかだったから、咲乃さんが悲鳴を上げたら健吾に強制的に入れ替わるようになってる。」

 茉莉花はびっくりした。

「よくできたわね、そんなこと‥。」

「うん。あいつはほんとに大して霊力を持っていないんだ。意識を乗っ取っても健吾の妖力と体に全面的に依存してる。だから健吾があいつに対して強い意志を持てれば、封じこめるのは可能なんだよ。ところが健吾は気が弱いだろ? で、具体的にプログラムしたわけ。咲乃さんが怖がったらとか俺の許可なく暴力を行使したら、とかね。主人(マスター)命令なら健吾は迷いなく実行できる。ま、単なる暗示にすぎないんだけどね。」

 人にあらざるモノのトラブルを扱うのには霊力が必要―――そんな認識は単なる思いこみにすぎないとあらためて思い知らされた感じがした。つまるところ目に見えて会話ができる相手ならば、人もモノも同じなのだろう。

「健吾が帰ってくる前に着替えておこう。‥君はどうする?」

「もちろん一緒に行くわ。」

 玲はよかった、とにやっと笑った。

 着替えが終わる頃、咲乃を連れて健吾が帰ってきた。意外なことに切羽も一緒だった。

 切羽は玲の頼みなど聞きたくないという顔だったが、南家の場所を知っているのはこの中では切羽だけだったし、時間がないということで一緒に行くのをしぶしぶ承知した。玲はなぜか切羽が頼みを断らないという確信があったようだ。

 切羽の先導で到着した南家は、明らかに清浄な霊力ではない何かに覆われていた。

 健吾は邸内にあふれる呻き声や呪詛の声で気分が悪くなりながらも、花穂のために必死で玲に言われたとおりに桐原森彦の居場所を突きとめてきた。

「傀儡の術が遣えるのは何人?」

「今夜いただけで言えば、桐原を抜いて七人。当主は遣えないようです。」

「明日はその全員が本家へ来るのか?」

「いえ。五人だそうです。二人残るみたいですけど‥。」

「二人ね‥。桐原は?」

「どうやら四宮孝彦になりすますらしいです。人形を被るみたいで‥。」

「人形を被る‥?」

 切羽が代わって答えてくれた。

「陰陽道の式神遣いが使うような紙人形を使ってるのさ。なりすます相手の霊力を吸い上げてそいつそっくりの人形を動かしたり、自分の懐にしのばせてなりすましたりして使う。あいつが持ってたのは核になる霊力の他に、分捕った霊力を山ほど練り上げてるから、かなりのレベルの能力者でも瞞されちまうな。ま、四宮の姫は瞞されないだろうが‥。」

「姫、ね‥。教えてほしいんだけど、夜鴉一族が姫として認定してるのは、誰と誰?」

 玲は常々疑問に思っていたことを口にした。

「‥‥力の大きさだけで言えば、咲乃姫、そこにいる『懐古堂』、それから本家の三姉妹の順。だが咲乃姫は全然使いこなせていないから、俺たちからすりゃ姫だが人間の定める霊能力者には当たらないだろう。他の四宮の女どもの中には、姫クラスは一人もいない。南家の当主ごときがいくら騒いだって、本家の一の姫の足下にも及ばないさ。」

「それででしょうか‥。明日、本家に着いたら南家当主が先導して、花穂さんと早穂さんをまずもう一度捉えると言っていました。瑞穂さんに龍笛があるのは知っているようで‥一筋縄ではいかないだろうから、遣える霊力を増量しておくんだと‥。」

 健吾が悔しそうに唇を噛んでうつむいた。

「俺‥。主人(マスター)に命令されてなかったら、あの場で‥‥」

「よく我慢したね。でも瑞穂ちゃんは自分で始末をつけたいだろう。手伝ってやろうよ、健吾。‥‥いいよね?」

 玲は茉莉花を振り向いた。茉莉花はうなずく。

 よし、と微かに頬笑んで、次に切羽を見上げる。

「‥‥君は? 若さまの許可がないとまずいのかな?」

「若はあんたを手伝ってやれと言った。だからこの件に関してこれ以上許可は要らない。どうせ、本家の片がつくまで南家の二人を抑えとけと言うんだろう? だが人間相手じゃ掟の制約があるから、あんたの望みどおりとはいかないぜ?」

「やり方は任せる。でもできれば‥傀儡師だけを南家の外へおびき出して、動けないようにしておいてくれると有難いんだけどね。勝手に行方不明になる分には、本家も南家も探さないと思うよ。」

「ふん。結構、非道だな。あんたの姫さまが呆れてるぞ。」

 玲は肩を竦めた。

「だって‥。大人は自分の行動には自分で責任を持たなきゃね。他人のものを奪って、未成年の女の子を辱めるような大人はさ、どんな怖い目に遭っても文句は言えないだろ? 俺は知らないよ。」

「その言葉、自分に返ってこないように気をつけるんだな。だがあんたの頼みは引き受けた。対価は要らない。‥理由はあんたの知ってるとおりだ。」

 そう言うと切羽は漆黒の翼をばさりとはためかして、夜空へ消えた。

「‥切羽さんの理由って?」

 車に乗りこみながら茉莉花が訊ねると、玲はああ、と微笑んだ。

「彼はね、花穂ちゃんのお友だちなんだよ。瑞穂ちゃんには内緒だけど。」

「まあ‥。そういうことなのね。‥なるほど花穂さんの霊力はそうやって、瑞穂さんを支えているんだわ。」

「‥‥どういう意味?」

「花穂さんの人脈が回り回って本家の危機を救うってこと。健吾さんや切羽さんの協力は明日の計画にどうしても必要なことでしょう? 彼女自身には利用するつもりがなくても、無償の尽力が自ずと集まってくるのでしょうね。」

 茉莉花は説明し、ほっと安堵した。

「よかった‥。切羽さんが明日することは全部、四宮の霊力の流れが呼ぶ必然になる。結果が堂上さんにはね返ることはないわ。」

 玲は少し驚いたようだった。

 茉莉花自身は変なことを言ったつもりはないので、すっきり解明された気分だ。

 しばらくして健吾が、おずおずと茉莉花に訊ねた。

「あの‥さっきのことなんですけど‥。」

「さっきって‥?」

「花穂さんの‥。その、俺はこの先も‥花穂さんの手伝いをして構わないってことでしょうか?」

 茉莉花は慎重に言葉を選んだ。

「‥構わないと思うわ。そのほうがあなたにとってもいいはず。もちろん、堂上さんの許可がなければできないけれど。」

 健吾はうつむきがちに頬笑んだ。

「俺‥。迷惑になるばかりだと思ってたんで‥ちょっと嬉しいです。花穂さんは優しいから友だちになってくれるって言って、声をかけてくれるけど‥。ほんとは会っちゃいけないんだと思ってたから‥。」

 茉莉花には健吾と花穂の出会いは必然のように見える。どちらの力がより強く働いたかはまだ不明だけれど、四宮本家に生まれ始めた新しい流れがふたりの縁を結び合わせたのだと感じるのだ。ただ新しい形ゆえに、これからどのように動いていくかは予測できない。

「じゃ‥。健吾には明日、しっかり働いてもらうね。戻ったら早速打ち合わせしよう。」

 はい、と健吾は明るい声で答えた。


 待っていた咲乃に遅ればせながら事情を説明したあとで、茉莉花は瑞穂との打ち合わせを玲に任せ、弐ノ蔵へ下りていった。

 眠れないからと咲乃がついてくる。

「何をするつもりなの‥?」

「祖父の‥日誌を調べてみようと思って。」

 傀儡師一族とその術についての記録は、江戸時代の簡潔な概略記事しか残っていない。他にもないかと探してみたがなかった。

 しかし先日から『森彦』という名がどうも気になっている。珍しい名前なので記憶に残っていたのだが、確か祖父の残した日誌の、二十年ほど前の部分で目にしたような気がしたのだ。

 咲乃にそう言うと、咲乃は手伝うと申し出た。

 二人であちこちひっくり返したあげくに、ようやく茉莉花は十八年前の日誌でその名を見つけた。

 その記事は十八年前の秋の事件で、傀儡の術を求めた闇の能力者に真宮寺一族の最後の当主夫妻が殺されたというものだった。真宮寺一族は甲州に代々住む能力者の家系で、禁術である傀儡の術に関する記録を管理していたという。

 当主には当時十四になる息子がいて、彼の名が真宮寺森彦といった。事件を収拾した四宮本家は残された子どもに霊力がないと認定し、真宮寺一族を事実上廃家にした。禁術の管理は本家に移管され、文書その他すべてを真宮寺家より押収したとある。

「この子どもが桐原森彦なんだとすれば、四宮本家に恨みを抱いていた可能性は十分ありそう。南家の協力で押収された父祖伝来の書物を取り戻し、傀儡の術を発展させて他人の霊力を身に纏う技を編み出した、というところかしら。‥‥堂上さんに知らせなきゃ。」

 茉莉花は日誌を抱えて立ち上がった。


 昨晩のことを思い出すと、とにかく無事にすんでよかった、とほっとする。

 昼食の支度の続きに戻りながら茉莉花は、だがこの事件は手始めにすぎないような予感が拭えなくて困った。

「他の禁術とか、ここ二十年の本家をめぐる事件とかはちゃんと頭に入れておかないと。」

 知らず知らず眉間に皺をきざんで、独り言をつぶやく。

 昨夏の事件。あれが東京全体のパワーバランスを不安定にさせる原因であるならば、あの事件の発端である咲乃の出生時に遡って、二十一年間のできごとが再びいろいろな意味で蒸し返される可能性がある。茉莉花はそう考える。そしてその場合、昨夏の事件に関わった者全員が何らかの形でまきこまれるに違いなかった。

「ね? お昼ご飯、何?」

 いつのまにか髪の色が戻って着替え終わった玲が、後ろから訊ねた。

 少しうつむき加減で、カレー、と答える。

「へ? じゃ‥鳥島さんが来るんだ?」

 玲はやや皮肉めいた表情を浮かべて、茉莉花の顔を覗きこむ。

「偶然重なっただけ。さっき咲乃さんの件でメールがあって、申しわけないって‥。」

 玲の依頼で鳥島が咲乃の警護に手配した者は、眠らされていたそうだった。

「偶然ね‥。まあ、そういうことにしとくよ。じゃないと嫉けちゃうから。」

「な‥何言ってるの‥? それより髪、勝手にさわらないで‥!」

 はは、と笑って跳び退いた玲は、ふと茉莉花の全身にまじまじと見入った。

「何だか違うなと思ってたんだけど‥。もしかして結界張るのやめてる? 前より簡単にさわれちゃうんだけど。」

「ああ‥。鈴を壊されてしまったせいよ。どうもうまくいかなくて‥。ばたばたしてて新しい鈴を買いに行くどころじゃなかったし。」

「なんだ‥。俺のために緩めてくれたわけじゃないのか。」

 茉莉花は呆れ返って、振り向いた。

「‥て言うより、今まであなたにはわたしの結界が効かないんだと思ってたのに‥。気づいてたということはちゃんと効いてたってこと?」

「まあね。髪とか手とかさわるたびに、ちょっと静電気がおきたりして‥。結構、気合い入れてさわらないと届かないっていうか‥。」

「呆れた‥。そうまでしてからかうなんて、気がしれないわ。」

 鍋をかきまぜながら、しみじみと溜息をつく。

「ところで健吾さんは‥まだ本家にいるのかしら?」

 カレーのお皿を準備しようとして、人数確認のために訊ねた。

「いや。健吾はね、花穂ちゃんに呼び出されて早穂ちゃんの見張り。半分デートかな。早穂ちゃんが抜け出してこっそり友人に会いに行ったので、早穂ちゃんには勘づかれないように監視するんだってさ。」

 そう、と答えて茉莉花は、今度は別の意味で吐息をついた。早穂の心の傷は癒える時が来るのだろうか。憎しみや恨み、悲しみに負けてしまわなければいいけれど。

「ところでさ。約束、憶えてる?」

 玲はスプーンを人数分差しだして、さりげなく言った。受け取って、約束などしただろうかと首をひねる。玲はしかめ面をした。

「ひどいな‥。今回の事件が無事片づいたら、名前で呼んでくれる約束だよ。」

 思い出して、つい真っ赤になった。

「約束したけれど‥。無理。」

「無理って、どうして? 健吾のことは名前で呼んでるのに。」

「無理なものは無理。そういうのは自然に口をつくようにならないと、無理なの。」

 顔を見ないようにしながら、茉莉花は早口で弁明した。

 せめて夢で見た末期(まつご)の言葉を思い出せなければ―――夢とは何だったろう?

「ま、いいや。人生は長いんだし。」

 くるりと背を向けて、玲はお盆を手に茶の間のほうへいってしまった。

 少し意固地になっているだろうか、と茉莉花は反省する。

 いっそのこと、何を思いだしたのか訊ねてみればいいのかもしれない。彼を縛らないためと言い訳して、怖がっているのは自分のほうなのではないだろうか。

 熱々のカレーを皿に盛り終えたところで、鳥島がやってきた。

 何だか気まずい気分だったので茉莉花はほっとして、自分でも気づかないままに普段よりにこやかに出迎えた。

 鳥島は菓子折を茉莉花に手渡して、相変わらずの不器用な微笑を浮かべた。

「カレーとは嬉しいな‥。家庭の味は久しぶりだ。」

 腰を下ろした鳥島に、玲がめいっぱい皮肉のこもった、嘘くさい笑顔を向けた。

「鳥島さんが来るのがわかるらしいよ。おかげで俺へのご褒美はふっとんじゃった。」

「‥‥何の話だ?」

「何でもない。うちの姫さまが俺にだけ厳しいって話だよ。‥いただきます。」

 玲はぱんと両手を合わせると、スプーンを手に取った。


 咲乃は茉莉花からの無事結着、というメールを大学構内で受けてほっと安堵した。

 昨夜のできごとを思い出すにつけて、早穂は今頃どうしているだろうと心配になる。数日前の花見で、明るくて元気な早穂に会ったばかりなだけに、胸が痛い。

 考えてみれば咲乃は護ってくれる人がいないと嘆いてばかりいるけれど、従妹たちにだって今は誰もいないのだ。なのに瑞穂などは逆に、必死で多くの人を護ろうとしている。

 ―――しっかりしなくちゃ。同じ力を持っているはずなのだから、せめて自分の身くらいは何とか迷惑をかけないようにしなくては。

 昨日の男たちは咲乃の霊力を奪うのが目的だったようだ。若い女性の場合、性的暴行がいちばん精神的にダメージを受けやすいから―――散々いたぶっておいて完全に支配するのだそうだ。茉莉花の話では、一般人でも同じ目に遭った被害者が何人かいるという。

 奪った霊力は自分たちが術を使うのに利用するらしい。咲乃の霊力は自分ではよくわからないがとても大きいらしいので、奪われたら相手に多大な力を提供することになり、咲乃に優しくしてくれる人たちの脅威となってしまう。

 煌夜に助けてもらった時と同じだ、と咲乃は思う。あの時咲乃の霊力を欲しがっていたのは物の怪ばかりだが、今度は一応人間だ。しかし物の怪よりタチの悪い人間。

 茉莉花は煌夜が戻るまで『懐古堂』へ来れば、と言ってくれた。

 けれど咲乃は今住んでいる部屋を出たら、煌夜には二度と逢えなくなる気がしている。寂しくても辛くても、ずっと待っていたいと―――待ち続けたいと思うのだ。待っている間はまだ、彼に完全に忘れ去られたわけではない気がするから。

 ふと頬に何かが落ちてきたのを感じた。見上げると構内の桜の木が、にぶい春の日ざしの中で満開に花開いていた。

 頬に貼りついた一枚の花びら。そろそろ散り時なのだろうか。咲乃はそっと溜息をのみこんだ。


 昼休みを終えて席に戻った吉見達也は、ちょうど着いた早穂からのメールを開けてみてぎょっとした。

 昨夜ニュースで早穂が爆弾事件の被害者だと知り、慌てて電話をかけてみたものの通じなかった。怪我はないと報道されているが、実際はどうなのか。だが何度かけても早穂の携帯は圏外だった。

 今朝になってやっと、昨日から数通送ったお見舞いメールの返答がきた。急いで開けてみると―――命に別条はないけれども、自分が誰なのかわからなくなった。今から考えれば父が達也にしたことはほんとうに残酷な仕打ちだったとしみじみ思う。ごめんなさい、もう顔を合わせられない―――という内容が、早穂らしくもなく支離滅裂な文章で長々と綴ってあった。

 急いで返信を送ろうとしたけれど、慰める言葉が見つからなかった。文を打っては消し、打っては消ししても、結局上っ面だけの嘘っぽい言葉しか浮かばない。

 仕方がないのでただ、『今度会ったらまた一緒にご飯を食べよう』とだけ送った。我ながら何とも情けないヘタレな言葉だと思うが、一応気持ちをこめたつもりだ。

 早穂からひと言だけ『うん』と返答があったのは、昼少し前だった。

 ところが今来たメールには『さようなら』とある。慌てふためいて今どこにいるのかと返信を打った。すると達也の部屋だと返ってきた。

「なんで‥? どうやって入ったんだろ?」

 わけがわからないがそこで待てと返信して、すぐ会社を飛びだした。会社への言いわけは後で考えるつもりだ。

 部屋までは地下鉄で二駅。ドアツードアで約二十分のところを十三分に短縮して、息を切らせて部屋に飛びこんだ。

「さ‥早穂ちゃん‥!」

 ベッドの上で早穂が横向きに、体をくの字に曲げて横たわっていた。目を閉じている。手には携帯を握りしめていた。

「しっかりして‥!」

 夢中で飛びついて腕に抱き起こすと、突然早穂はぱちりと目を開けた。

「あ‥あれ‥?」

 早穂はにっこりと微笑うと、そのまましっかりと首に両腕を絡めて肩に顔をぎゅっと押しつけてきた。

「‥‥絶対、来てくれると思った。」

 まったく、と叱ろうとして、達也は腕の中の早穂の体が、小刻みに震えているのに気づいた。肩に温かいものを感じる。

 そうっと背中に両手を回して、抱きしめた。

 気の強い早穂がこんなに震えているなんて、いったい何があったのだろう。

 いや知りたいのは何があったかじゃない。どれほど傷ついているのかだ。まだほんの少女なのに―――だが四宮本家の娘に生まれた彼女は、たぶん達也には想像もできないような苛酷な運命の中に身を置いている。

 そう思えば悲しくなった。黙って、傷が癒えるまでこうしていてやろうと思う。

 早穂は微かにすすり泣いて、身を委ねていた。達也は背を撫でるでもなく、声をかけるでもなく、ただ抱きしめている。

 しばらくして早穂が微かな声で、ごめんね、とつぶやいた。

「‥‥すごく怖かったの‥。霊力全部取られちゃって‥あたしがあたしじゃなくて‥。したくもないことさせられて‥。あたし、姉さんを蹴飛ばしたの。嫌だって叫んでも声が出なくて‥体が勝手に動いてね‥。怖くて怖くて気が狂いそうだった‥。」

 早穂はしがみついた腕に力をこめた。

「吉見さんも‥魂を剥がされた時ってこんな心細い感じだったのかなって‥。あたし‥あたし‥怖くて眠れないの、眠るとね、またあたしじゃないあたしになっちゃう気がして‥怖くてたまらないの‥。ねえ‥どうしたらいいの‥?」

 早穂の話す声は尻上がりに悲鳴のような甲高い声になり、やがてすすり泣きに変わった。

 背中にあてがった手をどうすることもできず、求められた言葉を探した。達也自身、未だに時々夢を見る。どうしたらいいかなんて答えられるはずもなかった。

「あのね‥。ごめん‥どうしたらいいかは‥わからないんだ。ぼくもまだ、時々そんな感じがするから‥。」

 早穂は涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。

「同じかどうかわからないけど‥怖くて眠れない気持ちは少しだけわかるよ。だから夢を見て飛び起きた時、ぼくはね‥助けてくれた人たちのことを考えるようにしてる。」

「助けて‥くれた人‥?」

「うん‥。ぼくを助けようと命がけで探してくれた鳥島さんとか‥。鼠の中から出してくれた茉莉花さんとか‥鬼人の穴から体を拾って、背負ってきてくれた堂上さんとか‥。おかげで何とか人間に戻れたってことをね、思い出すんだ。それまで全然、知り合いでも何でもなかったのに助けてくれた。だから‥また怖い想いをしても、きっとぼくは元に戻れるって信じられるかな、と思うんだよ。」

 早穂は潤んだ瞳からつうとこぼれた涙を、達也の肩で拭った。

「‥クリスマスの時。初めは早穂ちゃんの霊力が怖かった。魂を剥がされた瞬間の記憶がフラッシュバックしちゃって、茉莉花さんの鈴だって怖かった。だけど‥翠さんの夢の中でもうだめかなと思った時に、茉莉花さんの鈴が聞こえて、早穂ちゃんの霊力を感じて‥すごく安心したんだ。それから逆に早穂ちゃんの霊力は、ぼくにとってすごく安心できるものに変わった。‥何が言いたいかと言うとね、その‥。時間とともに記憶だって少しずつ別のものになっていくってこと。すぐには無理だし‥ものすごく‥努力が必要だけど‥。でもね、助けてくれる人がいるから‥。」

 自分で自分の言葉がもどかしくて嫌になる。仕方なくそっと髪を撫でた。他にはできそうなことが見つからなかった。

「じゃあ‥キスして。」

 肩に顔を埋めたままで、早穂は喉を振りしぼったみたいなか細い声を出した。

「え‥?」

「お願い‥。あたしの記憶も塗り替えてよ‥。吐き気がしそうな嫌な記憶を、優しい記憶で塗りつぶして‥。キスして、抱いて。ねえ‥お願い‥。」

 一瞬、ショックで全身が硬直した。そんな目に遭ったのかと思うと傷ましくて目のやり場もない。

 達也は抱きしめた腕に力をこめて、ぎゅっと目を瞑った。

「‥ごめんね。それはできない。」

「‥どうして? あたしが嫌い、それともレイプされた子なんか気持ち悪い?」

「そうじゃないよ、そうじゃないけど‥。その‥役目はぼくじゃないと思うから‥。」

 達也はもう一度思いきり抱きしめて、頭を腕の中にしっかりかいこんだ。

「ごめん‥。今はこれが精一杯だ。」

 早穂は背中に指を立ててしがみつくと、うっうっと声を立てて泣き始めた。泣き声は次第に大きくなって、終いには幼い子どものようにしゃくり上げて泣いた。

 達也はその頭をそっと撫でながら、ごめん、とただ繰り返した。


 切羽は南家の上空をゆっくりと旋回し、南門の結界が完全に崩壊しているのを確認した。

「やれやれ‥。四宮の女もろくなのがいなくなったな。若の言うように時代の節目なのかねえ‥。四門の意味もわからねェ女が本家を窺うなんぞ百年はえェよ。バカどもが!」

 幻術は南家全体にかけてある。南門に取りつけた羽の効力はせいぜい三日。

「一応、一の姫に警告しておいてやるか‥。」

 切羽は翼をばさっと広げ、飛び立った。

 四宮本家の上空で停止し、つくづくと眺める。

 紅い炎の柱が中心に立ち上っていた。整ったドーム型のきれいな結界が敷地全部をしっかりと包みこんでいる。昨日あれからきっちり作り直したのかと思うと、破れ目を作るのは少々気がひけた。

 切羽は苦笑して、外にいるらしい花穂に警告を出すことにした。花穂はビルの谷間にある小さな公園のベンチに腰を下ろし、健吾と何やら話していた。

「花穂は‥あの半妖野郎と一緒か‥。ん‥? 三の姫を見張ってるのか。‥なるほど。」

 公園の一ブロック先にある七階建てのマンションで、早穂の押し殺した微かな気配がする。

 人間モードに変身して、切羽はすっと音もなく花穂の後ろに下りたった。

 花穂はすぐに振り向いて、嬉しそうに微笑んだ。

「切羽‥。南家のほうは片づいたの? 協力してくれてありがとう。」

「うん。それでおまえの姉さんに伝言だ。南門の結界はぼろぼろ、使いもんになってねェ。幻術でごまかせるのは三日が限度、とね。」

「え? 三日経つとどうなっちゃうの‥? 南方からの物の怪は東京に入り放題?」

「物の怪だけじゃねェよ。今回の件でわかっただろ? 四宮に反旗を翻してる能力者どもはまだまだいるぞ。」

 切羽は花穂の頭をぽんぽんと撫でて、健吾のほうをちらりと見た。健吾は目を逸らしてうつむく。どうやら切羽が怖いらしい。

 ―――ヘンなヤツ。あの男がいないとてんで役に立ちそうもねェな‥。  

 花穂は珍しく真剣な表情で考えこんでいた。

「南門の結界をすぐに修復できるほどの分家がいればいいけれど‥。あたしが当分行くようかしら?」

「そうだな‥。こう言っちゃ何だが、今の四宮にはろくな能力者がいないもんな。だがおまえが一時的にしろ本家を抜けたら、本屋敷の結界が完成するのがまた遅れるぜ? 三の姫は当分戦力外なんだろう?」

 花穂は唇を噛みしめた。切羽は続ける。

「俺なら本家の結界修復を優先する。ま、おまえの姉さんがどういう判断をするかはわからないけどな。」

 じゃ、と切羽はもう一度花穂の髪に触れて、小さく微笑んだ。

「あ‥。もう行っちゃうの? ね、今度はいつ会える?」

「当分、おまえには関わらないようにする。‥四宮本家の霊力の流れがどんな形で収まるか見届けてからでないと、俺までまきこまれちまう。」

 花穂はにっこりと微笑んだ。

「いいじゃない、まきこまれたって。新しい時代には必要なのよ。ね、健吾くん?」

「はあ‥。あの、俺にはよく‥‥。」

 健吾はしどろもどろになって、ますます下を向いた。

 切羽は呆れ返る。

「花穂‥。おまえ、人と物の怪の境界をかき回す気じゃないだろうな? あんまり怖いもの知らずな考えは持つなよ。」

「バランスが大切だとよくわかってるわよ。あたしだって本家育ちなんだから‥。だけど境界線の人の側に立って眺めるとね、夜鴉さんには見えないモノも見える時があるのよ。」

「ふふん‥。偉そうな口利きやがって‥。何が見えるって言うんだ?」

「‥‥闇の領域に足を踏み入れてる人が、ものすごく多くなったってこと。物の怪の闇が薄れれば薄れるほど、たぶん人の心の中の闇が広がっているの。切羽は四宮が滅びかけていると思っているんでしょうけど‥。同じことが夜鴉にも言えるんじゃないの? 物の怪の代わりに人の心を持たない人が増えてるのに、闇にとっぷり浸かって安穏としていたら、今に声も聞こえないただの鴉になっちゃうわよ。こっちへ出てきて、新しい時代の変化に対応しなきゃ。」

 へえ、と切羽は花穂の無邪気な顔を見返した。

「見直した。ただの阿呆じゃなかったんだな。さすがに四宮の二の姫だ。‥‥だがね、俺に偉そうな口利くのは百年早いぜ。もう一歩進んで考えてみろ。他の物の怪どもが物の怪街道へ引っこんでいく中で、なぜ夜鴉一族だけが変わりなく東京の夜を制していられるのか。その答が見つかったら、また背中に乗せて東京の夜空を見せてやるよ。‥‥あばよ、花穂。」

 切羽は満足げに微笑んで花穂の頬をひたひたと撫でると、すっと翼を翻して闇の中へともぐりこんだ。

 ―――仔猫みたいなヤツだが、大人になればあれで案外いい女に化けるかもしれないな。

 その時はもう少しそれなりの対応をしてやろうか、と切羽は微笑んだ。


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