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六月五日 梅雨のある日

 久渡がまぶたを開くと、窓の外の景色は一変していた。校庭の生徒はだれもいなくなっており、大雨がざあざあと降っている。灰色の雲が、空をほの暗く染める中、地面に巨大な水たまりがいくつもできていた。

 梅雨の季節になっているらしい。じめじめとした湿気で、ワイシャツの襟周りがやけに不快に感じる。

 教室には、先ほどまでいた母親と教師の姿は消えている。

 代わりに、彼女が現れていた。

「つかれたあ」

 それは加子の声だった。夏服のサマーセーターがよほど暑いのだろう、彼女は椅子に座って、汗ばんだ顔に向かって、プラスチックの団扇をぱたぱたと扇いでいる。

 視線を転じると、黒板の日付は『六月五日』を示していた。久渡はこの日の出来事を、すぐに思い出して理解した。

 毎月の第一水曜日といえば、図書委員の定例会のある日だった。毎月一回、図書室に集まり、本の整理整頓とカンタンな打ち合わせをやるのである。今は、ちょうどそれが終わったばかりの時だ。そして――

「これがなければ図書委員はラクなんだけどね……」

 適当に話を合わせて、久渡がぼやく。

 時刻は十八時過ぎ――教室には、図書委員である久渡と加子だけが残っていた。見渡せば、いくつかの机の上に、脱いだ制服が置いてある。乱雑なもの、折り畳んであるもの、性格はさまざまなようで、それらは部活中の生徒のものであろう。グラウンドが使えないから、いつもよりは数少ない。もう少し時間が経てば、体育館からひきあげてくるだろう。

「ねえ、久渡。そういえば聞いてなかったんだけどさ――」

 そう断りを入れてから、加子は問いかけた。

「三者面談は、どうだったの?」

「……」

 予期していた通りの質問に、久渡が閉口する。

「久渡……?」

「べつに。なんてことなく終わったよ。まぁ先生と親は、やっぱり有名大学に進んで欲しいみたいだね」

「ふうん……。確かに、なんてことないね」

 ほおづえをついて、加子がほとんど興味のないように、そう答えた。

「加子はどう思う? 僕の進路について」

「そういうのって、人に聞いても答えが出ないことだと思うけど」

「……まあ、そうだよね」

 ガラスの窓に背中を預けて、久渡が外の雨を見やる。鳴り止まない雨音、湿潤な空気、そっけない加子――すべてはあの日の通り、見事に再現されている。

(……ここで僕が黙っていれば、なにも起きなくて済むんだろうな……)

 だが、だからといって、それで彼女が蘇るわけではない。彼女は死んでいる。その事実は決して覆らない。

 自分ができることは向き合うこと。それだけだ。もう一度、真正面から、彼女と――

「だからまぁ、色々と考えてみたんだけどさ……僕、とりあえず、有名大学に進んでみようかなって考えてるんだ」

 過去のセリフを、久渡が同じように口にすると――やはり、加子は不機嫌になった。

 いつもきらきらとさせている双眸から好奇の輝きを消して、半眼になった彼女が、蔑むように言う。

「なに、それ。どういう結論なの?」

「いや、だってさ。そのほうが確かに賢いだろ。大人の言いなりになるのは少しイヤだけど……今、やりたいことが見つからないなら大学に入って探せば良い。ただ、それだけのことかなと思って。加子だって、そう言ったろ。迷わず一番を選ぶって――」

「へえ……」

 つぶやいて、彼女が、しれっとそっぽを向く。久渡はたまらず言った。

「……なにか、いいたげな顔だね」

「まあね……でも、久渡が怒るかもしれないから黙っとく」

「かまわないよ。ヘンに気を遣われてるほうが、気持ち悪い。教えてよ、なにを考えてるのか――」

 加子はくるりと向き直ると、正面から遠慮なく告げた。

「そんなの、ただの逃げじゃん」

「……べつに逃げてないだろ。難関校だって努力しないと受からない。これだって、一種の挑戦だと思うけど」

「久渡が、本当にそうしたいと思ってるならね」

 それはまさに図星のことだった。

 加子の言葉は、じつに的を得ていた。久渡のごまかしを、彼女はすっかり見抜いていたのだ。まるで一方的に恥ずかしい姿を覗かれたような、そんな屈辱に近い。

(……だから僕はさらにごまかそうとしたんだ……)

 ずっと、後悔している台詞――

 それを久渡はもう一度、繰り返した。

「きみだって、他に選択肢があるかもしれないじゃないか。仕事を手伝うなんて決めつけて……本当は、いろんなことに目を瞑って、逃げてるだけなんじゃないの」

「……それ、本気で言ってるの?」

 彼女が黙って、久渡も黙ると、気まずい空気が漂った。

 静かになった教室に、廊下の遠くから談笑する声が響いてくる。さしずめ、他のクラスの図書委員のものだろう。ずいぶんと楽しそうである。そんな風に笑って話せれば、どんなに気楽なものか――

 やがて、話し声が聞こえなくなる頃――彼女はじわっと瞳を濡らして、

「わたし、先に帰るね」

 震える声で、そう言った。

 それが、彼女の最期の言葉だった――


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