五月三十日 三者面談
「椎谷さん、どうぞ」
低く、渋い声。それは担任の高杉の声だった。
そこは学校であった。廊下に並べられた椅子に座って、隣には母親の姿がある。
久渡はすぐに気がついた。それが三社面談のあった日であることを――
(……どうして、ここに……?)
そう疑問に感じるのは、この日に加子とは会っていないからだった。
教室に入ると、やはり、担任の高杉が待ち構えていた。
油ぎった髪をぴっちりと七三に分けており、例の如く厳格な岩のような顔つきをしている。こんな真面目一辺倒のような面構えで大の愛犬家だというのだから、生徒たちからは随分と面白がられている。
黒板を見やると、『五月三十日』と書かれている。日直がサボっていなければ、その日付に嘘はないだろう。
「お世話になっています」
「どうぞ、おかけ下さい」
母親が挨拶をして、高杉がお辞儀を返し、三人がその場に座る。
机の上でファイルをめくり、内容をばっと閲覧すると、まず高杉が話を始めた。
「さっそくですが、椎谷くんの今の志望校については、なんの問題もないです。彼はたいへん成績優秀ですので、油断やアクシデントでもない限り、まぁ合格は間違いないでしょう。ただ――」
言葉尻を濁して、遠慮するような演技をわざとらしく見せてから――それでも彼はやはり、ずけずけとこう付け足した。
「教師側の欲を言わせて頂きますと……もっと上の大学を目指してほしいとは思っています。ひいき目に見なくても、この成績なら、あと二段階は偏差値をあげても問題はない。正直、この志望校だけではもったいない、というのが本音です」
「ええ。ええ……」
同調するように母親が頷く。それは、まったくもって予想できた通りの展開だった。
「椎名は、どう考えてるんだ?」
「……まだ、色々と考えてますので」
「そうだろう。なら安心だ。まだ時間はある。もっと慎重になったほうが良い」
断言するように高杉が言う。
ただ、久渡には分かっている。彼らの考えと自分の考えでは、方向性が違うし、その行きつく先はまるで異なることに――
そのことを裏付けるように、母親はこう発言した。
「そうですよね。やっぱり、できれば良い大学に入っておいた方が、就職の時にも……ねえ」
「ええ。一概には言えませんが、ないよりはあったほうが良いのは確かです」
「よろしければ、先生の知っている範囲で、良さそうな大学をご参考に教えていただけませんか」
「もちろんですとも。じつはそのつもりでもいましたから、こちらに、すでに見繕っている所がありまして――」
そうして二人はどんどん話を進めていった。そうしていくことがまるで予定調和であるかのように――
久渡にとっては、身売りされる奴隷のような気分だった。そこに自分の意志はなにも反映されていない。
(……勝手に決めるなよ……)
例の如く、憤然とした怒りがこみあがる。
だが、その怒りは、つまるところ、彼らに対してのものではない。自分に対してのものだ。
進路――それが決まっていないから流されるのである。そう、すべては決めていない自分が悪いのだ。
『やりたいと思ったから』
加子の言葉が、鮮明に蘇る。
久渡に、自分自身がやりたいと思うことなど、浮かびもしない。
代わりに、やりたくないことならば、いくらでも思いつく。
そんな自分に彼は嫌気がさしていた。
そんな事情も知らず、彼らは、無遠慮に、ぶしつけに、まるで見当違いな期待を一方的にかけてくる。
「がんばるのよ、久渡」
「椎谷、先生も期待してるぞ」
やけに前向きな声で、二人の熱い視線が、そう集まる。
久渡は拳を強く握った。そして、毒づく。
(……あんたらが期待しているのは、数字だけだろう……!)
偏差値、高学歴、そういった肩書だけを彼らは求めている。ただ、彼には、その想いを言葉にして発することができなかった。
ばんっと机を叩いて立ち上がると、久渡がそのまま窓側まで無言で歩いていく。
母親と教師が、優等生の異端な行動に、眼を丸くした。
「どうしたの、久渡――?」
母親の呼びかけに、久渡はなにも答えない。黙って窓の外を眺めた。
曇天の空から、ぱらぱらと小雨が降り始めていた。校庭では、それでも部活動に励む生徒達の姿がある。
(そう……。全部、悪いのは僕だ。こんなことも決められず、こんなことで怒ってしまう性格だから……取り返しのつかないことをしてしまったんだ)
まもなく訪れる梅雨の季節を迎え入れるように、彼は、静かに眼を瞑った。