五月十一日 自宅 (3/3)
「ちょ、ちょっと……」
久渡が背中から、かぶさるように抱きつくと、加子は恥ずかしそうに小声を発した。
まるで時間が静止したように、二人がじっと動きを止めた。
胸の奥に心音を感じる。自分の鼓動と彼女の鼓動。お互い、それを同じように感じている。
そのままの姿勢で硬直しながら、久渡は考えた。
(さて……どうしたものかな……)
彼はしっかり鮮明に覚えていた。この日、彼女を抱いたことを――
しかし、それは文字通り、抱きしめただけだった。……その先のことはなにもしていない。
試しに、久渡が手をすっと動かしてみると、
「待って。約束でしょ。卒業するまでガマンするって……」
やはり、彼女はそう注意した。
記憶の世界とまったく同じ出来事である。そこで久渡は彼女との約束を守り、ストイックな夜を一人、なくなく過ごしたのである。
しかし、思った。
(……これ、疑似体験だよな……)
ほとんど悪人同様の目論見を思い描くと、久渡はもう少し抗うように手を伸ばしてみた。
「久渡ってば――ねえ……」
もごもごと、そんな声を発しながらも――なんと彼女は抵抗しなかった。
肌に触れて、鎖骨を撫でて、むしろ彼女は受け入れているようにも感じる。
久渡は愕然とした。
(もしかして……この日、僕がいけなかったってことなのか……!?)
時代に求められているのは、草食系男子ではなく、やはり肉食系男子だったのだろうか。
そんなくだらないことを真剣に考えながら、久渡はとうとうしびれを切らしたように、右手をさらに滑り込ませた。
柔らかい感触――まだ一度も触れたことのない、その胸の膨らみ。
感動半分、罪悪感半分。なんともいえない気分になって、その柔らかさを堪能していると、
「うわあっ!」
久渡は思わず飛び退いた。
地面に腰をつけたまま、自分の手の平をじっと眺める。見たところ、異常はない。異常はないはずなのだが……
「ちょっと。人の大事なモン触って悲鳴だなんて失礼過ぎない? かるく傷ついたんだけど――」
ぎろりと目を鋭くさせて、加子が口を尖らせる。
「い、いや……その……約束はやっぱ大事にしないとなって思ってさ……はは」
右手を動かしてみて、自分の肌に触れてみる。それはいつもの肌の感触で間違いない。見れば、加子の身体にも異常は起きていない。
そこで久渡は気がついた。
(あんまり、むちゃくちゃなコトはできないってことか……)
久渡は確かに感じていた。
加子の胸に触れた時、まるでひき肉をぐにゃっと押しつぶしたような、人間の身体には絶対に起きえない異常な柔らかさを――
それは疑似体験が発する、一種の警告ということなのだろう。
(……ヘタに中断されたらたまんないよな。もう、やめとこう。こんなことをするために、疑似体験をしたわけじゃないだろう……)
強く戒めて、そう反省した。
当初の目的を忘れてはいけない。その日にたどり着くまで、なるべく過去の思い出通りに従って行動したほうが良いだろう。
そう認識を改めると、彼の意志に呼応するように、景色が曲がっていった。
次は、どの日に進むのだろう――