五月三日 公園
「ねえ、聞いてる?」
聞き覚えのある声に呼ばれて、久渡がおぼろげに目を覚ます。
「ん……」
まばゆい陽の光――
目を開くと、そこは公園のベンチであった。噴水のそばで、小学生たちが水遊びをして、陽気にはしゃいでいる。
(……ええと……?)
状況が、よく飲み込めない。自分は、自宅のベッドで寝ていたような……
そして、ふと横を見ると、久渡は驚愕した。
「か……加子!?」
たまらず、叫ぶ。
つり上がった猫目に、つんと上を向いた唇。その顔を見間違えることは絶対にない。彼女は巡里加子だった。すらりと引き締まった身体に、ゆるやかな黒い長髪。凛然と背筋を伸ばす彼女に、ふわりとした紺色のワンピースは、あいかわらず、よく似合っていた。
彼女は長いまつげを揺らし、半眼になると、久渡のことをじろっと睨んだ。
「……あきれた。人と話しながら寝るなんて」
「いや、だって――」
「……なにやってんの? それ」
「ああ。いわゆる古典的手法で、これが夢かどうか確かめてるんだけど……どうやらちゃんと痛いみたいだね」
久渡が自分のほっぺたを全力でつねると、彼女はぷっと笑いを吹き出した。
「当たり前でしょ。なに寝ぼけてるんだか――」
(……夢じゃない……)
そう確信すると、久渡は加子の手をすぐさま握った。いつもの柔らかい感触を通して、彼女の熱が伝わってくる。
「ちょ、ちょっと。急になに。やめてよ。たくさん人がいるじゃない」
困惑する加子。
一方の久渡は、確かな胸の高鳴りを感じており、お構いなしだった。さらにぎゅっと抱きしめて、その華奢な背中にまで腕を回し、顔をうずめると、バニラの甘い香りがほのかに匂った。彼女の身体も、ちゃんとそこにあるらしい。
そうやって手探りに触れていると、
「……こほんっ」
一つ咳払いをしてから、加子は久渡の行為を咎めるように、その腕を思い切りつねりあげた。
「いだだだだっ――!」
突然の痛みに身をよじって、久渡。
加子は、さらに彼の身体を突き放して、
「やめてっていってるじゃん。ばか」
そう注意した。気恥ずかしさのせいか、ほおがうっすらと赤ばんでいる。おそらくは照れ半分、怒り半分というところか。彼女は公衆の面前でいちゃつくことを好まない。そういう性格も変わりなかった。
(……ちゃんと痛いや……)
じんじんする腕を押さえながら、久渡が嬉しそうに笑うと、
「今まで知らなかったけど……もしかして、久渡って叩かれて喜ぶ趣味のヒト?」
「……ちがうって」
疑いの視線で訝しむ彼女を尻目に、久渡が空を仰ぐ。
白雲の浮かぶ青空。涼しい風が吹き抜けて、髪が揺れる。
外気はやけに涼しい。それは夏の気温とは、まるで異なる。
「加子。今って、たぶん五月だと思うんだけど、今日は何日になるんだっけ?」
そう訊くと、彼女は眉をひそめた。
「その年でボケてるのって、かなり心配なんだけど……」
「いや、ちょっと連休ボケしてさ。ゴールデンウィークのいつだったっけなって」
「五月三日でしょ。なにいってんだか……」
「そうそう。そうだったな。ありがとう。今日、手作りのお弁当が嬉しかったのは覚えてたんだけどさ――」
「え……? お弁当作ってきたこと、なんで知ってるの?」
面食らったように疑問符を浮かべる、加子。
目を見合わせて、久渡は己の失言に気がついた。
(あっと……)
連休中の公園デートといえば、加子の手作り弁当を初めて食べたことが思い出だった。しかし、この時の久渡は、そのことをまだ知っていてはならない。
「……」
冷や汗を流しながら、言葉に詰まる久渡。
なにか手がかりを探そうと視線を動かすと、加子が身体の脇に隠すように置いていた大きめのバッグに気がついた。
「そ、それだよ。そのいかにもなサイズ。もしかして、手作りの弁当が入ってるんじゃないかーって思ってさ。」
「さっき、なんだか過去形みたいに言ってたけど……?」
「はは。そーだっけ? そんな風に言ったつもりはなかったんだけど……まだ寝ぼけてるのかもしれないな。あはは」
「ふーん。ま、いいけど……」
幸い、とくに追及せず、それで加子は納得してくれたようだった。
なんとか誤魔化せたことに安堵すると、久渡はあらためて確信した。
(これが、疑似体験の世界ってわけなんだな……)
夢のようであり、夢ではない。
自分も、彼女も、周囲の景色も、ほとんど現実の世界そのものと同じクオリティで構成されているようだ。
(この時は、本当に楽しかったな……)
そんな風に感慨に浸ると、途端に、久渡の視界がぐわんと揺らいだ、
(あれ――)
そうして急激な眠気が襲いかかると、久渡はそのまま意識を失った。