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疑似体験の約束

「待たせたね」


 十分も経たないうちに、時生は階段を降りて戻ってきた。手元には、一冊の分厚いファイルを抱えている。広辞苑くらいの厚さであり、表紙に『疑似体験』と書いてある。


「これを全部読めとはいわないが――規則上、俺は最低限の注意事項を、きみに説明しないといけない。いわゆる納得診療(インフォームド・コンセント)ってやつだ」


 時生は、ファイルをぱらぱらとめくると、あるページを指し示した。文章はすべて英語で記載されており、びっしりと小さい文字で埋まっていた。見ているだけで頭が痛くなってくる量である。自分で訳すのはほとんど無理だろう。……というか、やりたくない。


「ここには、なんて書いてあるんですか……?」


 疲れたように目頭へしわを寄せる久渡に、時生は言った。


「もちろん疑似体験のことさ。噛み砕いた概要はこうだ。きみはこれから一種の催眠術によって、夢の中で好きな思い出を忠実に再現する。そして、その世界を自由に行動する。つまり、いわゆる明晰夢ってやつを、意図的に起こさせるわけだ」

「夢――」


 灰皿を手元に引き寄せて、時生は、二本目の煙草に火をつけた。


「そう、疑似体験はただの夢だ。だから、むろん、きみがその夢の世界で出会う妹は、君の思い出に残っている妹であって実際の妹ではない。そのへんの話は聞いていたかい?」

「はい、ざっくりですけど……」

「なら、少し意地悪なことを聞く」


 そう断りを入れてから、彼は尋ねた。


「だったら、意味なんてないと思わないか? 疑似体験なんていっても、きみはあくまで自分自身に都合の良い夢を見るだけなんだ。実際には、プレゼントを渡せるわけでも、謝ることができるわけでもない。あくまで、君がそうした気分になるだけだ。なんなら過去の写真でも眺めながら、そう心の中で想っていれば……それで実質は同じことなんだよ」

「……僕はそうは思いません」

「どうしてだい?」

「彼女は言ってました。疑似体験は、心の整理をつける旅――なにかにつまずいて疲れてしまった人が、これから先も前身できるようにするためのものなんだって……」

「あの妹らしい、前向きな捉え方だな。専門家の俺から言わせてもらえば、それは一つの断面に過ぎないが――」

「だから、彼女は俺に、疑似体験をさせてくれる予定だったんです」


 久渡がそう打ち明けると、時生は、自分の吐き出した白い煙の先を見やった。壁一面に飾られた無数の写真、それを眺めている。


「……なるほど。もともと、きみはつまずいていたというわけか」


 彼はため息をついた。


「リスクがないなら、俺も引き止めはしないんだけどね……」

「……疑似体験に失敗した時の話ですか」

「そう……。本来、フィルムが終われば映画も終わるように、夢から醒めたら現実に帰らなくてはいけない。でも、中には、目を覚まさない人がいるんだ。彼らは心が弱っているからね。思い出を振り返って回復するつもりが、逆に囚われてしまうわけだ」

「僕は大丈夫です」

「いや……。俺からすると、きみのようなタイプが一番心配なパターンだ。失敗には傾向があってね。疑似体験を望む患者はわりかし多いんだけど、中でも死者との再会を望む者は得てして、現実に戻らなくなる。だから、推奨しかねてるんだ――」


 時生はさらにファイルをめくると、ある新聞記事の切り抜きを示した。そこには見るからに重病な患者が映っている。彼はベッドの上で人工呼吸器や点滴の治療を受けながら、焦点の定まらない虚ろな眼を浮かべていた。


「この患者は、ひどく真面目な男でね。最愛の妻を失くした悲しみに耐え切れず、疑似体験を望んだ。そして、夢の世界に留まった。結果、神経機能の大半を欠落して植物状態になり……最終的に死んだ」


 ぱたん、とファイルを閉じると、時生は目を尖らせた。


「君は、これだけの危険があることを承知の上で、疑似体験に臨むというんだな」

「はい」


 久渡が迷わず即答する。

 時生は目を瞑ると、頭をがしがしとかいた。煙草はもう三本目になる。やれやれといった風に片手を振って、彼はとうとう諦めた。


「まあいいさ。兄としての俺は断固反対だ。でも、この『懐想堂』の店主としては、きみの気持ちも分からなくもない。思い出は、人の心の拠り所だ。どうしても整理がつかないというなら、とことん向き合った方が良い。考える時間だけは誰しもが平等に与えられた権利だからね」


 時生は、一枚の用紙をファイルから抜き出した。


「それじゃあ、この誓約書にサインをしてくれ。きみは未成年だから、法的効果はほぼ皆無なんだけど……最悪の場合、この一筆があるのとないのでは、色々と大違いでね」


 久渡はざっと文面を読んで、こう理解した。


「……僕が死んでも文句は言わないって約束ですね」

「臆したなら、やめとくかい? 俺は構わないよ」

「いえ、やります」


 久渡がすぐに署名をすると、彼はこう続けた。


「あとは料金のことなんだが……」


 ぎくりと肩を硬直させて、久渡がうつむく。時生は笑った。


「いいさ。頼みはなんでも聞くといった手前、特別に無料にしよう」

「……ありがとうございます」

「きみは大事な妹の彼氏だったからね。まあ、色々とうるさくも言ったが……もちろん、最悪の事態になんかならないよう、俺もきっちり仕事をやるつもりだ。ただし――」


 最後に、時生はこう警告した。


「約束してくれ。疑似体験の世界に残ろうなんて、絶対に思わないでくれ」


 久渡はこくりと頷いた


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