彼女の想い
「……やられたよ」
久渡の第一声は、まずそれだった。
懐想堂のカウンターの一席で、彼はむくれたように片肘をついて、かれらに背中を向けていた。
「俺は止めたんだけどね。こんなことに疑似体験を使ってほしくなかったし……」
新聞を読みながら、時生が不機嫌そうに煙草をふかす。
だが、二人の非難を浴びながらも、彼女はまるで意に介した様子もなく、得意げに勝ち誇っている。
「ふふん。よくできた思い出だったでしょ。制作期間、約一ヶ月の超大作よ」
その口調には、しおらしさの欠片もない。もしも悪魔がこの世に生息していれば、そんな表情をするのかもしれない。
フォークで刺したイチゴのショートケーキをご機嫌そうに頬張り、加子は悠然と笑っていた。
「まさか、飲み物に睡眠薬を盛られた上、勝手に疑似体験をさせられていたなんて……いくら喧嘩の腹いせにしたって、ドが過ぎてるだろ。犯罪者そのものじゃないか」
ぶつぶつと久渡がぼやくと、彼女はけろっと言った。
「悪いのは久渡じゃん。なにしろ六月からずっと謝らないんだもん。もう夏休みになるっていうのにさ。こんな気まずい状態のまま二学期を迎えたら、どう考えても自然消滅じゃん。だから、わたしが一肌も二肌も脱いであげて、ガンコな久渡が、心の底から謝罪できる素晴らしい思い出を提供してあげたわけ」
「……僕がその気になれば、きみはすぐにでも警察のお世話になれるんじゃないか……?」
「じゃあ、やってみる?」
挑発するような加子の視線。もし警察に突き出したら、その百倍以上の復讐を目論んでいるような瞳である。
「……いや、やめときます。……あとが怖いし」
久渡はそう言って、早々に告訴を諦めた。
「まったく。ただ関係を戻したいっていうなら、お前が先に折れてやれば良かっただろう。わざわざ、こんな手の込んだ真似しなくても……」
時生がそう咎めると、加子はふんっと鼻を鳴らした。
「いやよ。謝ったら、自分が悪いって認めるようなものじゃん。わたしはちっとも悪くないし。そうなると手段は一つ。いかに相手を謝らせるかよね」
同意を求めるような声で、加子。むろん、だれも頷く者はいない。
あきれたように、時生がつぶやいた。
「……なあ、久渡くん。興味本位で聞くんだが、こんな妹のどこに惚れたんだい」
「ぼくも、なんだか小一時間ほど、真剣に自問自答したくなってきましたが――」
ちらっと彼女の姿を見やって、久渡はこう続けた。
「ただ、まあ、なんだかんだ言って……こういう優しいとこが好きなのかもしれませんね」
「や、やさしいだって……?」
時生が仰天としたように、声を裏返す。
「おかげで、色々と吹っ切れましたしね。それに、加子と話せることが、こんなにも嬉しいことだって、気づけましたから」
「……こりゃあ、久渡くんの今後の苦労が忍ばれるだけだなあ」
時生は、ぽりぽりと頭を掻いて、そう顔をしかめた。
加子は珈琲を啜りながら、語尾にハートをつけて、こう言った。
「またよろしくね。お兄ちゃん」
「ふざけるな。いくら疑似体験がノーリスクだからって、今回の一件は明らかにモラルに反する。もう二度とやらせないぞ」
「……ノーリスク?」
久渡がきょとんとすると、加子が答えた。
「そらそうよ。疑似体験なんて、ただの催眠療法だもの。その深層意識の世界に残ろうとすれば確かに危ないけど、いざとなれば今回みたいに強制送還できるし。施術者に悪意がなければ、危ないコトなんてないわよ」
「まさか、あの白い小箱って……」
「うん、強制送還用のアイテム。形はなんでもいいけど、ああいう形にした方が面白かったでしょ」
「じゃあ、加子の身体が柔らかくなったのって……」
「もちろん、そういうことをさせないための予防策。やらしいよね、久渡って。あー、ホント設定しといて良かった」
「……」
久渡は、絶句するしかなかった。
そうして日も暮れて――
家に帰る久渡を、二人は玄関先まで見送りに来てくれた。
「まあ、なんにせよ、丸く収まったのは良かったよ。こんなどこか破綻したような性格の妹でも――久渡くんと喧嘩している間は、どうにも落ち込んでいたようでね」
「お兄ちゃん! 余計なことは言わないで!」
たまらず、加子が叫ぶ。
その兄弟のやり取りにくすりとして、
「あのう、時生さん。最後に一つ、聞いても良いですか?」
「構わないよ。なんだい」
「時生さんは、どうして、この職業を選んだんですか」
久渡がそう尋ねると、彼は背後に振り返って、
「さて、どうしてだったかな……」
そう言って、懐想堂をざっと眺めていた。
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帰宅してベッドに倒れ込むと、久渡は、左手を天井に掲げてみせた。
銀色の指輪が一つ、薬指にはまっている。それは、付き合い始めに買ったペアリングの片割れだ。
(ほんと、手の混んだ真似するよ……)
むくりと起き上がると、久渡は机に座って、積み上がった教科書を開いた。
――了――
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