終わりの日
「――加子っ!」
全力で叫んで、久渡が呼び止める。
黒板の日付は『六月五日』のまま、思い出はまだ移動していない。
「……なによ、いきなり大声で」
背中を向けたまま、加子が教室の入り口で立ち止まる。彼女は知らないだろうが、そこが互いの分岐点だった。今、まさにこの時のために、彼は疑似体験を試みたのである。
「待ってくれ。まだ話は終わってないんだ」
「……まだ言い足りないって、わけ?」
「ちがうよ。ぜんぜん……ちがうことだ」
やわらかい口調になって、彼はそのまま続けた。
「僕は――大学なんて、どうでも良かったんだよ」
「……そうだと思う」
「そして、自分がやりたいことも……ようやくわかった。本当にバカだよ。大事なものを失って、やっと気づけたんだ」
加子はくるりと振り返って、困惑するように眉を釣り上げた。
「……どういう意味? 大事なものって――?」
「わたしたいものがあるんだ」
久渡が近づいて、彼女の腕をぐっとつかむと、例の柔らかい感触が生じた。今、自分がやっていることは、きっと越権行為なのだろう。疑似体験のルールを逸脱しようとしている。
だが、そんなことはお構いなしだった。久渡は彼女の小さな手の平に、自分の手をそっと重ねた。
「これは――?」
「開けてみてよ」
きょとんとしたように、加子が見つめる。白い小箱――むろん、それは、久渡が準備していたモノだった。
するすると包装をほどいて、蓋を開けると、彼女は中身をじっと凝視した。
だが――
「えっと……」
「どうしたの?」
呆けたように固まったまま、加子は戸惑った表情で、こう言った。
「コレ……。なにも入ってないんだけど」
「……えっ?」
慌てて彼女の手の中を覗き込んで確認すると、それはたしかに空っぽであった。なにも入っていない。
久渡が、困惑する。
「そ……そんなはずはないよ。たしかに、ぼくは――」
(……ぼくは、なにを入れたんだっけ……)
そう自問自答して、彼はようやく気がついた。
いったい、この白い小箱はなんだったのか――その記憶がまるで存在しないことに……
「……」
当然、気まずい沈黙が、その場に漂う。
その瞬間だった――
ピシッ、という石の割れるような音と共に、教室の至る所に亀裂が走っていく。
まるで壁をぶち破ったようなヒビの跡が、次々に空間に広がっていた。
「なによ、きょろきょろして……」
あたりの様子を伺っている久渡に向かって、加子はそうやっかんだ。疑似体験の住人だからだろう。世界の異常に、彼女はまるで気がついていない。
――疑似体験の世界に残ろうなんて、絶対に思わないでくれ――
久渡は、すぐに時生の警告を思い出していた。
振り返りたかった目的の思い出は、まさに、この瞬間だった。
だから、疑似体験の世界は、まもなく終わろうとしているのだろう。
(……ふざけんなよ。まだ用事は済んじゃいない――!)
「ちょ、ちょっと――」
久渡がぎゅっと抱きしめると、加子は恥ずかしそうに声を漏らした。
彼女の細い身体は、ほとんど砂のような感触になっていた。彼女もまた消滅しようとしているのだろう。
ただ、いくら肉体が歪んでいようと、彼女が加子であることに変わりはない。
甘いバニラの香りに包まれて――
久渡は、一ヶ月以上も抱えていた想いを、ようやく口にした。
「ごめん、加子。僕が悪かったんだ」
胸の中に顔をうずめたまま、彼女がつぶやく。
「……悪いって、なにが?」
「さっきのことだよ。酷いコトを言っただろ。僕は……焦っていたんだ。それで、つまんない見栄なんかはってしまって……」
「ふうん……。反省してるの?」
「もちろん」
さらに彼女は尋ねた。
「ちなみに、さっき言ってた、本当にやりたいことってなんだったの?」
「……加子と一緒にいることだよ。それさえあれば、どんな進路だって……かまわなかったんだ」
だが、それはもう叶わない。
彼女は死んでいる。それは、だれにも、どうすることもできない。
ようやく見つけた自分の進路は、一生、歩くことはできなくなってしまったのだ。
世界の崩落は、さらに加速している。
地鳴りが響くと、壁や床が抜け落ち、窓が割れ、雨が入り込んできた。
亀裂や穴は、あたりの景色を次々に蝕んでいき、無秩序な破壊を促している。
(時生さん。すみません……)
久渡は、心の中で謝罪した。
(加子は……ここにいるんだ……)
抱きしめる加子を、離す気はない。
彼女のいない現実に帰る気など、久渡には最初から微塵にもなかった。
そう覚悟を決めた時、彼女は急にこんなことを口にした。
「やれやれ。やっと負けを認めたか」
「へ――? 負けって?」
久渡が思わず間の抜けた声を出すと、彼女はさらにこう続けた。
「さてと。疑似体験はもう終わり。これ以上いると、本当に帰れなくなっちゃうからね」
(……ええと……?)
唖然とする久渡。
彼女のほうは、いたって淡々と物事を進めようとしていた。
「久渡、これ、空に向かってかざしてもらえる?」
渡した白い小箱を手元に返されて……
すっかり混乱していた久渡が、ひとまず言われるがままに行動すると、その小箱から眩い光がほとばしっていき――
ガラスが砕けるような音と共に、世界は一気に砕け散った。