懐想堂を訪れて
じりじりと焼きつける夏の陽射しの中、その少年は汗まみれで歩いていた。活発そうな顔つきで、体力に自信のありそうな体つきをしている。着込んだ黒のTシャツはぐっしょり濡れてしまっているが、それでも清潔な印象でさわやかに映えるところは、彼が今後の人生においても大きく得するであろう長所といえた。
かれこれ一時間ほどか。とどろき坂の長い斜面を乗り超えて、丘の上のヒマワリ畑を突っ切った先、深い森林の奥地までたどり着くと――彼はようやく目的の看板を見つけることができた。
『懐想堂』
そんな看板が、かけてあった。かなり古びた、昔ながらの民家造りになった店構えである。庭先では、葛や雑草が伸び放題になっていて、なんだか人よりも虫や獣に好まれそうな外観であった。さらに入り口の戸は開いたままで、表にはだれも店番に立っていない。
家の主は、よほど寛容というか、もしかしたら、だらしない性格なのだろう。
「だれかいませんかー?」
声をかけても、現れる者はいない。店先に吊るしてある風鈴の音と、あたりの林からセミの鳴く声が聞こえるだけだ。
(どうしたものかな……)
などとためらいつつも、彼は、そっと店の中へ足を踏み入れていた。仮に誰にも入られたくないなら、まず戸はきちんと閉めておくべきだろう。少年はそう考えた。
店内に入ると、中は薄暗く、木材独特の香りと涼しさが漂っていた。広さは学校の教室程度で、店の奥には、喫茶店のようなカウンターがあり、そのテーブルにはメニュー表のようなプラカードが置いてあった。
『貴方の思い出、どのような形にも彩ります。値段、内容、すべて応相談』
達筆とも呼べない筆字の殴り書き。これまたなんともルーズな内容だった。
それから壁側の方へ近づくと、
「すごいな……」
少年はそう驚いた。
壁一面には、写真がびっしり飾ってあった。枚数にして数百というところか。いずれも画鋲で乱雑に突き刺されており、その並び方は庭の雑草のように規則性のないものだった。きっと、次から次へ、ただ貼っていったのだろう。
それらの写真を眺めていると――少年はあるところに視線を運ばせたところで、たまらず表情をこわばらせた。一人の少女の存在に気がついたからである。
悪戯っぽい笑顔を浮かべる猫目の少女。よく見れば、自分の知らない少女の私服姿が、そこにはたくさん保存されていた。
その時だった。
「きみ、だれ?」
いつの間にか、若い男が入り口に立っていた。
ほりの深い顔立ちに、ぐしゃぐしゃの長髪と無精ひげ。よれよれの甚平を着ており、その姿は、全体的にだらしない。片手に白いコンビニ袋を提げており、彼はどうやら買い物に出かけていたらしい。
「あ、あの。すみません。戸が開いてたものでつい……」
「へえ……。最近の学生の常識では、鍵が閉まってなければ、ホイホイどこにでも不法侵入して良いのか」
「ええと。いや、違います。自分が悪かったです。すみません……」
だが、彼はさして怒ってもいなかった。
「べつにいいさ。開けっ放しにしていた俺も悪いんだから。ただ、なにしろ、この暑さだろ。閉め切っておくと帰ってきた時に拷問なんだ――」
男は、カウンターの椅子にどかっと座ると、コンビニ袋から取り出した缶珈琲をパキッと開けて、それをぐいっと仰ぎ飲んだ。
「それに、察するところ、きみはお客さんなんだろう? だったら、堂々としてれば良い。そんなジロジロと歩き回ってないでさ。まぁかけなよ」
そうして二人が並んで座ると、少年のほうから先に尋ねた。
「あのう。ひとつ確認しても良いですか」
「なんだい?」
「たぶん、あなたが時生さん――なんですよね」
彼は驚いたように、目を見開くと、
「……俺ときみは初対面だよな。どうして俺の名前を知っているんだ?」
そう訝しむように睨みつけた。
「それは妹さんから話を聞いてましたから――」
少年の答えを耳にして、はっとしたように時生が訊き返した。
「なるほど……。だとすると、君が噂の彼氏君という認識で良いのかな。名前は確か――」
「椎谷久渡です」
「そうか。きみが久渡くんなのか……」
時生は買ったばかりの煙草に火をつけると、白い煙をゆっくり漂わせながら、久渡のことを懐かしむように眺めた。
「そう言われてみると、きみのことを見かけた気もするな。式には来てたんだろ?」
「……はい」
久渡が沈んだように返事する。
その暗い様子を察すると、時生はなだめるように言った。
「おいおい、そんなに暗くならないでくれよ。あれは不運の事故だったんだ。だれのせいでもない。きみが気にしたってしょうがないだろう」
「僕も頭ではそう思ってるんですが……まだ、うまく整理をつけられないのが本音です」
ぎりっと、久渡が両手を握りしめる。
時生はそこで気がついた。
銀色の二つの指輪――本来であれば、男女二人に分けて使うようなペアリングを、薬指と小指に分けて、久渡が一人で身に着けていたことに。
「……久渡くん。故人を偲んでくれるのは嬉しいことだ。でも、それはやめておいたほうがいい。兄の俺からしても、ちょっと恐い」
それでも久渡は外さなかった。かたくなに黙り続けている。それ以上は、時生もなにも言えなかった。彼がそうしていることに強靭な意志を秘めているように感じたからだ。
「今日は……時生さんにお願いがあって来たんです」
そう切り出すと、久渡は、ポケットから取り出した小さな小箱をカウンターの上にコトンと置いた。それは手のひらですっぽりと包みこめる程度の立方体をした、白色の小箱であった。簡易な包装で蓋が、されている。
「それは?」
「彼女に渡すはずだったプレゼントです」
「へえ――」
時生は、白い小箱をひょいと指先でつまんでみせた。軽く振ってみると、カラカラとした感触があるようで、ちょっとした小物が入っているのだろうと想像がついた。
「お願い、か。さしずめ、これを妹の墓前にでも添えて欲しいってことかな?」
久渡は、首を横に振った。
「いえ、彼女にこれを届けたいんです」
「ええと……」
時生が困ったように言葉を詰まらせる。
「俺の妹はすでに死んでいる。どうやって渡すっていうんだ」
「とぼけないでください。疑似体験をすれば、死んだ人に会える。……そうですよね?」
久渡の見知ったような言動に、時生はふっと表情を曇らせた。
「そういえば……あの跳ねっ返りは、ずいぶんとお喋りな性格だった。つまり、きみは、妹からそのことも聞いてしまったんだね」
うなずいて、久渡は強く懇願した。
「時生さん。お願いします。僕にも疑似体験をさせてください」
「だめだ」
「……なぜですか」
不服そうに尋ねると、彼もまた譲らないといった強い調子で答えた。
「危険だからだよ。そこまで説明していなかったか、妹は」
「聞いてはいます。最悪の場合、どうなるかってことも――」
「だったら話は終わりだ。そんなお願いをきくつもりはない。さっさと帰ってくれ」
そう、冷たく突き放すだけだ。
しかし、久渡は引き下がらなかった。両手を叩きつけて、さらに声を荒げて食い下がった。
「待ってください! ぼくは彼女に、言い残した言葉があるんです!」
「きみくらいの年齢だと、自分だけは特別だと思うからいけない。いいか。死者に言い残した言葉なんて誰だって抱える。俺だって、あいつに言いたかった言葉は山ほど残っている。でもそれは伝えられない。心の中で想うしかないんだよ」
「僕は……彼女が亡くなる前に喧嘩をしてしまったんです」
「同じことだ。そんな人はたくさんいる。単に、きみが知らないだけでね」
「……どうしても駄目っていうんですか」
「ああ」
「……そうなると僕に残った手段はただ一つ。彼女の跡を追いかけるだけです」
「……」
時生はそこで口を噤んだ。なんとなく察したからだ。それが脅しや嘘の類ではない、彼の揺るぎない決意なのだということを……
――――。
沈黙する部屋で、壁に掛かった時計の秒針が、時を刻んでいく。
「きみは、もう妹と同じ十八歳になるのか」
「はい」
「……なら、年齢的には問題なしか。少しの間、ここで待っていてくれ」
時生は、煙草をもみ消して灰皿に放り捨てると、二階のほうへとすっと姿を消した。