第三編
ハズグに会ったせいだろうか、その夜は昔の夢を見た。
先が見えないくらい闇の中、不安に襲われ、手探りで進むが一向に闇を抜けられない。よくよく考えれば何故それほど怖がったのかと可笑しいほどに、暗闇が恐ろしかった。
突然、冷たくも穏やかな手が現れ、デュムバの腕をとった。するとどうだろう。俄かに、暗闇が優しく穏やかな物へと感じられる。母胎の中でそっと包まれているような、何も心配が要らないのだと思えるような。闇に包まれていることに安堵を覚えた。
現れたのは月神であった。顔が見えたのかどうかも定かではない。見たことなど一度もなかったが、そこに在る存在が月神なのだと感覚で理解した。月神は何を言うでもなく隣に佇んでいる。
気が付けばヴィルシュギクスが父に臣下の礼を取り、立ち去る所を眺めていた。ヴィルシュギクスが忠誠を誓った場面だと思った。その後、部屋の外へと出たヴィルシュギクスは友人と思われる騎士の元へ近づく。
「ヴィル!やったな!!」
「ああ、これほど誇らしいことはない。」
見たこともない青年時代のヴィルシュギクスが笑う。
「王家に尽くせと家を出されて十余年、ようやく故郷の地を踏むことができる。」
そう言って宮殿の上で風に靡く紫色の旗を見つめた目は、デュムバがよく知っている愚直でいて力強い目であった。
「イェストラブの賤民どもめ、ここから先は決して通さん。」
怒りと憎悪に満ちた声に振り返れば、そこはヴィルシュギクスと別れたスフュルスィート近くの森。ヴィルシュギクスを囲むイェストラブ兵は八人。
おおおっ、と大地を揺るがすほどの雄叫びを上げると、ルナルーチでは珍しい長剣を抜き放ち、敵兵の中へと斬りかかって行った。
ヴィルシュギクス!と叫びたかったが、声を出すことはおろか口を開くことも出来なかった。そして、走るヴィルシュギクスの背中が白くぼやけて霧の中へと包まれていった。
靄が晴れて見えたのは、離宮の庭だった。草も、離宮の窓ガラスも全てが輝く美しい情景。情景の全てが鮮やかな色に埋め尽くされていた。鮮やかな花々は朝露に濡れる。深緑の葉は、天鵞絨かと見紛う程に深く、滑らかで。赤や橙の花々はその美を競い。白や黄色の花々は一層浮き立って清らかに輝く。青や紫の花々はより気高さを増して。
美しい情景の中には、一組の若い男女。情景の全てが彼らを祝福しているのだと思えるほど。
男女の視線がしかと絡み合い、しかし、二人は触れ合い、寄り添う事はなく、ただ互いを見つめ合うだけ。
どうしたのか、と不思議に思いデュムバはふわりと二人に近づいた。
男が、女の足元で礼を取る。男女は母とイユボヴニクであった。
父と母は決して不仲ではなかった、とデュムバは思っている。少なくとも互いに信頼していることだけは間違いなかった。ただ、互いの最愛が互いではなかったというだけだ。父の最愛の女性は側室の一人で、その人は流産したことをきっかけに子どもを持てなくなっていた。母の最愛は、母の最も側にいる人間だった。デュムバもそれを厭うたことはなかった。
徐々に周りを囲む花々の色と輝きが失われ、いつの間にかそこは離宮の庭から山裾の小屋の中に変わっていた。
「オボジュバニュ、すまなかった。」
イユボヴニクとオボジュバニュは真正面を向いて対峙する。
ああ、そうか、とようやくデュムバは理解した。あの時、母とイユボヴニクは二人で果てるつもりだったのだ。結ばれることがなかった二人が結ばれるために、そして王太子妃という冠を戴いていた母にとって唯一可能だった選択肢である。それを父はきっと知っていたのだろう。
母とイユボヴニクが向かい、きっと初めて抱き合った。そして、イユボヴニクの右手に握られた剣が二人の胸を貫き、オボジュバニュの剣がうなりを上げれば、ごとっという音が二度聞こえ、二人の体が崩れる。床に転がった恋人達の顔は向い合い、微笑んでいた。床に倒れた二人の体は抱きしめあったままだった。その様をオボジュバニュの隣に立ってデュムバは眺めていた。
外から馬の蹄の音と、怒号が聞こえる。オボジュバニュは一度息を吸い込むと、扉の外へと走り出した。
慌ててその背中を追いかけて扉をくぐると、そこはルナルーチの都の城下街へと変わっていた。
石造りの家々の隙間をオボジュバニュは走っていく。その背中は見たこともない少年の物だったが、オボジュバニュなのだと知っていた。振り返れば、オボジュバニュより一回り背も体格も大きい子ども達が棒を振り回して、追いかけて来ていた。いつの間にか、デュムバはオボジュバニュになって逃げていた。
「逃げんなよ!」
「待てよ!!」
泣きべそをかきながら路地を駆けて行く。大通りへと続く路地。そこを左に曲がるつもりだったのだ。しかし、何かに脚をとられ、全力で走っていた勢いそのままに転んでしまった。あまりにも急いでいたせいだろう。倒れるだけではなく、転がるように大通りに飛び出す。馬のいななきが聞こえ、周りにたたらを踏む馬の脚がいくつも見える。オボジュバニュが恐る恐る顔を上げれば、立派な騎士が何人も騎乗したままを見下ろしていた。先ほどまでオボジュバニュを追いかけていたいじめっ子たちも顔を青くして成り行きを見守っている。
「無礼な!第一王子殿下の御前に飛び出すとは!」
「おい、この子ども、連れて行け。」
一番オボジュバニュを睨みつけていた騎士が別の騎士に声をかける。馬から降りてきた騎士が強い力で腕を掴み立たされて、自分が飛んでもないことをしたのだと、ようやく理解が追いついた。
「シューバル、待て。」
一際若い声が響く。
まだ少年時代の父だった。
「す、すみません!!お、俺、ちゃんと前見てなくて。」
「勝手に口を利くな!」
デュムバも時折怒られた覚えがある雷の様な声が響く。
「追いかけられていたのか?答えてみろ。」
父は路地から飛び出して慌てて隠れるように成り行きを見守っていたいじめっ子たちを見ていた。視線を追ったオボジュバニュもその姿を認めた。
「い、いえ。お、俺が悪いんです!あいつらは関係ありません。」
いじめっ子たちはオボジュバニュに必死の様相で庇われて罰が悪そうな顔をしている。
「シューバル、この者を見習いに入れろ。所詮、下賤な者の子どもだ。自分がしでかしたことなど分かっていないだろう。見習いになればおのずと何をしたのか理解できるだろう。」
そして、馬から降りた父は何と自らオボジュバニュの手を取って立ち上がらせたのだ。あまりのことに周囲の護衛の方が浮足立つ。
「しっかり、励めよ。」
平民上がりの、それも大した家の出でもないオボジュバニュは血を吐くような経験をいくらでもしたようだ。中でも、一番辛酸をなめさせられていた相手はイユボヴニクである。イユボヴニクは、見習いに入った者達の中でも一二を争う貴族の出であった。同じ見習いに、貴族でもなく大きな商家ですらないような家の出の者がいる。目の端に移るだけでも、気が付くのだ。あまりにも基盤となる生活が違いすぎるために、似たような御仕着せを着ていてもほんの僅かな所作や空気の違いで異質な者だと分かってしまう。そして、それはイユボヴニクのような良家の出の者にとっては耐えられない不快感を覚えさせられていたのであろう。
その光景が走馬灯のように流れて行く。
そして。
「騎士に叙する。」
平民から成り上がった男がついに騎士になったのだ。任命式で十数年ぶりに父とオボジュバニュは対面した。もちろん、父はオボジュバニュのことなどすっかり忘れていたが。だが、オボジュバニュは慢心することなくまた鍛練を積み、ついに父の元へと使えることになった。その頃にはオボジュバニュが平民上がりだと言う事は知れ渡っており、父もようやく自分の戯れを思い出したようだった。
例えオボジュバニュを召し上げたのがあの場の思いつきの戯れであったとしても、オボジュバニュにとっては俄かには信じられないほどの栄誉であった。「おのずと何をしたのか理解できる」と言われた言葉の通り、騎士になるために研鑽を積んだオボジュバニュは王子が馬を降り、わざわざ手を取って立たせるということがどれだけの大事であったのかを理解した。戯れだなとど知る由もなく、また例え戯れだと知ったとしても、オボジュバニュは父に対して崇拝に近い感情を抱いていた。
『しかし、あの時の子どもが本当に騎士に成り上がるとは思わなかったな。』
父の声が何処からかする。
小屋の外で、駆けつけたイェストラブの兵士達にたった一人でオボジュバニュは立ち向かっていく。
『ですが、本当に殿下には感謝しているようでございますね。』
『そうだろう。でなければ、とっくの昔に鞭うちでもされて首を刎ねられているところだ。それが、命を救われただけではなく、騎士にまで召されるとは。』
若い男女の笑い声が響く。もしかすると、オボジュバニュはどこかでこれを聞いていたのだろうか。
小屋に火が放たれ、燃え上がる。赤い光に照らされたオボジュバニュは悪鬼の様な形相で剣を振るった。
「殿下に御救い頂いたのだ!この命を賭けても、イェストラブの賤民ごときに、殿下の安寧を邪魔はさせん!!」
赤い光に照らされた剣は、炎のせいではなく赤く染まっていた。イェストラブ兵の一人を突き刺した時、オボジュバニュの背中に数本の剣が刺さった。
「殿下、どうか、月神の地を...。」
体を赤く染めたオボジュバニュは、赤い光に照らされて散って行った。
「殿下も面白いことを致しますわね。ですが、お陰で良い騎士を得たのではございませんか?いざともなれば、我が身を惜しまず、敵陣に切りこんで行くような騎士になったのでは?」
「それもそうかもしれないな。」
「平民如きの成り上がりが、いざという時に逃げ出さねば良いのですが。」
先ほどの声に振り向けば、少し年若い頃の父とドウヴィルバ、年の同じ頃の知らない女性。三人は主従と言うよりは友人という雰囲気で楽しげに話しながら歩き、部屋に入る。椅子に腰かけた父がふと視線を上げた。
「おや、マイカ、新しい飾りなんじゃないか?」
「殿下、本当によくお気づきになるのね。」
マイカと呼ばれた女性はどこか苦いものが混じった表情で笑う。ドウヴィルバは女性を上から下まで注意深く見て、首をかしげていた。
「スィリュナマイカ、首飾りを変えたのか?」
「おい、ドーヴ、いくらなんでもそれはないだろう。耳飾りだよ。」
ドウヴィルバは困ったように眉間を揉んだ。
「マイカ、もっと目立つ所を変えないと。私ばかりが気が付いても意味がないだろう?」
「嫌ですわ、殿下。何をおっしゃっているのかしら。ああ、只今お茶の御用意を致しますね。」
そう言ってスィリュナマイカは部屋の外へと出て行く。
「ドーヴ、お前、もう少し女性のことも気を付けて見ろ。このままでは、誰も嫁に来ないぞ?まあ、そういう所が良いのかもしれないが。」
後ろの方は良く聞こえなかった。
「しかし、私は殿下の騎士ですから、女性に詩や花を贈ることは必要ではないかと。」
仰々しい溜息をつくと父はドウヴィルバに近くに来いと合図をし、その肩を抱えてまるで内緒話でもするかのように声をひそめる。
「お前の言うことはもっともだ。だがな、お前は私の騎士だろう?ならば、いざとなれば一切合財を投げ捨てて私の元へ馳せ参じなければいけない。」
おっしゃるとおりです、と律儀にドウヴィルバは肯く。
「その時、家のことをどうするんだ?安心して全てを委ねられる妻がいなければならないだろうが。」
「はあ。」
「しかも、妻にする女性はお前が守るような繊細な女性ではいけない。しっかりとして自立した、例え相手が王太子でも遠慮なく文句を言えるくらい強い...。」
「殿下!」
いつの間にか茶を運んできたスィリュナマイカが目の前に立っていて、唇の両端をにっと上げて父を見た。
「お茶の御用意が出来ました。」
父は肩をすくめて、ドウヴィルバを放した。
茶器を並べたスィリュナマイカが顔を上げると、少し年を取っていた。
「わざわざ殿下がお出で下さるなんて、有難う存じます。」
「何、遠乗りのついでだ。」
「娘のスヴェトリナータでございます。」
スィリュナマイカが合図をすると、近くにいた乳母が赤子を見せる。
「抱いても?」
「光栄ですわ。」
そっと赤子を受け取る。
「ああ、マイカに良く似ている。美人になるな、きっと。ドーヴには似なくて良かったな。」
「まあ、殿下ったら。」
二人は笑った。
扉が開きドウヴィルバが入ってくる。朝日が差し込む玄関に場所が変わっていた。
「マイカ。」
スィリュナマイカの傍らには母の手を縋るように掴んで不安げにドウヴィルバを見つめる三、四歳のスヴェトリナータ。そして、スィリュナマイカの腹は大きく膨れていた。
「明日には王子殿下達をお守りして王宮を去る。後のことは頼んだぞ。」
ドウヴィルバは娘の頭を撫で、そしてスィリュナマイカの腹に手を当てる。
「元気な子だ。皆を頼んだぞ。」
そして、周りを囲む使用人たちを見回す。
「明日になったら、私のことは死んだと思え。スィリュナマイカがこの家の女主人になる。私に仕えたように、私に仕えた以上に良く仕えてくれ。」
使用人の中には耐えきれず、目頭を押さえる者もいた。
ドウヴィルバは王宮へと向かう。その姿を見送ったのと同時に、スィリュナマイカはその場に座り込んだ。使用人達が浮足立ち、医師を、と慌てる。
「今ならまだ、旦那様も外にいらっしゃいます。お呼びしましょう。」
一人の使用人が外へと向かおうとした瞬間。
「なりません!!」
スィリュナマイカの通る声が響いた。一旦、陣痛が遠のいたようで息を整えるとゆっくりと口を開く。
「旦那様は今からお役目に向かうところ。心を騒がす様な事があってはなりません。お医者様に連絡と湯の準備を。旦那さまには子が無事に生まれたことだけをお伝えすればよいのです。」
何と言う事か。ドウヴィルバを見送るため、陣痛を堪えていたのだ。
その日の昼すぎ、無事に男の子が生まれたことを知らせる手紙がドウヴィルバに届く。人目を偲んで、手紙に顔を埋めて泣くドウヴィルバをデュムバは眺めていた。
そして、王宮が炎に包まれたのは同じ日の夕方であった。