第一編
ルナルーチの王子であるデュムバは、異国の兵士に踏み躙られる国土を目の当たりにしながらも、なすすべなく国を出奔する。泰獄に亡命する道中、幼い頃から慕い尊敬してきた騎士達を少しずつ断腸の思いで切り捨てて行く。王太子である父とも別れ、兄のように思っていた護衛のハズグを山中に置き去りにして、ようやく泰獄の地を踏んだのだ。初めのうちは国の再興を誓っていたが、やがて息子が生まれ穏やかに日々を過ごす内に、このままの暮らしに甘んじようかと思い始めた。そんな時に現れたのは、山中に置き去りにしてしまったはずのハズグであった。亡国の王子が、国の再興を目指す決意をするまでの話。
人が、家が、街が、森が、そして空までもが燃えていた。
ちらちらと時折空へと昇る光の粉は、途中で灰色の煙に飲みこまれる。
煙の中に見える黒い影は、白亜の壁が美しかった王宮であろうか。威厳に満ちた祖父も、慈愛に満ちた祖母も今はあの中で炭の一つになっているのか、あるいはイェストラブの兵に首だけを奪われているのか。香り高く美しい花々が鮮やかに咲いていた庭は、錆びた匂いと沈んだ赤が埋め尽くしているのだろう。人々が笑いながら行き交っていた広場や通りでは、帰らぬ者への嘆きと絶望の叫びが満ちているのだろう。
月神の加護も、神に背く者には敵わないのだろうか。
古に、ルナルーチの祖をこの地へ導いたと言われる月神の使者が銀糸で描かれた薄紫色の旗はすっかり姿を消し、あちらこちらでイェストラブの紋章が金糸で施された黒旗がたなびいている。薄暮の空が宵闇に覆われたかのように。
もうじき夜が訪れる。だが煙に覆われたこの地では月神の姿が見えないだろう、そう思って深く吸った息を吐きだしながら、デュムバは赤い空を見上げた。
イェストラブの侵攻の報せを聞き、旅装に着替え外へと出た瞬間に衝撃のあまり息を飲んだ。美しい緑の森と、遠くに見える深い蒼をした湖。茶色い屋根と白い壁が立ち並び、優しい薄紫色の旗が靡く街。そこに見える筈の景色は全てが消え去っていた。灰色の煙、黒色の旗、燃え盛る赤い炎。見たこともない色に囲まれ、今まで立っていた地面が失われるような感覚が全身を襲う。そして次に襲ってきたのは、明日も続くはずであった安寧と権力がイェストラブごとき卑しき民に奪われるという屈辱感。
悲しみよりも怒りで目頭が熱くなった。
「殿下、急ぎましょう。この離宮にも兵が向かっておりましょう。」
幼い時から側におり兄の様に慕っていた側近であり護衛の一人、ハズグに促され、馬に跨る。本来であれば王太子であった父とデュムバは違う道を行く手はずであったが、それすらも叶わない程、イェストラブの侵攻は苛烈であった。父、母、両親の護衛数名、デュムバの護衛であるハズグとヘレサと共に、月神の土地を離れた。目指すのは、神が坐るという山、そしてその山に守られた幽玄の地。
一度だけ、煙の中の黒い影を見遣り、この屈辱を忘れまいとその姿を目に焼き付けた。
離宮を出た後はまだ完全には包囲されていなかった城壁を抜け、森へと逃げ込む。鬱蒼とした森の奥で護衛のシューバルが待っていた。その表情は険しい。
「南側に遣わせた先発が戻ってまいりません。やはり、一番近い道は奴らも目を光らせているようです。一度、北のスフュルスィートを目指し、それから西側のクワーダ、フィユィアーラを目指して帯河へと抜けましょう。」
ルナルーチ最北の街、スフュルスィートは早駆で三日の街である。イェストラブの軍がそちらまで届いていないことを願いながら、一行は北を目指す。しかしながら、森を抜けた先に見えたスフュルスィートの城壁に上げられた旗は紫色ではなく、黒だった。
「なんと、落されていたとは。」
呟いたのは、王太子の騎士の一人、ヴィルシュギクスである。彼はスフュルスィートの知事の次男であった。筋骨たくましい男で、また、情にも厚い男であった。寡黙であるが、真面目で、デュムバの父も信頼を寄せている男である。生まれた街に上がる旗が生家の物でも王家の物でもない。その事実はどれほどの衝撃をヴィルシュギクスに与えたのだろうか。顎が砕けるのではと心配になるほど、歯を食いしばっていた。
その時、遠くの林の向こうに騎兵の姿が見えた。黒旗、頭部が平らなつばのない帽子、長い髪を束ねた独特の髪形。イェストラブの兵であった。すぐに馬首を翻し、森の中を西へ向かう。しかし、向こうも気が付いていたようで、追いかけてくるのが見えた。森の中の獣道を走る。この森で育ったと豪語するヴィルシュギクスは流石の手綱捌きで先鋒をつとめ、行く手を遮る木枝を薙ぎ払い、木々の合間をすり抜ける。獣道が狭まり、左が山肌、右が崖になっている道へさしかかった時だ。
「殿下!私がここに残ることをお許しください!」
ヴィルシュギクスが、父の隣に並び叫んだ。一拍返事が遅れたのは、躊躇いがあったからだろう。
「許す!」
「ありがたく存じます!それから、もう一つ。」
ヴィルシュギクスが願い出る前から、父は肯いていた。ヴィルシュギクスが申し出たのは、単身スフュルスィートに特攻する許しを得ること。すなわちヴィルシュギクスの死であった。
「我らが月神の土地を取り戻すまで、スフュルスィートの守りは任せた。武運を祈っているぞ。」
一度だけ、王太子の手がしかとヴィルシュギクスの腕を掴み、御無礼をと断りヴィルシュギクスも同じ仕草で答えた。主従の二人は互いに信頼と友愛の情を込めて見つめ合う。やおら、従者の馬が速度を落とし、その姿は後ろへと流れて行った。
「どうか御無事で!どうか、…!」
背後から叫ばれる声は遠ざかり、最後は聞こえなかった。
ヴィルシュギクスの健闘に依ってか、その後はしばらく平穏な道のりであった。一度、イェストラブの領内に入り、西を目指す。大きな街ではどこもイェストラブの軍が控えており近づくことが出来ず、小さな町や人知れぬ村を渡り歩き、食べ物や情報を仕入れていた。屋根の下で眠ることが出来るのはまだましな方で、集落すら見つからない時には野宿で夜を過ごした。しかしながら、緊張と不安が押し寄せる中の逃亡劇、それも昨日までは国の中で一番雅な生活をしていた人々が木の根草の根を食むような逃亡劇は苛酷を極め、真っ先にデュムバの母が音を上げた。
山中深いそこは、人気がない。母の騎士であったイユボヴニクが簡単な寝床を作って介抱するが、熱でぐったりとした母は苦しそうに息をするのみであった。やがて周囲を見回りに行ったオボジュバニュとドウヴィルバが戻って来た。
「少し距離がありますが、灯りが見えました。宿を願って妃殿下だけでも寝床にお休みいただいた方がよろしいかと。」
質素であるが小奇麗な小屋にデュムバは母とヘレサ、そしてオボジュバニュの四人で宿を乞いに行く。オボジュバニュは平民上がりだったため、交渉役に選ばれたのだ。小屋には初老の女とその孫だと言う少年が暮らしており、初めはかなり渋られたが上手く寝床を借りられた。母程ではなかったが、正直なところ、デュムバも疲弊しきっていた。例え薄い布団に汗の匂いが染みついていて、一晩寝たらあちらこちらを虫に噛まれるような寝床だったとしても、体を横たえることが出来るとほっとしていた。
しかし、やっと体を休められると思った時、外で待っていたハズグとイユボヴニクが駆け込んできたのだ。物々しい足音に部屋を飛び出せば、宿を貸してくれた初老の女と孫が床に横たわっていた。その体の下から赤黒い液体が流れ出るのを見て、デュムバは事態を把握する。
「デュムバ様、急いで出立の支度を!」
「外で子どもが密かに狼煙を上げておりました。ここに長くは留まれません。」
父とドウヴィルバもやって来た。
「仕方ない、もう少し体を休めてから口を封じるつもりだったが...。」
「殿下、申し訳ありませんがお手を拝借いたします。こちらを荷の中に。」
「ヘレサ!!ある限りの食料と妃殿下の分の上着を。ドウヴィルバ、お前は水を急いで詰めろ!デュムバ様、これを背嚢に。」
慌ただしく、小屋の中から少しでも旅の糧になる物を掠めて行く。仕方の無いことだと分かっていても、父や誇り高い騎士達が、山中のみすぼらしい小屋でこのような浅ましい行為をしなければならないことに屈辱感が胃液と共に込み上げてくる。それを必死に飲み下すと、イユボヴニクに渡された食料を、床を見たまま受け取る。
その時、外からシューバルの急かす声が響いた。やはりどこかへと合図を送る狼煙であったようだった。同時に奥から、倒れそうな様子の王太子妃がヘレサに抱えられて出てくる。
「殿下、私は足手まといになります、お捨て置き下さい。デュムバとともにどうか月神の地を。」
王太子の姿を認めると、妃はヘレサの手を借りず背筋を伸ばして礼をとり、その足元に膝まずき許しを乞うた。母の手に触れたのは父ではなく、肩を支えるように抱く母の騎士であった。そして、騎士もまた許しを乞う。
「恐れながら、私めもここに残りたいと存じます。私は妃殿下の騎士です。主の側を離れるなど出来ません。」
「ヘレサ、ハズグ。デュムバを連れて外へ、シューバルとともに出立の準備を。」
オボジュバニュも傅く二人の隣に並んだ。真っ直ぐに王太子を見つめて、許しを乞う。
「殿下、私もここに残ることをお許しください。必ずや追手を防ぎ切ります。どうか、月神の地を。」
妃は顔を伏せて床を見つめ、妃の騎士は主を見つめ、もう一人はそんな二人を見つめ、王太子はその様を見下ろしていた。一瞬の沈黙が永遠にも感じられた。沈黙は王太子の溜息で破られる。
「ドウヴィルバ、行くぞ。オボジュバニュ、後はまかせた。」
「はっ。」
王太子が声をかけるのがオボジュバニュだけなら、応えを返すのもまたオボジュバニュであった。その隣で主従である二人は深々と頭を下げたのである。
ドウヴィルバが先導する馬の後をひっそりと着いて行く。馬の背で後ろを振り返った時、火の手が上がる小屋と、小屋に群がる篝火。そして、人影が振るう剣が月光を跳ね返したように見えた気がした。