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四哀悲話  作者: 青田早苗
第一話、母になった女の話
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後編

 桂花と毅は結婚とともに北山へと移った。そこで北の高山、神峰の向こう側からやって来たという夫婦と隣合わせの家になり、親しくなる。噂を集めるに、夫のデュムバは北にあった国の王族のようだった。初めて会った時、随分不思議な色の瞳だと思ったことを良く覚えている。妻のヘレサが抱くのは、夫と同じ色彩の男児。パトゥラ、と不思議な響きをもった名前だった。

 なんて、綺麗で、愛らしい子だろう。

 子が小さな手を伸ばして笑いかければ、母親は優しげな笑みを返す。じんわりとした例えられぬ幸福感が体中に広がる。同時に、子の頬を愛おしげに撫でるヘレサが羨ましくなった。


 あれが母の顔だろうか。

 どこかで見たことがある顔だと、思案を巡らせる。

 ああ、貴蘭と同じ顔だ。


 桂花は母を知らない。だから、桂花にとって貴蘭は友人であり、姉であり、母親だった。

 途端、言い知れぬ不安に駆られた。母を知らない自分が、母になれるのだろうか、と。そう思えば、目の前で我が子を慈しむ女性が、随分と遠くに感じられる。あんな風に子を愛おしめるのだろうか。

 そんな不安を感じたのか、二人に中々子どもは出来なかった。一度、妊娠した時もすぐに流れてしまった。そのことは一層、桂花を不安にさせた。自分が母親には相応しくないから子が去ってしまったのだ、と。不安がる桂花を支えてくれたのは毅で、気遣ってくれたのは隣戸の友人夫婦だった。桂花になつくパトゥラをあやす様子を見た友人と夫は、決して相応しくないなんてない、大丈夫だよと言ってくれたのだ。

 また二年が巡って、ようやく女の子が産まれた。

「花の名前が良いわ。私の大好きな人も、花の名前だったもの。」

 そう言えば、毅は微笑んでくれた。


 芙蓉が産まれて大きくなっても桂花は相変わらず自由奔放なままだった。桂花はそれで良いと思っていたし、芙蓉のことを蔑ろにしている訳ではなかったため毅も何かを言う事はなかった。そんな桂花も一度だけ悩んだことがある。幽山に移った知人が、川でおぼれた我が子を助けるために飛び込んで亡くなった。それを聞いた桂花は心底呆れたのだ。溺れた人間を助けるために、舟や縄を出すならともかく、自らが飛び込んでも助けられるわけがないのに、と。しかし、周囲の母親達は、そんなことがあったら当然自分も飛び込むだろうと言いながら涙したのだ。呆れた気持ちを表に出すことはなかったが、また一層、自分が母親には向いていないのではないかと不安になったのだ。

 不安を抱えながらも月日が経ち、芙蓉が五つの年に、桂花の祖父が死んだ。七十を過ぎたばかりであった。泰獄の外では、孫を見る前に亡くなることが稀ではない時分で、曾孫を見ることが出来た桂花の祖父は大往生だった。亡くなる直前まで職人だったようで、作りかけの簪と道具が残されていた。細工の為の銀線が綯われたばかりで、何を作ろうとしていたのか定かではない。心当たりに尋ねるが、細工を頼んでいた主は見つからなかった。どうしたものかと思いながらも、道具の手入れをしていた時、芙蓉が膝にまとわりついてきた。

「母様、今日は何を作っているの?」

 北山に移ってからは、桂花は祖父と同じく細工の職人をしていた。朝に田畑を耕し、昼に細工を作る。夜に火が落ちれば、剣術の鍛練をするのが桂花の日課だった。そのため、芙蓉が起きている時は、細工を作っていることが多かった。五つになってませてきた芙蓉は母の手の中で形を変える銀細工を眺めているのが好きだった。まるで、自分の様だ。自分も芙蓉と同じ年の頃、こうやって祖父の作る細工を眺めていたのだ。

 ふと、芙蓉の花の簪を作ろうと思った。

 祖父が死ぬ間際まで作っていた簪。もしかすると、芙蓉の為の物だったのかもしれない。なんだかそんな確信が湧く。きっとそうだ。

「そうね、芙蓉のお花の簪よ。」

「あたしのお花?」

 期待を込めた目で見上げてくる娘が愛らしかった。

「ええ、芙蓉が大きくなった時に、似合う様な素敵な簪にしようかしら。」

 祖父が芙蓉の為に作ろうとしたであろう物を作ってみよう。そう思って道具を握る。祖父が作ろうとした簪に近づきたいとだけ思ったのだ。簪を作った動機は、決して娘の為に作ろうという気持ちではなく、それに桂花は気が付かずにいた。

 外の禁賊の依頼を受けて作る細工の合間に少しずつ、少しずつ芙蓉の花が銀線で生み出されて行った。手間を惜しまないそれは、銀色の光沢さえ持っていなければ、まるで本物の花だと言われても信じてしまうほどの出来栄えで。あまりの手が込んでいたため、作り始めた時に五つだった芙蓉は七つになっていた。


 その頃、泰獄は俄かに戦の気配に包まれていた。砥水を越えた向こうの小国、ヴラナが攻め込む、という噂が聞こえて来ていたのだ。朝に畑を耕した後は、すぐに戦の準備に置き換わった。夜も鍛練の時間を減らしていた。それでも、毎日、僅かずつではあるが簪は完成に近づいていた。

 明日の晩には、細工に使った銀線のような三日月が浮かぶと言う晩。ついに簪が出来あがった。桂花が持てる技の粋を集めた渾身の作は、本当に見事な物だった。桂花自身も、その出来映えにしばらく見とれていた。美しい簪をこの手で作り上げたのだ。計りしれぬ幸福感と満足感に満たされる。

 帰って来た毅も桂花が持っている簪を見つけ簡単の声を上げた。

「素晴らしいな。芙蓉も喜ぶだろうな。」

 毅にそう言われて、桂花ははっとした。ようやく祖父が芙蓉の為に作ろうとしたであろう簪を代わりに作ったのだと思い出した。母親になって七年もたっているのにこの調子だ。時々、なんだか毅と芙蓉に申し訳ない気持ちになる。ちらと、やはり自分は母親には相応しい女ではないのだという不安が鎌首を擡げる。

「そうね。でも、渡すのは、せめて戦が終わってからの方がいいわよね。」

 いくら芙蓉に分別があるとはいえ、新しい簪、それもこれだけの出来の物を渡せば嬉しくて見せて回るだろう。戦が始まるという時に、いくらなんでも不謹慎だ。

「どこに隠したらいいかしら?最近、あの子もあちこち手が届くようになってきて。」

 結局、床下の目立たないところに隠したのだ。だが、それが結果的には良かったのかもしれない。そうでなければ、次の日の夜に押し入った侵入者によって奪われていただろうから。


 次の日の夜は、三日月が空で笑う夜。後にヴラナの夜と語られる夜。

 戦の準備で家を空けていた桂花であったが、思いがけず時間が出来たのだ。パトゥラに子守を頼んだけれど、二人で大丈夫だろうかと気になり、二人が寝ている部屋の戸を開けた。

 そこには、もぬけの殻の布団。わずかに慌てたが、布団に手を入れてみれば随分と暖かく、別段乱れたり争ったりした様子はない。用を足しに行ったのであればすれ違いそうなものだ。どうしたのかと思案をめぐらせれば、昼間、芙蓉が渡り鳥の巣に見入って帰って来なかったことを思い出した。

 あの子の性質たちから考えれば、きっと心配だと言い出して見に行ったのだろう。パトゥラはなんだかんだ芙蓉の我儘を聞いてしまうから、仕方なくも一緒について行ったのだと想像できた。ふうっと呆れを含んだ溜息をつく。今日は二人にしっかりと言い含めなければ。そう思って集落の裏手の森へ向かう。

 そこに行けば確かに芙蓉とパトゥラがいた。しかし。

 二人は誰か追手から逃げていた。おかしい。そっと近づいてみれば、追手の姿はヴラナ兵に見える。急いで異変を知らせる笛を鳴らしながら二人の元へ駆け寄るが、思わずその足が止まった。

 一体どういう事だろう。隣戸の友人夫婦は何故かヴラナ兵と共に芙蓉に剣を向けている。その剣先で必死に芙蓉を庇っているのはパトゥラだった。

「ヘレサ?デュムバ?」

 とにかくヴラナ兵を倒さねばと、剣を握る。途中ヘレサがどこかへ逃げて行ったが、構っている余裕はなかった。ヴラナ兵を切り捨てて行った先にデュムバがいて、一瞬悩んだが、剣の柄で殴って気絶させた。もしかしたら、大事な怪我になってしまったかもしれないが、少なくとも息子の前で切り殺すよりはマシだと思った。

「芙蓉!パトゥラ!!けがはない?」

 あと少し。その時、遠巻きに見ていたヴラナ兵の一人が、芙蓉に向かって斬りかかって行った。


 芙蓉!!

 咄嗟に、出来たのは剣の前に自分の体を差しだすこと。背中に痛みが走り、一瞬息が止まった気がした。いや、大丈夫だ、芙蓉には怪我はない。安堵と共に激痛が襲ってきた。痛みを堪えて芙蓉に笑って見せた瞬間。胸に衝撃が走って、剣の先が生えた。芙蓉が大きな瞳を零れそうなくらいに見開いてこちらを見ていた。大丈夫、と言ってあげたいのに、喉がやけに詰まる。どうしたらいいのだろうか。

 大丈夫よ。

 上手くしゃべられなかったので、笑ってみた。貴蘭が笑っていたみたいに。パトゥラを抱いていた時のヘレサの様に。自分があの時の二人と同じ顔をしているのが分かった。ずっと憧れていたあの顔だ。慈しみ、愛しみの顔。

 そうだ、これが母親の顔だ。

 憧れが叶った喜びに浸っていた桂花は、体の内側からの激痛で現実に引き戻される。そして、ふと、毅が心配になった。貴蘭の代わりにずっと一緒に居てあげると言ったのに。自分が居なくなってしまったら、またあの人は悲しそうに笑うのだろうか、と。

 いつかの父の言葉が響く。

「お前がいて、笑っていてくれたからだろうな。」

 芙蓉が無事であってくれれば、きっと毅と父は笑えるだろう。本当なら芙蓉を助けるまで剣を離したくなどなかったのに。手の感覚が失われてしまった。聞こえなくなってきた耳に、両手から剣が落ちたのが聞こえた。

 どうか、芙蓉が無事でありますように。心の底から祈るが、それと同時にささやかな幸福感に包まれた。川に飛び込んだ知人の気持ちがようやく分かった気がする。


 ああ、良かった、母親になれたんだ。

 そう思った後、桂花は暗闇の中へと意識を手放した。


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