第七編
ソルヤムが皇帝に即位したのは、泰獄を落としてから四年の後である。前の皇帝が病に侵され、禅譲を決めた故であった。皇帝が変わってからもイェストラブの拡大は留まることを知らず、帝都は皇帝のいない都と揶揄されるほどにソルヤムは戦場を駆けていた。
ソルヤムの即位に伴い帝都に移る際、グルビナム自身は西都に残るつもりであったのだが。
「西都はヘゥツと叔父上に任せて、お前は帝都についてこい。」
さて、グルビナムは少々困った。
一人目の妻、クルフォルディはイェストラブが滅ぼした国の王女である。彼女は高貴な生まれ故の、割り切りを持って嫁いでおり、グルビナム個人を憎んではいないものの根底にはイェストラブに対する憎悪があるようだった。クルフォルディが産んだ長男のヘゥツはそのようなことを常に言う母に育てられていたためか、少々物の見方が偏っている。だが元来利発な性質であるから、叔父の大公に任せれば問題ないだろう。
問題なのは次男のエゲリスソイフだった。エゲリスソイフは、二番目に娶った貴族の娘の間に生まれた子供である。ただ次男を産んだ母親は若いうち死んでいた。そのせいか次男は少々覇気がなく、見捨てるとまでは思わないのだが長男に比べるとどうしても出来が悪いと言わざるを得ない。その上、クルフォルディとの折り合いが非常に悪く、この二人を西都に残してはとても行けない。
三番目の妻はソルヤムの元に嫁ぐ代わりにグルビナムに嫁いだ貴族の娘で、生家の大きさもあり亡国の王女よりはよほど力を持っている。また、子どもはまだ幼いため、クルフォルディが目くじらを立てるようなこともなかったようだ。しかし、こちらはエゲリスソイフの母親の生家と娘の生家同士の仲があまり良くない。そのため本人はエゲリスソイフを心配しているようだが、生家の手前もあり手を拱いていた。
次男だけを帝都に連れて行ってより一層の不和を招く恐れもあったが、流血沙汰の醜聞が今日こそ届くのではないか、と毎日危惧するよりはマシだと、次男だけを帝都へ連れることにしたのだ。
しかし、帝都に来てみるとどうだろう。エゲリスソイフは目を輝かせてはあらゆる物を見て歩き、快活な性格に変わったせいか友人も多くできたようだ。よほどクルフォルディとの相性が悪かったのだと、不出来と思いこんでいた自分をグルビナムは殴りたくなった。
グルビナムは宮殿に居室を持っているが、内街、つまりは宮殿の外側にある貴族達の屋敷がある区画にも一つ邸宅があった。グルビナム自身は宮殿にいる事が多かったが、エゲリスソイフは内街の邸宅に住まわせていた。場所柄、宮殿よりも貴族達の屋敷に行きやすいためか、あちらこちらへ赴いているらしい。特にエゲリスソイフの母の生家によく足を運んでいるためか、従兄弟達やそこへ来る他の貴族の子弟とは非常に親しくなっているようだった。
時折、内街の邸宅に足を運び、帝都での様子を尋ねると至極楽しそうにしている。西都に居た時は、先が不安になりそうな様子だったのだが、これならば、とグルビナムも誇らしく思った。
グルビナムの周囲も少々交流が変わった。帝都に来てからは、弟のケシュケフュがグルビナムの元にやって来たのだ。
ケシュケフュは先の皇帝の九番目の妃が産んだ第二子で、グルビナムよりも十一若い。妃の身分が低かったことから、既に臣籍に下っており、弟というよりは年若い部下と言った認識であった。ケシュケフュは剣だけは苦手という本人の言い分の通り、言葉や歴史には堪能でグルビナムとは話が合った。
西都に居た時は、ソルヤムと行動を共にしていたため、どうしても周囲の人間が官吏か軍人だった。身分が近いために気兼ねがなく、また軍人ではなく文化人である人間、とこうして議論を交わすのが久しぶりで、グルビナムも存外帝都の空気を好んでいた。
ソルヤムは相変わらず北へ南へと戦に駆けまわっており、必ずグルビナムは引っ張り回されていた。そしてケシュケフュはグルビナムと行動を共にすることが多くなっていた。実際、戦場で暴れまわるのはソルヤムなのだが、その後のこととなるとグルビナムが仕切っている。些末な部分についてはケシュケフュが補ってくれるため、グルビナムも重宝していた。
いつもの通りソルヤムから戦後の統治を任せるという旨を告げられ、その居室を辞した後、ケシュケフュが何の悪意も邪気もなく喜ばしそうにぽつりと洩らした。
「それにしても、陛下は本当に殿下を信頼なさっておいでなのですね。」
ケシュケフュは心底そう思っていた。
だが返答は、予想と異なった。
「ああ、そうだな。陛下は、私のことが信用ならないのだよ。」
自嘲的な声色と、皮肉気に歪められた顔。
グルビナムがこういう形で苛立ちを示すのは珍しかった。ケシュケフェユは兄の機嫌を損ねてしまったことに慌てながらも、不思議に思う。
時折、異母兄達の会話を聞くこともあるが、皇帝陛下はこの兄に信頼を置いているように聞こえた。
雨季の空は灰色で、グルビナムの顔色を一層暗く見せる。
「一度も手元を離さないのは、目の届く所に置かなければ何をしでかすか分からないからだろう。遠征の時に必ず連れて行くのは留守中寝首をかかれないようにするため。遠征に行っても私に軍を与えることなどない。私の兵はいつも都に残したままだ。」
ケシュケフェユが言葉に窮していると、グルビナムはいつもの温和な笑顔を浮かべ、八つ当たりしてしまったなと頬を掻いた。そして、少しだけ悲しそうな顔をして呟いたのだ。
「今、陛下が信用を置く部下たちは皆、最初に陛下に食ってかかって行ったやつらばかりだ。」
雨季から乾季に季節が移り、晴れが続く季節になった。
そんな晴れやかな季節に相応しい報せが届いた。
かつて古文書の研究をしていた折の友人に子どもが生まれたと言うのだ。この友人は一度二十歳の頃に結婚をしたのだが、出産の折りに妻も子も亡くしていた。それ以来すっかり落ち込んでいたのだが、最近になってようやく後妻を娶り、子どもも無事に生まれたのだと言う。一時は家人もあまりの落ち込み様に何も言えずにいたようで、主従の上下を問わず大喜びしているという噂はグルビナムの耳にも届いていた。
祝いの席に招かれ、赤子を抱いた。そう言えば、子供達が長じてしまってから、赤子を抱くのも久しい。友人にはそろそろ孫の準備をしろと言われ、そんな年の方が近いのかと愕然とする。確かに、長男は来年にも戴帽帯剣をする年だ。そろそろ婚約を考えねばならないだろう。
ふわりと窓を覆う薄い紗が揺れ、心地よい空気が入ってくる。明るい日差しはこの一家に祝福を与えているようだった。
「実は、殿下の御耳に入れたいお話が。」
聞くと、本家筋にあたるスールゥ家の伯父が謀叛を企てているのだと言う。
「どうやら、バルユ殿下が裏にいるようで。陛下と殿下の間に不和が起きていると噂されているのを、好機と捉えたようです。」
十年以上前、長子であるスルティシャスが失脚してから、ソルヤムに対抗する最大の派閥はバルユであった。しかし、グルビナムがソルヤムの側に付いたことや、その他の兄弟とソルヤム達が険悪ではない関係を築いていたため、派閥としては大きくともソルヤムにはとても力が及ばない規模であった。
だが、それはグルビナムがソルヤムの側についている限りのこと。ソルヤムの急進的な国策に反発する者や、かつての国の主達、そしてスルティシャスの勢力をかき集めれば、勢力としては追いつく。
「そういう噂があることは知っていたが、そこまでか…。」
「ええ。殿下もお気を付け下さい。まだ後衛の立場におられるのです。陛下の次、狙われるのは間違いなく殿下でございますから。」
せっかくの明るい日差しも、このような話を聞いた後では禍々しくなって感じられてしまう。
「陛下にも進言しておこう。それに、貴殿が関わっていないことは伝える。」
グルビナムの言葉に、友人はようやく肩の力を抜いて、礼をしたのだ。
しかし、事は既にグルビナムの手には負えない所まで、進んでしまっていた。
二日後、宮殿に戻ったグルビナムの元に、ケシュケフュが険しい顔つきでやって来た。
「バルユ殿下とスールゥ家の当主が謀叛を企てた疑いで、北の塔へ…。どうやら、陛下はこの期に反発する者どもを叩くおつもりのようです。」
ひゅうと冷たい風が窓から入り、カーテンを揺らす。
「スールゥ家だけではない、加担した一族は傍流の赤子まで処刑されると。」
グルビナムは顔を青ざめさせて、部屋から飛び出した。
「兄上!」
ソルヤムが私室を執務室へと向かう最中、皇弟という立場を利用して話かけた。
「珍しいな、お前がこういう手段で俺に遭いに来るとは。」
「スールゥ家の処分を耳にしました。謀叛を企て、陛下の治世を乱そうとした罪、許すわけにはまいりません。しかし、家だけではなく、一族を処刑とは少々外聞が悪うございます。」
すうっとソルヤムの目が細められたのが分かる。逆らう事が許されない圧倒的な気を前に、震えそうになる喉を叱咤する。
「過去の記録にも、一族が処刑されたのは非常に稀な事。スールゥの家だけで十分ではございませんか?どうか陛下のご恩情を賜りたく…」
「やかましい!」
突然呼吸が苦しくなり、背中に衝撃が走った。ソルヤムに襟首を掴まれ壁に押し付けられていた。グルビナムは茫然として少し低い位置にある皇帝の顔を見下ろした。ソルヤムは思案気にグルビナムを眺めていたが、唇を歪めただけの笑みを浮かべる。
「恩情か…良いだろう。」
ほっとして肩の力を抜いた瞬間だった。
「せめてもの恩情で、お前が殺してこい。」
「なっ…。」
「いいか、妙なことを考えるなよ、確実に処刑しろ、赤子の一人も残すことは許さん。」
「陛下!」
取り縋ろうとしたグルビナムの鼻先で分厚い扉が無情にも閉じられる。礼など憚ることなく必死に扉を叩くが、開く気配はなかった。扉の両脇に立つ兵士がグルビナムを取り押さえないのは、グルビナムが皇弟だからというよりは、その心情に思いが至っているからである。扉を叩くことを止めた手はそのままに、膝から崩れ落ちる。
つい先日まで、飲みかわしては談笑していた友人の顔が浮かぶ。子が産まれたばかりだと喜んでいたと言うのに。あの、まだ何も知らない無垢な幼子までを殺せと言うのか。
己は、友人を殺すために、罪の無い幼子を殺めるために兄の下へとやって来たのだったのか。
くそっ!
言葉は辛うじて飲み込み、帽子を床に叩きつけた。
「殿下、ご心痛お察し致しますが、どうぞお気を確かに。」
武骨だが、柔らかな仕草の手が潰された帽子を取り上げれば、形を整え、汚れを払った。ヴルペスだった。
「お召し物に皺がついてしまいます。御起立くださいませ。」
服の皺などどうでもいいと手を振り払いたかったが、グルビナムはそれが出来ない性格でもあった。ふてくされた子供のように、帽子を引ったくると被り直して渋々と立ち上がった。
ヴルペスはその場を離れない。
「ヴルペス、お前は陛下が間違っているとは思ったことはないのか?」
微動だにしないはずの扉を守る兵士達が動いたように思えた。ヴルペスが何と言うのか聞き耳を立てているに違いなかった。
「そうですね。陛下も一度や二度、過ちを犯すこともあるかもしれない。」
ざわりと空気が動いた。
「ですが、私は、結果的に正しくするのみです。所詮は勝者の手で歴史は作られ、正しくなるのですから。」
兵士達もグルビナムも思わずはっと息を飲む。ヴルペスの強い意志を宿した目は揺るぎなく正面からグルビナムを見つめている。グルビナムは、吐き捨てるようにしか答えられなかった。
「軍人の考えだな。」
それに。と、柔らかく笑ってヴルペスは続けた。
「例え、殿下の行いを正しいと思っていたとしても、私が忠誠を誓えるのは陛下だけなのです。」
突如眩暈を覚え、壁に手をついて起立を保つ。
そうだった。ソルヤムはそういう人間だ。
ソルヤムにはあって、自分には無かった才。
上下左右が曖昧な感覚の中、一礼をして執務室の扉を開けるヴルペスを見送った。
グルビナムが立ち去っていく足音が聞こえ、代わりにヴルペスが入ってくる。中では不機嫌そうにソルヤムが椅子に埋もれ、足を机に乗せていた。隣では、書類を並べているピパルクゥツがにやにやとしながら、その様子を伺っている。
「陛下、何か企んでいらっしゃるのでしょう?」
「人聞きが悪いぞ、ピパルクゥツ。」
言葉とは裏腹に愉快そうにソルヤムは笑った。
「その悪だくみ、当ててご覧にいれましょうか?」
手元で書類を捌きながらヴルペスが珍しく口を挟むと、ソルヤムはいつもの通りに片眉だけを上げて先を促す。
「グルビナム殿下を悲しませるような悪だくみでは?」
意外そうにソルヤムが一瞬瞠目し、いつもの通りの人を食ったような笑みを浮かべる。その笑いを見て、案外ヴルペスの返答が的を外していないことを二人は悟った。
「仕方ないだろう。イェストラブで皇帝になるということは、常なら先の皇帝が死んだ時。ならば、身内が死んだ時だ。悲しまない方がおかしいのでは?」
ヴルペスとピパルクゥツは思わず顔を見合わせた。どうやら、予想は間違っていなかったようだ、と。そんな二人の様子に、初恋が友人にばれた少年のように恥ずかしげな表情を隠して怒鳴った。
「良いからお前らは早く行け!」
ソルヤムが苛立たしげに机の脚を蹴って、二人は慌てて外へ出たのだ。
スールゥ家の領地であったチュアリは隷州とされることが決まった。しかし、何があったか、領地に残った家臣たちは結束して反旗を翻したと言うのだ。主導者たるバルユと当主は既に捕えられているが、それでも一矢報いずにはいられなかったのか。
チュアリが帝都に近かったこともあり、例によってソルヤムは自ら軍を率い、当然のようにグルビナムを同行させた。しかし、チュアリの反乱軍を降伏させ、城内に入った後の所業はいつもとは異なった。
降伏し、ソルヤム達を出迎えたチュアリの兵達を問答無用で処刑し、次にチュアリの有力者達を処刑し始めたのだ。民や奴隷達には手を下さなかったが、昨日まで仕えていた主達が次の日には物言わぬ肉塊となっているのだ。
誰も何も口には出さないが、乾季の晴れ渡った清々しい空の下、チュアリには重苦しい空気が立ち込めていた。
さて、属州や隷州となれば知事が治めるが、各家が与えられた領地には中央から視察官が送られている。謀叛の兆しがないのか、必要以上の税を抜いていないのかを監視するのがその役目だ。
ソルヤムがチュアリに派遣されていた運のない視察官と面会と言う名の尋問をしている間、グルビナムはスールゥ家の邸宅を改めていた。廊下を歩いている時突然一人の兵士が目の前に現れて、道を塞ぎ、礼をとった。とっさにケシュケフュが前に出てグルビナムを庇う。
「殿下、許可なく御引き留めする御無礼をお許しください。私は、ティスタと申します。」
兵士は顔を下げたまま名乗った。
ケシュケフュが、無礼だろう、と退けさせようとするのを、手で制す。
「構わん、続けろ。」
許可を得られたティスタは謝辞を述べ、兵士は誓いの儀礼の為に、剣を抜く事の許可を求めた。ケシュケフュがこちらに視線を向けるが、グルビナムが頷くと、兵士に二歩下がって剣を抜くよう命じ、不得手とは言いながらも自身も剣を抜いてもしもに備えた。
イェストラブでは、忠誠を誓う相手には、剣を捧げ持って名乗る。ただし、その際には、右手と左手で剣の刃を持ち、柄を相手に向ける。刃は自分の喉に向けるのだ。忠誠を誓う相手がその場で殺そうと思えばすぐに殺せる、そうやって忠誠を誓う。通常、儀式ならばいくら刃を自分の喉に向ける、と言っても儀式用の剣を使うものだし、増して喉に近づけることはない。だが、この兵士は、自らの剣を抜き、その刃先をぴったりと突き付けていた。
「私は、誇り高きイェストラブの軍人として恥じぬよう、精進して参りました。」
その目には、死への恐怖ではなく、訴えを聞いてもらえぬかもしれないという懸念が宿っていた。
「私が軍に入ったのは、我が家の名を上げる為だけに非ず。武勲を挙げ、イェストラブの威信を高めるために他なりません。しかし、決して、…決して高潔なるイェストラブの民を、それも罪なき民を殺めるためではないのです!」
周りに居た兵士達が思わず目を見開き、あるいは俯いた。
「もはや陛下がなさっていることはただの虐殺です。」
空気が変わったのが分かった。
ああ、この兵士は勇敢だ。
誰もがなせずにいる不敬を働こうとしている。グルビナムですら、声を上げられなかった不敬を。
「殿下、どうか。」
強い眼差しがグルビナムを貫いた。
それがきっかけだった。兵達が一斉にグルビナムに跪いたのだ。
軍人達も人間である。市井の人間に比べれば麻痺しているかもしれないが、掃討の後に地に倒れ伏す女や、子どもや、老人を見て、自分の妻や子や両親を思わない訳ではないのだ。
彼らも、もう限界だった。
「殿下、どうか御英断を!」
「殿下。」
「殿下!」
ケシュケフュが目の前で起きた不敬に戸惑っているのが分かった。
こちらを射抜く兵士達の視線が、何故か、昔後宮で初めてソルヤムと出会った時の視線を思い出させた。
ティスタが捧げ持つ剣にためらいがちに手を伸ばし、しかし、しっかりと握る。
「ティスタ、私の道を妨げたのみならず、陛下に対する悪口まで口走ったとなれば見過ごすわけにはならない。本来ならば、晒しの上で処刑と家の断絶だが、今までのお前の騎士としての働きはイェストラブの誉と言っても過言ではない。よって、恩情によりお前の家には罰金を科すのみ、お前は騎士の位を剥奪、私が内々に処刑する。良いな。」
「勿体ないことでございます。」
ティスタを裏庭へ連れて行かせると密かに逃がした。
「いいか。私が帝都に戻ったら、私の邸を内密に訪れろ。それまで、決して素性を晒すな。」
グルビナムが、ついにソルヤムと袂を分かった日であった。
チュアリの城内であった騒ぎはソルヤムに漏れることなかった。
こっそりと帝都の内街の邸宅にティスタを匿い、賛同者を集めるように告げた。騎士であるティスタに間諜のような役回りをさせることは非常に心苦しかったのだが、ティスタ自身はあの場で切り殺されなかっただけでもありがたいのだと、厭う様子を見せなかった。
しかし、肝心のグルビナムはチュアリから戻って以来、沈んだままだった。あの場ではついあのようなことを言ってしまったが、果たして本当に良かったのだろうかと再び思い悩んでしまったのだ。
ソルヤムならば一度決めたことならば思い悩みもせずに突き進むだろうに、わずか数日の内に迷いが生じてしまう自分が情けない。
そんなことを考えながら内街の邸宅で酒を煽っていた時だ。
「父上、いかがされました?」
雨季も近い夜、風は涼しく心地よい。その風に乗って隣から静かな声がかかった。見れば、エゲリスソイフもまた外に顔を出していた。
久しぶりに会った息子は、いつの間に背が随分と伸びていた。
暗闇の中ほのかな明かりに照らされた顔は、若い時のソルヤムに似ている気がする。モツェレシュ夫人に二人揃って説教を受けた日のことを思い出した。
だが、ソルヤムは変わった。
「陛下は何をお考えなのだろうな、と。」
ソルヤムとは幼い頃から常に一緒だった。誰よりも長い年月を側にいた。しかし、年月を重ねるほどにどんどんソルヤムの事が分からなくなってしまう。それがより一層、グルビナムの決心を鈍らせてしまうのだ。
静かな闇の中に木の葉が擦れる音が優しく響く。
「私は、若輩者故、陛下の御考えも父上の御考えも推し量りかねます。ですが、陛下も父上も信を以て何かを行おうとしていることだけは分かります。であれば、いかような結果であっても、残った方が正義となりましょう。」
まるでヴルペスと同じことを言う。
そう思って苦笑をすれば、息子は何を勘違いしたのか、生意気を申し失礼しましたと謝ってきた。ですが、と続く息子の声は、まだ幼いながらも宵の空気の中、明るく凛と響く。顔を上げると、エゲリスソイフは背筋を伸ばしてこちらを真っ直ぐに見ていた。
「信を以ての行いであればこそ、どんなことであっても、私は父上のお力になります。」
グルビナムの胸に熱い何かが込み上げてきた。
戴帽帯剣が二年も先とは思えない息子。
しかし、その言葉が何よりも心強く思えた。
もしかしたら自分は、このように背中を押してくれる人間を望んでいたのかもしれない。
「そうか。」
微かに熱くなる目頭を意識するまいと、酒に口を付ける。
「頼りにしているぞ、エゲリスソイフ。」
エゲリスソイフは少し照れたように笑う。まだ幼さの残る顔に、グルビナムの口元にようやく笑みが宿った。
「ケシュケフュ、お前、ネイリシュとは親しいのか?」
ネイリシュはケシュケフュの同母兄である。
「はい。時折、行き来をすることも。」
「お前は親しくないが、ネイリシュが親しい兄弟はいるか?」
意図を謀り兼ねながらもケシュケフュは心当たりを探る。
「ああ、そう言えば、一番下のコズアールとはたまに剣を合わせているとか。」
ケシュケフュにこの話をするのか、グルビナムは悩んでいた。だが、チュアリの決断の後に、ケシュケフュが特にいつもと違う所へ足を運んだ様子もなかったことから、声をかけたのだ。
「ネイリシュに会いに行け。それで、ネイリシュにコズアールと話を付けるよう、執り成して来るんだ。」
三日後の夜、多くの将校たちが秘密裏にグルビナムの邸宅を訪れた。そこにはエゲリスソイフの姿もあった。ティスタに改めて意見を述べさせた。集まった人間は、皆、大声で賛同しないが、頷くことを躊躇うかのように伏し目がちに、グルビナムを見つめていた。グルビナムは眉間に皺を寄せてしばらく目を閉じていたが、ゆっくりと顔を上げ、周囲を見回す。
心は決まっている。
謀叛を起こす。その決意をすることがこれほどに重圧を与える物だとは思わなかった。
目の前に居る将校達の顔を、一人一人見回す。皆が、決意を持った目でグルビナムの言葉を待っていた。
彼らの家も全て巻き込むことになる。
それでも、グルビナムはソルヤムの前に立たなければならないのだ。
情けない声にならないように。一度つばを飲み込むと、ぐっと腹に力をいれた。
「陛下をお止めする。」
もし、ソルヤムに知られてしまったら、その時はソルヤムの目の前で剣を抜く覚悟であった。
皆、真摯な目でグルビナムを見返す。
「陛下の御名を血濡れにしてはならない。」
グルビナムが最初にしたこと。それは年若く可愛らしい娼婦を妾にすることだった。




