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四哀悲話  作者: 青田早苗
第四話、イェストラブの皇帝の話
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第六編

 西都カルミニゴラド。

 富と贅を余すことなく使った宮殿の廊下を、ゲルヅォグはゆっくりと歩いていた。穏やかな顔つきであちらこちらを眺めているものの、その心中は憂慮に苛まれている訳でもないが穏やかでもない。

 これまで破竹の勢いで周囲の国々を併呑していたイェストラブも近年になって、その速さが落ちている。あちらこちらで軍が動き回っているが、ほとんどは旧主国での反乱の鎮圧だ。それでもイェストラブと言う大きな屋根の元、安寧を享受する方が賢いと考える者が増えたためだろう、徐々に反乱も少なくなってきている。それに反比例して国内は豊かになってきていた。皇帝陛下もまた元々好戦的な人柄ではあるが、近年は他国に手を伸ばすことが減ったように思える。

 そうなると心配なのは皇太子殿下だ。

 ふむ、とイシュテンが大地に降り立つ姿が描かれた壁画を見た。イシュテンはイェストラブの守り神であり、軍神でもある。時に鬼神とも呼ばれる守り神は、堂々たる体躯で両の手に剣を持ち、足元では矮小な悪鬼たちを踏み潰している。顔は険しく遠くを見つめる目は鋭い。

 全く異なる顔つきにも関わらず、何故か思考していた人物と印象が被った。

 殿下は確かに皇帝に相応しいと思う。

 だが、殿下のような御方は戦時には偉大な皇帝として名を残すであろうが、平時には暴君として名を残すだろう。これからイェストラブは拡大策を少しずつ切り替える必要が出てくる。その時に、あの御方が凡庸でいることに甘んじられるか。

 ならばその時の皇帝に相応しいのはむしろ…。


「ゲルヅォグ殿、いかがした?」

 はっとすると不思議そうにグルビナムがこちらを見ていた。考え事をしている内に、目的の人物の部屋の前まで来ていたようだった。私用で目通りを願いたいと伝えると、そう聞いたグルビナムは僅かに眉をひそめた。不快な予想が出来たためである。中にいるソルヤムに伝えれば、先ほどまで今日は誰にも会わないなどと言っていたにも関わらず快諾して招き入れたのだ。

「泰獄に最後まで残っていた私の部下がおりましてね。賊の長を処刑する時に何か良い案は無いか、とその者に尋ねてみたのですよ。」

 やはり、とグルビナムはひっそりと息を吐いた。

「賊の長は娘の花嫁姿を見られなかったことを悔やんでいたようです。ですので、二人が決して望まない相手との婚姻をさせて花嫁姿を見せてやるのがよろしいでしょうと。」

 ソルヤムがまた暗い笑みを浮かべた。


「ルナルーチを出してこい。折角だ、父親にしか花嫁姿を見せないのも勿体ないだろう。」

 いつもよりもさらに豪奢な衣を身に纏ったソルヤムが神殿に向かう前に現れた。ここまでせずとも、と思うがもはや何も変わらないので黙る。

 腹立たしいことに、イェストラブでも最上級の装いを身に纏った女は非常に美しかった。ソルヤムは女の肩を抱くと耳元に口を近づける。

「良かったな。父親に花嫁姿を見せることができて。」

 性格たちが悪い。わざわざ女を怒らせるような事を言う。女が思わず振り上げた手を捕えると、迷惑そうな顔をしているグルビナムに気が付きつつもわざとこちらに託してきた。今度は、父親を怒らせようとするのだろう。ソルヤムは処刑場に降りて行く。女の力とは言え、暴れられるのは面倒だった。

 漂う白粉と香油の柔らかな匂いがやけに鼻につく。

「落ち着きなさい。お前の顔にそのような表情が浮かぶのを見たくて、ああいう事を言うのだから。」

 そう言えば、急に手から力が抜け、美しい首筋を晒して項垂れた。ソルヤムが何か言って、父親の方が慟哭するのが聞こえた。回廊に戻ってきたソルヤムは至極満足そうな顔をしている。

「グルビナム、花嫁衣装を見たいという報告を伝えてきた男に、褒賞をやれ。それから、良くやったと。」

 畏まりました、と応えるがどうしても目だけは反抗的になってしまった。微かな反抗を黙殺したソルヤムは芙蓉の肩を再び抱える。

「よく見ておけ、父親の死に目だ。」

 瞎にそんなことを言うのもまた嫌味たらしい。同時に処刑人の太刀が振り下ろされた。父親の首が落ちた音が耳に届いた瞬間、娘は気を失った。ソルヤムは、慌てることなく華奢な体を受け止める。まるで信頼しきった男に身を預けるかのようにも見えた。軽々と女を抱えてエメティストの間へと向かうソルヤムを見送る際に、歯を食いしばっていることにグルビナムは気が付かなかった。

 ソルヤムの言葉を伝えるべくゲルヅォグを呼び出す。ゲルヅォグは承りました、と鷹揚に頷いているが不意に

「殿下はあまり、よくやった、とは思っておられないようだ。」

と、グルビナムを見据えて言った。

「貴殿が良い趣向を教えるからだ。」

 憮然としてグルビナムは答えるだけだった。



 雲行きが良くない。

 そう思い空を眺めながらグルビナムは長い回廊を足早に進む。手に持つのは近年接収したソルドクレィという小国の北部で反乱が起きた、と言う知らせ。それ自体はよくある知らせだったのだが、ソルドクレィは比較的接収が上手く行っていた地域で、皇帝直轄の、事実上は皇太子直轄の属州であったが旧主国の人間から相応しい者を王にして属国にするか、という案が出ていた矢先だった。

 外は急に暗くなり、今にも雷雨になりそうだ。 

「殿下はどちらに?」

 慌てて飛び込んだ部屋にソルヤムがおらず、侍従が数人いるだけだった。

「フォントシュの使者がいらして庭園を案内しながら会談するとの事でしたが、その後まだお戻りではありません。」

 珍しい。

 だが、普段なら待っていられるが今は待っていられない。使者とともに庭園を案内することになっていた妃を聞きだすと、急ぎ目通りを願う旨をその部屋に言付けるが、ソルヤムはとっくに戻ったとの返事が渡されただけだった。

 その時だ。急に風が強まり、雷の音がし始めた。降り出すか、と思って窓の外を眺めた瞬間。グルビナムの眉間に滅多にない嫌悪の皺が現れた。

「まったく…。」

 庭に居る時に、雷が鳴り出したのだろう。東屋に向かうソルヤムが見えた。それはまだ良い。ソルヤムが腕に抱えている女が問題だった。

 また、あの女か。

 挙句、戻ってくる際には、ソルヤムが女に上着をかけてやっていて、なんだが仲睦まじい恋人のように寄り添っているではないか。今まではソルヤムが勝手に熱を上げているだけだと思っていたが、女のほうも少しソルヤムに応えるようになってきたらしい。あのルナルーチの身を案じていた割には、変わり身の早い女だ、とまたグルビナムの眉間に皺が寄った。ソルヤムもまた、グルビナムが立っているのを見て、眉間に皺を寄せていた。

 ソルヤムが何事かと尋ねてくるが、まさかこの女がいる前で告げる訳にはいかない。人払いをと女を見ながら言えば、なんとソルヤムは人払いはいらない、という。呆れて、小言の二つや三つ、言ってやりたいところだが、それを堪えて努めて静かな声で答えた。

「はい。ソルドクレィ州の北部で反乱が起きました。元々ソルドクレィの出の者を知事にしておりましたが、それに反発する者がいたようです。」

「隷州に格下げしろ。反乱が起きた地区は全員処刑だ、街も焼いて構わん。丁度いい。最近、あちらこちらで反乱の気運がある。こちらが手加減しないことを見せつけておけ、刃向かえばこうなると。最後に知事も処刑だ。」

 近頃、ソルヤムはこういう事をよくする。むしろ、他国を取った時の方がよほど温和な接収をするくらいだ。

 ソルドクレィの知事に任じているのは、ソルドクレィの王家の親族であった。王女が嫁いだ先で、娘を産んでいてその娘の婿が知事である。一度、会ったが、処刑するには勿体ない人物だとグルビナムは感じていた。イェストラブの方策に理解を示しており、それでいて州民にも信頼の厚い人間だった。その知事を処刑するとなれば、より一層イェストラブへの反発が強まるのではないか、そうグルビナムは意見する。

「ふん、身内の反逆すら御せぬ無能はいらん。いいか、次に反乱が起きたら、州全体を焼け。」

 そう言い捨てると、御意に、とグルビナムが頭を下げるより早く、苛立たしげにソルヤムは立ち去った。何をそんなにソルヤムが苛立っているのか、グルビナムには全く見当がつかないのだ。姿が見えなくなると、思わずため息を吐いた。

 それにしても…

 元々ソルヤムは短気な方ではあったが、以前はもう少し苛立ちを隠していたと思う。反乱に対する処置も、もっと寛大、適切だったと思う。少なくとも、地区ごと処刑するようなことは無かったはずだ。懐柔するような策をとっていた。

 だが、それでうまく接収出来なかったのだから、処刑するのだと言われてしまえば仕方がない。しかし、もう少しやりようがあるのではないかと、グルビナムは考えるも、これと言った妙案が浮かぶこともなく結局はソルヤムのような手法を取るしかないのかと沈痛な心持になった。

「やはり冷酷さが、帝位を継ぐには必要なのだろうな。」

 とても、自分には出来ない。それをソルヤムはやってみせる。やはり自分に帝位は相応しくなかったのだ。

 まさか、そんな心の内を、よりによってこの女がいる前で呟くとは。

「何故、ご自身を見くびるようなことを?貴方様が相応しくないとは決して思いませんのに。」

 はっとして、ソルヤムが連れてきた賊の娘を見る。ほっそりとした輪郭、切れ長な瞳は宙を見るだけだが凛としている。どこかあどけなさを残す唇。

 泣き叫んですがりついて来た母の顔が甦る。

「あの男にお前が劣ることなどないのです!何故、自ら皇太子位を諦めるようなことを、グルビナム!」

 口が過ぎると芙蓉を窘めれば、心底申し訳なさそうに謝罪をしてきた。その様を冷めた目でグルビナムは見ていた。


 ソルドクレィの反乱はドゥルグが一軍を託されて、すぐに鎮圧された。反乱の主導者は既に死んでおり、反乱を抑えられなかった知事は捕縛され西都に送られると言う。

 その報せをソルヤムに伝え、下がろうと扉に背を向けた時であった。

「俺のやり方が気に食わないか?グルビナム。」

 身をこわばらせたのは一瞬のこと。こっそりと息を深く吸うと、突然どうしたのかと不思議そうな顔を作ってゆっくりと振り返る。

 何故か母に後ろから名を呼ばれた時のことを急に思い出した。

 皇太子は文机に頬杖をついて隙なく視線を巡らせている。その目は鷹よりも鋭く思えた。

「いいえ、殿下の策はいつも私の考えを遥かに凌いでおります。」

 本心ではないが、事実だ。

 頬杖をついているせいか皮肉気に歪められて見える口元がさらに歪んだ。文机に乗せられた左手は積み重なった書類の角を弄んでおり、笑っているが至極つまらないと思っているのが明白だった。

「まあいい。俺のやり方が気に食わんのなら、それを超える策と力を見せろ。力も持たずに口先で大きなことを言う奴は、俺は好かん。大きな口すら叩けない奴なら、大人しく俺に従う事だ。」

「ええ。もっともございます。」

 それだけ短く返すと、グルビナムはもう一度一礼すると静かに部屋を去った。入れ違いにヴルペスが入ってくる。ヴルペスはグルビナムを見送り、困ったように片眉を上げた。

「あまり殿下を煽らない方がよろしいのでは?」

 呆れながら窘めるその口調に、ソルヤムは角が折られてしまった書類を眺めながら鼻で笑う

「大人しく従う奴は好きだが信用できん。口先で大きなことを言って刃向かってくる奴は好かんが、認めるに値する。そう思わないか?」

「やはり私は陛下に好かれていなかったようでございますね。」

 ソルヤムが軍に入った時、真っ先に食ってかかったヴルペス。その返答に、今度こそ愉快そうに唇を歪めると、立ち上がった。肩にかけていた上着が落ちかけると、ヴルペスはすっとそれに手を伸ばして、袖が床に着く前に止める。

「あいつは油断ならない。腹の中で思う事があれば大きな口を叩いてみればいいのだ。いつもいつもああやって腹の中に何か溜めこんでいる。そうやって表は大人しく従う奴ほど裏切るものだ。」

「グルビナム殿下ほど殿下のことを思っていらっしゃる方はおりませんよ。」

 ヴルペスの言葉に、ソルヤムは片眉を上げて応えただけだった。


 間違いなく、ソルヤムはあの女に惚れている。

 またエメティストの間を訪れて朝を迎えたソルヤムは、よく眠れたからか顔色と機嫌が良かった。後ろから眺めて、微かな苛立ちを覚える。

 全く、無帽の若造ではあるまいに。

 微かな苛立ちを外に出すことは無く、廊下を進むソルヤムに続く。行く先は議場で、そこでは、すでにソルドクレィやその他の国の扱いについての議論が始まっていた。ソルヤムが現れたことで、一旦騒々しさが落ち着き、皆が礼を取る。それを片手を上げて再開させると、グルビナムに署名が必要な書類を並べさせた。大方の書類は明日、処刑を行う人間の物だ。その中にはソルドクレィの知事や、ルナルーチの末裔も含まれていた。

 ルナルーチ、というよりは禁賊であることだし、わざわざ処刑する必要もないか、と思っていたのだが、中央に報告したところ、処刑して首級を持ってこいとの命令が帰って来た。

 気の毒な事だ、と正直、グルビナムは思った。

 あの男はルナルーチの王族であったことなどないのに、その血を引いているというだけで処刑される羽目になってしまったのだ。他の禁賊は下人扱いとは言え、それなりの生活は許されていると言うのに。あえて口には出さなかったが、ソルヤムに至っては、あの男を地下牢に入れたままだということを忘れているのではないかと思う。明りが一切入ることがない、あそこに何カ月も入れるなど発狂されてもおかしくない。

 

 次の日は至って普通の朝だった。

 食事を済ませ、昨日の内に上がってきた報告をまとめながら、朝食の準備をする侍従とともにソルヤムを待つ。

 いつもと違ったのは、ヴルペスがやってきたことだ。

「殿下、ソルヤム殿下に内密にご報告したいことがございます。」

 ヴルペスは、皇子を木剣で殴ると言う大層な所業を成したのだが、根は生真面目で堅物な人間であった。そのため、私的な用事があれば必ず正規の手続きを踏んだ上で訪れる。護衛としてソルヤムに付き添う事はあっても、こうやって公務が始まる前にひっそりとやってくるのは珍しい。朝の鍛練から戻ってきたソルヤムも、僅かに不思議そうな顔をしていた。

 珍しい人間が伝えてきたのは、珍しい人間の珍しい行動だった。

「昨晩、ドゥランベラーラ様が密かに一の宮を出ました。警備の者には僅かな時間だからと目をつぶらせたようですが、偶々私の部下が見かけたようでございます。」

 後宮がある一の宮を妃が出ることは基本的には許されていない。ただ、二人きりで男と会っていれば密会だが複数であればほとんどの場合目を瞑ってもらえる。

 だが、珍しいというのはそれを行ったのがドゥランベラーラだったことだ。彼女は、高貴な生まれであることを誇りに思い、高貴な女性に相応しい行動をする。つまりいくら目を瞑ってもらえるとしても、密会と思われるような浮わついたことを毛嫌いする側の人間であった。

「出た先では二三人の男女がいたようです。すぐに宮へと戻られたとのことです。ただ、ドゥランベラーラ様の下に仕えている下女が懇意にしていると言う下男が一の宮の辺りでうろついておりましたので、捕えておりますがいかが致しましょう?」

「分かった、とりあえず後で詳しく聞く。それまでは見張っておけ。下がって良い。」

 ソルヤムも首をかしげているようだった。ドゥランベラーラ様の気質からすれば、何か政に関わることの為に動いたのだろうとは思えるが。そんなことを考えながら、いつもどおりの報告を済ませたのだ。朝食後すぐに向かった先は、まだ日が差しこまない薄暗い処刑場だった。


 二十三人分の書面のうち、十一人目の書面が読み上げられるのを聞いている時であった。女官が慌てた様子でやってくる。顔が青ざめていて、大事があったのだけは察せられる。

「エメティストの方のお姿がございません。見張りの者は付いておりましたが、薬か何かで眠らされたようございます。部屋を訪れた女官が慌てて中を改めた所、寝台を使った様子はございましたが、お姿だけ。靴は残されておりました。今、兵士達が一の宮を探しております。」

 やはり、逃げたなあの女。

 これでようやくソルヤムの目も覚めるだろう、そう思いながら女官に告げられた内容を伝える。ソルヤムはしばらく考え込んでいたが、グルビナムにヴルペス呼ぶように言い付けた。

 何故、ヴルペスなのか、と訝しみながらも控えの間にいたヴルペスに声をかけて処刑場へと戻れば、二十人目の書面が読み上げられていた。

 女は逃げたのだとばかり思っていたため、ヴルペスに与えられた命令に驚いて、控えたままだった女官と顔を見合わせてしまった。

「ドゥランベラーラを捕えろ。北の小部屋から出すな。それから芙蓉をどこにやったのか聞き出せ。見えるところに傷さえつけなければ、多少手荒な事をしても構わん。」

 女官は、沙汰があるまで待つようにと告げられ、安堵を滲ませて、再び急ぎ足で戻って行った。

 あの女のこととなるとどれだけ腑抜けになるのか。

 もはや、憤りを通り越して呆れをグルビナムは覚えた。

 丁度その時、二十三人目の書面が読み上げ終わり、仕方なく、一旦、心の内を押さえた。最後の一人は銀髪の男だった。


 案の定、黙って処刑すればよいのに、ソルヤムはわざわざ地面に降りて、男を挑発しに行く。何か言う事はあるかと、ソルヤムが問えば、銀髪の男は勝負をしろと叫んだのだ。思わずグルビナムも失笑を漏らす。

 立って体を伸ばすことすらできないあの地下牢に長く入れられていた男はすっかりやつれていた。絶対に殺すなという命令をよく牢番が守れたものだと思う。銀髪は脂で薄汚れ、衣には黴が生えている。

「お前は俺に一度負けた。すでに勝負はついている。」

「それでもだ。貴様を前にして戦わずに死んだとなれば、皆に顔向けができない。」

 男を捕えていた兵士が黙れと持っていた警棒で殴るのを、ソルヤムは手を上げて止める。

「良いだろう。おい、剣を渡してやれ。それから、おまえの剣を貸せ。」

「兄上、冗談はおやめ下さい!」

 黙っていたが、こればかりは見過ごせない。他の兵士達は、グルビナムが止めたことに安堵を示している。だが、ソルヤムは冗談ではない、と言いながら、上着を脱ぎ始めた。他の兵士達も必死に止めるが、結局押し切られてしまったのだ。仕方ない、いざとなったら切り捨てられるようにしなければ、とグルビナムも地面に降りる。

 と、剣を持ち上げた時、銀髪の男の顔つきが変わった。まずいか、と思ったのは杞憂にすぎず、ソルヤムはあっさりと男の剣を弾き、見事な剣捌きを見せる。兵士からもその鮮やかさに感嘆の声が上がった。最後にソルヤムの剣は男の体を宙に縫いつけた。動かなくなった男を不躾に眺めるソルヤムの口元に苛立ちが浮かぶ。そして、男の胸をぐるりと剣で抉ったのだ。

 流れ出た血が男の衣を染め切った頃、ようやく、その剣を抜いた。

 だが。

 ソルヤムの目は何故か呆けたように遠くを見つめたまま。どうしたことかと思っていると、ソルヤムが口を開いた。

「何故、俺の目を見る、芙蓉。」

 何故、あの女の名を?

 と思いその視線の先に目を向けた途端だった。並んでいた兵士達の間から血飛沫が上がる。どうしたことかと見れば、血を浴びた女が飛び出して来た。女の白い夜着は赤く染まり、髪は振り乱されていた。

 ソルヤムを正面に見据えた所で、女は剣に付いた血を一度振り払う。赤い雫が零れる剣先を見つめ、ゆっくりとこちらへ視線を向けた途端、グルビナムは戦慄を覚えた。

 あの女、瞎でないばかりか、使い手か!

 慌てて隣を見れば、この事態でもソルヤムは女に見とれている。

 あの馬鹿!

「お下がりください!」

 剣を抜きソルヤムの前に飛び出した。殺せと言え!そう叫びたかったが、女の繰り出す剣は鋭く、口を開く余裕がない。悔しいことに、いくらグルビナムでも婚姻してソルヤムのものになった女を勝手に殺す訳にはいかない。それを分かっているのだろう。小賢しい女だと唾棄したい気分だった。剣を受けるしかなく、女に鳩尾を剣の柄で殴られ、蹴り倒された。

 咳き込みながら顔を上げればソルヤムが剣を受けていた。

「目が見えたのか。」

「見えぬとは一度も申しておりませぬ。」

 勝気な笑みを浮かべた女はまるで別人に見えた。それを見つめるソルヤムの目が一層熱を帯びているのが分かり苛立ちが募る。

 この後に及んで、まだ女に見とれるとは、冗談にもならない。

 女の剣は、無駄がなく素早い。ソルヤムが本気を出しているようには見えなかったが、何度か危うい場面もあり、息を飲む度に鳩尾が痛んだ。

 しかし、押し合いになれば男の力には敵わない。ソルヤムが剣を受けて薙ぎ払えば、女飛ばされ剣は手を離れた。茫然としていた兵士達も慌てて女に向かって剣を構える。それを見て投降するかと思われた女は、簪を抜いた。

 諦めが悪い女だ。

 先端が暗器になっていた簪を見ながら、ソルヤムは笑みを浮かべている。

 どうせ、あの程度なら相手にならない、むしろ捕えて寝台に連れ込もうなどと考えているのだろう。

 そう思った瞬間だった。

「お前にはもはや穏やかな眠りも、穏やかな夢も訪れまい。」

 女が、ソルヤムに向かって呪詛を吐く。ソルヤムの顔から笑みが消えたのをグルビナムは見ていた。ソルヤムはここしばらくあの女と共に寝た晩だけはよく眠れたようだった。そのことに居心地の良さを覚えていたのだろう。

 グルビナムですら思わず見とれるほどの艶然とした笑みを女は浮かべていた。そして笑みを浮かべたまま、苦痛に顔を歪めることもなく己の首から両手で簪を抜けば、首から赤い華を咲かせながら、体はゆっくりと崩れ落ちる。そして、その足元に横たわっていた男の胸へと飛び込んだ。

 縫いつけられたかのように、皆動けずに佇んでいた。

 悪女だな。

 鷹の翼を落とすためにわざわざその懐に飛び込んで。ソルヤムの心を己に惹き付けた上で、翼を落とそうとするとは。翼を落とせずともその傷跡は確実に残されただろう。

 それほど大きくない舌打ちが聞こえた。ソルヤム自身も女の策にかかったことを感じたらしく、苛立たしげに剣に付いた恋敵の血を振り払った。

 予想通り、次に紡がれた言葉は急に温度を失った声色に聞こえた。

「ルナルーチの首級は皇都へ送れ。体は灰にして川に流せ。粒の一つ、この地に残すな。女はいつも通りに埋めておけ。」

 グルビナムにそう命じると、ソルヤムは芙蓉に一瞥をくれてもう一度舌打ちをした。

「ああ、それから。」

 グルビナムは下げていた頭を上げて主を見る。ソルヤムは抑揚のない声で一言告げた。

「ドゥランベラーラは病死だ。」

 誇り高い妃には僅かな同情を覚えたが、それを見せることなくグルビナムは再び頭を下げた。一の宮へと向かう途中、ふと後ろを振り返れば、女の手から簪を拾うソルヤムの姿が見えて、また苛立ちを覚えたのだった。


 それからというもの、ソルヤムは滅多に後宮に足を向けなくなった。まさか賊の女を処刑したから等と言いふらされる訳にも行かず、ドゥランベラーラの病死に落ち込んだのだろうという噂を流したのはグルビナムである。

 夜、というにはまだ早い時間に侍従がソルヤムの所へ酒を運ぶ姿を見かけた。それも日に一度ならず二度、三度も。初めは気が付かない振りをしていたが、それが半月も続けばグルビナムも見過ごすわけにはいかなかった。

「おい、先ほども運んでいなかったか?殿下は御一人で?」

「はい、近頃どうやら寝付きが宜しくないようで、少々お酒の量が増えました。」

 あの女の所為か。

 女が死に際に吐いた呪詛を思い出す。

 三十路も近い男が色恋沙汰の一つや二つで情けない姿を晒すのか、と憤りすら覚えて、ソルヤムの居室の扉を睨んだ。



 ソルヤムは夜が嫌いだった。

 子どもの頃から眠るのが怖かった。

 刺客が送られてくることは日常茶飯事で、寝台に横になることはなく、いつも浅い眠りを繰り返していた。気配に敏感になってしまったため、何か物音がすればすぐに目を覚ましてしまう。

 軍に入ってからは少しはまともに眠れるようになった。

 浅い夢の中では、よく分からない夢を見る。何も覚えていないが、起きると嫌な汗をかいているのだ。

 いつからか稀に覚えているのは暗闇の中、こちらを見つめる二つの青い瞳。感情がなにも無いような、怨みを抱いているような不思議な感覚を与える瞳だった。蒼玉のような瞳がこちらを見て放った呪詛が、頭の中を駆けけ巡る。

 お前には、穏やかな眠りも夢も訪れまい、とはな。

「呪いは随分と強力だったようだな。」

 眺めるのは芙蓉の花があしらわれた銀の簪。磨かれることもなく黒ずんでしまっているそれは、まるで呪いがしみ込んでいるかのようだ。簪を見つめる時に、どんな顔をしているのかソルヤムも誰も知らない。だが、間違いなくソルヤムの瞳は穏やかな光を灯して簪を見つめていた。

 もし、誰かが見ていたらこう言っただろう。思慕の情を浮かべた瞳だったと。

 ソルヤムの眠りを妨げるような明るい月夜だった。

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