第五編
イーツァキは神峰の北側にあり、年中冷たい風が山から吹き下ろす地であった。イェストラブではほとんど雪が降ることはないが、イーツァキだけは神峰が近いこともあり雪が積もる。南北に長い領地で、イェストラブの東半分に向かう時には、ほとんどの人がイーツァキを通るため交通の要所であった。
「お久しゅうございます、殿下方。ようこそお越しくださいました。」
ソルヤムとグルビナムの一行を出迎えたのはゲルヅォグと、その孫。孫は十を少し超えた頃の少年が一人、少年より二三幼い少女が一人で、領地を継いでいる筈の息子夫婦は見当たらなかった。隣の領地に商談に行ったという。
「急いで呼び戻すのも不自然かと思いまして、敢えて報せませんでした。この老骨めが精一杯御世話致しますので。」
どちからというと、追い出したと言う方が正しいのかもしれない。中々隠居はできないな、とソルヤムがからかえば、
「息子に後を任せてからは暇を持て余しております。ので、こうして殿下の御世話を仰せつかって回春した心持でございますよ。」
と温和な、どこから見ても好々爺にしか見えない笑みを浮かべたのだった。
ゲルヅォグの領地は元々北の半分だけだった。南側は別の国があったのだが、今の皇帝が皇太子だった時分に落とした国で、その時戦功を上げたゲルヅォグに一部を割譲したのだ。そのためか、邸の内装も都とは少々趣が異なり、以前あった国の名残が垣間見えた。宮殿を始め、イェストラブのほとんどの地域で帷幕は上下に開け閉めする物だが、ここでは左右に寄せるようにして開ける。また、装飾の模様も少し趣が異なっていた。
「これは。」
食堂室に招かれた全員が感嘆の声を上げた。窓と窓の間の壁。その一つ一つに少々作風の変わったしかし見事な絵画が飾られていた。イェストラブで絵画はもっぱら人物画であるが、飾られていたのは風景画。神話の世界のように鮮やかな色で描かれた風景であった。
「このあたりは、雨ではなく雪が降る季節、冬がございまして、長い冬の間、寒いためにほとんど雨戸を閉じ、帷幕も閉め切っております。こうして鮮やかな絵を飾って、沈鬱な冬をやりすごすのですよ。」
なるほど、言われてみればその通りだった。
ところで、とゲルヅォグの声色がほんの少し低くなった。
「このあたりでは、昔から名の知れぬ巨匠が多くおりまして。素晴らしい作品がいくつも残されておるのですが、どこの国の誰なのか分からない物ばかりでございます。」
ソルヤムが真剣な眼差しでそちらを見た。
「絵画だけではなく、装飾品や陶器、他にも細工が施された高価な日用品なども。名工に違いないと思われる作品でも作り手の名前が一切知られていない物も。」
「で、それらが何処から来ていると?」
「あの山の向こうでございます。」
そう言ってゲルヅォグが差したのは万雪嶺神峰。
指差した先の山とゲルヅォグの意図に気が付いたソルヤムは、中々興味深い、と言って笑みを浮かべ、ゲルヅォグも笑みで返したのだった。どうにも胸騒ぎを起こす様な笑みだとグルビナムは思った。ああ、そうだ、といっそわざとらしく拍子抜けする声をゲルヅォグが上げた。侍女に何かを言付ける。
「珍しい品が手に入ったものですから、殿下に献上したいと思っていたのです。」
戻って来た侍女は箱を二つ抱えており、片方の箱を受け取ると包みを取り出した。中から姿を現したのは、厳重な包みとは対照的に簡素な筒だった。だが、その差異がこの筒の価値を示していると言っても良い。
「遠眼鏡でございます。かつてソヌが有った頃には、砦の長が持っていたと。ソヌが滅びた今では中々手に入らなくなった品ではありますが。是非、御手に取って遠くの山をご覧ください。」
筒を覗いたソルヤムの顔が変わるのが分かった。浮かべた笑みに獰猛な好奇心が混じっている、グルビナムはそう感じた。
「これは良い物を。で、ゲルヅォグ。これも神峰の向こうから来ると?」
「はい。私が最初に手に入れた遠眼鏡はこちらでした。」
侍女が持っていたもう一つの箱からは、別の遠眼鏡が出てきた。一見、大きな違いはない。ソルヤムは二つをじっと見比べる。
「殿下に献上いたしました品は、より遠くまでを見ることができます。加えて、覗いてご覧になればお分かりになるでしょうが、こちらは少々見えづらいのでございますよ。」
にこやかに話を続けるゲルヅォグをソルヤムは無言で見つめる。その視線に耐えかねたのか、諦めたのかゲルヅォグは微かに苦笑いを浮かべた。
「殿下には敵いませんね。ええ、私が先に手に入れた品はかつてソヌの貴族であった者から手に入れました。そして、殿下に献上した品は女神の国、それも泰獄のすぐ隣の領地からやって来た行商人から。その行商人が言うには、これを買った相手はもしかすると泰獄の外にいた禁賊だったのではないかと。いずれにしろこの遠眼鏡は、泰獄で、それもごく最近になって作られた品に相違ありません。」
「禁賊か。」
泰獄で小国を凌ぐ叡智を持って栄えているという賊の名、それをグルビナムは聞き逃さなかった。
王の賊とは、なんと厚かましい名前だろう。
次の年、ソルヤムは旧ソヌ領を見て回ると言い出す。だが、本当の目的が泰獄であることは明白であった。カルミニゴラドからソヌヘ向かう途中、イーツァキを通った。
先触もなく、それも数騎で現れたソルヤムを、ゲルヅォグは驚きもせずに迎え入れる。
「やはり、寒いな。雪が積もっているのは初めて見た。」
既に道の雪は融けて茶色の土が出ていたが、田畑は白一色であった。街では、道のあちらこちらに雪が寄せられて小さな山になっていた。
ヴラナと神峰の境を通って、ソヌに入り、帯河を渡ってイェストラブに戻ると告げれば、ゲルヅォグは反対の道筋を進めた。
「ソヌへ向かうのでしたら、ポルトンまで陸路を向かい、帯河を渡るのがよろしいでしょう。神峰の側は未だ雪深く、人を寄せ付けません。半月もすれば通ることが可能とは存じますが、ソヌを回って一月経ってからの方がよろしいかと。あの辺りはこちらよりも少々雪が多く、道も険しい。殿下方がいかに勇猛果敢であっても、人には為す術ないことが冬の雪山の常でございます故。」
ソルヤムは、ゲルヅォグの忠告に気を悪くすることもなく、馬首を西へと向けた。
ソヌへの旅は思いがけず安穏な旅路となった。あまりにも遠く来たためか、西都に居た時は時折悩まされていた刺客も訪れない。
岸の向こう側が見えない帯河を渡れば、急に人々の風俗が変わって異国に入ったのだと改めて知れる。かつて大陸の富を集めたと言われたソヌの名残はほとんどなかった。当時の街は開放的で、城郭も街を守ると言うよりは内と外の境目、という程度のものであったようだ。しかし、今はどの街も高い城郭に囲まれ、出入りができるのは数か所の城門のみ。一度外に出れば、かつては田畑だったのではないかと思われるような荒れた土地が続くだけだった。
何より、帯河を渡ってから、一行は衣を着替えたくらいだ。イェストラブに居た時には、多少の余裕はあるがごく普通の旅装といった服装だったのだが、とてもそのような服装では出歩けなかった。市で見つけた古着屋で汚れきった布にしか見えないような旅装を買い込んだのだ。あまりの臭いにグルビナムはしばらく口で息をした程の。
結局、旧ソヌ領にいる間、珍しい物も見つけられず、一行はヴラナに入った。
一度禁賊に負けたことがあるからか、ヴラナでは禁賊の噂がいくらでも手に入った。
「女でも川を越えるような矢を放つ、怪力ばかりが居る。」
「不老長寿の秘薬がある。」
などというものから、
「妖術を使って砥水を氾濫させる。」
「見たら目が潰される。」
などというものまで。だが、どの噂もソルヤムの興味を高まらせるしかない。
グルビナムの興味を引いたのは、ヴラナが泰獄に手を出したと言う経緯。
ヴラナの現王は愚鈍とは言わないが、斜陽の時分には少々凡庸な王であったと言わざるを得ない。鬱屈とした世相を打開するべく打った手が良くなかった。泰獄を落として叡智を奪えば、イェストラブに対抗できるとは。
この切り札に異を唱えたのはヴラナと泰獄の境の付近を治める辺境伯のみだったが、何故か結局王都の軍と辺境伯の軍で泰獄を攻めることになった。結果は大陸中に知られた通り、ヴラナは大きな犠牲を払うことになった。特に辺境伯の軍の犠牲はそのまま国境線の安定に影響する。
だが、この辺境伯は中々の強か者で、国境周辺の山賊達の中でも首領を中心に良く統率がとれていて穏やかな部類に入る者達と話を着けて、辺境の男手が足りない村や町に移住させたのだ。勿論、山賊達が襲っていたのとは違う場所ではあったが。元々荒くれ者で腕っ節の強い男ばかりだったため、自警団程度には十分だったのだと言う。
それを知ったのは件の辺境伯が治める地の一つの町に滞在した時のこと。
「ふん。ヴラナで一番栄えているのが辺境伯の膝元では、遅かれ早かれこの国は滅びるな。」
ソルヤムは安宿から町を眺めながら吐き捨てた。確かに、ヴラナに入ってもしばらくはソヌで手に入れた襤褸とも言える旅装を身に着けていたのだが、泰獄に近づくに連れてつまりは辺境伯領に近づくに連れて、元の旅装の方が相応しくなったのだ。
恐らく辺境伯領は遠くない未来に、ソヌと同じく堅牢な城壁で守られる様になるのだろうと予想ができた。
さて一行は、辺境伯領を出て真東に向かい泰獄を目指す。
イーツァキに居た時は、雪解けが始まっていたとは言え、空は曇天のままで時折雪がちらついていた。ゲルヅォグの屋敷で絵画を見せられた時は、たかが絵ごときでとは思ったが、数日間鬱々とした曇天と火がないと体が動かないような寒さの中での旅を終えた後では、あの絵画の価値が分かると言うものだ。
グルビナムは昔から多くの書物を読んでいて、その中に春の喜びを謳う物はいくつもあった。ただ漠然と春が喜ばしい物だとは知っていたのだが。
どうだろう。
温かな陽光が差し込み、枯れ草と雪にばかり覆われていた地から、緑と色鮮やかな花が沸き起つ様を見れば、春を喜ばずにはいられない。そこここに残った雪は春の日差しに輝き、落ちた水は川へと滴る。
普段は草木になど興味がなくとも、それはソルヤムも同じだったようだ。
「喜びの春とは聞いていたが、正にその通りだな。」
いくつかの川を越えると、一層深い森が待ち受ける。森の奥に分け入って開けたそこは切り立った崖で、下には激しく水しぶきを上げる砥水が流れていた。
「この川の先が泰獄、その向こうが女神の国だな?」
答えを求めない問いを呟いた後、隣に居たグルビナムにしか聞こえない大きさでまた呟く。
「例の賊の根城か。」
その声色に妙な羨望が込められていることにグルビナムとて気が付かないわけではない。懐からあの遠眼鏡を取り出すと対岸を覗く。昔からソルヤムは新しい物を手に入れるとすぐに持ち歩く。十五年以上が経っても変わらないところもあるのかと思うと、妙に懐かしく愉快な気分になった。ただ続く言葉は相変わらず険呑だった。
「崖に変わった木が生えているが、特に何もいないな。賊に出会えば、討ってやったものを。」
「兄上。この遠眼鏡もかつて泰獄でつくられたのですよ。禁賊を侮ってはなりません。」
呆れた視線をソルヤムに贈った。まるで姑の様だ、と馬鹿にしていたソルヤムが、ふと表情を変えると供に渡そうとしていた遠眼鏡を再び目に当てた。
「女がいる。」
そして、すぐに矢を番えるではないか。確かに矢が狙う先には赤い衣が風に揺れているのが見えた。もう一人、同じような衣を着た、頭に布を巻いた男が現れる。同時にソルヤムが矢を放った。どうやら当たった訳ではなく、二人はすぐに森の奥へと消えて行った。
「今の女、禁賊か?」
「女は分かり兼ねますが、男は間違いなく禁賊でございましょう。頭に布を巻いていたようです。」
グルビナムの呟きに供の一人が答える。
殿下。と声をかけられてもまだソルヤムは二人が消えた木の奥を睨んでいた。鷹につき従っていた者達は、次に出る言葉を知っていた。
「泰獄を獲る。」
「御意に。」
いつもとは少し様子が違う異母兄をグルビナムだけが少し心配そうに眺めていた。
ゆるりとした旅は狩りが決まった途端に一転する。一行は矢の如き速さで馬を駆り、鷹よりも速くイーツァキへと舞い戻った。往路とは随分異なった形相で戻った一行であったが、ゲルヅォグは変わりない笑みとともに出迎えた。
「ゲルヅォグ、泰獄を獲る。二月で都から戻ってくる、それまでに兵の用意をしろ。」
その言葉を待っていたのだろう。さして驚きもせずにゲルヅォグは言葉を続けた。
「おお、そうでございますか。では、殿下、私からはこれを。」
そう言って差し出された数枚の紙面を見て、ソルヤムは目を見開く。どうしたのか、と訝しむ気配を察したのか、その紙面をこちらに渡して来た。グルビナムもまた目を見開いた。それには、泰獄の三山の集落の位置、砦の位置や人員、兵糧の程度までが記されている。
「実は、私の配下の者を数人、昔から泰獄に入れておりました。」
いたずらが成功した子どもの様な顔でゲルヅォグは笑った。
「子どものうちに入れるのですよ。」
どうやって、という顔になっていたのだろう、そう付け加える。
「とはいえ、子どもですと自分達が間者だということを忘れてしまうこともございまして、現在泰獄に残っているのは二人だけ。ですが、十分に情報は得られました。」
もう一度紙面を手にとって、それを見ていたソルヤムが不機嫌そうに呟く。
「二万と少しだと?」
ありえない。小国よりも少ないではないか。
「ええ、ですがこう考えてはいかがでしょう。二万の剣術も弓術も優れた兵士がいる。その上、兵士達は皆二万の官吏に匹敵する知を持っている。二万の農民が一日のうち短い時間、田畑を耕すだけで、食うに困らない量の食料を作ることが出来ている。」
「薄気味悪いことだ。」
本当に、とゲルヅォグが頷けば人の悪い笑みを浮かべたソルヤムが、お前のことだぞと好々爺を見た。
「おや、なんと心外な。」
「よく言う。軍に居た時には死神と恐れられていたお前が、急に年を言い訳に領地に引っ込んだかと思っていたが、どうやら領地に引っ込んでいても小策を弄しているようだ。次に死をもたらすのが我々でなければよいのだが。」
謀叛を疑われたゲルヅォグはさすがに微かな焦りを見せ、それこそ心外だと笑って続けた。
「領地のことは息子に任せれば、滞りなくしてくれますし、孫も、また幼いとは言え中々優秀でしてね。私の様に耄碌した年よりは余計な事に口を出さず部屋の中で大人しくしているのが一番ですよ。」
なんとも胡散臭い。間者を使って情報を得た老人が言うのに相応しい言葉ではない。本人は部屋の中にいて大人しくしているにしてもだ。中々面白い冗談だったらしく、ソルヤムがはははっと声を上げて笑って見せる。珍しいことだと、グルビナムはわずかに驚きヴルペスを見れば、同じ考えだったらしくそちらでもわずかに目を見開いていた。
ひとしきり笑ったところで、ソルヤムはいつもの唇を歪めた笑みを浮かべた。
「ゲルヅォグ、西都に来い。領地は息子が滞りなくしていて孫も頼りになるなら隠居爺の一人や二人いなくなっても困ることはないだろう。」
「御意に。」
ゲルヅォグもまた笑みを深くして、傅いたのだった。
イーツァキから護衛の一人を早馬として帝都に送り、泰獄侵攻を皇帝へと伝え、許可を求めた。同時に、イーツァキから都に向かう道中の各地で兵を動かす伝令を放ちながら、策を練る。
砥水の北、雪が少なく川幅もそれほど広くない辺りで兵を渡して攻め込む、実際それしか有り得ないとグルビナムも他の将校達も思っていたのだったが。
「神峰を越える。」
ソルヤムが放った一言は、誰も想像していなかった。
「しかし殿下、あの山には道も無く、誰も通ったことがないのですよ?」
さすがのゲルヅォグもたじろいで止めた。
「ならば賊どもは、山の側を警戒していない。何の問題がある?」
「殿下に何かあれば、危険です。」
次に引き止めたのはグルビナムだった。兵を越えさせるだけならまだ良い。ソルヤムならば間違いなく自分も山を越えると言うだろうと想像が付いていた。ゲルヅォグが驚いてこちらを見る。ソルヤム自身が山を越えるなど、何を馬鹿な事をという顔だ。
「今更何を言う、どこにいてもどうせ危険だろうが。」
周囲の動揺など気にせずにソルヤムが答えれば、再び驚いてゲルヅォグは反対側に首を回す。やはり越えるつもりだったようだ。これほど慌てたゲルヅォグを見ることなど、今までもこれから先も二度とないだろう。
残念なことに、一度やると言い出したソルヤムの意見を翻させる事が出来る者などいない。
「それから、軍規に触れている兵士がいるだろう?そいつらをエルヘッジークの砦に集めておけ。」
各地に指令を出すべく、別の早馬が飛び出していく。
仕方がない、グルビナムも腹を括った。都へ向かう道すがら各地に伝令の兵を走らせる。これがイェストラブの鷹を支えている伝達だった。帝国が広がるにつれ、辺境の領地からの伝聞は自然と遅くなってしまう。元々は進軍中に情報を得るためにソルヤムが自身の軍で作り上げていた仕組みだったのだが、それを帝国全土に広げたのだ。
そのため、二人は都に戻るよりも先に、都から出てきた軍団と落ち合う事が出来た。
「砥水の側に大軍を敷きましょう。そうすれば賊どもの目は自然、そちらへと向く。いくら神峰を越えることを考えてはいなくとも、不慣れな雪山を越えている最中に気が付かれるのはよろしくないかと。」
丁度、帝都からも折り返した使者が戻って来た。
ソルヤム達が率いる二万の軍は、神峰の麓、ヴラナとの国境に近いエルヘッジークの砦を発ち、帯河や砥水の水源となる川が始まるよりも少し高いあたりを進む。
イェストラブ側を歩く時は雪の無い所を進んだが、すぐに雪を踏み分けて歩くことになった。馬も辛うじて歩くことは出来たが、先を進んで道を作るのは人だった。その役割は軍規に触れていて処罰を免れることのなかった兵士達。時折、足を踏み外して命を落とす者もいた。初めは脱走者も出ていたようだが、雪の中を歩くようになってからはそれすらもいなくなった。食料を渡されていないのだ。一日の終わりに、後ろを歩く監視役の兵士達から僅かに渡されるだけが彼らの命綱だった。
軍規に触れるような人間たちであったので、初めは反骨心剥き出しにしていたが、食ってかかればそこで殺される上、食料の無い状態では徐々に抵抗をすることもしなくなっていく。しかも、この遠征で役目を終えたら軍規に触れていたことは無かったことにする上、褒賞も得られると言う。ならば足を滑らせないように大人しく道を作るのが得策だ。
いよいよ、泰獄の北に迫った晩。今日の進軍が終わったと同時に彼らはソルヤムの天幕に呼びつけられた。
「今回の役目、ご苦労だった。」
厚手だがたった外套一枚を巻きつけ、夏とは言え雪山の夜を互いに身を寄せ合って明かしていた兵士達はその天幕の中に唖然とする。他の兵士達が天幕の中で寝ていることですら嫉妬していたと言うのに。
行軍中のため簡素な作りではあるが、蝋燭で明るく照らし出された天幕の中は温かく、白く薄い紗が垂らされた向こうには厚手の布を重ねて作られた寝台がうっすらと透けて見える。その上、ソルヤムは腰かけに座って銀杯で酒を飲んでいるではないか。隣には湯気の立つ器が置いてある。身分の差を考えれば仕方がないこととはいえ、元々ならず者に近い精神を持った兵士達の苛立ちを高めるのには十分だった。
「お前たちは軍規に触れていて処罰をされるところであったな。だが、今回の行軍の先導はそれを打ち消すほどの活躍である。」
皆が心の中に沸き上がっていた苛立ちを抑え、生き延びたことを喜びほっと肩の力を抜く。
「そうだ褒賞を与えるという約束だったな。」
しかし、続いてソルヤムの口から出てきたのはそんな彼らの安堵を逆撫でするものであった。
「だが、今回の先導がお前たちの罪を打ち消す程であったにしろ、少し足らん。だから、褒美としてこのソルヤムが直々お前たちの首を刎ねてやる。そこに跪け。」
そう言って、剣を取るべくソルヤムが背を見せた瞬間だった。
「ちくしょう!」
怒りを堪え切れなくなった兵士が一人剣を抜いて立ち上がる。それに続いて半数の兵士もまた剣を抜いて立ち上がった。通常なら有り得ないのだろうが、元々短気で浅慮な人間が集まったとも言える。怒りのあまり皇子に文字通り刃向かったのだ。その瞬間。
垂らされた紗の向こうから無数の矢が射かけられ、立ち上がった者達が皆倒れる。
ソルヤムは剣を抜くとゆっくり振り返った。立ち上がらなかった者達は、数日とは言え辛苦を共にした仲間の凶行と皇子の冷酷さに恐れを覚え、動けずにいた。その一人一人の顔をソルヤムは順に眺めて行く。そして、険呑な目つきを隠さない数人の喉を躊躇いなく剣で突き刺した。
「お前達は、よく堪えてくれた。軍規に触れる行いをしたとはいえ、行軍の先導、そしてそこに転がる愚か者達にはない自制。良い働きであった。よって、これまでの違反は打ち消しとし、一人金貨三枚を与える。」
その言葉に紗の後ろで控えていた部下の一人が、生き残っていた者達に金貨を三枚ずつ渡して行く。金貨を受け取る手が皆震えていたことにグルビナムは気がついたが、空腹の所為だと自分に言い聞かせた。
「それから、鷹の軍に加わることを許す。違反を取り消したとはいえ、至極当然のこと。これまでの己を改め、一層励むことだ。」
次の言葉はヴルペスが引き継いだ。
「この者達に止めを刺して、遺体を片づけたら天幕に入って宜しい。今晩は精の付く者を食べ、戦に備えよ。」
山を越えるまでの間、ソルヤムは徹底して食料を兵士達に与えなかった。勿論越えられずに死なれては困るため、最低限は渡していたが、雪山を越えるには足りず毎日少しずつ飢えてはずだ。だが、今晩は酒を出し、肉を出し、泰獄から見えないように隠して作られたかまどで火を起こして温かい汁物を配る。いつものように酒はソルヤムが天幕ごとに配って回った。
うまいことをする物だとグルビナムはその姿を眺めていた。今日、このように大判振る舞いをするには士気を高める上でも必要だろう。だが、ここに来るまでの食事はいくらなんでも少なすぎた。少し敏い者は運んできた食料が尽きてしまったのではないかと思っていただろう。
沈鬱な気持ちでグルビナムは酒を飲んだ。
先導を務めた兵士達はほとんどが山を越える道中で死んでいた。しかし、後ろに続く兵士達もまた幾人もが足を踏み外したり動けなくなったりして死んでいた。恐らくソルヤムはこう考えていたのだ。山を越えられないかもしれない兵士のために食料を使うのは無駄だと。実際、持ってきた食料はもう一度大盤振る舞いできるほどに残っている。
理屈は分かっているのだが、やはりグルビナムはこの見事な策を真正面から歓迎できなかった。
二度目の晩餐を皆が楽しんでいる最中。
「ピパルクゥツ、何人残った?」
「一万八千と少し。うち騎兵が五千でございます。」
「そうか、お前に騎兵二千と歩兵八千を与える。明朝、日の出とともに北山を目指せ。進軍を始めたら、砥水の向こうにもこちらにも分かるように派手に狼煙を上げろ。グルビナム、お前は俺と来い。」
ソルヤムは残りの兵を連れて幽山に向かう。
「外套を裏返せ。」
ソルヤムについてきた兵士は皆、裏地が白い外套を着ていた。馬首を翻すと、主と心を通わせた馬は軽快な足取りで走り出す。ソルヤムの子飼の部下達は後れを取ることなくそれに従った。
北山で狼煙が上がるのを聞きながら、一同は幽山を目指す。白い雪原を走る黒い集団は、泰獄の中からも見えただろう。では、そこから離れる白い集団はと言えば、禁賊は誰も気が付かなかった。
そして、その二日後。
泰獄の中枢とも言える幽山は落ち、二十日の後には泰獄はイェストラブの手中に収まったのであった。
「陛下は女神の国との通商を御望みだ。泰獄を落とした後、お前は対岸の州公に陛下の書状を渡せ。あとは任せる。」
昔、模擬戦のあとにソルヤムに傅いた一人が呼ばれた。武芸に秀でることはなかったが、交渉には堪能でいつもソルヤムが国を落とした後は、ソルヤムの望みと寸分違わない結果を持ってイェストラブに戻ってくる優秀な官吏になっていた。
出立の間際、帝都から泰獄侵攻の許可を伝える文書とともに届けられたのは、女神の国の国王へ向けて通商を求める親書。
あのような条件の通商、果たして飲むのだろうか?
そう思わずには言われない内容だった。だが、全ては飲まずとも、一部は飲むだろうと思われた。盤石な風よけとして神峰の北からの烈風を押しとどめていた泰獄がなくなったのだ。すでに、泰獄には二万近いイェストラブ兵が。砥水の先には七万の兵が待ち構えている。あちら側にしてみれば、細い臥水一本を挟んで九万の軍と対峙しているような物。
それに、今回の泰獄の落とし方が彼の国の耳に入れば、あちらもこう思うはずだ。今までは神峰があるために北側には軍を置かずに済んでいたが、イェストラブは山を越えてでも攻めてくるかもしれない。そのイェストラブとは、神峰を挟んだだけで国境を接しているのだ、と。
「ルナルーチの男は一旦、西都に連れて行く。陛下は恐らく首を欲するだろう。今はどうしている?」
「手枷と足枷をつけて、西都行きの部屋に。」
「良いだろう。いいか、絶対に殺すなよ。西都か帝都で首を刎ねるまで生かしておけ。」
至極当然の物言いだったが、グルビナムには違った意図に聞こえた。
幽山を改めている最中、小競り合いがあった。その時にソルヤムが剣を交えた相手が、件のルナルーチの末裔だった。あの時、偶然、馬が動いていなければ間違いなくソルヤムに矢が刺さっていただろう。しかも、矢を放った相手は剣も中々の腕で、珍しくソルヤムが押されていた。
恐らく、ソルヤムは男を気に入ったのだ。ルナルーチでさえなければ西都に戻ってから側近の一人に入っていたかもしれない。
「ところで、ヴラナはいかが致しますか?」
ここまで来てしまっている。ヴラナはすぐそこだ。軍の規模ならばすぐにでも落とせる。
「ああ、あれは良い。辺境伯にはイェストラブの大軍が通るが見て見ぬふりをすれば何もしないと言っている。それに現国王の従弟は才気ある男のようで、いざとなれば今回連れてきた大軍の一部を貸し出す約束は付いている。」
借りる馬鹿は居ないだろうが、と続けた。他に報告はないかとあたりを見回したソルヤムは、侍従を残して皆を下げた。
「グルビナム、女を連れて来い。」
ぴく、とグルビナムのこめかみが動く。一瞬、返答が遅れたせいかソルヤムが声を挟んだ。
「それとも今日はお前が抱くか?」
「御冗談はおやめください。」
何故か幽山に残っていた美しい瞎の女。聞けば賊の長の娘だと言う。
あの女は危険だ。恐ろしいほどに色香を纏っている。何を考えているのか分かった物ではない。
そんなグルビナムの心中を知ってか知らずか、西都に戻る際に、ソルヤムは女を連れて行くと言い出した。挙句、後宮の一室に入れると言う。
文句を言えば、目を離して、やっかいなことをされる方が困ると言い返された。いつかのソルヤムそっくりな子どもを連れて乗りこんできた女を思い出せば、グルビナムも口を噤むしかなかった。
西都に戻れば、ルナルーチを地下牢に入れろと言う。他の半地下の牢とは異なり、光は一切差し込まず、明りを見ることができるのは一日に一度の食事の時、牢番が食事を入れるために足を踏み入れる時だけなのだとか。牢は狭く、大人では体を伸ばして起つことも寝ることも出来ず、過去には発狂して壁に頭を打ちつけて死んだ人間が何人もいたらしい。
今日もまた、後宮へと足を向けるソルヤムとすれ違う。衣や飾りを持った侍女が続き、あの女の所へ向かうのだと知れた。苦言、ではなく危惧を伝えれば、
「趣向を凝らしただけだ。奴隷よりもみすぼらしくした男に、気飾らせた女を会わせる、面白そうだろう?」
唇の片側を上げてソルヤムが笑った。
「案ずるな。」
そう言われてしまうと、グルビナムは道を譲って行かせるしかない。
しかし…本当に、それだけだろうか。ただの「趣向」で女の元にあれほど通う必要があるのか。
真っ赤な空が広がる夕暮れ。美しいが同時に不吉でもある。
傾国。
その言葉が頭をよぎった。
いつか、ソルヤムの行く手を阻まねばならない時が、ソルヤムを止めねばならない時が来るのではないか。
ぼんやりとそんな憂慮を覚えた。果たして、己はそれを為せるのか。ゆっくりとソルヤムの後ろ姿へと視線を向ける。射し込む夕日で作られた長い真っ直ぐなソルヤムの影はすぐに別の影に飲み込まれる。
グルビナムの足元には、自分の影だけが真っ直ぐに前へと伸びていた。




