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四哀悲話  作者: 青田早苗
第四話、イェストラブの皇帝の話
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第四編

 カルミニゴラドに移って五年。グルビナムは二人、ソルヤムは三人の妻を持ち、グルビナムには長男のヘゥツをはじめとし、三人の子どもが出来ていたが、ソルヤムには中々子どもが出来なかった。

 西都に来てから、グルビナムを呆れさせたソルヤムの行動が二つある。

 一つは娼館通いだ。正しく言えば、城下に小さな邸を一つ立て、そこに娼婦を呼びつけている。気に入った娼婦が居れば、長く滞在させているらしい。しかし後宮の妻達の元にはソルヤムは一度通ったきり、昼にしか訪れていないと言う。その一方で城下の邸には足しげく通っていて、実は男女一人ずつの子どもがいた。特に男児はソルヤムも自分の子か疑ったようだが、あまりにもそっくりだったため考えを改めたそうだ。そうでなくても、関係を持った娼婦がある程度の年季になっていれば、口止めも含めた十分な金を渡し、軍の部下に嫁がせたとか。娼婦と言っても、ソルヤムが通う様な場所だから高級娼婦だ。部下なら一年分の給金をつぎ込んで一晩だから、お互いに良かったのかもしれない。二人の子どもはどちらも母親から引き離し、今は侍女を辞したベアルの元で育てているという。

 そして、もう一つ。

「グルビナム!」

 すっかり見慣れた服装だが、市井から戻ってきたソルヤムだった。ご丁寧に、顔も髪もわざと汚れさせていて、煌びやかな宮殿では異様な光景であった。

 頭痛を覚えると同時に、城門にソルヤム殿下を名乗る者が訪れている、本物なのかご確認くださいと言われた日のことを思い出す。衛兵は半信半疑だったようで、手荒な事をすることもなく、詰め所でソルヤムを座らせていた。ソルヤムもまた面白がっていたようで、「グルビナムを連れてこい、そうすれば本当かどうかわかる、偽物ならその時にたたき切ればいい」と言ったのだとか。慌てて駆けつけた詰め所で、衛兵たちと賭け札をしているソルヤムを見た時の衝撃は一生忘れないだろう。その後に見た衛兵達の真っ青な顔も。

 最近ではこの衛兵たちが素知らぬふりをしてソルヤムを匿うようになったから性質が悪い。

「土産だ!」

 何かが宙を舞ってこちらに向かってくる。

「これは一体何でございますか?」

 掴むのに躊躇いそうな小汚い布の袋には、これまたそれほど見てくれの良いとは思えない男物の装飾品。

「今日の勝ち分さ。」

「兄上…。」

 再びグルビナムは頭痛を覚えた。頭痛の原因、もう一つは、城下で民に紛れ込んでする賭博だった。こちらの方がより性質が悪い。

 一度、賭博をしていた横から聞こえた密談が武器の取引だと聞きつけ、急ぎだからとグルビナムの寝室に忍び込み叩き起こし軍を動かしたこともあっt。どう考えてもグルビナムが出張るような案件ではなかったのだが、ソルヤムが第一線に走り出して行くと言い出したため、誤魔化す為に渋々陣頭を切る羽目になった。その時の色々な苦労を思い出して遠い目をしているグルビナム。

 殿下、と声がかかりヴルペスがこちらもまた質素な服装をしてやって来た。手に抱えている荷物を見て顔を引き攣らせるグルビナム。

「ああ、そうだ。」

 ソルヤムがその姿を見て、口の端を歪めた。

「グルビナム。しばらく、こちらは任せた。少し西に行ってくる。」

 旅装束を纏ってソルヤムがそう言い放った。良く見れば、旅装束もいつもと違う。何と言うか、随分と軽装、いや質素な旅装だった。またふらりと視察に行くのだろう。

「西というのは、オバロシュでございますか?」

 隣の都市を言えば、驚いたようにソルヤムは目を見開く。そして急に声色が不機嫌そうになった。

「何を言っている。海まで行ってくるに決まっているだろう。陛下は港を欲しておられる。次に目指すのは間違いなく西側だ。」

「その軽装で西方の諸国を巡るおつもりですか?城下に赴くのとは話が違います!殿下の御身に何かあっては一大事でございます。」

「お前は馬鹿か?ぞろぞろ兵を連れて行っては何の意味もないだろう?」

 それでもまだ食い下がるグルビナムに、ソルヤムの機嫌は底を這う所まで悪くなる。ヴルペスや周りの官吏たちが居心地悪そうにこちらを見てくる。

「グルビナム、臣籍に下らなかったとはいえお前の主は誰だ?主のすることに口を挟むのか?」

「いえ、申し訳ございません。出過ぎた真似を致しました。」

 臣下であれば至極当然の謝罪と礼をグルビナムは取ったが、それすらも見る前にソルヤムはグルビナムに背を向けてヴルペスから旅装を受け取った。

「いいか、俺はこの目で西方諸国を見てくる。そして帰りがけにどのような策が良いか練りながら帰ってくる。その時には兵を動かせるように準備しておけ。陛下が勅令を出したらすぐに動けるようにするのだ。良いな。」


 ソルヤムの読み通り、皇帝は西方政策を唱え大陸の北西の覇権を目指す。皇子達の軍は大陸の西端を目指して次々と国を併呑し、それに抗するべく西端の国々は諸国連合を築いていた。

 第一皇子スィルティシャスが、諸国連合の一つ、ポフスターニの捕虜になったのはその折である。特筆すべき業績もなければ至極平凡といえる皇子であったため、元々皇太子には向かないのではないか、という声は上がっていた。だが、裏を返せば、皇太子であってはいけない、と言うほどの欠点もなかったが、今回の捕虜になった事件により、皇太子位は絶望的になった。

 その時ソルヤムはポフスターニの隣国テンゲルポルティを攻めるべく軍を動かしていた。珍しく手こずっている、そう思われていたソルヤムの軍であったが、スルティシャスについての報せを受け取ると突如テンゲルポルティを猛攻し、いとも簡単に落とす。そして、捕虜になった兄を気遣う素振りもなく今度はポフスターニを猛攻し、後は、水面に波紋が広がるように次々と他の国々を侵略して行ったのだった。

「デネビエール、この度は、よくやった。」

 訪れたのは、ポフスターニの大貴族の一人であった。この男の息子はポフスターニでも一軍を任せられており、今回スルティシャスを捕虜にした功績者でもある。

「約束の通りポフスターニは、属州ではなく属国にする。海沿いの統治は任せよう。」

「有難く存じます。私どももソルヤム殿下のお力添えが出来るよう努める所存でございます。」

 グルビナムは二人のやり取りを聞きながらもどこか憂鬱な心持であった。スルティシャスは捕虜になっている間、「相応しからぬ扱い」を受けて足が不自由になっていた。恐らく余程の危機でなければ、今後戦場に出ることは叶わないだろう。

 彼らの謀略が間違っているとは思えない。だが、親しくないとはいえ兄を犠牲にした成果は、グルビナムにとって素直に受け入れられる物ではなかったのも事実である。

 諸国連合を打ち破ったイェストラブは、後に斑状統治と呼ばれる統治を行った。すなわち諸国連合を一様に扱うのではなく、属国として残す国、属州に下げイェストラブの統治の下である程度の自治を認める国、そして隷州としてイェストラブの完全な統治を受ける国に分けたのだ。なかでもポフスターニは諸国連合の中のスラヴィをポフスターニの隷州として与えられ、むしろ元の領土に比べ領土が広がった。

 さて、今回の西方の統治についてはグルビナムが考えたものである。だが、ポフスターニに隷州を与えたのはソルヤムの一声によるものだった。これにより、連合諸国の怒りの矛先はイェストラブからポフスターニへ向く。しかし、スラヴィは元々、ポフスターニと領有権を争っていたテルミケイン地方という資源の豊かな地方を含んでおり、ポフスターニは他国の怨恨を差し引いてもスラヴィを手に入れる意義があった。港を欲しても、持て余してしまっては意味がない。そこで「当面」はポフスターニに西側の整備、特に南側を任せることにしたのだ。

 一方北側の海沿いにあるテンゲルポルティは軍港を整備することとなり、第七皇子のゲイビィテュが指揮を執る事になった。ゲイビィテュは位の低い妃が産んだ男児で、母親も本人も臣籍に下ることを望んでいた。ゲイビィテュに対する一般出来な評価は「自分で何かを考えつく頭の良さはないが、人が出した中から最善を選ぶことはできる」というなんとも微妙な評価である。ただし、調べさせたところ、あまり目立たないように自分の功績ではないと見せているそうで、頭の切れる人物であることは間違いなさそうだった。ソルヤムはこちらも「当面」ゲイビィテュに任せればいいと思ったようで、特に何かを言う事はない。

 実兄の文字通りの失脚と引き換えに得られた今回西方政策の功績を讃えられ、ソルヤムは帝都に招かれた。ソルヤムとともに帝都を訪れていたグルビナムにも、何故か皇帝陛下からお召しがかかる。何事かと思えば、何と兄に嫁ぐはずだった貴族の娘を娶れというのだ。隣で澄ました顔をしているソルヤムを小突きたくなった。まずソルヤムに話が回っている筈なのにも関わらず、グルビナムに声がかかったと言う事は、ソルヤムが要らないと突っぱねたのだろう。

 勿論、皇帝に対してそんなことを出来るのは、最早この国でソルヤムしか居ない。そしてソルヤムの首が刎ねられていないということは、皇帝もソルヤムをそれなりに扱う意志があるということだ。

 スルティシャスの捕虜の件もあり、宮中ではもっぱらソルヤムが皇太子になるだろうとの噂だ。一番の敵対勢力になるはずだったグルビナムが皇太子位を辞したこともありその権威はほぼ確実である。その上で、ソルヤムがイェストラブ随一の貴族の娘を娶れば、皇太子位は絶対的なものとなる。しかし、本人がそれを拒んでしまったため、ソルヤムの勢力であるが、身分としては遜色ないグルビナムが選ばれたのだった。


 さらに二年の間、ソルヤムは次々と武勲を立て、再び帝都に呼び戻される。武勲を讃えるという名目であるが、それが皇太子選出の為だと皆が知っていた。

 あくまで、ソルヤムが武勲の報告の為に謁見する、という名目で、グルビナムもそれに付いて行く皇族と、上位の貴族までしか入室が許されない謁見の間で二人は皇帝が現れるのを待っていた。退屈したらしいソルヤムは気にもせず小声ながら話しかけてくる。

「なあ、グルビナム。俺の気のせいだろうか?中段に立つ弟妹の数が多いのだが。」

「当然でしょう。この数年で、何人も弟妹たちが成人したのですから。」

 内容は聞こえていなくとも、話しているのは聞こえたのだろう皆がちらと視線をこちらに向けた。とはいえ、まだ皇帝も皇后もいないので誰も二人を咎めない、いや咎められない。今、ここで最も力を持つのが誰か。嫌でも分かってしまう。

 謁見の間には三種類があり、二人が居るのは一番狭い謁見の間である。ただし、狭いといっても入る人数を考えれば一番広々と使える謁見の間ではあった。どの謁見の間でも最上段に皇帝と皇后、そして立太子がなされていれば皇太子が座る。最上段に繋がる扉は最奥の扉のみ。扉の両脇には皇帝の妃達が並ぶが、こちらの扉は別だった。

 中段には皇族、つまりは皇子、皇女などが控えていた。そこには勿論、兄であるスルティシャスもおり、杖にすがるようにして立っていた。ソルヤムを見る目には憎悪に満ちていたが、怨みを向けられる本人はまったく気にもしていない。

「そうではなく、俺が知っている数よりも多いと言っているのだ。」

「何を今更。私は十年も前に数えるのを止めましたよ。大公殿下から伝え聞くには、私が数えるのを止めてからも何人か増えていたようですが。」

「陛下もお若いな。」

 お前が言うな、と顎髭を引っ張ってやりたい所だったが、丁度奥の扉が開かれる口上が告げられたため、それは叶わなかった。

 ソルヤムが武勲を報告し、形式的な労いの言葉がかけられた後だった。

「さて、この度の武勲だけではなく、これまでのソルヤムの活躍はイェストラブの男子として誉れ高きものであった。イェストラブの守り神はその加護に報いる働きを示した者を貴ぶ。よって、ソルヤムを皇太子とする。」

 歴代の皇帝は皆四十前後で帝位に就いていて、この時ソルヤムは二十五。十五年後、生きてさえいればソルヤムが皇帝になる。生き延びるのもまた素質だ。

「ところで、後衛には誰を望む?」

 後衛はイェストラブがその性質故に作り上げた地位である。イェストラブがまだ一国の街だった頃。戦により後継も死に、知事の後を巡って混乱が起きた。何度も同じようなことが起こり、その度に多大な犠牲が払われたため作られた地位である。皇太子を立てるが、皇帝にも皇太子にも万が一の際の後継を決めるのだ。もちろん、皇太子に男児が居ればその子供がいるから問題ないのだが、ソルヤムのように男児が居ない場合暫定的に次の皇太子を決める。だが、裏を返せば、皇太子さえいなくなれば後衛が次の皇太子になるため、慎重に選ばなければならない。まさに後衛。信頼できる人間でなければ敵に背中を曝け出す様なもの。そして、後衛を決めるのは皇太子とされていた。

「我が弟グルビナムを任じたいと存じます。」

 場がざわついた。グルビナムですら驚いて顔を上げそうになったくらいだ。今、皇弟である大公が西都にいるため、当然大公が後衛を務めるだろうと皆が思っていたのだ。大公が皇太子を育てるべく熱心であることは皆が知っていることであるし、大公は帝位を簒奪するつもりはないが、万が一帝位についた場合には国を任せられるだろうと皆が同意する人物であったからだ。

「グルビナムは陛下と高貴なる家の血を引く者。また、私めにとっても信の置ける者でございます。皇太子位を自ら辞しているため私に後継ぎが産まれるまでの間、後衛を任せるには申し分ございません。もちろん、大公殿下にはグルビナムにとっても私にとっても良き師として、西都に留まられたい。」

 あくまで子どもが産まれるまでの間であり、大公と言う監視がいる西都だと伝えれば、ざわめきが少し収まる。

「グルビナムを後衛に任ずること、お許し頂けるでしょうか?」

 ソルヤムの笑みが深くなり、微かに見える哀しみも深くなった。


「兄上、どういうことでございますか!」

 久しぶりに足を踏み入れた宮殿にあるソルヤムの私室で、滅多に聞かれないグルビナムの激昂する声が響く。

「どういう事も何も、奏上した通りだ。お前が一番後衛に相応しいだろう。」

「大公殿下がおられます。皇太子位を辞退した私が後衛になるのは、あまりにも不相応です。」

「陛下も大公殿下も既に四十の半ばも過ぎた。御身に何かがあって、また後衛を考えるよりは、最初からお前にする方が楽だろう。」

 ですが、とまだ噛みつこうとするグルビナムだったが、いつもの通りソルヤムの機嫌が悪くなるのを感じ、これ以上は何を言っても無駄だろうと諦めた。



 西都に戻ってしばらく平穏な日々を送っていた時のこと。

 とある女性が参内しているのですが、官吏の一人がそう言って声をかけてきた。彼はあたりを見回し御耳を拝借、と小声になる。

「ソルヤム殿下のご落胤だという男の子どもを連れて来ているのです。」

 グルビナムは眩暈を覚えた。ソルヤムに息子はいない。真実は異なっていても、それが事実だ。戯言を聞くな、そんな輩追い返せと言うが、官吏は困った表情を変えない。部屋に通されたグルビナムはその理由をすぐに理解した。

 そっくりなのだ。見慣れぬ宮殿と人々に戸惑っているのか、不安げな表情が異なる印象を与えるが、髪の色も顔の作りも幼い頃のソルヤムと全く同じだった。これでは、官吏たちが追い返せずにグルビナムに縋る訳だ。

 ともあれ、自分に声をかけてきたのは賢明な判断だった。ソルヤムの耳に入ったら、その場で切り殺しかねない。確か、子を産んだ他の女もそれ以外の女も手切れ金を渡して下級騎士の家に嫁がせたと聞いている。となれば、この女の思いつきで哀れな兵を一人処刑する羽目になるだろう。官吏たちにソルヤムには絶対告げるな、と耳打ちして来客の前に座った。

「ご婦人、ソルヤム殿下はご多忙故、私が用件を聞こう。」

 女が言う事は、非常に分かりやすかった。ここに連れて来ているのはソルヤムの子である。ソルヤムは皇太子だが、子に男児がいない。これでは、イェストラブの血脈が危ぶまれる。つまりは、自分が産んだ子を後継ぎにさせろということだった。大方、騎士の家に嫁いだところ暮らしぶりが良くなって、ならば宮殿ならもっと良い暮らしができると浮かれたのだろう。夫になった騎士は何と言っているのか、と訝しみながらも尋ねる。

「どんなに顔形が似ていなくても、間違いなく我が子であると。血のつながらない子にも愛情深い夫です。」

 グルビナムは頭痛を覚えたのを堪えて笑みを作った。全く、もう少し分別のある女にすればよいのに、何故こんなに頭のいかれた女に手を出したのか。夫は至極真っ当なだけに、余計哀れになってきた。穏便に済ませてソルヤムが騒ぎを聞きつける前に、早く帰ってもらわねば。

「ご婦人。世継の男児は、いない、と、皇太子殿下が、おっしゃっているのですよ。」

「ええ、ですから、殿下はご存知ないのでしょうと思いまして、こうして参内いたしましたの。」

 呆気からんと笑顔で言い放つ女に、部屋に立つ官吏たちが皆、言葉を失い項垂れたのが目に入った。と、慌てた様子の官吏が一人やって来てグルビナムは顔色を悪くする。

「ご婦人、少々席を外すが、すぐに戻る。しばし待たれよ。」

 扉を閉めた瞬間、グルビナム!と声がかかった。良かった、扉の中を見られずに済んだと胸を撫で下ろすと、いかが致しました、と平常な顔をして振り返る。

「ハートルダロンを落とすぞ。イーツァキに向かう。準備をしろ。」

 意気揚々と指示を口にするソルヤムの様子に、まだ耳に入っていないな、と安心して、口を開きかけた時だった。後ろの扉が突然開かれ、背中を預けていたグルビナムはたたらを踏んだ。

「ああ、やはり今の御声は殿下でございましたのね!お会いしとうございました。」

 ソルヤムは何事かと女の顔をまじまじと見て、その後ろに隠れる子を見た。急に空気が冷たくなった。もう、無理だ。グルビナムはこの女の夫になった兵士の事を憐れみながら告げる。

「こちらのご婦人が、殿下の御子息だと言う御子を連れて参ったので、今から北のお部屋に案内するところでございました。」

 北の部屋と言えば、身分がある者の牢である。その意図を理解したソルヤムは、そうか、と女に笑みを見せた。後ろにいた従者から紙と筆を受け取ると、何かを書きつけ官吏の一人に案内を頼みながら渡す。浮かれた足取りで去っていく女の姿が見えなくなった瞬間、皆がひっそりと息を吐いた。

「言うな。グルビナム。言いたいことは分かっている。」

「何も申しておりません。まだ。」

 その場に立ちすくむ従者や官吏も身じろぎ一つ出来ずにいた。次に出る主の言葉を待つくらいの忠義はあるようだ。

「どうやら、子の見目が俺に似ていてこのような戯言を思いついたのであろう。皆が知っているように俺に男児はいない。今後、ソルヤムの息子を騙る者がいれば、それは皇族を騙る者だ。その場で切り殺せ。」

 ソルヤムがそう言い放つと、皆呪縛が解けたかのように動き出した。

「殿下、あの女の夫。せめて処刑の理由だけでも告げてよろしいでしょうか?夫は自分の子に間違いないと常々申していたようで。」

 ソルヤムもそれには肯き、告げられた夫は自分が至らないばかりにと床に額を打ちつけながら泣いて謝り、自害を申し出てそれを認められたのだった。

 唯一今回の件で良かったことと言えば、さすがのソルヤムも懲りたようで宮殿の外に女を囲うのを辞めたこと。しかし、数年後にそれが仇となり、賊の娘を後宮に入れる羽目になるとはまだ知る由のないことである。



 南には、神峰から続く山脈が横たわっている。山脈沿いは雪が降る地域で、その付近は北の大陸とは異なる文化があった。その中で、唯一イェストラブの版図に描かれる場所が、神峰の真北に位置するイーツァキ領である。その隣にあるハートルダロンを攻める際に、装備や食料の供出を命じたため、ハートルダロンの王宮にイーツァキ領主ゲルツォグもまた滞在していた。宮殿で何人もの老獪な人間を相手にしてきたグルビナムであったが、ゲルツォグに会った時はさらに警戒が強まった。

 老獪なだけではない、嫌なにおいがする類の人間だ。そんな気がした。


 発端はソルヤムの機嫌が悪かったこと、それだけだった。

 小石を投げ入れた池の波紋が大きなうねりの波となるように、あるいは目の前の羽虫を追い払うために吹き付けた吐息が全てを巻きあげる大きな嵐となったように。

 ソルヤムの場合、寝起きが悪かったとかの程度の機嫌の悪さが一昼夜で傍若無人な暴君になった。グルビナムですら、恐れ慄く程に。ゲルツォグはそれを察したのか、それともそれすらも掌の内だったのか、見事これを納めてみせたのだ。

「殿下、このような片田舎の国では娯楽も少なく退屈でしょう。何をするにも少々趣向を凝らしてはいかがでしょうか?」

「ほう?俺の退屈を紛らわせることができなければ、どうなるか分かっていて言うのだろうな?」

 ゲルツォグの趣向は大層趣味の良いものだった。ハートルダロンの王族を処罰するときに、わざわざ不必要な拷問をしたのだ。通常、王族相手ならば余程がない限り、もっとも苦しむ時間が少ない手段で処刑をして首を落とす。だが。

「ここは都からも遠いので、首級が届けられるのにも時間がかかります。」

 そう言ってゲルツォグは笑った。首から上だけは傷をつけないようにし、最大限の苦痛を与えた。グルビナムは、一日目だけソルヤムに連れられて部屋を訪れた。だが血と涙と脂汗で汚れたその姿を見ていられなくなり、次の日からは足を向けなくなった。

 結論からいえば、一瞬であろうと、足だけは毎日運ぶべきだったのだ。

 少なくともソルヤムの理性の箍が外れてしまう前に、グルビナムが居れば止めることができた筈だった。一日目で体を痛めつけていたのが馬用の鞭だったとしたら、五日目には鋲の打たれた棍棒だったのだから。

 ソルヤムの顔が、狂った何かに魅入られて行くことにグルビナムは気が付いていて、知らぬふりをした。

 何も端から鋲のついた棍棒で打つ人間などいないのだ。鞭が棒に、棒が棍棒に、と徐々に徐々に苦痛を大きくしていけば、打つ側は何の躊躇もなく鋲のついた棍棒を人間に振り下ろせるようになる。同じことが、ソルヤムに与えられることが決まっていた王女にも行われた。初日は寝台の上で、そして、イェストラブの衆目の中で、次にはハートルダロンの捕虜の前で、最後には王族である兄弟が拷問を受ける横でソルヤムに抱かれたのだ。

 グルビナムは暗い愉悦に浸っていく兄を見ながらも、実際にはそこまでのことをしている等とは知らなかった。ソルヤムか、ゲルツォグか、あるいは二人がそれを隠していたことも確かである。だが、入口の番をしていた兵が涙ながらに告解してきて、知った。

 知ってしまったのだ。

「あの男にお前が劣ることなどないのです!何故、自ら皇太子位を諦めるようなことを、グルビナム!」

 ソルヤムに頭を垂れた次の日、母親の元を訪れた際に罵られた言葉を思い出す。

 青褪めたグルビナムの顔を見て、兵はひたすらに申し訳ございませんと謝り続ける。グルビナムに告げるべきではなかったと、親愛な兄の凶行を知らせるべきではなかったと、この優しい御方に重荷を背負わせるべきではなかったと。

 そして、兵はついに自害した。だが、その兵が自害した後も、番をした兵が自害するという現象が続いたのだった。自害する兵の数が増えるに連れて、グルビナムの顔色は青褪め、逆にソルヤムの目は爛々と輝く。

 それが終わりを告げたのは、処刑する王族の首が全て落ちた日のことだった。

 あの狂った喜びの表情は、今のところ、形を顰めているが、やはりここに来る前のソルヤムとは何かが違ってしまっていた。

 ソルヤムの妻となる王女を残して、ようやく全ての首が落ちたと聞いた時、グルビナムは安堵を覚え、同時に苦悩した。

「殿下はお変わりになられたな。無茶をするのは昔も変わりなかったが、御心は穏やかな方だった。」

 呟きを拾ったのは、いつか模擬戦の時にソルヤムに傅いた一人の侍従で、グルビナムがソルヤムに頭を垂れた時にその部屋に居た人間でもある。

 グルビナム殿下が跪いたからです、とはとても口に出来なかった。自分の行いが兄を変えてしまったと知れば、この優しい人は自分を責めるだろうと容易に想像がついたためだ。

 ハートルダロン、最後の晩の夢はやはり母親が泣き縋ってきたあの日の顔だった。

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