第三編
成人する前から出入りしていたが、グルビナムは古文書の研究所に、ソルヤムは軍に改めて入った。貴族達に呼ばれて出歩くことも増え、互いに世界が広くなっていく。以前よりは忙しくはなったが、それでも二人はよく互いの部屋を訪れ飲みかわしていた。
グルビナムがソルヤムの部屋を訪れた晩のこと。
「どうした?その顔は?」
ソルヤムの右のこめかみに青あざがあった。右往左往するグルビナムをよそに、ソルヤムは、ああこれか?と、暢気な顔で鏡を覗きこんだ。そこに映る青あざ付きの顔を眺めると、急に笑い出した。
「グルビナム!軍は面白い奴らばかりだそ。会った途端、気に食わないと言ってこれだ。ひよっこの軍人が皇子だからというだけで上官になるのが気に食わないんだと!」
「な。それで殴って来たのか?」
「違う違う。気に食わないのなら、勝負しろと言ったんだ。さすがに真剣は止められて木剣にしたが。」
「あたりまえだ!」
「そしたら、俺の木剣が飛ばされたんだ。その時には相手がもう振り上げててな。」
「で、木剣が当たったと?」
信じられないことだった。剣術の稽古は何度もしていて、怪我をしたことだって一度や二度ではない。だが、いくら剣を振り上げていたとしても下ろすだろうか。皇子にむかって?
「そいつ、なんて言ったと思う?申し訳ありません、剣に不慣れで手加減する方法が分かりませんでした。だと!面白いだろう!!」
呆れたグルビナムには、良い男になったな、としか言えなかった。
徐々にソルヤムは遠征の為にしばしば宮殿を空けることも出てきた。
遠征に向かう道中、馬に乗っているだけのことに退屈したソルヤムが、何か耳寄りな噂はないかと嗾ける。そう言えば、と部下の一人が口を開いた。
「殿下は、禁賊のことを耳にしたことは?」
「ああ、南方の高山の向こう側に巣食うと言う賊か?」
「どうやら、ヴラナが禁賊に敗れたようでございますよ。」
ソルヤムは興味を持ったようで、兵力はいくらだったのか、と尋ねる。
「ヴラナの兵が八千、少なくとも三千は死に、千は川に流されたと。禁賊は不明です。」
「なんとも情けないことだ。色々な噂はあるとはいえ、たかが賊ごときに一国の軍が敗れるとは。」
「ええ、ですが、川の向こうから盾を突き抜ける速さで矢が飛んで来るとか、川を渡ろうとしていたら急に氾濫したとか、強い剣士が居たが実は女だったとか、少々背筋が冷える噂が聞こえております。」
ふうん、とソルヤム考え込む。剣士が女だと言うのは、イェストラブではあまり聞かない話だが、有り得ない話ではない。川が急に氾濫したのは恐らく堰き止めておいたものを決壊させたのだろう。矢の話はよく分からないが、禁賊がただの賊ではないという噂は本当のようだ。
次の遠征は南方に回してもらい、近くまで行ってみるのも良いかもしれない。そんなことを考えながら馬を進めた。
さて、今回ソルヤムが向う先は、父である皇帝陛下が皇太子の時分に落とした国、ルナルーチでの反乱であった。ルナルーチは近年落した国の中では規模も大きく、また、国王と王太子は死んでいたが、王太子の息子を始めとする王族の何人かは見つかっていない。今回、ルナルーチ再興の旗印になったのは、国王の姉だった王女のひ孫だという。
鼻で笑ったのが聞こえたのか隣を走る部下がこちらをちらりと見た。それを気にすることもなくソルヤムは前だけを見ながら馬を駆る。
王太子の息子やら孫ならともかく、馬鹿馬鹿しい。
ルナルーチの直系ですらない、当の旗印はまだ十に満たないと言う。大体、ルナルーチと言えば、銀髪に星を散らした薄暮の瞳と言われる一族である。件の王女のひ孫は、銀髪はそこそこに、だが瞳はありふれた灰色であった。
いずれにしろ、ルナルーチは滅びたのだ。
ルナルーチから弾き出された下賤の民が流された先で作り上げた街、その街が大国イェストラブの起源であったとしても。どんなに、ルナルーチの負け犬どもが下賤の民、と蔑んでもイェストラブが覇者たる事実はゆるぎないのだから。
旧ルナルーチの反乱を鎮圧し帰還したという報せと共に、ソルヤムから酒の誘いがあった晩。グルビナムが指定された部屋へと向かう最中、こめかみを押さえながら歩いてくるベアルとすれ違った。
「どうした?具合でも?」
「ああ、これはグルビナム殿下、気がつかずに失礼致しました。具合ですか、ええ、ええ、御心配には及びません、至極健康でございます。」
それにしては、眉間に皺が寄っているし、強く押さえていたのだろうこめかみには指の跡がついている、と指摘すればベアルは溜息を一つ吐いた。
「敵いませんね。いえ、ただ、頭痛の種を見つけてしまっただけでございます。」
「何か悩み事か?」
途端、侍女の表情が柔らかくなる。
「グルビナム殿下はお優しい。まったく、ソルヤム殿下ときたら随分と男らしくなられて!」
決して、不敬になるような言葉は吐かずに、褒め言葉だけで怒りを示すベアルを見れば、何かソルヤムが怒らせるような事をしたのだろう、と察しがついた。一体何をしでかしたのかと考えていたが、部屋の前に立った途端理由が分かった。
酒臭い。
ついでに、男臭い。
さらに、野太い笑い声がする。
旅の汚れを落とした後、髪を濡らしたまま酒盛りをする男達がいた。まさか外宮の兵士達の宿舎からその恰好でやってきたのだろうか。
「おう、グルビナム。お前も混ざれ。こいつらだよ、俺に殴りかかってきたのは!」
ソルヤムが肩を組んで、こいつがヴルペスだと教えてくる。三、四つ年長だろうか。まあ、言われれば確かに気が短そうな顔をしている。
「殿下!グルビナム殿下にそんなことを教えていたんですか、勘弁して下さい。」
「何言ってんだ。お前らの悪行なんて全部、グルビナムは知ってるぞ。あとは、落馬して池に転がり落ちたドォルクが誰で、花を捧げて愛の告白した相手が五十のばばあにすり替わってたピパルクゥツが誰なのか指差して教えるだけだ!」
ソルヤムが教えるまでもなく、ピパルクゥツは自白した。
「殿下!そんな殺生な。あれは、ただ緊張して目ぇつぶったまま花差し出したら、間違って侍女の方向いてただけですって。」
どうやら見るからに伊達男風な奴がピパルクゥツのようだ。ということは、ああ、少々体が重そうなのがドォルクだな、と目星を付ける。
ただ、途中から酒宴に加わった者ならば誰でも感じるであろう、会話の波に乗り遅れた気分は、グルビナムが言葉を発するのを邪魔した。
「お前ら、戦場に行ったら俺をしっかり守ることだな。うっかり捕虜にでもなってみろ、イェストラブの弱みだと言って、悪行の数々をバラしてやる。」
命に代えましても、と仰々しく礼をとって、大笑いする四人。ベアルではなくともこめかみを押さえたくなるな、とグルビナムは苛立たしげに杯を煽ったのだった。
「グルビナム。達者でしたか?」
久しぶりに訪れた後宮は相変わらず美しい花ばかりが満ちていて、そこに住む母も少し年をとったが美しいままだ。
「はい、母上様もお変わりなく。」
そこまでは良かった。次に母が口を開いた瞬間、流れ出てくるのは全て年頃の娘がいる貴族と、その一家の業績。よくもまあ、淀みなくすらすらと出てくるものだと、思わず感心する。
「成人して外へ出る機会も増えたでしょう。皇太子に相応しく振舞うのですよ。それから、結婚は陛下が適した相手を見つけて下さるでしょうが、それだけでは不十分です。貴方も相応しい相手を自分で探しなさい。」
茶を口に含んだ。ようやく帰るかと、思い見送りに立ち上がろうかと足に力を込めた瞬間。
「ところで、正妃の長男ですが…。」
と、今度は全ての皇子の最近の業績と不出来をひたすらに並べたてられたのだった。
どうやら、母の何かに火がついたらしく、それからというもの毎日のようにやって来ては、皇太子妃に相応しい女性の条件と、他の皇子がいかに不出来か、そしていかにグルビナムが輝かしい業績を上げているのかを述べて行くのだ。グルビナムの業績など、古文書を一冊、翻訳しただけだ。もちろん、素晴らしい業績ではあるが、実際はただ古代文字を現代文字に置き換えただけなので、大したことはしていない。
しかし。とグルビナムは思う。ここ数日、どの貴族と会ったとか誰に呼ばれた、などと母が知る筈のない事柄を全て母は知っていたのだ。どういうことかと考えるまでもない。誰かが母にグルビナムの一挙手一投足を報告しているのだ。公的な会合ならとにかく、私的に会っている人物まで漏らされるのは非常に困る。例え、グルビナムが政とは一切関係のない古文書の研究所にいたとしてもだ。母に漏れても困らないが、母に知られていると言う事は、他の誰かにも知られる可能性があるということ。
「パトカイニュ。」
声をかけたのは、幼い頃からグルビナムの世話をし、今も身の回りのことは全て任せられる乳母。しかし、彼女は唯一、母の私室に居た侍女である。穏やかそうな眦は昔と変わらない。その優しげな瞳を見ると、僅かに決心が揺らぐ。
「そう言えば、お前が私の元に来てから何年になるかな。」
茶器をグルビナムの前に並べながら、パトカイニュはもう十年以上前でございますね、と応えてくれる。
「十年も経つのか。私のような若造が言うのもおかしいが、月日が立つのは早い物だな。」
きっと幼い頃のグルビナムの姿を思い出しているのだろう。
「殿下もご立派になられましたね。道理で私も年を取るはずでございます。」
待っていた言葉だった。
「そうだな、四十も半ばまでよく仕えてくれた。どうだ、都の喧騒を離れて余生を過ごしては?」
宮仕えを辞してはどうか、と告げれば一瞬、言葉を聞き違えたと思ったのだろう。パトカイニュは驚いたように顔を上げた。
「お言葉ではございますが、四十路を過ぎたとはいえ、まだまだ殿下のお側でお世話をする所存でございます。」
「そうか、では、まだ当分暇乞いをするつもりはないと。」
そう問い返せば、パトカイニュは何度も頷き当然だと言う。
「パトカイニュ、お前は長い間、良く仕えてくれた。その働きを持って恩情を与えようと考えていたのだが、お前がここに居続けるというのであれば、私はお前を罰しなければならない。主の交友を、主の母とはいえ漏らす様な人間を側には置けないからな。」
グルビナムの言葉の意図をようやく掴んだらしく、パトカイニュは二度唾を飲み込んでいた。本人は気が付いていなかったのだが、この時のグルビナムの表情と言ったら、父である皇帝陛下が罪を糾弾する時とそっくりな冷たい表情をしていた。
そこそこの報奨金をもらって田舎にひっこむ道と、主を裏切って宮殿を追放される道。選ぶまでもない。
「ど、どうやら、近頃、少々耄碌していたようでございます。いけませんね、年をとると。まだまだとは思っているのは自分だけだと言う事にすら気がつかないようで。殿下の近くでお仕え出来ないのは寂しゅうございますが、私も年を取りましたので、都を離れゆっくりと過ごそうかと存じます。どうか、お暇を頂けないでしょうか?」
時折、上擦るのを堪える声に申し訳ない気持ちが湧きあがるが、十分な褒賞を与えることを約束すれば、パトカイニュは泣いて申し訳ないと謝りながらその場を辞したのだ。
しかし、母親はグルビナムの想像を越えて、息子に執着した。パトカイニュが居なくなった穴を埋めるために、次々と侍女を送りこんできたのだ。どんなにグルビナムが断っても、パトカイニュの代わりになる人間はそんなにいないのだからと、数人ずつ侍女が送られてくる。やってくる侍女達も皆、下位の貴族の娘達。あわよくばグルビナムに気に入られたいという彼女達の思惑が一致したため、何度辞めさせても次々に現れるのだ。次第に、茶の味が合わないとか、花の生け方が気に食わないとか、言いがかりとも思えるような理由で侍女たちを辞めさせ、ついにはソルヤムに女嫌いか、と心配される始末であった。ただ、彼女達の家の事情や婚姻関係なども調べて行くうちに、手元に置いていた侍従が相応しくないと明らかになったり、貴族達の縁戚関係に詳しくなったりと悪いことばかりではなかった。
だが。
何度目かに送られてきた侍女が夜這いをしにやってきた晩、ついにグルビナムの堪忍袋の緒が切れた。
ソルヤムの部屋に乗り込むと、深夜にも関わらず叩き起こして将軍への取り次ぎを頼む。朝一番で面会した将軍に懇願し、勢いそのままにグルビナムは滅多に会いもしない父に謁見を申し込み、軍に入れてもらったのだ。
それでも、副官が母の息がかかっていると知った時は多少脱力したが、軍に入った以上機密のため全てを副官が知ることは出来ないし、宮中と違い一度遠征に出てしまえば母の元に報告にも行けない為、釘を刺すだけにとどめた。
軍に入ったグルビナムが内心驚いていたのは、『無能な将』の称号を自分が免れたことである。ずっと古文書の研究所におり、文官であったグルビナムの剣の腕は人並みである。故に、軍に入ったは良いが、正直なところ役に立たないと思っていたのだ。『無能』を免れた一つの理由は、その性格である。幼い頃からソルヤムと比べられていたせいで、良く言えば謙虚、悪く言えば卑屈な性質になっていたグルビナムであったが、開き直りという方法も身に着いていた。皇子という立場にも関わらず、素直に教えを乞う姿勢に周囲の反発も少なくなったのだった。
もう一つの大きな理由は、古文書を読み漁っていただけあり、戦況と過去の勝敗がすらすらと出てくることだった。兵法に則って勝利した戦いと兵法に則ったために負けた戦い。膨大な知識に裏打ちされた定石の戦術は手堅い勝利をグルビナムにもたらすことになった。それに、将はそれほど剣を振るわない。勝手に皆が剣を握っているものだと信じ込んでいた。軍に入って初めて、ソルヤムが先頭切って剣を振るうという、皇子らしからぬことをしているのだと知り、頭を抱えたくらいだ。
軍に入ってから見たソルヤムは本当に輝いていた。十も二十も年上の兵士の中、体は相変わらず一回りも二回りも小さかったが、それでもソルヤムはその存在感を放つ。戦闘の雲行きが怪しくとも、例え敗走する最中であっても小柄なソルヤムが剣を煌めかせ行くべき先を示せば途端に皆の目つきが変わる。
ある日、フォントシュという小国を一つ獲れと二人に勅命が下された。大将は歴戦の勇士であるオルロスランであったが、事実上の将はソルヤムとグルビナムで、本来なら策を練るのは将校達だがオルロスランは二人に策を練るようにと告げた。皇帝から目付役を言い渡されているのだろう、二人はむしろ喜んで他の将校達と策を練り始めた。
「いつかの、模擬戦を思い出すな。」
「おい、一人飛び出して王の首を刎ねるなんて、考えるよ。」
「グルビナム、俺はまだ何も言っていない。」
「ソルヤムならやり兼ねないから言っているんだろう!」
くだらないケンカが始まりそうな空気に、オルロスランが咳払いをして二人を止める。他の将校達も呆気に取られて二人のやり取りを眺めていた。実は軍の内部も、皇子の誰に付くのかで割れていた。もちろん、圧倒的に支持を受けているのはソルヤムで、最近軍にやってきたグルビナムを皆が、嫌うではなく遠巻きに見ているような状態だった。だが、しょっちゅうソルヤムはグルビナムの元を訪れて行くし、二人が会えばくだらない遣り取りばかりするし、かと思えば二人が真面目に戦術を練ると素晴らしい物が編み出されるし、ソルヤムの政敵がやってきたと構えていた者達は皆拍子抜けしたのだ。
「フォントシュが手を組みそうな国はどこだ?」
グルビナムが問えば、いくつかの国の名前が挙がる。
「ハーツォの動きにだけは気をつけろ。ハーツォと密約を交わしていた場合、後ろから挟まれる可能性がある。他の国では後ろを取ることはまず無理だろうし、取っていても大した兵力にはならない。」
そう言ってオルロスランを見れば、神妙そうに頷き、一人の将校を呼ぶとハーツォ側に斥候を出すようにと告げた。
「この平原に軍を敷こう。恐らく、向こうもここに集まる。フォントシュにとっては庭だろうが、だからこそ油断も生まれるだろう。」
どうせ、グルビナムとソルヤムがどういう戦い方をするのかなど知れ渡っているだろう。そう考えた二人は別々の方向から攻め、途中までは兵法に則った正攻法を取った。相手がそれぞれの軍の大将の性格に合わせて、隊列を変えた所で、ソルヤムの軍はそのまま正攻法で突っ込み、グルビナムの軍が遊撃を仕掛けるという真逆の戦法で大勝を得たのだった。
フォントシュの軍を撃破したイェストラブ軍は勢いそのままに都リィネゲシュを目指す。
二人の天幕では、連日のようにリィネゲシュ攻略の為の策が練られていた。策と言っても、フォントシュが籠城戦に持ち込み、周辺の国に助力を求めるだろうという予想は付いており、籠城戦をどれだけ早く終わらせるかという策の相談になっていた。
「あと、五日でサルニの本隊は到着すると。」
「ファロクは、七日後と。」
しばしソルヤムは考え込む。その時天幕の外で怒号が響き、何度か剣がぶつかる音が聞こえた。
「何事だ。」
幕僚の一人が外へ出て行き、しばらくすると戻ってきた。
「どうやら、反乱軍が間諜を送りこんできたようでございます。捕えましたが、自害されました。それから見張りの兵が一人殺されました。」
「おい、その死んだ兵士をここに連れてこい。」
そういうと、ソルヤムは紙片に何かを書き、地面にこすり付けた。
「それから、犬でも猫でも構わん。何か一匹連れてこい。」
その日の晩リィネゲシュの城壁では小さな騒動があった。イェストラブ軍の間者と思われる人間が城郭内に侵入しようとしていたのだ。幸いにも途中で見つかり逃げ出した為、侵入には至らなかったが、翌朝調べれば間者と思しき人間が倒れていた。しかし、フォントシュの軍が小躍りしたのは、その間者が持っていた隠し文であった。
『十日後の新月の夜、南門を急襲する、援護せよ』
今日の晩は新月で、イェストラブ軍が攻めてくる。その情報を掴んでいたフォントシュの軍は南門に集まり、門の補強を行っていた。内側を幾重にも補強し、兵士も揃えていた。イェストラブ軍は、南門の先の平野に集まっている。フォントシュの軍を与えられていた将は、城門の上から眼下を見下ろしていた。夜毎、明りの数が増えており、もうじきイェストラブの軍が攻めて区得るのだと焦りも募る。今も、向こうからさらに別の軍が合流しそうだ。平野を埋め尽くさんとしている様には僅かにたじろぐが、圧倒されるほどの数ではない。二月も堪えれば、各地の砦からの軍も集まり、さらにハーツォからも援軍が来る。いくら強大なイェストラブ軍とは言え、前後と両脇から攻められれば大敗を免れないだろうし、少なくともリィネゲシュ攻略を諦めるだろう。
数日前、まだ軍が集まり始めたばかりの頃に北西にイェストラブ軍が現れ外門を破られた時は、随分焦った。だが、奇襲をかけた割には、門を壊すのに手間取っていて、むしろ呆れた物だ。そう思っていたら、あれは囮で南門が本命だという。今回軍を率いているのは、第四皇子のソルヤムと第五皇子のグルビナムだと聞いていた。二人ともまだ若造の割には頭が回る。特にソルヤムは直情的で短気だと聞いていたので、今回のように策を練った戦い方をするとは少々意外だった。今夜、どう奇襲をかけてくるのだろうか。
と、平野に展開するイェストラブ軍を眺めていると、微かに違和感を覚えた。動きが全くない。もちろん随分と遠くの陣なのだから、はっきり見える訳ではないのだが、それでも天幕や陣の中を行き来する人影位は見えてもおかしくないのだが。目が悪くなったか、そう思いながらその後ろから平野のイェストラブ軍に合流しようとしている一団を眺める。
後から来た軍は平野に広がるイェストラブ軍の西翼に向かって進んでいく。いや、やはり妙だ。合流しているのにも関わらず一切速度を落とさない。まるで、平野にいる軍を通り抜けるかのようだ。
その時、伝令兵が一人駆けつけた。
「北西の門が危険です。どうか、補強の援軍を!」
「駄目だ。今晩にはこちらに本隊が攻めてくるのだ。動けん。」
「今にも破られそうなのです。やつら、今までの攻城機の二回りも大きいのを持ってきています。軍の数も、二万以上が集まっています。」
「なんだと?」
まさか、南門が囮か?そうは思っても、南門から離れるわけにはいかず、一部を北西に向かわせる。だが、南門から北西に行くためには、ぐるりと東側から迂回する必要があり、時間がかかった。ついに、北西の門で本格的な戦闘が始まったようで、そちらから煙が上がる。後からやって来た軍はまだ城郭の南西だが、じきに追いつくだろう。
同時に別の伝令が走ってきた。
「森からイェストラブ軍が現れました!北東の門が狙われています。至急増援を!」
北西の門の付近は大混乱であった。突然イェストラブ軍が現れ、昨日までの攻撃は子どもの戯れかという程の苛烈な侵攻を見せたのだ。その上、軍の七割方は南門に釘づけになっていた。伝令が奔走している間にもイェストラブ軍の兵士が次々と雪崩込んでくる。さらに、北東の森に現れたイェストラブ軍は手薄になっていた北東の門に攻め込み、ついに門が破られた。
やがて北東から侵入したイェストラブ軍が北西の門を内側から開き、ついにリィネゲシュにイェストラブが侵攻したのだ。火矢が放たれ、宮殿から火が上がった。実際は、宮殿の手前の門だけが燃えていたのだが、宮殿の外にいた人間、特に遠く離れた南門に居た人間には宮殿が燃えているように見えただろう。実際、宮殿から火の手が上がったと思いこんだ、南門の軍勢は一気に戦意を喪失しという。
その上、通常ならいつでも開門出来るようにしているはずの門が、夜の奇襲に向けて破られないようにするために内側に土嚢を積み、動かせなくなっていた。北側から入ったイェストラブ軍が、南門に集まっていた軍とぶつかった際には、門が閉じていたためフォントシュの軍は袋小路に追い詰められたも同然で、城壁の上から飛び降りる兵士すらいたと言う。
それから数日の後、グルビナムとソルヤムは揃ってリィネゲシュに入城した。
イェストラブの兵士と、少数ではあるがフォントシュの官吏たちの前に立ったソルヤムはこう述べたのだ。
「フォントシュは大陸の中でも長い歴史を持つ誉ある国である。イェストラブはフォントシュを落としたが、フォントシュの歴史にはイェストラブは多くを学ばねばならない。フォントシュの叡智はイェストラブの血肉となるだろう。よっていかなる私奪も禁ずる。これに逆らう者は、すなわちイェストラブの血肉を奪う者、このソルヤムに叛意ありとみなす。フォントシュの民よ。叛意を示さない限りは、イェストラブは良き隣人として、尊き師として扱うと。」
隣に立っていたグルビナムは、フォントシュから向けられる視線がいきなり和らいだことを感じた。フォントシュの人間にとって、国は歴史を繋ぐ外枠に過ぎない。事実、フォントシュの王は血では決まらないからだ。裏を返せば、フォントシュの人は誇りさえ守っているように見せかけていれば、敵愾心を持ちづらいとも言える。宮中に残っていた官吏たちですら、この言葉で牙を向けるのを辞めたのだ。
「よろしいのですか?」
オルロスランがフォントシュを師と呼んで良いのか、と険しい顔で尋ねてくる。イェストラブはこれまでにいくつも国を落として来た。しかし、一度も落した国に覇者であることを知らしめた過去こそあれ、師と仰ぐことなどなかったのである。
「ふん、陛下はフォントシュを獲れと命ぜられた。皇太子であった時分も陛下は国を「落とす」とおっしゃっていた筈だ。であれば、フォントシュは落してはならない。フォントシュから獲るとなれば、それはすなわちフォントシュの知を獲ろということ。オルロスラン、私たちがフォントシュの攻略を違わないか見てこいと陛下はお前に命じたのではないのか?」
おかしいと気がついたのはグルビナムだった。これまで皇帝陛下の勅命を何度か記録に残していたため、二人に届いた命を読んだ時も、「落とせ」と書かれていると思い込んでいたのだ。しかし、開いてみればどうにも記述が今までと違う。それをソルヤムと酒を飲んでいる時にぽろりと溢した。一度、遠征先から抜け出して、リィネゲシュを訪れていたソルヤムは、これまでの国と比べてフォントシュという国が特殊さを知っていた。それらを二人で鑑み、付き合わせた結果そう結論付けたのだ。
ソルヤムがじっとオルロスランを見返す。どうやら、当たりだった様でオルロスランは髭に埋もれた口元にかすかな笑みを浮かべ、お見事です、と礼を返した。
ただし、随分な強行軍をさせられた兵士達に何もなし、という事は出来ない。また、フォントシュに何も献上させないのはまずいので、フォントシュの貴族たちから一定の財を献上させた。それをソルヤム自ら兵達に配り、肩を叩いてねぎらったのだ。感極まって目を潤ませる兵士達を眺めながら、グルビナムはある決心をした。
リィネゲシュを、到着後僅か十日で落としたソルヤムとグルビナムの名はすぐに広まった。この戦いの後も、ソルヤムが率いる軍は、姿が見えればすぐに戦いが始まることで特に有名になる。ソルヤムが次第に、『イェストラブの鷹』と呼ばれるまでに長い時間はかからなかった。
フォントシュの功績を讃え、父である皇帝陛下が凱旋を祝する宴を催した日。身支度を整え終えたグルビナムは、控えの間で寛いでいるソルヤムの下へ向かった。
「グルビナム、これで陛下に誇れることができるな。兄上達ですら、まだ国は手に入れていないんだ。俺達が一歩先に皇太子位に近づいた。」
相変わらず人好きのする笑みを浮かべてソルヤムは背中を叩いてきた。それだけで感じられる高揚感に自分の信念が間違っていないことを確信する。
「ソルヤム、頼みがある。」
「なんだ?言ってみろ。」
控えの間とはいえ、何人も侍従は控えていた。その中で、突然弟は兄に頭を垂れた。一瞬、グルビナムの側近が、皺を気にしてしゃがみこむのを止めようとした程、淀みの無い動きだった。
「殿下、どうか私がお側で仕えることをお許しください。」
あまりに唐突な願いに、ソルヤムもしばらく身動きが取れなかった。ソルヤムの震わせた唇から洩れた声もまた震えていて、呻くような声色であった。
「グルビナム、自分がしていることが分かっているのか?今ならまだ我々の侍従しかいない。なかったことに出来る。」
「もちろん、全て承知の上でございます。私は帝位を継ぐつもりも、皇太子位を目指すつもりもございません。殿下の片腕になりたいのです。」
頭を垂れていたグルビナムには見えなかったのだが、周りにいた侍従たちは皆見ていた。絶望したような失望したような表情をしたソルヤムが僅かな時間、宙を仰いでいたことを。
これが二人の離反の始まりだった。
ソルヤムは期待していたのだ。例え、兄弟で互いの血を流すことになったとしても、グルビナムが相手であれば、最後まで競り合えると。宙を仰いだままソルヤムは目を閉じる。もしかしたら、泣きたい気持ちを堪えていたのかもしれない。一度、深呼吸をした後に開かれたソルヤムの目には、冷徹な光が宿り、足元に傅くグルビナムを憮然と見下ろした。
「顔を上げろ。」
グルビナムはずっと見下ろしていた兄を初めて仰ぎ見た。
初めて見上げた兄の顔は、間違いなく高慢な、それでいて威圧的な表情をしていて、兄こそが帝位に相応しいのだと改めて思い知る。自分は兄の様に上に立つ人間にはなれないのだと。畏怖と喜びが背筋を駆け昇り、体が震えた。兄は必ず歴史に名を残す皇帝となる。そして、自分はその兄の片腕になれるのだと、それを間近で見られるのだと。
宴の席で、ソルヤムの臣下になることを皇帝に改めて願い出た。その場にいた全ての人間がどよめく。ただし、皇帝はグルビナムが皇太子位を辞退することは認めたが臣籍に下ることは認めなかった。そのため厳密にはソルヤムの臣下にはならなかったのだが、いずれにしろどの皇子を推す派閥にしても寝耳に水であったことは間違いない。ソルヤム派にとっては、これ以上ない朗報として。他の皇子を推す者達にとっては、死刑宣告の様なものだ。グルビナムは、自分の派閥に居た貴族達に後ろから刺されるのではと思ったと後に語る。ちなみに、グルビナムの母に至っては、泡を吹いて気絶していた。
この年は、二人は二十歳を迎える年であった。イェストラブの男子はおおよそ二十歳までに結婚をするため、皇帝は戦のねぎらいも兼ね二人に妻を嫁がせた。グルビナムに嫁いできたのは、皇帝が落した亡国ヌールの王女クルフォルディ。ソルヤムには、属国となりイェストラブの傘下に入った国、プゥーシュトの王女ドゥランベラーラが嫁いだ。元々は、ドゥランベラーラの姉がソルヤムの婚約者ではあったのだが、夭折していた。代わりにドゥランベラーラが嫁ぐことになっていたのだが、二人が二十歳の時ドゥランベラーラはまだ十三であった。だが、二人同時に婚姻をするのに片方だけでは都合が悪い。そこで少し早いがドゥランベラーラを嫁がせることになっていたのだった。これがドゥランベラーラにとっては最初の悲劇であった。ドゥランベラーラは、今回に限っては非常に不幸な事に、早熟な部類の少女であった。夜の褥で何が行われるかなど知っていたし、幾分年上の夫であっても嫁ぐ覚悟も出来ていた。にも関わらず、結婚式の後、ソルヤムはこう告げたのだ。
「いくら妻になったとはいえ、貴女はまだ十三。せめてイェストラブの成人までは健やかにお過ごしください。」
慌てたドゥランベラーラが引きとめるより先に、ソルヤムは寝室の外へ出てしまった。その上、言葉通り、十五を過ぎるまで、ドゥランベラーラの元へソルヤムは一度も訪れなかったのだ。
さて、与えられたのは何も妻だけではない。ソルヤムには、イェストラブの西側、特に最近になって接収した国々を含む一帯が与えられた。現在、皇帝の弟、ソルヤムにとっては叔父に当たる大公が西都カルミニゴラドを建設していた。そこへ出向き治めるようにと皇帝から命じられ、グルビナムと臣下を引き連れて、ソルヤムは都を離れたのだった。




