第一編
イェストラブの歴史を語る際に、必ず対にして語られる二人の皇帝がいる。早くから非凡な才を示し、激しい気質と拡大策、短い治世の間には最大領土を誇り、そして戦場で死んだソルヤム。秀才の域を出ない幼少期ではあったが、穏やかな気質と徹底した内充策を取り、三十五年に及ぶ安定した治世によってイェストラブを大きさだけではない大帝国にし、そして静かに寝台で死んだグルビナム。
幼い頃は仲良い兄弟だった二人。しかし成長するにつれ、互いの理想故に、互いを思いやりながらも少しずつその心は離反して行く。歴史に名を残した兄弟の、歴史には残されなかった話。
「正妃の息子は、もう出来ていると。」
「あの女の息子に後れを取るなどあってはなりません。たった一月産み月が早かっただけなのですから。」
「お前こそが皇太子に相応しい皇子なのですよ。グルビナム。」
初めは、何かをする度に母は喜んで、褒めてくれた。優しく抱きしめてくれた。それが嬉しくて、嬉しくて。母を喜ばせたい一心で色々なことを頑張った。いつの頃からか、母は中々褒めてくれなくなった。褒めてくれるのは、一月早く生まれたという顔も知らない兄に何か勝った時。グルビナムは本を読むのが好きだった。文字を覚えるのは早かったし、本を読めば様々な知識を得ることが出来た。どうやら、兄はあまり本を読むことはなかったようで、いつも勉学のことについては母に褒められていた。一方で、剣術や馬術は、良くて人並み。兄は、そちらの方面には長けていたようで、それで褒めてもらえることは少なかった。
徐々に、母は褒めることが無くなった。勉学の事なら兄に勝ると知ってからは、それが当然になった。その代わりに、出来ないことを見つけてはいつも叱咤激励をしてくる。例え、それが兄と比べることでなくとも、何か一つ綻びを見つけた途端、まるでこの世で一番みじめな人間なのではないか、と思うほどの叱咤をされる。そして、その後には必ず、こう付け加えられる。
「お前こそが皇太子に相応しいのですよ。」
違う。母が言いたかった言葉はこうだ。
「皇太子に相応しく振舞え。」
食事の仕方ですら、相応しい振舞いかを吟味されている日々。髪のほつれも、衣の皺も。全てが完璧で無ければならない。皇太子に相応しい、すなわち皇帝に相応しい筈の己が誰よりも他人の顔色を伺っていることに疲れてしまっていた。
今日も、この後、剣術の指南がある。不出来であったことを夕食の時に非難されるのだと思うと、憂鬱な気分のまま、さして慰めにはならない美しい庭の草花を眺めた。
「殿下、お部屋に戻って御着替えをなさいませんと。」
後ろに控えている乳母のパトカイニュと年若い侍女が立ち止まるなと先を促す。
「少しだけ、庭を眺めてから戻る。」
そう告げれば乳母に目配せをされた侍女がその場を離れた。そのうち母の侍女を連れて戻って来るだろうが、それまではここにいたかった。
突如、がさっと目の前の木の枝が揺れ、人影が飛び降りてきた。刺客か、と一瞬身を固くするが、目の前に降り立ったのは同じ年ごろの身なりの良い少年。後宮にいる少年は限られる。異母兄か異母弟だろう。仕立が良いはずの衣は泥に汚れ、癖のある茶色い髪の毛はぼさぼさでおまけに木の葉がついている。少年は顔を上げると、真っすぐにグルビナムを見つめた。二三度目を瞬かせた少年は、目の前にいる子どもの正体を思案しているようだったが、思い当たったのだろう。目を輝かせて満面の笑みで握手を求めたのだ。爛々とした瞳がグルビナムを射ぬく。
たった、それだけ。
だが、たったそれだけの事がグルビナムの胸を高鳴らせた。世界が急に明るくなり、まるで自分の周りを覆っていた氷が陽光で溶かされたかのように呼吸が楽になった。
真正面から誰かに笑みを向けられたのは久しぶりだったから。
「お前がグルビナムだろう。兄のソルヤムだ。」
一月早く産まれたと聞いていた兄は、弟よりも一回り小柄な少年だった。
以来、ソルヤムは暇を見つけてはグルビナムの元へやって来るようになった。ソルヤムは母の私室に入ることはできないので、二人が会うのはもっぱら剣術の稽古の時だったが。グルビナムの腕は相変わらずでソルヤムに勝てることなどなかったが、前より上手くなっているとソルヤムが褒めてくれる。指南役から母に出来が報告されているのは相変わらずで、母から小言を聞かされるのも相変わらずだったが、以前のように落ち込むことは無くなった。一方でソルヤムは書を読むのが嫌いらしい。小難しい言葉が出てくるとすぐに投げ出すのだが、その成り立ちやそれに関する諺をグルビナムが教えてやると目を輝かせて聞いてくれる。グルビナムのように教師達も面白く教えてくれればよいのに、といつも愚痴をこぼしていた。それ以外の時間は、やんちゃ盛りの男の子らしく二人で教師達の悪口を言ったり、侍女の黒子の位置や、侍従の衣服の模様の趣味などを面白おかしくからかったりして遊んだ。
例えるなら、じっと膝を抱えて座っていた後、足を動かそうとしても強張ってしまって思う通りに出来ない時のように。でも、ゆっくりと立ちあがって少しずつ歩く内に滑らかな動きが出来る時のように。後から思えば、ソルヤムと出会って少しずつ子どもらしく振舞えるようになっていったのだ。
「グルビナム。」
背後から唐突に呼び止める温度のない声に、自然と体が強張った。衣服の乱れが無いかを素早く確認すると、作法に則ってゆっくりと振り返り、礼を取る。
「はい、母上。」
母は美しい人だ。凛とした強い眼差しも、どこかあどけなさを残した唇も。しかし、優しい人ではなかった。
グルビナムは母によく似ていると言われる。ほっそりとした輪郭も、切れ長な目も、涼しげな鼻立ちも、黒く真っ直ぐな髪も。だが、どれだけ面差しがそっくりでも、母が考えていることはよく分からなかった。
「近頃、剣術の指南にあの女の息子が来ているとか?親しくするのは止しなさい。」
「はい、母上。分かりました。ただ、相手を越えるためには相手の腕や腹の内を知ることも大事かと。」
小さな、小さな反論。しかし、グルビナムにとっては大きな一歩だった。それを知ってか知らずか母は機嫌を悪くすることも無く、一理ある、と認めたのだ。もちろん、しっかり精進するようにと付け加えるのを忘れることはなかったし、いつもの通り「皇太子に相応しいのはお前なのですよ。」と言うことも。母の姿が見えなくなってようやく体の力を抜いたのだった。
母の目がある中で暮らすことに息苦しさを覚えた始めた頃、十歳になるのと同時にグルビナムは後宮から出され、部屋を与えられた。元は母の侍女の一人だったと言うパトカイニュが付いたが、その他にも数人の侍従が付くようになった。周囲につく人間は増えたが反って身軽になったと思っている。
基本的には宮殿の中ならばいくらでも出歩けるようになった。勉学の時間は増えたが、書庫にも行きたい時に行ける。母が来訪することは皆無とは言わないが必ず先触れがあるので、以前程は苦ではない。時折教師達にソルヤムや他の兄弟と比較されることはあっても、母の叱咤に比べれば流して聞いていられた。
何より、一月前に十歳になって部屋を与えられたソルヤムと互いに行き来が出来るようになった。
ふあ。と間の抜けた声が隣から聞こえた。呆れて隣を見る。人目が無いからか、ソルヤムが大あくびをしていた。
「眠そうだな。」
「ああ。昨晩はあまりよく眠れなくてな。」
と、ソルヤムが水差しを取り上げるとそのまま口をつけた。
「おい、モツェレシュ先生に見つかってみろ、半日説教されるぞ。」
礼儀作法の教師であるモツェレシュは、厳格な性格を見事に表現した顔つきの老婦人で、木の棒で背骨が出来ているとソルヤムが揶揄するほどいつも真っ直ぐに立ち、非常に作法に厳しい人間だった。
「なら、お前も頬杖なんてつくなよ。」
拗ねたようにソルヤムが難癖をつけて、グルビナムの腕を小突く。むっとしたグルビナムが同じことをやり返せば、ソルヤムもやり返して。年相応な可愛らしい兄弟げんかが始まったのだ。小突き合い段々激しくなり、ついに取っ組み合いになる。そうこうしている内に、廊下にまで転がり出してしまった。掃除をしていた下女たちが慌てて飛び退く。床に敷かれた絨毯がたわみ、気がつかずに角を曲がってきた下女の洗濯籠をひっくり返す。その時、遠くから騒ぎを聞きつけてきた侍従の一人が声を張り上げた。
「殿下方!御元気が宜しすぎるのではございませんか!」
まずい所を見つかったと二人は顔を見合わせる。
「ソルヤムのせいだぞ。」
「グルビナムが自分のことを棚に上げるからだろ。」
また互いに小突き始め、手が出る。
「殿下!」
また雷が落ちた。二人は雷神から逃れるべく転がるように走り回るが、結局は使用人用の道までをも熟知している侍従には敵わず、長い長い説教を受けたのだった。
二人は十二になっていた。あと三年すれば成人になり、戴帽帯剣が許される。そろそろ成長期だがソルヤムは小柄なままで、グルビナムの方が頭一つ大きい。知らない者が見ればグルビナムの方が二年か三年程年長に見えるだろう。今日の二人は傍から見ても非常に憂鬱そうな顔を隠しもせずに回廊を進んでいく。グルビナムだけでなく、ソルヤムがこういう顔をするのは珍しい。沈鬱な空気に耐えかねたのかソルヤムがぼそりと呟く。
「上手くやれよ。」
「ソルヤムこそ、途中で足滑らせて転んだりするんじゃないぞ。」
後宮内を歩くのは皇帝の子息だけだが、宮殿には彼らとの縁を望む貴族たちが自分達の子息を連れて来ていた。年頃の少年が何十人もいれば、始まるのはどの時代も大差の無い遊びだ。ただ、宮殿での遊びが他とは違ったのは、少年達が「持てる者」であったことで、そのために遊びが本格的な物になってしまったのだ。
今日は宮殿の庭、むしろ草原と言うべき広い庭で模擬戦をする。そして、この模擬戦こそ二人が憂鬱な顔をしている原因だった。ただし発端はこの二人である。兵法の講義を受けた後、試してみたいとソルヤムが言い出し、グルビナムもそれに乗った。始めは、遊戯盤の盤上で行っていたのだが、やはり動きがないと実際の戦術にそぐわないと、今度はグルビナムが言い、それならばとソルヤムは宮殿に来ていた貴族の子息を呼び集める。当然やってきたのは、ソルヤムとグルビナムに付いている貴族の子息達であったが、遠巻きに見ていた他の子ども達に声をかけたのだ。
迂闊だったと後から二人は反省したのだが、自分達の派閥に囲い込もうとしている、と兄達の不興を買ってしまったのだ。特に、異母兄の一人のバルユは殴りかかってくるのではと言うほど、怒りを露わにしていた。ソルヤムの同母兄であるスィルティシャスは第一皇子で母親が正妃であるため、もっとも皇太子に近いと言われていた。第二皇子のバルユはそれに追いつくべく、必死だった。そんな最中、二人がまだ様子見を決め込んでいる子息達と遊んでいるのだから、怒りだけではなく焦りも高まったのだろう。スィルティシャスと第三皇子のバーゴイも面白くは無かったようで、騒ぎを聞きつけると、結局、模擬戦をスィルティシャスとバルユ、バーゴイ、ソルヤムとグルビナムで行う羽目になったのだった。二人は一戦目でバーゴイと戦い、勝利を納めていた。ただ、バーゴイとソルヤム、グルビナムの派閥の大きさはほとんど変わらないため、単純に二倍の兵力差があった。スィルティシャスとの戦いは、逆に二人の兵力を合わせても兄の六割程度しかなく、一時は押していたものの結局負けてしまった。そして、今日は最後に残ったバルユで、兵力は二人合わせて兄の八割。負けの込んだ兵力差ではなかった。
模擬戦は庭に作られた砦に見立てた台が向き合って作られている。砦と砦の間、真ん中のところで両軍は向きあい、木剣での歩兵戦を行うのだ。木剣には染料をしみ込ませた布が巻かれていて、胴体、首に色を付けられた兵士は切られたことになり模擬戦からは抜ける。砦の上には旗が立てられていて、その根元には大将が立っている。相手の軍を破り、大将を倒し、旗を取れば勝ちになる。
今回、大将はバルユとソルヤムである。グルビナムは指揮を受け持っていた。
審判役が太鼓を鳴らして開戦を知らせる。始めは一進一退の攻防戦だった。だが、徐々にバルユの軍の勢いに押されたのかグルビナムが指揮する軍は砦の方に後退して行く。砦の上から戦況を眺めているバルユが暇を持て余すくらいに、押し負けていた。一度、グルビナムが何か号令をした時に、軍の左翼が押し戻し、そちらだけは中央近くまで寄って行った。その時、バルユ方の少年達は信じられない人物を目の端に捕えた。
ソルヤムがいる。砦の正面から中央近くまで伸びた剣戟の最中を縫うように、時折、負けそうになっていた味方の兵を助けながらも真っ直ぐにバルユが立つ砦に向かって駆けて行くではないか。旗の根元には確かに一人立っているが、よくよく見ればソルヤムではない。
バルユは相変わらずのんびりと戦いを眺めていた。ふと、中央近くまで伸びた兵士達の中から一人がはぐれた。脱落者かと思うが、その兵は真っ直ぐにこちらに向かって駆けてくる。
「ソルヤム!」
慌てたのはバルユだ。残念なことに、バルユは剣術が得意ではない、むしろ不得手である。それを知っているからだろう。ソルヤムの目は弱者を痛めつけられると言う喜びに爛々と輝いている。
「お前、卑怯だぞ!」
必死に木剣を受けながら、前々から気に食わないと思っていた弟を罵る。
「何を言っているんですか、兄上。遠い土地の戦で負けても、王族の首を取り、王都を陥落させれば国は消える!」
遠くで、グルビナムがまた何か号令を出している音が聞こえた。と、同時にバルユの腹に、木剣が横殴りに食い込む。布が巻かれているとはいえ、そうとうの痛みらしく、バルユはその場に崩れ落ちた。
「くそっ。」
ソルヤムが旗を奪おうと、振り向いた瞬間。審判の太鼓が鳴った。あちら側の砦が落ちて、旗が取られていたのだ。
「ちぇっ。」
ソルヤムは不服そうに呟くと、木剣をその場に投げ捨て、グルビナムの善戦を讃えるべく自分の砦の側に戻って行った。
「あーっ、もう少しで勝てたのに!」
頭を掻きむしりながらソルヤムが芝に転がる。ソルヤムの侍従の一人であるエギールが、右往左往していた。彼はモツェレシュほどではないが潔癖で、その割には口が出せないため、芝に寝転がるソルヤムを止めたものかと困っていたのだ。見かねたグルビナムが水を持ってくるように命じれば、ほっとしたようにその場を離れた。
「何言ってんだ。充分だろ。」
ぴたり、と頭を掻きむしる手を止めてソルヤムは起き上がり、グルビナムの肩に手を回す。
「グルビナムの采配も見事だったよ、あれはどこからどう見ても押し負けての敗戦だった。」
二人とも分かっているのだ、あそこでバルユに勝ってしまっては、明日から命を狙われ続けると。エギールが盆に水差しと器を二つ載せて戻ってきた。それぞれの器に水を注ぐと、エギールが一口ずつ口をつけて毒見をする。
「ま、そういうことだ。あ、おい、ソルヤム!」
止めるグルビナムを無視して盆の上の水差しを持ち上げると、いくら毒見してあるとはいえ、直接水を口に注いだのだ。一通り喉を潤すと、頭から水をかけた。言葉を失っているエギールに、少しだけグルビナムは同情した。こんな主と四六時中過ごすのでは、心臓が持たないだろうと。
そこに、殿下。と声がかかった。二人でそちらを振り向けば、緊張した面持ちで五人の少年が並んでいる。はて、と二人は首をかしげた。
「殿下はお気づきではなかったかもしれませんが、今日、助けて頂きました。」
「ご無礼をお許しください。どうか、私どもがお側でお仕えることをお許しください!」
五つの頭が高さもばらばらに、ソルヤムに向かって傅く。どうやら、ソルヤムがバルユの砦に向かって駆けて行く途中に助けてやった少年達のようだった。
「明日から、参内すればよい。な、グルビナム。」
そう言って無邪気に笑うソルヤム。グルビナムの名前が呼ばれて初めて、五人の視線がこちらを向いた。ソルヤムが良いと言えば今日からでも良いだろうさ、そう答えながら微かな疎外感を覚える。
彼らは二度とソルヤムから離れないだろう。直感した。きっと自分では、ああいう風にはなれないだろう、とも。
きっと戦で負けたら、相応しくない所を見せたら、たちまち皆は離れて行くだろう。ソルヤムが皇太子たるべき子どもだとしたら、自分は皇太子に相応しくあるべき子どもなのだ。
「ソルヤムはすごいな。羨ましい。」
自室に向かう道すがら、気が付けば口を突いてそんな言葉が出ていた。
きょとんとしてソルヤムがこちらを見上げる。
「何がだ?」
改めてそう聞かれると何と答えて良いのか分からずグルビナムは閉口した。
「私は、グルビナムが羨ましいよ。勉強は出来るし、色々なことを知っているし、色々な国の文字を読めるし、何よりあんなに細かい文字の書をよく長い間読めるな。私なんて三行も読めば頭痛がしてくる。」
至極純粋に褒めてくるソルヤムが急に恨めしくなった。
そうではないのだ。
勉学も、文字も後から得た物。
そうではなく、人を惹き付ける才。己は持たない才を持っているソルヤムが羨ましいのだ。天賦の才、というべきか自分の努力では得られぬ物をソルヤムは持っている。
「それに。」
ふと、足を止めソルヤムはじっとグルビナムを見た。
「グルビナムは、背が大きい。」
呆気にとられてグルビナムはまじまじと兄を見返した。少し低い位置から恨めしげに睨んでいる。
「幼い頃から私はグルビナムを見下ろしたことが一度も無いんだぞ。弟のくせに兄を見下ろすとは生意気だな。」
思わず二人は顔を見合わせて大笑いしたのだった。




