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四哀悲話  作者: 青田早苗
第三話、義を尽くした裏切り者の話
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第五編

 泰獄を落とし、イェストラブの西都カルミニゴルドは浮足立っていた。カルミニゴラドに建てられたゲルヅォクの邸は以前暮らしていた邸よりもずっと大きく、西都での彼の地位を表してもいた。ゲルヅォクの元へ戻った後は、アンジョルは禁賊達の尋問に立ち会っていた。禁賊達からは随分な目で見られたが、イェストラブで芙蓉のなるべく近くにいる、という目的の為にはそんな視線も気にならなかった。ゲルヅォグの元で共に学んだ仲間達は、随分昔の記憶になっていて名前を思い出すのが大変だったが、泰獄で身につけた人懐こさに助けられ、すぐに馴染んだのはアンジョルにとっては皮肉でもあった。


 ある日、旦那様、ゲルヅォグ閣下に呼ばれる。

「禁賊の長の処刑をするのだとか。何か妙案はないか?」

 二十年以上経って再会した閣下は、狡猾で残忍な根を隠した好々爺であった。人を貶めて、何より精神的に痛めつけて絶望を与えて愉悦に浸るのだ。漏れ聞く内容を察するに、そんな性格が皇太子と馬が合うところなのだという。案外、芙蓉は皇太子と気が合うのかもしれないと、思ってみる。

 つまり、毅をただ殺すのではつまらないから、何か毅の心を痛めつける手段はないかと問うてきたのだ。しかし、閣下や皇太子のお気に召す様な表情を、毅が見せてくれるのかは安にも自信がなかった。

 閣下に許可を得て、毅の牢に向ける。足音に気が付きこちらを見た毅は、イェストラブの軍服を着ている安の姿を見て、一瞬で全てを理解したようだった。あの冷たい目をするかと思ったが、呆れたようにこちらを見るだけだ。少々肩を強張らせていた安であったが、その反応にこっそりと息を吐いた。

「ま、悪く思わんでくれ。それに、全部が嘘だった訳じゃねえ。」

 どうだ?と、酒瓶を掲げて見せる。これじゃあ、泰獄に居た時と一緒だな、と思った。

「良いのか?そんなもの飲ませて。」

「長殿を逃がしたりすれば、処刑もんだろうけどよ、俺が買った酒をどうしようと俺の勝手だろ?それに、俺の働きのお陰で捕えた賊の前で飲んだって、誰も咎めやしねえよ。」

 頼りない蝋燭の火が隙間風に煽られて右へ左へと揺れる。泰獄に居た時とまるで変わらない。だが、二人の間には格子が存在していて、毅が身につけている衣服は泰獄で捕えられた時から変わっておらず、安が身につける軍服は上等な物だった。安はしばらくその火を眺めていたが、絞り出すような声でぽつりと漏らしたのは自身が驚くほど素直な心の内。

「なんていうか、あれだ。全く何にも思わないわけじゃないんだ。」

 後悔しているか、と問われれば逡巡した後に、否、と答えるだろう。ゲルヅォク様の御恩に仇を返す訳にはいかない。だからこそ、間者に情報を流した。しかし、始めは他の禁賊と共に果てるつもりだった。己の役割を全うしたのであれば、最後まで戦い泰獄の地に斃れることこそ、安を受け入れてくれた禁賊達に返すことができる精一杯のことだった。しかし、芙蓉がイェストラブに行くとなれば、唯一側で見守ることが出来るのは安だけだ。だから、裏切り者と罵られようとイェストラブの軍服を纏ったのだ。

 だが、全て言い訳でしかない。どちらに対しても義を果たしたということは、すなわちどちらに対しても背いたということ。所詮、己の身可愛さに、屁理屈をつけて、皆を裏切っただけだ。再び蝋燭の炎が激しく揺れる。

「仕方のないことだろう。」

 毅はあっけからんとした様子で酒を煽った。思いがけない返答に、安は全身に疼きが走るのを覚えた。また、毅は許すという。見栄だとか上辺だけではなく、この男は骨の髄まで寛容なのだ。体中が疼くのは、己が骨の髄まで卑屈だからだろう。恥じているのだ。体が疼きに震えているのを毅に悟られまいと、手の中の杯を強く握りしめた。

「だがもし少しでも悪いと思うなら。」

と続けた毅の声色が変わった。この後の言葉は遺言でもある。聞き逃す訳にはいかない。恥で震えている体に聞かせ叩き込まねばなるまい。杯を置くと、顔を上げ真っ直ぐに毅と向かい合った。

「芙蓉のことを頼む。別にどうこうしてやってくれとは言わない。ただ、見守っててやってほしい。」

 安は真摯な目を旧友へ向けるとしかと頷く。先ほどまでとは異なる震えが腹の底から湧いて来た。毅の言葉を必ず守ろうという決意の震えであった。

「それから、」

 何かと、背筋を伸ばして待つ。だが、続く言葉に安は耳を疑った。

「パトゥラも。処刑をまぬがれることは無理だろうが、それまでの間よろしくな。」

 体の震えがいきなり止まった。

 何故、この男はそんな顔で妻のかたきの息子を案じるのだろうか。

 あの夏の夜の悪夢が、安の胸の内を襲う。そんな安の様子になど気が付かず、毅は信頼しきった表情で酒瓶を差し出す。青い瞳が真っ直ぐに安を見つめてくる。いっそ、笑い出したくなるほど滑稽だった。パトゥラの事を頼む、などと。

「パトゥラの事まで、心配するのか。本当に長殿は出来た人間だ。」 

 呆れたように安は酒を受け取った。その声色に含まれた微かな嫉妬に毅は気が付かずに杯を口に近づけた。安はその様子を見ながら、ちびちびと自分の酒を舐める。普段ならば、安の様子がおかしいことに気が付いていたのかもしれないが。毅はごろんと牢の石畳の上に寝転がった。

「去年の内、結婚させてれば花嫁姿も見れたんだろうかなあ。それだけが心残りだ。」

「花嫁姿見てりゃあ、孫が見たかったと言ってたさ。孫を見てれば、ひ孫をと言うだろ。」

 軽口を叩くのですら、やっとの思いであった。

「会えてよかったよ。」

 初めは心の底からそう思っていたが、今は言葉を絞り出すのが精一杯であった。

「ああ、お前も元気でな。」

 何の疑いもなく見送る毅に、アンジョルは背を向けた。


 賊の長が牢は、半地下で僅かとはいえ日の光が入っていた。しかし、かつてあった王国の末裔が入れられた牢は、月の光はおろか、太陽の光も入らない。

 どこからか漏れてくる水で濡れた石の階段を降りて行くと、徐々に外の光は弱くなり、先が見えぬ闇へと誘われる。脚を一歩進めるたびに、足音が石に当たって反響する。奥まで響いて跳ね返ってくる音は不可思議な声にも聞こえ、昏い夢の中へと落ちて行くようだった。頬を撫でる冷気と、手に持つ小さな灯りに浮かぶ茶色の壁にあの薄暗い路地が思い起こされた。流れた血が黒ずんだかのように見える黴が照らし出されれば、思い出すのは夏の夜に流れた血の事。そして、夏の夜に失われた人の事。

 遠い過去へと思いを馳せていた為だろうか。闇の中、ぼんやりと浮かんだ銀髪が、もうこの世にはいない人間と重なったのは。

 銀髪の男は足音が自分の牢の前で止まったと気が付くと、重々しく顔を上げた。

「安…殿?なぜ?」

 パトゥラにとっては予想だにしないことだったのだろう。安は応えを返すこともなく、黙って鍵を開けると、中へ入り、再び鍵を閉めた。狭い牢の中は、身長の低い安でも首を曲げなければ頭が天井にぶつかりそうだった。手に持った灯りを、牢の隅に置き、振り返るとパトゥラを見下ろす。後ろから微かに揺れる光に、安の影は一際大きくなり、パトゥラの上に覆い落ちる。黒い巨人がパトゥラの上に覆い落ちてくるように。イェストラブの軍服を着ていることを除いても、パトゥラの知っている安ではなかった。

「デュムバ…。お前のせいで。お前のせいで、桂花は。」

 茫然とこちらを見上げていたパトゥラを、思い切り安は蹴り倒した。両手を枷で封じられたパトゥラは受け身を取ることも出来ず、そのまま壁に叩きつけられる。

「安殿!何を!!」

 体を起そうとしたパトゥラの腹を目掛けて躊躇なく硬い軍靴が落された。泰獄に居た時に鍛えていなければ、内臓が破裂していたかもしれない。ごほっと胃液が口から零れる。安が手加減をするつもりが全くないと分かったパトゥラは、体を丸めて背中を向けた。その背中にも、安は何度も足を振り下ろした。終には体を丸めることすら出来ず、パトゥラは床に身を這わせる。無情な瞳のまま銀髪を見下ろすと、もはや無抵抗なその体を脚先で転がして、仰向けた。その上に馬乗りになると、襟首を掴んで引き上げれば、力を失った頭が後ろに垂れた。

「ふん、好いザマだな。」

 恍惚とした表情へと顔を替えた安は、時折咳込みながら荒い息をする男を見ていた。ゆっくりとその頭が持ち上げられるが、薄暮の瞳は力なくこちらを見るだけだった。ほんの僅かに溜飲が下がる。

「俺は、お前が憎いんだ。のうのうと生き延びたお前が。そして、桂花を殺したあいつらが。」

 うっすらと弱々しく開かれていただけの双眸が、途端、確かな力を持って安を睨みつける。

「俺だって、あいつらが憎いさ!!!」

 悲鳴のような、慟哭のような叫び。はっとして、目の前にいる銀髪の青年を見た。自分が憎んでいたはずの銀髪の男を。だが、この銀髪の男は一体誰だったか。憎んでいたのは誰だったか。この青年は誰だったか。

 泰獄に居る時から細身だったパトゥラは、すっかり痩せてしまっていた。以前は物憂げに笑っていた瞳が、くぼんだ闇の底で不吉な夕暮れの紫色をしてぎらつく。そして、そこに映る己の瞳が狂気に満ちているのが見えた。

「ならば、何故お前が生きている!!?何故お前が生きていて、何故桂花が死んだ!!?」

 それは、答えの無い問い。だが、無慈悲に青年の心を痛めつける問いだった。何故、何故、と口から零れる疑問の言葉は徐々に強さを失い、呟きへと、やがて嗚咽へと変わり、こうべは垂れて行き、襟首を掴んでいた手へと額は押しつけられた。青年を糾弾していた安の姿は、許しを乞うかのようにもなった。安の頭上から怨みが籠った、しかし静かな声が響く。それは恐らく亡き両親に向けた怨み。

「俺だって死にたいさ。毎日、毎日、息子を返せ、娘を返せと罵られて。憎しみを向けられて。俺が死んで、それで死んだ皆が帰ってくるなら何度でも死んでやるさ。」

 だけど、と急にそれまでの勢いを失った声は、迷子のような情けない物に変わった。

「だけど、芙蓉がいるから。」

 ぽつりと零れたのは青年の、少年だった頃からの決意。俯いた安の両眼が見開かれる。急に、体の中に渦巻いていた怨みがすっと消えて行く。

「芙蓉の側にいてやらないといけないから。だから生きてたんだ。」

 しん、と沈黙が降りて急に冷気がきつく感じられた。薄暗い牢の中、頼りない灯りにも関わらず、互いの表情は見ずとも分かる。沈黙だけが牢に満ちていた。

「そうだな。」

 顔を伏せたままのろのろと安は立ち上がり、パトゥラの体はゆっくりと床へと横たわる。安は隅に置いていた灯りを動かし、鍵を開けた。健康な時なら、安を突き飛ばして逃げられただろうが、体が動かない。体を冷たい床に預けたまま安が出て行くのを眺めていた。

「だが、もうそれも終わりだ。芙蓉の側にお前はもう居られない。」

 牢に背を向けた安はそれだけを言うと去って行った。そして再び牢は暗闇に包まれた。

 遠くに牢の出口の灯りが見える。一段一段、階段を踏みしめる都度、先ほどまでの冷たい闇の中の出来事が悪い夢だったのかと思える。午睡のまどろみから、ゆっくりと目を覚ましていくような不思議な感覚に陥った。

 芙蓉の為、そうだ、だからわざわざイェストラブの軍に戻った。一人、鷹の巣へと飛び込んで行った桂花の忘れ形見をせめて見守ろうと思ったのだ。銀髪の男もまた芙蓉の為にこの世に在ると言う。芙蓉の為、桂花の為。一体、何の為に、ここへやって来たのか。


 何がこんなに苛立たせると言うのか。


「去年の内、結婚させてれば花嫁姿も見れたんだろうかなあ。それだけが心残りだ。」

 そう呟いていた毅の声が甦った。

 ああ、そうか。

 アンジョルは嗤った。


 毅のことが嫌いだったのだ。いや、憎かったのだ。

 桂花の枝を折った時、安は憎しみを感じた。

 桂花が笑顔を向けた時、安は嫉妬を知った。

 桂花と芙蓉と毅が三人で笑っている時、安は孤独を覚えた

 パトゥラを許した時、安は羨望に気が付いた。

 どんなに安が得ようとしても得られなかった物。それを毅は当然のように手にしている。そして手にした物が失われても許すのだ。持てるものこそが出来る寛容な態度を示して許すのだ。


 芙蓉の事が疎ましかった。

 桂花の姿形をしているくせに、まるで毅がいるようで。ならばいっそ桂花の顔をしていなければ良かったのだ。どんなに桂花の代わりに大切にしようと思っていても、桂花が毅に向けて笑ったのと同じ顔をして、あの娘は銀髪の男の手を取る。よりによって、あの銀髪の男の手を。 


 なんと矮小で醜悪な感情か。

 毅が絶望に染まる顔を見てみたい。

 芙蓉に絶望を知らせてやりたい。

 あの男から僅かな希望ですら奪ってやりたい。


「閣下。娘の花嫁姿を見せてやるのがよろしいでしょう。」

 ゲルヅォグは不審そうにアンジョルを見返す。そんな餞をしてやる必要はない、と言いたいのだろう。

「あの男は、娘の花嫁姿を見られなかったのが心残りと申していました。ならば、なるべく意にそぐわない相手の元に嫁がせるのです。」

 暗い笑みを浮かべてアンジョルはそうゲルヅォグに告げた。


 進言が効いたのか、毅が処刑される日には花嫁姿の芙蓉が現れたのだ。まさか、皇太子が芙蓉の隣に立っているとは思わなかったが、間違いなく二人にとって望まない相手であることだけは確かだった。遠目に見た芙蓉は顔を青ざめさせていた。芙蓉の姿とその隣にいる皇太子の姿に気が付いた時の毅の表情と言ったら。二人の姿を見た時の、銀髪の男の顔と言ったら。思わず愉悦に唇が歪む。

「安!!!お前というやつは!!」

 ついにあいつらの絶望を見ることが出来た。

 毅は体を震わせ、怒気を放ってまるで背後に立つアンジョルを睨み殺さんとする。

 アンジョルには心地よかった。

 毅が怒りに震えるほどの、憎しみに染まるほどの絶望を与えたのだ。


 そして、隣の処刑人が腕を振り上げ…。

 目の前に友人だった男の首が落ちる。同時に、向こうで芙蓉が倒れていた。銀髪の男が項垂れで嘆いていた。

 ごろりと地面を転がったそれの、いつもなら冷酷に見つめてくる瞳が今日ばかりは滾る怨みとともに自分を見ている気がした。

 何の感情も湧かない。

 憂さを晴らしたつもりが、全くすっきりしない気分だった。

 曇天は、桂花の瞳の橙を見せてはくれない。

「アンジョル、先日の進言についてお前に褒美を与えるよう仰せ使っている。」

 呼ばれて部屋に足を運ぶと、上機嫌の閣下から小袋を渡された。両の掌で受け取ったそれはずしりと重かった。

「それから、殿下からお言葉を賜っている。『よくやった』と。」

 再び、ずしりと、手の中の重みが増した。同時に泰獄からずっとつけていた守り袋も重くなった。

 何と言って閣下の元を辞したのかですら定かではなかった。ふらり、ふらりと重い足が地面を中々捕えられない。まるで、足元の見えぬ霧の中を彷徨うように。まるで足を取られる沼地を進むように。一歩進むごとに、体も、足も、褒美の袋も、そして首の守り袋も重くなる。

「一体、俺は何を...。」

 これが罪の重さだと言うのか。

 その時、雲の切れ間から刺すように夕日が覗く。

「俺が悪いと言うのか、桂花?」

 桂花の瞳に似た太陽だった。


 墓地を訪れると、毅の遺体はまだ埋められる前だった。今から穴を掘るらしく、下男が一人、番をしているだけだった。褒賞にともらったうちの銀貨を一枚、番の男に渡してやると、どうぞと通される。寝ているだけに見える友人だが、その体と頭はもはや別の物体になっている。懐から小刀を取り出すと、遺髪を少し、目立たない程度に切り取り、手巾に包んだ。

「だんな、通すのは目をつむりましたが、髪を切るなんて聞いてないですよ。」

 そう言ってくる番にもう一枚銀貨を渡してやった。そいつは、欠けた前歯をむき出して笑うと、お気をつけて、と丁重に送り出してくる。

 その夜。一騎が風より早く滑らかにカルミニゴラドを発った。

 

 何日も昼夜構わず馬を走らせて辿り着いた泰獄には冬の気配すらあった。砥水の対岸から眺める泰獄は、幼い時に見た姿と一見変わり無い。

 しかし、あの時あの中で暮らしていた人々は今もう一人としてここにはいない。

 己の所為で。

 かつて桃源郷と言われた泰獄は、戦の爪跡を残したままであった。花が咲き誇っていた道端には、代わりに無数の矢が刺さっていた。穏やかな日々を送っていた集落は雪の重みでつぶれる家々もあり、職人たちがその腕を競っていた工房は焼け落ちたまま。畑には植えられていた植物と、どこからか飛んできた種が育った草花が入り混じっている。館や辛うじて残った工房、学問所には多少の兵士や学者がおり、宿った叡智の残骸をかき集めていた。

 彼らを横目に、金木犀の丘を目指す。

 声が出なかった。空気が何の音も生み出さずに喉を通り抜ける。

 金木犀は全て焼けていたのだ。薬師達の工房に火が放たれていたのだが、工房に近かった為だろう。ほとんどは焼け落ちており、辛うじて立っている木もあったが、もはや葉をつけていなかった。

 これは、罰なのだと感じた。

 裏切り者に与えられた罰なのだ。

 二度と桂花の枝に触れることは許されない。


 集落から少し外れた、森の中。様々な形の石が置かれたそこは、この地に集った人々が眠る場所。石の合間を迷うことなく縫うように進む。何度も通った場所だった。

「桂花...。」

 動くはずのない墓石が道を開けたかのように、彼女の墓石はアンジョルを待っていた。その真正面に佇んだ瞬間、神峰からの冷たい風が吹き下ろしてくる。いつかの路地で浴びた風に比べれば冷たくもなんともない風が今日ばかりは胸に痛かった。

「桂花、すまな…かった。」

 自然と膝が崩れ落ちる。右手を墓石に置き、額をつける。

「俺が、…俺が馬鹿だったんだ。」

 桂花を好きだったのに、桂花が一番大好きだった人間を貶めて。桂花の代わりに守ろうと思ったはずの芙蓉を傷つけた。そしてまた芙蓉が一番大好きだった人間を辱めた。

「すまなかった、…すまなかった、桂花。」

 何度も何度も額がこすれて血が滲んでも、墓石に謝罪する。

「せめて、これだけはここに埋めさせてくれ。」

 木の小箱に入れたのは、毅の遺髪。爪が割れるのにも構わず、石の側を掘る。涙は相応しくない、いや、涙を流す資格などない。そう思っていても、小箱を埋める土がどんどん濡れて行く。

「すまなかった...。」

 その罪を問うているのか、それとも断罪なのか。神峰からの風が吹き荒れる。その風に急き立てられるかのように、安は墓地から遠ざかった。

 ふらり、ふらり。

 しっかりと地面を歩いていることも、冷たい風が吹き付けている感覚も、手をきつく握りしめている感覚も分かるのに、それらが今はやけに遠く感じられる。

 風に煽られて、ふらりふらりと覚束ない足は自然と、しかし惑うことなく泰獄の西端へと向かう。

 聞こえてくるのは風の音だろうか。それとも、己を糾弾する声だろうか。ならば、声の主は一体誰だろう。

 皆が罪を責め立てる声が聞こえてきた。

 裏切り者、と。

 ふらりふらりと風は足を運ぶ。

「ああ、すまなかった。」

 かつて裏切り者と罵られた夫婦が吊るされた枝。春になれば、薄紅色の花が毬の様に咲くその枝は、神峰からの冷たい風に晒され茶色の葉もすっかり落ちてしまっていた。

 太い幹は、崖から砥水へとせり出している。枝は風に揺らぎ、招くように踊る。

 

 数日後、泰獄で一人の男が首を吊っているのが見つかった。

 花も葉も失った木の枝に下がったその体は、凍てつく神峰の風からも、全てを照らす太陽からも、そして冷たい月の光からも遮られることなく揺れていた。

 


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