前編
桂花はいつも仲間外れだった。わがままな性格のせいで遊んでいても、すぐにみんないなくなってしまう。でも優しく迎えてくれる、毅と貴蘭がいたお陰で少しずつ打ち解けて行った。毅を兄のようにそして異性として慕い、貴蘭を姉のように慕いそして自分の記憶にはない母の面影を彼女に見る。だが、ある冬、貴蘭が死んでしまったことで、桂花の心は少しずつ少女から成長していく。自分の未熟さに不安を覚えながらも、憧れだった母のようになりたいと願った女の一生の話。
皆が手をつないで輪を作っている。足取りの覚束ない幼い子。そんな子の手をつないで気づかいを見せる、少し年長の子。自分と同じくらいの無邪気に笑う子。皆が輪を作っている。こちらに背を向けている。楽しそうに歌いながら、向かい合って笑っている。皆が手を繋いでいる。
誰も桂花の手を繋いでくれない。右手には先ほどまで振っていた木の枝。
きっと輪の外と中は違う世界なのだ。小さな子供が手を繋いだだけの輪は、どんな城壁よりも強力に外と内を隔てていた。それどころか近づくことも出来ず、気が付けば、皆の輪からぽつりと一人離れていて。
桂花が遊ぼうとするといつもそうだった。
「桂花は、だめよ。」
「私たちで遊ぶんだから、来ないでちょうだい。」
三人でも遊べるのに。どうして、入れてくれないのだろう。
「それ返してよ。」
あたしが遊んでいるのに。
「桂花のいじわる!」
面白くない。つまらない。
なんだか、急に苛々して、手に持っていた剣に見立てた木の枝を輪の方に投げてやった。枝は思ったよりも飛ばずに輪の随分手前に落ちる。その音に気が付くことなく皆は笑っている。ささやかな意趣返しすら気が付かれることもなかった桂花はくるりと輪に背を向け、その場を立ち去った。微かな期待を抱いたが、誰の声も背中にかかることはなかった。
走って向かう先は祖父の隣。銀細工の職人だった祖父は、遊びに出て行った桂花が一人浮かない顔して戻ってきても何も言わずに横に置いてくれる。一本の細い銀線が祖父の堅い手の内で曲げられ、花や蝶へと、時には虫や動物へと生まれ変わって行く。時折、外から皆の楽しげな声が聞こえて寂しい気持ちになったが、祖父の仕事を見ているのは飽きなかった。
父が家に居る時は、剣を習っていた。剣を教えてくれる時の父は厳しかったけれど、真正面から桂花を迎えてくれた。その大きな体に立ち向かっていく時は、輪を作る小さな背中が向けられた時に覚えた嫌な感情は全て消え去っている。
きっと、祖父も父も桂花に友達がいないことなど知っていたに違いない。あえて手を差し伸べなかったのは、二人が不器用だからではなく、愛情深かったからだろう。
祖父の隣も、父の正面も、所詮は逃げ場だったのだから。逃げてばかりでは駄目なのだと。
「こら、どうしてそういうことを言うんだ?桂花も一緒に遊ぶんだ。仲間外れにすると、山から追い出されるぞ。」
「いい?桂花。嫌な事は嫌って言うのよ。そのかわり叩いたりなんてしちゃダメよ。嫌な時はどうして嫌なのかちゃんと言ってごらんなさい?でもね、桂花が嫌だと思った時は、きっと皆も嫌だと思ってるのよ。だから、おあいこなのよ?」
そう言って、優しく輪を開いてくれた二人がいた。
「一緒に遊ぼうって言ってごらん、桂花。」
遊んでいて癇癪を起した桂花にも二人は背を向けることがなかった。ずっと隣にいて宥め、諭してくれた。
まだ、皆の輪に入るのには緊張してしまうけど、前よりは皆も遊んでくれる。
「桂花は手先が器用ね。その花冠とっても綺麗よ。」
二人はいつも桂花に笑顔を向けてくれた。
だから。
「あのね、毅、貴蘭。二人のこと大好き。」
桂花も一番の笑顔を二人に向けた。そうすると、二人はまた笑ってくれた。
二人に喜んでもらえるように、二人に褒めてもらえるように、二人の笑顔が見られるように。
「この花冠、上手に出来たから貴蘭にあげる。」
そう言って、頭に乗せてやれば、ありがとう、とまるで花の精みたいに貴蘭は笑ったのだ。
いつか、あたしもあんな風になれるかな。
少女が胸に抱いたのは、ちょっとだけ背伸びをしたいという可愛らしい憧れ。
「桂花、上手に編んだな。」
そう言って、毅も笑ってくれた。
大好きな二人が笑顔を桂花に見せてくれる時が、桂花は大好きだった。
でも。
「似合ってるよ、貴蘭。」
そう言って二人は互いに顔を見合わせて笑った。
桂花を見ないで笑う二人のことは嫌いだった。
「桂花!!かまどに火を!すぐに水を汲んで来て、湯を沸かしてくれ!!」
もうすぐ冬が来る頃。まだ雪は降らないが、手が悴む寒さの頃。父が血相を変えて家に帰って来た。父の外套にくるまれたのは青白い顔の小さな男の子。
「捨て子か?」
「そうだろう、じゃなきゃこんな山奥に子どもが一人で来るはずない。」
大人たちが顔を突き合わせて難しい話をしている。桂花は布団に埋まっているその子を見た。まだ四、五歳だろうか。熱が出ているのかもしれないが、青白さは失せて頬や唇に赤みが戻って来た。
「ねえ、名前は何て言うの?」
次の日、目を覚ました男の子は、まるで睨むような目で桂花を見てきた。だが、桂花はそんなこと気にしない。
「ねえってば!」
煩そうに眉をひそめた男の子だったが、桂花がじっと張り付いていたのに根負けしたのだろう。やがて小さく呟いた。
「…あん。」
後から聞いた話だが、安は口減らしで捨てられたようだった。今年は、あちらこちらで不作だったと言う。ある日、街へ行く父親に連れられ、途中山の中で待っているように言われたのだとか。日が暮れても父親が戻って来なければ、あの山を目指すようにと言われた。それが泰獄だったのは、父親がきっとそこに住まう賊の話を耳にしたことがあったからだろう。
安の具合が良くなってからは、桂花は安を連れて遊びに行くようになった。皆の輪に安も入れてもらえるようにと頑張った。そうすると、毅と貴蘭が褒めてくれるのだ。そして、桂花に笑いかけてくれるのだ。
同じ頃。神峰を挟んだ反対側。北の地にある小さな国が一つ。大きな流れに呑まれた。月神が統べる地に住まう一族、ルナルーチ。彼らは奪われた月神の土地を取り返すべく、一旦は方々に散る。そのうちの一人は長い放浪の旅の末、泰獄にたどり着いていた。
桂花が十二になった年だった。
春祭りの日、祖父が新しい簪を作ってくれて、桂花はそれを頭に挿して浮かれた気分で外へ出て行った。
「毅!貴蘭!!」
そこに立つ二人は揃いの衣装を着ている。それが何を意味するか、年頃になってきた桂花は知っている。
「桂花、おや?新しい簪だね?お祖父さんの作か?」
「素敵よ。とっても似合ってるわ。」
二人はそう言って笑ってくれる。
「ありがとう!!お祖父さんにも褒めてもらったって言わないと。ね、ね?今年の衣装、二人は同じ色なのね?」
間違いなく、桂花は嬉しかったのだ。大好きな、大好きな二人。その二人が婚約をした。本当に心の底から嬉しかった。
だから、二人が嬉しそうに互い見て笑った時、心の底のそのまた深くに沈めた物が有ったことに桂花は気が付かない振りをした。
それでも、桂花は嬉しかったのだ。
だが運命とは何と悪戯で残酷なものか。
その年の冬、風邪をこじらせた貴蘭は、肺を悪くし、次の春を待たずにいなくなってしまったのだ。
桂花は悲しかった。
貴蘭がもう笑ってくれないのだと思うと、いつも優しく、穏やかに微笑んでいた顔ばかりが思い出される。
毅も笑ってくれなくなった。毎日のように花を持って貴蘭の墓へと足を運ぶ毅に、安と一緒に付き添っていたが、その道すがら話しかけるのは桂花と安ばかり。毅は二人が話すことに小さく、うん、うん、と言ってくれるだけだった。夏が来る頃には今までどおりの毅に徐々に戻って行ったが、やはり前のように笑ってはくれなかった。いつも悲しそうな瞳をして、口元だけ笑うのだ。その顔を見るたびに、桂花はつらくなった。桂花の好きな顔ではなかった。そのまま再び辛い冬が来て、泰獄は静かに雪に包まれて行った。
冬の間、桂花はせっせと針仕事をした。春の祭りのために複雑な紋様を縫っていく。衣だけではない。帯どめの飾りも自分で作った。父親や祖父が呆れるほど、縫物に熱中していた。しかし、考えるのは毅のことばかり。なぜ、毅は笑ってくれないのか。ふと、顔を上げ、父をまじまじと見る。
「ねえ、父様?」
最近、段々と口を利いてくれなくなった娘だが、口が利けなくなったのかと心配するほど黙々と縫物をするようになったのに、今日は突然口を利いた。筆を作っていた父は驚いてこちらを見る。
「父様は母様が亡くなって悲しかったのよね?」
桂花の母は、娘を産んで入れ代わりに亡くなっていた。
「なら、どうやって笑えるようになったの?」
年頃の娘にしては随分と幼い疑問。桂花は、時折、こういうことをなんの悪意も無く尋ねてくる。桂花のことを知っている人間なら、純粋な疑問なのだと分かるが、そうでなければ怒りだす人間もいるだろう。
「そうだな。」
しばらく父は遠くを見ていた。きっと母のことを思い出しているのだと思った。
「お前がいて、笑っていてくれたからだろうな。」
桂花はしばらくぽかんとしていたが、やがて父の威厳と慈愛に満ちた笑顔を見つめて、笑みを返した。
そしてまた、春が訪れ、桂花は十四になっていた。
幼い頃、ささやかな憧れを感じた時の貴蘭と同じ年。もう、子どもではない。
春祭りの日。
精一杯、めかし込んで。祖父にもらった簪。綺麗に作った花飾り。父に習っていた剣舞だって、一番の出来だ。どれもこれも毅と貴蘭が褒めてくれたものばかり。春祭りの夜に、揃いの衣装を来た若い男女が踊りだす。甘くも軽やかで楽しげな曲が奏でられる中、そんな人々を悲しげに見ている毅の元へ近づいた。
「毅!どう?剣舞見ていてくれた??」
相変わらず悲しそうな笑顔を張り付けて毅は褒めてくれた。
「ああ、素晴らしかったよ。随分、練習頑張ったんじゃないか?」
そんな顔で褒められても、ちっとも嬉しくない。
なんだか桂花は腹立たしくなってしまった。
「どうして、ずっとそんな顔してるの?そんな顔の毅は嫌い!!」
突然怒り出した桂花に毅は驚いて慌てる。本当はもっと色々言いたいことがあって、ちゃんと考えていたはずなのに、腹立たしくなって口から出た言葉は随分とめちゃくちゃだった。
「あたし、毅のことが大好きよ!小さい時からずっと大好き。毅が笑ってくれるのが一番嬉しい。だから、あたしがずっとそばに居るから!あたしが寂しかった時、毅と貴蘭が助けてくれたもの。毅が寂しいならあたしが助ける番だから。だから…。だから、そんな悲しい顔しないでよ!ねえ?」
大人にはまだなれないけれど、子どもではなくなった少女の精一杯の背伸び。
ようやく毅は、桂花が子どもの桂花ではないのだと気が付いた。
そうだ。貴蘭が亡くなって辛かった時、ずっとそばに居てくれたのは他でもないこの可愛い妹分だった。ちょっと我儘で、向う見ずで。でも、いつも笑ってくれた。だけど、その笑みは幼い頃、花冠を褒めてやった時の笑みとは随分違っていて。今も、大人びた表情で心配そうに毅を見上げながらも、笑っている。なんだか悲しそうそうな笑みだと毅は思った。
ふと、桂花を諭していた貴蘭の言葉が甦った。
「でもね、桂花が嫌だと思った時は、きっと皆も嫌だと思ってるのよ。」
ああ、そうか。自分が悲しそうにしているから、桂花も悲しかったんだな。癇癪ばかりで、周りのことなんて考えなかった桂花がすっかり大きくなっている。一生懸命、毅のことを考えてくれている。
そう思った途端、穏やかな笑みがこぼれた。悲しみの影がすっかり取り払われた、暖かな笑み。貴蘭がいなくなってから見てなかった毅の笑顔に桂花は嬉しくなって、涙を浮かべながらも満面の笑みを浮かべたのだ。
桂花が十五の春。二人は揃いの衣装を着て春祭りに繰り出した。