つらい 1
赤面が治まるのを待って、彼は言う。それでも、まだ、彼女を見ることは出来なかったが。
「・・だいぶ距離、稼いだな。・・・じゃあ、人目が増える前に、休憩、入れよう」
「あ、うん。わかった」
峠道の最後のつづら折りの脇に、少し開けた空き地があった。伏せていた体を起こしながら、徐々に脚を緩め、最後の一歩で、フワリと止まった。彼女は、お姫様抱っこから開放されると、背筋を伸ばしながら、ガードレールの脇まで歩いて、昼下がりの市街を眺めた。
「・・・どうだ? ちょっと、楽しかったろ?」
「うん! とっても! でも、不思議。ホントに滑ってるみたいだった!・・・」
腕、首筋、胸板のストレッチをしながら、彼女のはしゃいだ声を聞く。良かった。めまぐるしく変化する景色に酔ってしまうこともあるが、この娘は大丈夫だったようだ。彼は、やっと彼女を見た。
「ヒトより、ちょっと、力持ちなだけ・・・って、おい!・・あんた、左の眼・・・ケガしたのか!?」
傾きかけた陽を背にした逆光の中で、彼女の左眼は、銀色に輝いていたのだ。
「え?・・・・あ! しまった!・・・・カラコン・・!」
「おい、大丈夫なのか!?」
思わず駆け寄ろうとした彼から逃げるように、彼女はその場にしゃがみ込み、叫んだ。
「こ、来ないで!」
「!・・・・・」
彼女は、慌てて背中のリュックを下ろすと、中身を探る。
「・・やだ・・・予備、持ってない・・・どうしよぅ・・・」
膝の上でリュックを抱え、草の地面にへたり込んだ彼女。ケガではない。が、どうやら彼女にとって、銀色の左眼は、絶対、他人に見られたくないものだったようだ。彼は、ゆっくり近付いて片膝をついた。肩を落とした彼女の後ろ姿は、とても小さく見えた。
「・・・・・」
話しかけようとして、でも、言葉が見つからない。そっと、肩に手を置くと、彼女はビクッと体を慄わせた。
彼は思った。そんなに、落ち込むようなことか? と。彼にとっては、銀の眼、云々より、彼女の消沈ぶりのほうが気になる。何か辛い。
束ねた髪をといて、左眼を隠しながら、彼女はつぶやいた。
「・・・・見た・・よね?・・・・ごめんね・・・・」
「? 何で、あんたが謝る?」
「だって!・・・わたし、凶眼持ち・・だから。・・・その・・嫌でしょ?・・・気持ち悪い・・よね?」
誰だ? そんな迷信、この娘にふきこんだヤツは! 彼は、何故か腹が立った。そして、また、思ったままを口にする。
「凶眼って、いつの時代のお伽話だ。ただの虹彩異色症だろ。嫌とか、気持ち悪いとか、ワケ解らん」
「・・え?」
驚いて彼に向き直った彼女の、左眼を隠す髪を、すっと掻き上げ、彼は、銀の眼を真っ直ぐに覗き込んだ。
・・・そうかぁ。銀色だったのかぁ。右の鳶色もいいし、キレイじゃないか。
「・・・え? キレイって・・・怖くないの? わたしのコト・・」
・・・まだ、言うか・・・ん? 俺、今、喋ったっけ? ??
彼は、妙な違和感を感じた。会話のリズムが、一瞬、乱れたような気がした。
「キレイなものが怖いわけないだろ。・・・それより、・・・家まで、そのままで我慢できるか?」
「うん・・・それは。・・・わたしは大丈夫・・・だけど・・・」
・・・気のせいか? ちゃんと会話になっている。
彼女は、掻き上げられた髪で、また左眼を隠し、さらにうつむいてしまった。さすがに、もう一度、左眼をさらすような行動には出られない。
そっと、しておこう。彼は、小さく、ため息をつき、言った。
「安心しろ。もう、ジロジロ見ないから。それと、家のロケーション、詳しく教えてくれ」
「うん。・・・えっと・・・この道沿いの川向こうにある赤煉瓦の四階建てに行って。大きな金色の薬缶が目印」
小さな声で、彼女は答える。そんなに、落ち込むなよ、と、言いたくて、でも、言葉を飲み込む。代わりに、これからのプランを告げる彼。
「金色の薬缶だな。解った。ここから先は人目も多いけど、目立たないように、ササッと、行くぞ。道沿いに、けど、道路は使わない」
「? じゃあ、どこ、走るの・・・?」
「屋根づたいに行く。さっきみたいに揺らさないワケにいかないから、強めに抱える。出来るだけ小さく、丸くなっててくれ。それと・・・」
彼は一旦、言葉を切って、彼女を見た。やはりうつむいたままだ。彼は、また言いたい言葉を飲み込む。
「眼は閉じていたほうが良い。さっきよりスピード上げるし、上下左右に急加速、急減速すると思うから、景色を見てると、酔ってしまうかもしれない。いいか? 眼を開けても、俺を見る分には構わないが、景色は見ないこと」
多分、この娘は、景色を見ていても大丈夫だ。しかし、どうも、彼女は、銀の眼が、他の眼をとらえてしまうことを怖れているような気がした。ならば、いっそ眼を閉じてもらったほうが良い。そう判断しての方便のつもりだった。
「それから、ポケットの中身は、リュックに全部入れて、・・・その・・・髪は、やっぱり後ろで丸めてほしい。視界を塞がれると危険だから」
「あ、・・はい」
彼と眼を合わさないようにしながら、彼女は、手早く支度する。髪を束ねて丸め、リュックの肩ベルトを絞って、準備が出来たことを示した。
「ん、じゃ、行くぞ。・・・ん!」
「っ!」
彼は、最初からトップスピードで駆け出した。道路沿いに並ぶ、屋根、街灯、壁、手すり、鉄柵などありとあらゆるものを足場にして、人の目線より上の高度を保ちながら、凄まじいスピードで移動する。道路を走る車さえ追い越した。
まるでモーターポンプのように機能する心臓は、血流を激流に変え、全身を駆け巡る。同じように呼吸も呼気と吸気が同時に処理されていた。そうすることで、体中の筋組織、臓器が常人の何倍もの周期で機能するのだ。もちろん、眼球と視神経も例外ではない。
「眼・・・赤い」
腕の中で、丸くなっている彼女が、ポツリと言った。
「ん? ああ、これ・・・」
少し前から視線は感じていた。ただ、どこを見ているのかを知るには、目線を彼女に据えなくてはならない。今の移動速度では、それは事故につながりかねない。結果、移動に集中するしかなく、黙々としていた。
「気持ちが昂ると、赤くなるんだ。大抵は、移動したり、動いてるときに、こうなるから、どんな赤なのか知らないんだけどな」
「・・・紅・・・茜・・・緋・・・うん、緋色・・・だと思う」
緋色といわれても、どんな赤なのか、彼には分からない。ただ、彼女が選んだ、定めた、ということが、何故か嬉しい。彼は少し笑って、そして、つぶやく。
「そうか。緋色・・・か」
そろそろ、川にさしかかろうとしていた。彼は、橋の手前にあるマンションの屋上に飛び移ると、川向こうの赤煉瓦の四階建てを指差し、彼女に確認する。
「あれか?」
「うん・・・でも、・・・うそでしょ。・・・あれ、マヤ川? もう、着いちゃったの?」
彼女は少し身を乗り出し、家の周囲を確認した。が、すぐに元のように丸くなると、顔を伏せて言った。
「家まで、行ってくれる? 土手に面した大窓の前で下ろしてくれると、助かるんだけど・・」
大窓の前は私有地なのか、人がいなかったが、まだ、陽が高いので、通行人が何人もいる。彼女は、人目を避けたいのだろう。
「解った」
彼は、少し助走をとって、川のほうへ飛び出した。水かさが減って、水面から出た橋桁を蹴って川を渡りきると、土手を駆け上がって、生垣を飛び越え、大窓の前の芝生に着地した。
「着いたぞ」
彼の声に、顔を起しはしたが、彼女は、まだ丸くなったままだ。
「?・・・どした?」
「・・・あ・・・ごめん。降ろして」
自宅の庭に降りても、まだ、彼女はうつむいたままだった。
「大丈夫か?」
「うん。平気。ありがと。・・・凄いよ。20分、かかってない・・・」
「力任せで、芸がないけどな」
「・・・・」
チラッと、彼のほうを見る。何か、言葉を探しているのだろうか。
「ホントに大丈夫か?」
「う、うん。あの・・・あのね・・・さっきは、呪ってやる、なんて言って・・・その・・・ごめんなさい・・・それと・・・送ってくれて、ありがと・・・」
彼女は、やっと、そう言うと、ペコリと頭を下げた。彼は、笑って答える。
「いやいや。こっちこそ、いろいろ、悪かったな。あ、名前、聞いていいか?」
「あ、わたし、シオリ。で・・・あなたは・・・・カケル・・・さん・・」
彼女は、そう言いながら、カケルのほうを見る。左眼は隠していたが。
「さんづけされるほど、偉くない。・・・そうか。シオリちゃん・・・か」
「ちゃんづけされるほど、可愛いかな? わたし」
口元に笑みが戻ったシオリを見て、カケルはやっと、安心した。そしてまた、思ったままを言う。
「もちろん。それに、美人でもある。少なくとも、俺は、そう思う。・・・んじゃ、行くよ」
「え? あっ、ちょっと・・・!」
去り際としては絶好のチャンスだった。だが、思いがけずシオリのほうが、カケルを呼び止めたのだ。
「ん?」
「お、お茶して・・・お買い物・・・しない・・・の?」
「? あれ? 俺、誘ったっけ? ・・・あ・・・」
「・・・・・」
・・・そー言えば、そんなこと言ったような。いやいや、あれは、そーゆー意味ではなくて・・・
峠道でのやりとりを思い出しながら、カケルは何というべきか、考える。その時だ。
ぐぎゅぅーっ!!
返事をしたのは、カケルではなく、カケルの腹の虫だった。
「・・・うあ~っ。マジかぁ?・・・・」
確かに、腹は減っている。しかし、なぜこのタイミングで鳴るのだ。カケルは、妙に悔しくなった。
「な、何の音? ひょっとして、お腹、鳴ったの?」
・・・そうです。そのとおり。俺の負けです。認めます。
「うーっ。あの、揺らさない走り方すると、めちゃめちゃ消耗するんだよ。・・腹、減った~」
「・・・ふふふっ・・・・あは・・・・あははは!」
シオリは最初、笑いをこらえていたが、そのうち腹を抱えて、笑い出した。シオリに元気が戻ったのはいいが、カケルとしては、ちょっと、自分が情けない。くそっ、腹の虫め! 余計なことを・・・。
「お、おいおい。そんなに可笑しいか?」
情けない顔で、カケルは言った。シオリはまだ笑っている。
「ひぃ・・ひぃ・・・だ、だって・・・ふふふ・・・・歯の浮くようなセリフ、言っといて・・・・お腹、ぐぎゅーって・・・ないよ、普通・・・いや、かえってベタかも・・・くくく」
「涙、流してまで、笑うか?」
泣きたいのは、こっちだよ。まったく。とはいえ、屈託なく笑っているシオリを見ると、嬉しい。
・・・何だ、これ? 何で、嬉しいんだ?
「ごめん、ごめん。じゃあさ。ちょっと早いけど、付き合う? ごはん。一緒に食べよ」
「え? い、いいのか?」
「うん! ・・・あ。もちろん、良かったら・・・だけど・・・」
「いや・・・いやいやいや! 良かったら、なんて、とんでもない! ぜ、是非! お願い、いたしま・・・?・・・す?」
「ふふっ。何、それ。・・荷物、置いてくるから、ちょっと待っててね」
思いがけない、嬉しい展開。しかし、これも、腹の虫のおかげか。
・・・ナイス! 腹の虫!
おいおい。こーゆーのは苦手だったんじゃないのか? と、どこかで思わないでもない。いや。これは、空腹を満たすことができることに、単純に喜んでいるのだ。そうだ。そうに違いない。
しかし、何か、自分らしくない。首がつながってからか、あるいは、そのちょっと前。いやいや、こめかみ、絞められた、あのあたり? いや、呪いだ、報いだ、の後か?
・・・そうだ。あの時からだ・・・。
冷静になって分析してみる。自分の感情を分析しても、たいして得るモノは無いのだが。すべきことと、したいことは、たいてい、ズレているから。そもそも、自分らしい、とは何なのか? 他の、何よりも漠然として、捉えられない。そして、また、彼は思うのだ。
・・・ま、俺、バカだし。当然か。
「‥・だから、違うって! もぅ! じゃ、行ってくる! あ、晩ごはん、いらないから!」
カケルの物思いを遮るように、シオリの声が聞こえた。大窓をピシャリと閉めて、彼に向き直る。
「お待たせ。行こう! グズグズしてたら、おばあちゃん、ついてきちゃう」
彼女は、カケルの手を引いて歩道に出ると、市街中心の方に向かって、足早に歩き出した。
「な、何だ? 別に、いいんじゃないか?」
「冗談! あのヒト、孫いじりが趣味なの。ごはん食べるどころじゃ、なくなっちゃうよ」
シオリはカケルの手を放しはしたが、早歩きの歩調は変えず、彼の方を見ながら言った。左眼が、少しくすんだ鳶色に戻っていた。
「さて、どこ行くんだ? 俺、もう限界、近いかも」
「いろんなモノ、たくさん食べられるところで、どう? わたし、良いトコ、知ってるよ?」
「バイキング?」
「うん。まだ、少し早いから、すぐ席につけると思う」
カケルは、少し間を開けて、シオリに尋ねた。
「コーヒー、あるよな。そこ」
「もちろん」
「ん。そこにしよう」
「じゃ、こっち。電車、乗るよ」
シオリは、また、カケルの手を引いて、駅に向かう。
「おいおい。遠いのか?」
カケルの問いに、彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
「一駅だけね。駅前の人だかりで、おばあちゃん、まくの」
「えー! ついてきてるのか? まさか」
「気が向いたら、それくらいのコト、平気でするヒトなの。油断大敵なんだから」
「うはは。凄いな。面白い。どんだけ、ヒマ人なんだ」
シオリに手を引かれながら、カケルは笑う。シオリも笑いながら言う。
「まったくだよ。冗談が服着て笑ってるの。以前からだけど、仕事、引退してから、余計ひどくなった」
「元気があって、いいじゃないか」
「うん。あ、電車、来る。乗るよ」
「おう」
二人は、小走りに人だかりを抜け、電車に飛び乗った。